2012年1月のツイッターより(抜粋)

2012年1月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2012年01月01日(日)

社会活動も、分離の姿勢で行うのか、つながりの姿勢で行うのかによって正反対の効果を生む。つながりの姿勢で行う社会活動とは、それを支持する人だけでなく、多様な立場の人たちの胸を打つようなメッセージを持つものだと思う。もちろん社会を前進させるのはそういう活動。

私の友人で、私の活動を全面的に支持してくれている人が、「子どもの権利条約など反吐が出る」と言う。どうやら同じ条約でも、愛の目で読むか、怖れの目で読むかによって、読め方が全く違うらしい。こういうところにも取り組んで分離からつながりへとシフトしたいところ。


2012年01月13日(金)

人の話を聴くことで自分の心の平和につながる、というスタイルのAHでは、コミュニケーションに独特のパターンを持った発達障害の方(非定型発達者)には十分に味わっていただけないということを感じてきた。新たなスタイルの模索中。

一つの考えは、言葉を使わずに「現在」にいる活動を共にすること。食、農作業など。また、私は身近な非定型発達者と、マインドのレベルではあまりにもずれてしまい共感どころではないが、その一段深いところではつながりを感じることができる。この「つながり」が何であるかをもう少し考えたい。


2012年01月21日(土)

今日はAHのボランティア・トレーニングでした。「相手のため」と思ってすることが結局は相手のためにならない。自分の心の平和に専念して責任を持つことが、相手のため、ひいては世界平和につながる。こんなシンプルなことを毎回実感できるすばらしい一日です。


2012年01月26日(木)

人間に「心のきれいな人」「心が汚い人」という区別をすることに何かしらのメリットがあるのだろうか? 現時点での怖れの多寡は確かに人それぞれだし、それぞれの事情の中で適切に振る舞えない人もたくさんいる(私もその一人)。そのことと「心のきれいさ」の評価は別だと思うのだが。

昨日、四谷大塚の雑誌の取材が来た。小学校時代に通っていた塾。不良少女だった私は中高を過ごした桜蔭学園に複雑な感情を持っているが、昨日の取材で気づいたのは、「私は中高時代にしか楽しめないことを楽しむ!」と決めて、職員室でどれほど叱られようとやりたいことをやっていたこと。

ちょうど昨朝、思春期向けの専門書を書き上げたところだが、自分が思春期を精一杯生きていたことは、今の臨床能力につながっていると思う。編集者によってタイトルが変更されなければ「思春期の意味に向き合う」という本になる予定。刊行の折りにはまたご紹介します。

それにしてもおもしろいのは、私が慶応医学部に現役合格したときに「あら、あなたにはもっと苦労してほしかったわ」と言った桜蔭なのに、近年はキャリア教育の講師として招かれていること。「医者か弁護士」という狭い視点ではなく、人生はより多様だということを生徒に知らせてほしいそうだ。

自分が講演に行ったときには、後ろで寝ている生徒に最も共感してしまう。以前、慶応の精神科の講義を手伝ったときも、あまりの出席率の高さに(私は精神科の講義は2回しか出席していない)、「君たち、こんな天気のよい日に、他にすることがないの?」と真剣に心配してしまったほど。


2012年01月30日(月)

元日に放映された「オトナへのトビラTV」 http://t.co/kcetOL2W  の再放送が決定したそうです。好評だったそうです。元日に見損ねた方はどうぞ。 日時:2月4日(土)午後3時~3時45分 Eテレ

AHの「怖れを手放す」シリーズを刊行していただき明らかにAHの普及に貢献してくださっている星和書店さんからのご依頼で、メールマガジンに「天使の梯子」というコラムを書きました。よろしかったらどうぞご一読を。 http://t.co/RiTrlqbO


2012年01月31日(火)

拙著「正しく知る不安障害 不安を理解し怖れを手放す」(技術評論社)が増刷になるとの連絡をいただく。感情としての「不安」(生体に備わった単なる自己防御能力)と、心の姿勢としての「怖れ」を区別して書いてみた本。 http://t.co/KIGst8rI

お知らせがギリギリになってしまいましたが、AHの入門ワークショップを再開することになりました。2月4日(土)10:00-16:00、私がファシリテーターをつとめます。10名限定、詳しくは → http://t.co/y7p2O4ti

2011年10~12月のツイッターより(抜粋)

新年あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

2011年10~12月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年10月07日(金)

拙著「対人関係療法でなおす うつ病」 http://t.co/0wVDSQ0y と、「対人関係療法でなおす 双極性障害」 http://t.co/3aH1VqZi  が、いずれも重版になるとのご連絡。心を込めて書いた本が多くの方に読まれるのはとても嬉しいです。

AHをベースにした新シリーズの企画が創元社の会議を通ったとのこと。希望して提案したものなのでとても嬉しく、やりがいのあるシリーズになりそう。力点は「癒し」よりも「エンパワーメント(自分の力とつながること)」。刊行は来年からになりますが、どうぞお楽しみに。


2011年10月08日(土)

今朝の朝日新聞で細川護煕氏と河野洋平氏が「94年政治改革の悔い」を語っている。細川短期政権交代は、人々を失望させ、変化への諦めを強め、小選挙区制を生み、その後の政治の質の劣化に明らかに貢献したと思う。それについて細川氏が語る姿勢からは当事者意識があまり伝わってこない。

本当に「悔い」ているのであれば、そのプロセスを検証し、今後同様の過ちを繰り返さないためのメッセージを出してほしい。「私はこう言ったのに、こうなってしまった」とぼやくのが時の首相の姿勢とは思えない。朝日の主筆が勧めているように、選挙制度審議会にでも入ったらどうかと思う。

小選挙区と比例区の関係について「比率は半々くらいが適当」と、政治家としての感覚を細川氏は述べているが、それはあくまでも「並立制」の話。より民意を直接反映する小選挙区比例代表制併用制についてなぜ一言も言及がないのか、不思議。


2011年10月11日(火)

今日は高知県四万十市に来ています。家族会のお招きで明日は講演です。羽田から高知空港の倍の時間をかけて高知空港から四万十市に来ましたが、やはり自然はきれいです。家族会の皆さま、県と市の方たちとお話しし、その熱意に感激。


2011年10月18日(火)

今日の取材で「凜」ということは何ですかと聞かれ、「自分の心の始末は自分でつけること」と答えた。名言だと感動してもらえて嬉しかったが、 AH的な意味でどの位の方がわかってくださるか。


2011年10月21日(金)

AH恋愛本を執筆中。対人関係療法をベースにした夫婦関係の本は12月刊行に向けて順調に進んでいるが、AHの恋愛本は、愛の恋愛か怖れの恋愛かがポイント。通常の恋愛は、無自覚な怖れの投影に過ぎないことが多いと思うから。書きながら楽しみ。あとは著者の力量次第か。

今日はNHKフォーラム「うつ病と躁うつ病を知る」でした。平日だというのに多くの方が参加してくださいました。病について正しく知ることは、不要な人間関係の軋轢をなくしていくことにつながります。こういう試みがもっと増えますように。


2011年10月22日(土)

今日は年1回のAHファシリテーター・ミーティング。現役ファシリテーターの方たちが集まる場です。2006年には私一人しかファシリテーターがいなかったのに、今日は会場いっぱいに集まっていただき、感慨深かったです。一年の活動方針も決まりました。


2011年11月12日(土)

本日、「『べき』思考を手放す」ワークショップが完了。参加者の方にも恵まれ、気づきも多く、本当に楽しく有意義な一日でした。この成果は来年本にまとめる予定です。今後も「手放す」シリーズのワークショップを、テーマを変えて継続予定。


2011年11月14日(月)

順調に増刷を重ねてきた拙著「『怒り』がスーッと消える本」が、このたび大量増刷になるとのご連絡。あまりにも嬉しくて涙。日本から怒りのエネルギーが少しでも消えますように。  http://t.co/td0CgSVa


2011年11月15日(火)

拙著についての嬉しいニュースが続く。被災地で活躍してこられた医師の先生から、現地で拙著「正しく知る心的外傷・PTSD 正しい理解でつながりを取り戻す」がとてもよく活用されていた、と教えていただく。素直に嬉しい。 http://t.co/z64dSMbI


2011年11月17日(木)

2012年版の「現代用語の基礎知識」が届く。インターネット時代にも生き残っている貴重な本。昨年からメンタルヘルスを執筆しているが、今年から「心理学」がなくなり、メンタル関係を全部一人で書くことになった。今日から書店でも販売されているそうです。


2011年11月25日(金)

昨日は「怒り」についての取材が2件続いた。最初は男女関係などにおける怒りの扱い方。これは、12月に刊行予定の2冊、「夫婦・パートナー関係」と「恋愛」の本とかなり関連。2つめの取材は「子どもの叱り方」。これはなかなかよい本がないとのことだった。将来的に検討。


2011年12月04日(日)

11/26にパックインジャーナルに出演したときの感想を書き損ねていた。「○○のせいでこうなった」という責任論と、「だから怒りを忘れてはいけない」ということが混同されているのは辛い。特にそれを体験者でもない第三者が言うのは強い違和感。

責任は責任できちんと問われるべきだし補償は行われるべき。しかし、そのことと「被害者たるもの、怒り続けるべき」という話は別だ。すでにひどい目に遭った人たちが、なぜ怒りによって日々の生活の質を落とすことまで他者から強要されなければならないのだろう。

どのような行動をとるかということと、それをどのような心の姿勢で行うかということは別次元の話。また、現在どんな感じ方をしているかは本人のプロセスの中での話として尊重されるべきもの。過去に何が起こっていようと、私たちが生きているのは今だということを忘れないようにしたい。

情報を開示する際には、すでに衝撃を受けている人にさらなる衝撃を与えないようにする配慮が必要だと思う。開示される情報の位置づけを、現時点で得られている知識に基づいてできるだけ誠実に説明する。位置づけが修正される際には修正の経緯を誠実に説明する。自己防衛は事態を悪化させる。


2011年12月09日(金)

高校2・3年生の「やせすぎ」女子の割合は5年前の約1.5倍に(学校保健統計調査)。拙著「ダイエット依存症」に書いたが、次世代に「やせたがり」文化を継承しないということは、子どもたちが育っている「今」の文化を改善する努力をすること。 

自分はやせたがっている大人が、あるいは、子どもから見て素敵でない大人が、「やせすぎは身体によくない」「ちょっと太った方が魅力的」などと言っても、まず意味のない話。「やせたがり」心理(実際には「やせたがらざるを得ない心理」)をよく読みとくことが第一歩。

次世代への思いを馳せることは、自分の中の力を呼び覚ますもの。「自分の」身体へのとらわれから、これからどういう社会を作りたいか、次世代にどういう影響を与えたいか、という視点に転じることが、すでに「やせたがり」防止抑制効果を生む。


2011年12月11日(日)

「対人関係療法で改善する 夫婦・パートナー関係」 http://t.co/WLoXZect の見本が届く。発売はクリスマスイブだそうです。先日刊行した恋愛本「『愛する人と幸せになる』55のルール」 http://t.co/VEwd0yBO とは全く別の内容です。

拙著と言えば、「『怒り』がスーッと消える本」がまたまた大増刷になるとのお知らせをいただいたばかり。この本を通して癒しが広がりますように。 http://t.co/E1ZN02G6


2011年12月14日(水)

地味な(?)専門書である拙著「摂食障害の不安に向き合う」がなんと増刷になるというご連絡をいただく。この本と、同シリーズの「トラウマの現実に向き合う」は、いつか英訳をしたいくらい内容を気に入っている本なので嬉しい。 http://t.co/iN4NAnec


2011年12月20日(火)

宮本太郎先生編「弱者99%社会 日本復興のための生活保障」の見本が届きました。私がプライムニュースに出演したときのやりとりが収載されています(第4章 子どもの未来をひらけるのか)。 http://t.co/XQBhyusn

マーク・ボイル著「ぼくはお金を使わずに生きることにした」を読んだ。自給と分かち合いを軸にした、持続可能な地球の実現とコミュニティ再生の本。お金の存在が、自分たちが消費するものの本質を見えなくさせるという考えに基づく。(続く) http://t.co/iVexfyg3

(続き)全体に共感できる本だが、特に「えてして活動家は『地球を救いたい』なんて言うけれど、地球は大丈夫、時間がたてば回復するだろう。救済が必要なのは人間なんだ」(214頁)に深く共感。自分と異なる考え方をする人間を排除する姿勢が、自然環境の破壊の根底にあると思う。


2011年12月23日(金)

八ッ場ダム継続はあまりにも象徴的。決定自体の正当性を主張するよりも、持続可能性という将来に希望を見いだせるよう、大きな絵を描くのが政治家の仕事だと思う。マニフェストが守られたかということよりも、そこでやろうとしていたことがどこにいってしまったのかが気になる。


2011年12月26日(月)

紀伊國屋書店新宿本店5階の心理関連書棚のところに、AHコーナーが設置されているのを発見、というご連絡をいただいた。関連書籍が揃えられており、「続々・怖れを手放す」のDVDも視聴できるようになっているそう。すごい。


2011年12月30日(金)

昨日友人とやりとりしていて気づいたこと。「相手との間に境界線を引けないこと=怖れ」という単純な構造。罪悪感も、境界線問題。そして、相手を信頼すれば、罪悪感を手放せる。もちろん信頼すべきは外形的な相手ではなくその本質たるあたたかいこころ(愛)。いずれ本に書きます。

9月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年9月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年09月03日(土)

現在国外にいるため日本のニュースは文字でフォローしているだけだが、2006年米国に住んでいて日本に一時帰国したとき、例の「メール事件」の時期だっ たこともあり、帰国中、壊れたレコードのように連日繰り返される同じ「切り取られたシーン」しか見られず驚いた。今はどうなのだろう。

前後の文脈なく突然出てきた情報は、人に理解よりも衝撃をもたらし、感情的な反応を生むものだ。感情的な反応に頼って注目度を上げる、というような文化に価値を見いだすのをやめないと、知りたいことも知れなくなるし、相互理解も進まず、民主主義の危機に向かうと思う。


2011年09月06日(火)

拙著「『怒り』がスーッと消える本」、先日重版のご連絡をいただいたばかりなのに、また重版になるというご連絡。嬉しい驚きです。多くの方にお読みいただき、幸せな本です。 http://t.co/T1PBT66


2011年09月07日(水)

「あさイチ」見ていただいた方ありがとうございます。こういう心の問題と、「コメンテーター形式」という媒体の組み合わせについて、様々な限界を感じた時間でもありました。いろいろな思いを感じ取って理解を深めてくださった方が一人でも多くおられますように。


2011年09月11日(日)

鉢呂大臣の辞任を見て思うのは、「政治家が自分の言葉に責任を持つ」とはどういうことかが全く見えないということだ。政治家にとって言葉は命。政治家としてのあらゆる発言から政治姿勢が見えるべきだと思う。今回のような辞めさせ方は、また政治文化の熟成を妨げたと思う。

NYテロの日に生まれた下の子も今日で10歳。この10年間の我が子の成長に対して、世界平和の成長は? 対立からつながりへのシフトは、「べき思考」の手放しにあると私は思っている。「つながるべき」も手放して、それぞれのありのままを認められるようになりますように。


2011年09月12日(月)

拙著「拒食症・過食症を対人関係療法で治す」がまた増刷になるとのお知らせをいただきました。自分でも好きな本なので嬉しいです。年を追うごとに増刷ペースが速くなっているとか。一人でも多くの方のお役に立ちますように。 http://t.co/XyIIM9g


2011年09月13日(火)

リストカットについての本の執筆構想中。こんなことを取り上げてほしい、という皆さまの声を募集しています(執筆の参考としてであり、お返事や治療はできません)。詳細は http://t.co/ridfYoX ツイートではなくウェブサイト経由の書き込みでお願いいたします。


2011年09月18日(日)

昨日は新潟で「心の平和から社会の平和へ」というタイトルで講演。「平和のエネルギー」と「戦争のエネルギー」があるとすると、いかに「平和のエネル ギー」を増やすかが重要という話を、AH、修復的司法、非暴力コミュニケーションなどを紹介しつつした。大変好評で心強かった。

闘争的な「平和運動」、差別的な「差別撤廃運動」、暴力的な「暴力反対運動」等々。これらは本来の目的を達することができないだけでなく、結果として「戦争のエネルギー」を増やすものになるだろう。活動の内容と心の姿勢を一致させることはとても重要だと思う。

先日のNHK「あさイチ」でも、反対意見があったら割って入るようにと言われたが、声の大きい者が自説を声高に主張し合うのではなく、弱者の声にも耳を傾 ける社会を子どもたちに見せたいから、ちゃんと発言の機会を与えてくれと頼んだ(そして、聞き入れていただいた。感謝)。


2011年09月20日(火)

来週月曜日発売の「週刊ポスト」で怒りの特集をするとのことで、今日取材の方が見えた。どちらかと言うと拙著「怒りがスーッと消える本」の内容よりも、先日書き上げたばかりの「対人関係療法で改善する 夫婦・パートナー関係」(仮)の内容に関連する質問が多かった。


2011年09月25日(日)

今朝の朝日新聞3面「うねる直接民主主義」。「(脱原発デモの)参加者は原発事故を主義主張というよりも自分たちの生活の問題として考えようとしてい た」。記事タイトルの「直接民主主義」論と直接関係しない文章ではあるが、これを読んで、「主義主張」とは何かを改めて考える。

主義主張が「べき」の最たるものなのだとすると、それをぶつけ合ってもつながりが生まれないのはむしろ当然のこと。また、「べき」のもとに集った人たち は、それぞれが持っている力を奪われてしまっていて、ただ自動操縦のように「べき」を人に押しつけるしかないのかもしれない。

「べき」思考を手放すワークショップを企画してみたが、瞬く間に定員に達してしまった。それほど多くの方が「べき」思考に苦しんでおられるのだな、と思うと同時に、手放すことの価値に気づいておられるのは朗報。 http://t.co/y7p2O4ti


2011年09月27日(火)

来年度版「現代用語の基礎知識」メンタルヘルスの項の拙稿校正中。せっかく編集者の方がAHを新聞記事より拾ってくださったのに、文字数を減らす必要の中 でAHの項を自ら泣く泣く削除。まあ、まだ基礎知識として知っておくべき現代用語にはなっていないと考えて自分を納得させる。


2011年09月29日(木)

拙著「10代の子をもつ親が知っておきたいこと」がまた増刷になるとのご連絡をいただきました。刊行後まだ半年になりませんが、こんなに多くの方に読んでいただき嬉しいです。 http://t.co/HyA489Gk


2011年09月30日(金)

対人関係療法の創始者の一人ワイスマン(「疫学の神様」と呼ばれて国際的に著名な女性研究者)が来日中なので今日は一緒に夕食。研究者として一流であるだけでなく人間としても本当に魅力的で尊敬できる方で、いつも多くを教えていただいています。

3月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年3月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年03月01日(火)

拙著「対人関係療法でなおす 双極性障害」が重版になるとのお知らせをいただく。昨年の今頃熱心に書いていた本。対人関係療法の最もラディカルな修正版である対人関係・社会リズム療法が日本でも注目されてきたことは嬉しい。http://amzn.to/hGqSVQ


2011年03月02日(水)

与党がマニフェストを守れないことはもちろんよくないが、これを単に「約束は守れ」というレベルで議論している限り、政治は進歩しないと思う。マニフェスト政治を日本に定着させたければ、その立案プロセスを検証し、「問題と対策」をはっきりさせた方がよいと思う。

民主党の2005年マニフェストとその後のマニフェストはずいぶん性質が違う(先日「2005年の断絶」と呼んだ部分)。そもそも野党が作ったマニフェストには限界があるのか、2007年以降のマニフェストに無理があるのか、その「無理」はどこから来たのか、など論点は多い。


2011年03月04日(金)

参院議長発言。参院の「独自性」は、法案受け取りのタイミングよりも、本来の形で示してほしい。衆院と参院とどこが違うのかということだ。かつて参院の共生調査会から超党派でDV法が作られたのは一つの好例だと思う。解散もなく任期が6年もあるのだから自ずと役割があるはず。

昨日の読売新聞の記事「アティテューディナル・ヒーリング『評価』やめて心の平和得るとは」→ http://ow.ly/47Hz8   記事の威力はすごく、本日はAHの定番本「怖れを手放す」がアマゾンで100位台です。http://amzn.to/gPGkLc


2011年03月07日(月)

新聞の言葉遣いが気になる。「外交に疎い菅首相」「菅首相は外交を苦手とする」というが、正確には「外交が苦手と言われることが多い菅首相」あたりがせいぜいではないだろうか。同じく、前原氏のことを「外交のプロ」「外交通」などと書くが、根拠は何だろう。

これらを組み合わせて「菅直人首相は外交を苦手とするだけに、党内有数の『外交のプロ』の前原氏を失う痛手も大きく、政権は重大な局面を迎えることになる」と朝日新聞1面に書かれてしまうと、まるで真実のように聞こえる。新聞の一面記事は昔からこんなに決めつけ調だっただろうか。

今のような時代には、何が事実で、何がそうではないのか(人が下した評価なのか)、を峻別していく、地に足のついた姿勢がとても重要だと思う。それが、私たちを支える社会の地盤を築いていくということだと思っている。


2011年03月09日(水)

ケビン・メア氏の「沖縄はゆすりの名人」発言の講義に参加していた学生さんのインタビュー。驚くばかりの差別意識を、若く、「絆」を大切にする感性が是正していくのは、今後の可能性を感じさせる。http://bit.ly/fbodYA


2011年03月10日(木)

「主婦年金」の大臣間「引き継ぎ」問題は、私には、民主党政権が当初形ばかりの「政治主導」を目指したことの後遺症に見える。官僚に支配されることなく、かつ、官僚に責任感をもって働いてもらえる真の「政治主導」は、日本初の試みであり、真剣に考える価値のあるものだと思う。


2011年03月11日(金)

日弁連には少年事件に取り組む全国の弁護士から、裁判員裁判について「十分な審理がされず、少年事件の特徴をわかってもらえない」という声が届く。特に不満が強いのは、生育歴や発達障害など「犯罪の背景」の立証に時間をかけられないことだ。(朝日3面)

犯罪背景の検討もせずに、同様の問題の再発防止はできない。「この」社会の中で育った少年が凶悪犯罪を犯したという事実を共同体としてもっと直視しなければ、共同体自体が崩壊していくと思う。これはとても多くの要因が関わった重要な話であり、軽視してよい話とはとても思えない。


2011年03月13日(日)

急性のトラウマ反応を、その後の社会機能を低下させる長く苦しいPTSDへと移行させるかどうかを決める最大の因子は、人による精神的な支えの有無。精神的に孤立する人ができませんように。どんな人もありのままを受け入れられますように。

できるだけ「普段どおりのこと」を、「自分のやり方で」やることも、とても貴重。物理的な限界がある中でも、そういう要素を少しでも作り出せますように。

阪神淡路大震災のときの衝撃的な映像をテレビで見たことがトラウマ体験となってPTSDを発症した人もいる。今回も、繰り返し流される衝撃的な映像を見ると、それが心配。トラウマを受けやすい人は情報をラジオで得た方がよいかもしれない。


2011年03月14日(月)

日本トラウマティック・ストレス学会の大震災支援情報サイト http://bit.ly/hhrYLS


2011年03月17日(木)

日本認知療法学会も震災関係の「心のケア情報」のサイトを作りました。http://bit.ly/h3e7px


2011年03月20日(日)

AHを被災者支援に役立てられないのか、というご質問を複数いただく。震災ボランティアの方がAHを知っておくことは、燃え尽き防止、効果的な支援のためにものすごく役立つと思う。現地入りしない人も、それぞれの立場で、AHを意識して暮らすことが結果として支援になると思う。


2011年03月23日(水)

分離の姿勢ではなくつながりの姿勢を持ちたい。罪悪感(自意識)を手放し、温かいつながりの心をもって、自分にできることを小さなところからでも。罪悪感は、結果として、疲れや否認につながってしまう、分離の姿勢。相手の現実からもずれていく。


2011年03月29日(火)

精神科医としてのお願いです。震災によるトラウマからの回復につながる一つの因子が、「政府への信頼」であると言われています。いたずらに政府への不信感をあおることが、すでに不安定になっている人たちの大地を時に致命的に不安定にすることを知っていただきたいと思います。

もちろん政府を盲信しろと言っているわけではありませんし、大政翼賛会を作ろうと言っているわけではありません。どんな時期にも、政府のチェックは重要です。しかし、政府への不信感をあおることと、改善が必要な点を示して後押しすることは、正反対の意味を持ちます。

特に「有識者」の方たちは、政府の対応が不適切だと思うのであれば、ただ不信感を表現するのではなく、より適切な方法を建設的に提案すると同時に、その実現に向けて動いてほしいと思います。「自分が暮らしている社会は、まだ安心できる」と思えることが、多くの人の心を救うでしょう。

緊急事態においては、いつも以上に、「自分の発言の着地点」を意識する必要があると信じています。平時であれば「言いっぱなし」の批判も許される余裕があると思いますが、こんなときには、「信頼できる何か」を共有できるように、それぞれの叡智をいただきたいと思います。

もちろん、「信頼できる何か」は、決して気休めや隠蔽であってはならないと思います。動員できる科学的知識は全て動員すべきだと思います。そして、この状況に、絶望せず、投げ出さず、逃げず、真摯に向き合っている人の存在が目に見えることはとても大切だと思います。

なお、以上のことは、被災して困窮している方が「政府は信じられない」と言うこととは全く別の話です。トラウマを受けた人たちが、それぞれのプロセスの中で、政府への不信感や怒りを感じることは全く当然のことで、時に必要なことでもあります。

2月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年2月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年02月01日(火)

小沢氏の件でよく出てくる「けじめ」という言葉に違和感をもって見ている。いったいどういう「けじめ」なのか、発言者一人ひとりが特定しながら話した方がよいと思う(特定できるのであれば)。こうして考えると特定されていない「けじめ」という言葉も「空気」の言葉なのだと実感。

この件についてメディアを見ていて一番混乱するのは、「国会議員の身分」の話と、「政党内の処分」の話が混同しているところだ。「離党勧告」と「議員辞職」の話が同レベルで出てくることにびっくりする(その発言をしている人が国会議員だったりもする)。

執行部の指示に従わなかった人を処分する権利が、(そういう規約を持った)政党にはあるだろう。また、裁判を有利に進めるために十分に国会答弁ができないということがあるのなら、それも政党は考慮の対象にしてよいと思う。しかし、国会議員の身分に関わることは全く別の次元の話だ。


2011年02月04日(金)

昨日、プライムニュースに出演して思ったのは、政権交代の位置づけについて。政権交代を「有権者による平和的な革命」と考えれば、まさに「政権が変わる」わけで、その政治理念の変化や「国のかたち」の変化が見えるべきだ。

政権交代以降現在までの民主党は「自公政権時代と比べてマイナスがないように」というところに集中しているように見え(少なくとも子ども手当関係の話からはそう思った)、選挙を抱える人たちの集団としては理解できるが、それが理念を見えにくくし、借金にもつながるのだと思う。

例えば私たちが子ども手当を創設した時、子ども手当を課税対象とする代わりに所得制限を設けなかったのは、家庭間に分断を作らず子どもを大切に育てるというメッセージだった。本来は子どもの食費・被服費をカバーするものなので年長の子どもの方が減額という発想もなかった。

もちろん激変緩和措置は重要だし、何らかの変化を起こす際には、その政策効果を見るための期間、変化が無効だった場合の回復の算段などを含めて提案していく必要があると思う。このように様子を見ながら軌道修正するのは、行政ではなく政治に問われた役割だと思う。

「子ども家庭省」で子どもの施策を作っていく際には、近年たくさん得られている子どもの発達についての学術研究結果も反映させてほしい。大人たちのファンタジーで子どもを語るのではなく。

(2005年マニフェストまではあった)理念が受け入れられたわけではなく「子ども手当」と「無駄をなくす」が売り物になって誕生した民主党政権は、今、「子ども手当をばらまいているのに」「無駄もなくなっていないのに」消費税増税なんて、という怒りを買っている。


2011年02月10日(木)

参議院の区割り問題。参議院の独自性を、というのは、「衆議院とは違う意見を述べる」ことそのものにあるのではなく、「良識の府」と言われることからも、例えばより学識に基づいて考えるようなことが期待されているのだと思う。それは選挙制度にも反映されるべきものだ。

本当に「良識の府」としての参議院を含む二院制を残したいのであれば、政党政治とは全く違う次元での立案・チェック機能を持つ人たちを参議院議員として選べる仕組みを作る必要がある。政治的利害と学識の「ねじれ」国会であれば、本当に見る価値があると私は思っている。


2011年02月12日(土)

今朝の朝日新聞1面から始まる地方議会の記事。首長が提出した議案をこの4年間で一本も修正・否決していない、議員提案の政策条例が一つもない、議員個人の議案への賛否を明らかにしない、という3つをいずれも満たす「3ない議会」が全体の3分の1を占めるという結果。

私が6年間近くで見ていた宇都宮市議会も「3ない議会」の一つ。さらに、4年前に明文化された「申し合わせ」によって本会議での一般質問を年2回までに制限しているそうだ。

それにしても、議員の最低限の責任だと思っていた議案への賛否の公開が、84%の議会で行われていないのは驚いた。理由としてあげられた「慣例だから」「起立採決で確認できない」「会議録をつぶさに読めばわかるはずだ」は、いずれも地方議会の現状を象徴しているような気がする。

以前の自分の経験から言えば、本来は市政レベルで実現できる話なのに「国が面倒を見てくれないから」と国政レベルの話にすり替えて放置する、というケースもあった。議会が活性化していれば「これは自分たちでできるはず」と指摘して事態を前に進めることも可能だったのではないかと思う。


2011年02月13日(日)

今日は対人関係療法の専門家向けワークショップ。治療者を増やすことは急務。AHとは異なり、病気の治療法であるこちらはきちんとした形で普及させる必要がある。「対人関係療法っぽいこと」と「対人関係療法」は似て非なるものである。

最近、「エセ対人関係療法家」がいるという話をちらほら聞く。そのような「有名税」を払わなければならないほど普及してきたのかという感慨もあるが、患者さんを混乱させるのは間違いないし、本来対人関係療法でないものが提供されて「効かない」という結論になるのも困る。

日本の臨床現場の実情に合わせて、精神療法をできるだけ質を落とさずに普及させるというのは本当に難しい課題であり、私自身にできることなどごく限られているが、せめてその「ごく限られている」ことを丁寧にやっていきたいと思う。


2011年02月16日(水)

昨日、取材の方が来たので改めて昨今の政治について考える時間を持った。誰がやっても難しいこの時代の政治において「安心」を提供するとはどういうことだろうか、と考えてみると、小手先のどんな政策も本当の意味では安心をもたらさないと思う。

今までの選挙におなじみの「安心を提供します」というのは、むしろ、右肩上がり経済を前提とした物的な側面(ひどい場合はバラマキ)に偏ってきたように思う。しかし、今ではバラマキそのものが人の不安をあおっている。かといって、緊縮財政を前面に出されると、これはこれで不安だ。

どういうときに私たちが安心を感じるかと言うと、もちろん先の安全な見通しが立つときだが、今の政治状況でそれを物理的に示すことは限りなく難しい(できる限り努力すべきだが)。それ以上に重要なのは、「分断」のない考え方をすることによって信頼を獲得することだと思う。

社会の一定の側面を否認するのも「分断」だし(この期に及んで右肩上がりを前提とするのも、一定の側面の否認)、自分の良心から目を背けるのも「分断」。努力せずに放り出すのも「分断」。将来を絶望視するのも「分断」。批判されて自己正当化にしがみつくのも「分断」だ。

「分断」のない政治は、キーワードだと思う。もちろん民主主義にとって重要なことは、政治と有権者の間に「分断」がないこと。それはワイドショーで親しみを感じてもらうという意味でなく、自分自身が「分断」のない姿勢で仕事をするところを見せるということだと思う。


2011年02月19日(土)

国会議員が「現首相のままではだめだ」ということを単に言っているのを見ると私はとても悲しくなる。首相交代に言及するのであれば、せめて、「自分が首相になったら消費税はこうする。TPPはこう。子ども手当の財源問題は。米軍基地は」と実現可能なことを述べてほしい。

ここのところの政治が、怒りをエネルギーにした不安定な「振り子」になってしまっている一因にも、国会議員たちの当事者感のなさがあるように思う。小選挙区制に基づく二大政党制になると、どうしても「選挙に勝つこと」が優先されるので、当然の結果と言えば結果だが。


2011年02月21日(月)

「仮に今投票するとしたら」の投票先で自民党が民主党を上回っているのを見ると、政権交代前に有権者が自民党政治について問題だと感じていたことのどれだけが改善したのだろうかと素朴な疑問を抱く。今の仕組みは、単に相手の失点が自分の得点になるという性質のものだ。

もともと二大政党制に望まれたものは「健全な競争」だったのだろうが、お互いを高め合う「健全な競争」は、怒りをエネルギーにしたところには生まれない。そろそろこのことを真剣に考えないと、幻想を夢見ているうちに政治の質が限りなく劣化するような気がする。

もう一つ気になるのは、有権者にとって意思表示の選択肢があまりに少ないことだ。民主党という政党は応援したい。しかし、自分の選挙区の民主党候補者は自らの代弁者として送り出したくない。こういう意思表示は、政党そのものの体質改善のためにも重要なのではないだろうか。

そんなケースにも対応できる仕組みの有力候補である小選挙区比例代表併用制(比例でまず政党議席数を決め、小選挙区での当選者、そして惜敗率が高い方から議席を埋めていく)という仕組みについてもそろそろ真剣に検討すべきではないかと思う。

拙著「臨床家のための対人関係療法入門ガイド」が重版になるとのお知らせをいただく。専門家向けの本が着実に読まれていることは、一般書の場合とはまた別の意味で嬉しいことだ。 http://amzn.to/hKR270 


2011年02月24日(木)

今朝の朝日新聞を読んで「政治は弱者のために」という言葉がやはり引っかかる。今の社会システムでは暮らしにくい人がいるからシステムを改善することが必要なだけであって、そこに「弱者救済」という評価を上乗せすると結局は分断を深めるだけだと思う。


2011年02月25日(金)

今では民主党議員がテレビなどで子ども手当を擁護すると批判が多く来るそうだ。発案時に比べ大きく形を変えてしまった内容については私もいろいろと言いたいことがあるが、ようやく光が当たってきた子ども政策が愚策の代名詞みたいに認識されている現状は、とにかく悲しい。


2011年02月26日(土)

昨日、朝日新聞の方が取材に見え、民主党の社会保障政策の変遷を話し合っていたとき、「2005年の断絶」を改めて感じた。現職の方たちで2005年以前の経緯を語れる人は少なく、2005年以前の経緯の核心を知る人はすでに亡くなっていたり国会を去っていたりだという。

2000年に私が初当選したとき、民主党の厚生部会(今の厚生労働部門会議)が、ほとんど学会レベルの議論をしていることに感動したのを覚えている。また、「反対のための野党」的な色彩はあまりなく、生活に直結する厚生部門の政策を責任感をもって作ろうという気概があった。

2005年の郵政選挙では、社会保障に地道に取り組むような議員が多く失われたと同時に、そこから、たががはずれたように、「政策よりも政局」の政治傾向が顕著になったように思う。「ぶっ壊す」の言葉で始まった時代は、本当に創造文化を破壊文化に変えたような気がする。

持続可能な社会保障制度を作るには、単なる財源論ではなく、労働法制まで含めた大きな視野が必要で、腰を据えて取り組む必要がある。短期的なスパンの「政局」には全く馴染まない。今の政治文化が変わらないのであれば、やはり社会保障は政治から離れたところで熟議しないと無理だと思う。

パックインジャーナルに出演し、今日もジャーナリストの田岡俊次さんからいろいろと教えていただいた。ソ連がアフガンから撤退した後に東欧社会主義・ソ連の崩壊が起こったのと同様に、米国のイラク撤退に続いて今回の中東異変が起こっている、という見方は、なるほどと思った。


2011年02月27日(日)

現在の日本の政治状況から、議会制民主主義の否定に進むことが心配。「強いリーダーシップ」を求めることは、独裁への流れだと思う。ことは議会制民主主義の問題ではなく、「小選挙区制による二大政党制」というシステムの問題。その現実が見えてきたに過ぎないのだと思う。

12月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2010年12月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年12月01日(水)

これだけ課題が多い日本の政治において、今の仕組みが機能しているとはどうしても思えない。二大政党制(小選挙区制)では、相手を叩けば自分の得点になる。この「勝ち負け」の仕組みが多くの無駄を生んでいるし、政治のネガティブなエネルギーも増やしているのは昨今の国会でも明らか。

二大政党制は政権交代を可能にするための秘薬として語られてきたが、その結果として失われたものは多い。こうして政権交代の現実を見た以上、「民主党か自民党か」というレベルを超えて、より民主主義的な選挙制度そのものについてもっと考えた方がよいと思う。

民主主義的、というのは、単に有権者の意見が政策に反映されるというだけではなく、自分たちが持っている力に気づける仕組みでもあると思う。権力行使という観点のみならず、社会の雰囲気作りにおいても。国民からどういうエネルギーを引き出す政治か、という視点は重要だと思う。


2010年12月02日(木)

日韓図書協定の今国会中の承認が困難になる一方で、感情的な懲罰動議にまた時間が費やされる。最近の国会は何かにハイジャックされたみたいに見える。同じレベルで自動反射しないで(絶望することも含む)、違う次元にエネルギーを集中させたいと思う。絶望は民主主義の放棄。

英国留学中の後輩は、多国籍の研究者たちから日本は真っ逆さまに沈没しつつある印象だと言われるそうだ。沈没かどうかは別として日本が大きな変化を経験しているということは事実。変化へのバランスの取れた適応を促進するのが政治の課題と考えれば、話が整理されると思うのだが。


2010年12月03日(金)
ウィキリークスの件は本当にいろいろと考えさせられるテーマの宝庫。今朝の朝日2面米欧メディア「公益か国益か苦悩」も興味深い。これはメディアだけの話ではなく、私たちが「国」というシステムをどう考えるかの話でもある。

生の情報にジャーナリスティックな分析を加えるのが新聞メディアの役割、という仏ルモンド紙のスタンスを見て、そもそも「生の情報」そのものに手が加えられがちな日本のメディアの現状を考える。どれほど多くの人が加工された「生の情報」を本当の情報だと思わされていることか。


2010年12月04日(土)

今朝の朝日の「天声人語」。給食費無料化という趣旨には賛成だが、給食費を払えるのに払わない親について「ふざけた親を税金で養う余裕はない」と断言しているのにびっくり。本来であれば、虐待的な環境として細やかなケアをしていくべき世帯ではないだろうか。税金を使ってでも。

一つの参考になるのが、イギリスでの取り組み。過去に私が書いた報告。http://bit.ly/e7DahC ここでは子どもの行動面について書いたが、妊娠出産の過程から、ケアが必要な家庭を早期に見つけ出して地域での支援につなげる試みもされている。


2010年12月05日(日)

給食費問題にしても、朝鮮学校授業料無償化の話にしても、大人の事情がどうであれ一人ひとりの子どもが社会から愛され受け入れられているという信頼感を持って育てるようになってほしい。その後のいろいろな問題が、この基本的信頼感の欠如から起こってくる。

大人の事情にはそれぞれの背景があり、解決に時間がかかるものだ。そうしている間にも子どもは育っていく。「まずは大人を改善してから」と考えることそのものが、子どもたちの現在から目をそらすことになってしまい、「社会とはそういうもの」という不信につながってしまう。


2010年12月06日(月)

土井隆義著「人間失格? 「罪」を犯した少年と社会をつなぐ」はお勧め。http://amzn.to/fZwvkF 若干意見が異なる部分もあるが、一読の価値はおおいにある本だと思う。修復的司法的だなと思って読んでいたら、やはりエピローグに出てきた。

虐待や犯罪など社会的事象について論じる際に、前提となる現実認識が共有されているとは思えない。センセーショナルな事件報道、日頃から地道に取り組んでいるわけでもない「有識者」によるコメントばかりが目立ち、地に足のついた現状分析は驚くほど少ない。土井氏の本はその貴重な1冊。

基礎データが足りないと私たちは容易に評価を下すようになる。評価は、「異物」を自分なりに消化しようとする試みだからだ。人間としての相手についてよく知ることで「異物」感は間違いなく減り、一方的な評価を下すのではなく本当に必要なことは何かを考えられるようになるのだと思う。


2010年12月07日(火)

人と違うことを言いにくい雰囲気。空気が読めないと言われることへの怖れ。ちょっと違うことを言うと人格攻撃。最近の日本で政治を語るときに感じるこれらの傾向は、実はいじめ現場の空気と同じ。だから、それを変えていくのも、社会を構成する私たち一人ひとりの態度だと思う。

私は「正論」であることにはあまり意味はないと思っている。どんな人にもその人なりの「正論」があるからだ。自分の「正論」を守ろうとすることよりも、自分の「事情」を正直に話していった方が、得るものも大きいし空気が平和になる。

メディアの人たちにも、「みんな」の「正論」を語ろうとする姿勢ではなく、それぞれの事情を聞き出して伝える役割を果たしてほしいと切に願う。メディアは、「決めつける人」「裁く人」ではなく、「調べる人」「いろいろな角度から見てみる人」「知られていないものを見せる人」であるはず。


2010年12月08日(水)

拙著「自分でできる対人関係療法」http://amzn.to/hjoUksと「対人関係療法でなおす 社交不安障害」http://amzn.to/fkKWBBが共に重版になるという連絡をいただく。「自分でできる対人関係療法」は2004年刊行だが多くの方に読み続けていただいている。


2010年12月09日(木)

また政局話が増えてきた。いつもの疑問だが、どうして政局になるとメディアは元気になるのだろう。「政治とは所詮権力闘争」というイメージは、こんなところからも強化されるのではないだろうか。

政局をしたり顔で語る人に非生産性を感じるのは、その話の根拠が過去の政治だから。未来のことを語っているようでいて、過去を語っているに過ぎない。今は新しい政治文化を創ることが必要なとき。だから、メディアがそろって政局をしたり顔で語り始めると、本当に不毛だと思う。


2010年12月11日(土)

小選挙区制は「勝ち負け」の制度として問題を感じるが、政界再編を困難にするという要素もある。小選挙区制で当選するには、現在推薦してもらっている団体の推薦を失うリスクをおかせないなど、いろいろな点で保守的にならざるを得ない。これが政党を形骸化させる一因だとも思う。

民主党は片山総務相が言う通り「シマウマ」政党であり、それが様々な場面で民主党への失望感につながってきた。これは、現在の民主党(新民主党)が小選挙区制時代の政党であることと無関係ではないはず。「自民党から出たいがすでに候補者がいるので」という層も誕生し、選挙互助会的になった。

いろいろな政治家を直に見てきて、人間としての善意が「選挙のリスク」によって縛られていると感じる人も少なくない。だからと言って選挙というシステムを放棄するわけにもいかない。「政治家は選挙のことだけ」と非難していても何も始まらない。やはり選挙の形を機能的にする必要がある。


2010年12月15日(水)

今朝の朝日新聞の社説「過疎とお年寄り 地域にあった支え合いを」はとてもよい。地域でうまくいっている実例を効率よく共有するための機能が必要だということを以前から発言してきたが、同じテーマ。地域活性化につながると共に、国と地方との関係性も変えていくことになるだろう。

政治がワイドショー化して軽く見えるようになった一方で、政治そのものは決して軽くなっていない。諫早の開門にこれだけの時間とエネルギーがかかっている。検察や警察が無実の一人の人間の生物的・社会的生命すら奪えることは今も同じ。年金や税金はもちろん生活を直撃する。

政治のワイドショー化は「政治を身近に感じてもらうために」だそうだが、本来、政治を身近に感じるには、自分の生活や地域の仕組みを考えるなど身近なテーマからであって、ワイドショーでよく顔を見るからと言って、政治との関係性が生産的に変わるわけでもないと思う。


2010年12月16日(木)

法制審議会がようやく親権停止の民法改正へ。2004年に児童虐待防止法を改正したとき、大きな積み残しとして附則に記したもの。子どもと親の現実に合った形で、懲罰的ではなく福祉的な運用をすること、そしてすでに手一杯な現場が適切な形で機能できるような人手と仕組みが必要。

2004年当時、法務省はまだ準備ができていないと、民法改正に最後まで首を縦に振らず、附則に盛り込むところが当時の政治的限界だった。今回はようやく準備ができたということなのだろう。政治においては、きちんと撒いておいた種は育つという印象を持つことが多い。「きちんと」が重要だが。


2010年12月17日(金)

大林検事総長引責辞任の報を見て、組織トップの引責辞任について、責任とは何かをいろいろと考えている。今やめても効果が薄いなどというコメントを見ると、相手(今回の場合は世論?)との関係性の中での「けじめ」(責任を認める)いう色彩が強いようだ。

私が知りたいのは、検察は反省しているかということではなく、どうすればこのような事態の再発を防げるのかという構造的な改善。人間はミスを犯すし、検事の人権感覚が完璧ではないという前提に立った上での有効な構造だ。検察が反省していますと言われて納得する次元の話ではない。

最高検は証拠チェック専門機能を作るそうだが、今回の「改革」が証拠隠滅という焦点だけで終わってしまったら困ると私は思う。証拠が起訴事実と合わないと知りながら起訴したという事実の方がより重いことだと思う。そこにきちんと構造的な手当てがされるのだろうか。


2010年12月18日(土)

この頃考えるのが「評論家」(評論家的有識者も含めて)のこと。特にテレビ番組などで、同じ評論家の意見ばかり聞かされると違和感が強い。一人の意見ばかり聞くとそれが真実であるかのような錯覚に陥るが、その前提となっているデータがどれほど正確なのかすらわからない。

例えば私から見ると、何らかの事件が起こった当日から加害者の心理状態について語り始める有識者にびっくりする。私もそういうコメントを求められたことがあるが「会ったこともない人について、情報が十分にない中、コメントするような姿勢が大変問題だと思う」と断っている。

コメントを断ると相手はハッとして「確かにそうですね」と認めるが、そこはテレビの悲しいところで、コメントをくれる別の人さがしに移っていく。同じ評論家ばかりが目につくのは、それらの人たちが「メディアが言ってほしいことを言ってくれる人」という側面もあるのだろう。


2010年12月19日(日)

鳩山さんの引退正式撤回。「民主党の友愛」が壊れていないかという指摘。それにしても私の目につくのは、その挨拶の中ですら小沢氏を「小沢先生」と呼んでいること。民主党は「先生」を排し、「長」「主」ではなく「代表」という言葉を用い、と民主主義を形でも示してきたはずだ。

相手を「先生」と呼ぶかどうかはTPOもあるだろう。しかし公的なメッセージの中でも先輩政治家を「先生」と呼んでしまうと、おそろしく民主主義が後退したような印象を私は受ける。その「友愛」が、所詮は内向きのものであるようにすら感じてしまう。


2010年12月20日(月)

通り魔事件に関連して「今の若者は健全な怒り方を教わっていない」というコメントをたまたま見た。しかし私自身(おそらくさらに上の世代も)、健全な怒り方など教わっていない。そんなことよりも、人とのつながりを感じられない孤独感・不全感の方がずっと大きな問題だと思うのだが。


2010年12月22日(水)

安全保障も「つながり」をキーワードにしてよい時代だと思う。「国家の安全保障」か「人間の安全保障」かという議論も乗り越えられるし、限られた資源と財源をより効率的に用いることができる。ただ、そのために手放さなければならない「怖れ」は、米国内だけでなく日本にも。

安全保障と言えば、国会時代にいつも気になっていたのは、安全保障を議論する場にはどうしても好戦的な人が集まりやすいということだった。そうでない人は軍事に関心を持たないことが多いからだ。軍事に造詣が深いが「つながり」志向の、希少価値の政治家を大切にしたいと思う。


2010年12月23日(木)

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」を刊行しました。治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。 比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。http://bit.ly/i7CGuk

医学的な意味だけでなく、社会におけるトラウマ(広義)についてもこの頃よく考えている。「怖れ」とはトラウマを反映したものではないかとも考える。それを意識せずにただ「正論」をぶつけてしまうと、さらに傷が深まり、怒りや抵抗を招いてしまう。そのうちまとめて書いてみたい。


2010年12月24日(金)

今朝の朝日3面イラク戦争検証の記事を読んで、改めて過去を検証できない日本の体質について考える。政権交代は過去の検証の好機とは言っても、乗り越えるべき様々な「怖れ」がある。特に怒りの振り子のようになってしまっている現在の政治状況では、生産的な検証は難しいだろう。

朝日3面谷内元外務次官「小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった」当時の他の閣僚のコメントからも、小泉氏がイラク戦争支持を一人で決めたことは確かなようだ。それが今流行の「リーダーシップ」だとしたら大問題。


2010年12月28日(火)

自分の過去に心から向き合うという作業は、自己正当化という「怖れ」を手放す作業だ。自己正当化をやめてしまったらとてももたない、という「怖れ」が、否認、隠蔽、責任のすり替え、などにつながっていく。

自己正当化をやめた方が安全を感じられる、という環境を作っていければ、社会のあちこちに見られる「否認、隠蔽、すり替え」複合体が解消される方向に進むはず。現実的な責任をとっていくということと、その精神をサポートすることを区別できれば効果的なのだが。

これだけ問題が多い今は、「どういう姿勢で臨むのが最も効果的か」ということを真剣に考えるべき時。「悪い人」を糾弾していくやり方は「否認、隠蔽、すり替え」複合体にエネルギーを供給するし、相手の自己正当化を強めると反撃のエネルギーになり、社会の安全を直接脅かす。


11月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

11月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年11月02日(火)

政権をきちんとチェックすることと、国民の破壊的感情をあおることは別の話だ。奇しくも、裁判員制度で、死刑判決を我がこととして考えるとこれほど違う次元が見えてくるということが示されているところ。「違う次元」を見せることもメディアの重要な役割だと思うのだが。


2010年11月03日(水)

グローバル化にしろ、検察による証拠改ざんや警察情報流出など社会の信頼の根底に関わる不祥事にしろ、当たり前の生活が壊れていくように見えるときほど、自分の生活を丁寧に生きていきたいものだ。一人ひとりが人間として安定することが、必ず世界の安定につながると信じている。


2010年11月04日(木)
今の日本も米国もそうだが、誰がやっても難しい時期の政治においては、「今すぐの結果」ではなく「少し先の結果」をうまく示す必要がある。それを精神論で代用しようとすると怪しげに見えてしまい、支持されないということになるのだと思う。


2010年11月06日(土)

海上保安庁のビデオ流出という衝撃的な事件に対するいろいろな意見の中でも、「そもそも隠した政府が悪い」という論調には特に違和感がある。また、これを正当な内部告発とする説にも違和感。民主主義の国の形がこんなところから崩れていくとしたら怖いことだ。

情報管理について、特に高度な機密を扱う機関は、現在の技術レベルに合わせた改良が絶対に絶対に必要。その上でも、何事にも完璧がないとすれば、あとは情報流出があったときに、流出行為を肯定するようないかなる態度もとらないことで、私たちが責任を果たしていくしかないと思う。


2010年11月07日(日)

昨日はAHのボランティア・トレーニングだった。「相手のために」と考えてやることは暴力的にすらなりうるけれども、「自分の心の平和のために」やることは相手のためにすらなる、ということを、毎回違う参加者と共に実感する一日。やはり社会の平和は一人ひとりの心の平和から。

政治が機能していないと思われる局面では、市民の意識が本当に大切だと思う。「政治がこんなに悪いのだから何でもあり」という姿勢が、自分たちの生活の基本的な安全を脅かしていくということを忘れずにいたい。政権の是非と、それを変えようとする手段の是非は、全く別の次元の話。


2010年11月12日(金)

今朝の朝日新聞17面「耕論」はとてもよいと思う。映像流出問題で、ようやく読みたい意見が読めたという感じ。私自身の考えは佐藤優氏のものに近いが、西山太吉氏(沖縄密約の「西山事件」当事者)、長谷部恭男氏、鈴木謙介氏いずれの意見も重要な論点を含んでいると思う。

ちなみに佐藤優氏の論点は主に「データが編集されたものであること」と「歴史」についてである。特に後者の、五・一五事件を軽い処分ですませたことが二・二六事件を誘発したという視点は、私が懸念していた点そのもの。何かの意見を言うことに「怖さ」を感じる社会は危険だと思う。

「データの編集」について言えば、テレビなどの「街の声」にもずっと違和感がある。非暴力コミュニケーションの第一歩は、「自分が下した評価ではなく事実を語ること」。何らかの評価を下して終わらせるのではなく事実の多面性を考えることは、人を思いやることでもあると思う。


2010年11月14日(日)

今朝の朝日新聞「ウオッチ沖縄 基地 まるで机上の話」を読んでの個人的感想。沖縄発の記事がもっと増えてほしいと思うが、その際、沖縄県外の人の罪悪感ではなく共感を呼ぶようなものが効果的だろうと思う。罪悪感を抱くとどうしてもつながりを感じにくくなるからだ。

また、話題になったときだけ「点」で仕事をする政治家が多い中、一つのテーマに粘り強く取り組み「線」で仕事をする政治家をもっと応援することも大切だと思う。ここのところの極端な選挙の振り子でかなり失われてしまった層だ。


2010年11月15日(月)

政権交代後の政治状況を見ていると、私が昨年予測した通りになっているような気がする。昨年11月北大での講演内容 http://bit.ly/dxbJSL 総選挙当日のブログ http://bit.ly/93RT1W 

ここまでの民主党が、(前政権批判による)政権交代、事業仕分けなど、怒りをエネルギーにして前進してきたことと、今その怒りに叩かれて大変な状況にあることは無関係ではないと思う。怒りの次元から抜け出し、民主党の原点を取り戻すことにしか、希望はないように思う。


2010年11月16日(火)

事業仕分けは「野党的」であり役割を終えたという意見については、必ずしも賛成しない。政策面から考える人と経済効率面から考える人の両方がよく議論する「二元政治」はむしろ必要だと思う。事業仕分けの問題は、それが独善的な暴力になってしまうリスクにあると思う。

仕分けされたはずの事業が看板をかけかえて復活した件。それが単なる不誠実なトリックなのか、政策側からの新たな提言なのかを明らかにできる公平な場を作ればよいと思う。事業仕分けという一方の舞台でそれをしてしまうと、まず不誠実ありきという印象になりがちだ。

情報アクセスに限界がある野党に事業仕分けはできない以上、与党の仕事だ。あとは与党にとっての事業仕分けの位置づけの話。前政権を叩くだけの場なのか、新たな政治文化を創る場なのか。話し合いのプロセスを共有できる新たな政治文化に向けての一歩にすることは可能だと思う。


2010年11月17日(水)

「多くの人が・・・と言っている」という論調が多い今の日本において、報道されている裁判員の様子はまさに「私はどう考えるか」を示しているが、人は「私は」を問われると、自分の内面に立ち返り、物事の多面性をとらえようとするものだ、と改めて実感している。

私自身にとっても、衆議院議員を二期経験したことは、政治を見る目を明らかに変えた。議員をやめてからも「自分だったらどうするか」という目を常に持つようになったし、良心的にこつこつ頑張っている議員たちをつぶさずに育てるためには何が必要かということを考えるようになった。


2010年11月18日(木)

一票の格差は放置できない問題。この手の問題で停滞するのを見る度に、選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さを何とかする必要を感じる。議員でい続けることが「命がけ」である現状では、区割り変更に抵抗するのも当然だと思う。

選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さは、世襲議員の量産や、質の低い議員の温存にもつながる。せめて選挙がもう少し効率的なものになれば、と思うが、政治に関心のない層にも働きかけるという必要がある以上、どぶ板的な部分もそれなりに意味がある。

あるアメリカ人から聞いたが(つまり出典や真偽は不明)、2期だけつとめる「市民議員」という考え方があったそうだ。自分の専門知識を政策立案に役立てるが、職業政治家にはならない、というのが市民議員。それが本来の民主主義のあり方ではないか、とその人は言っていた。

有権者から見ての「当然」と、そこで働く生の人間にとっての「当然」のずれをきちんと考えないと、政治の質は上がらないと思う。「政治家たるもの、自らしっかりしろ」などと言っているだけでは、一票の格差も改善されないし、政治の質の劣化が結局我が身に返ってくるだけだと思う。

「現代用語の基礎知識2011年度版」の見本が届いた。今回からメンタルヘルスの項目を執筆したため。小さい頃から馴染んできた本であるだけに、(よい意味で)複雑な気持ち。それだけ年をとったということか。


2010年11月19日(金)

法務大臣の失言問題。なぜこの手の問題が後を絶たないのかということについては拙著「国会議員を精神分析する」でも述べた記憶があるが、やはり抜け落ちているのは「その他の人たち」への配慮である。それは政治家の命と言えるくらい大切なものだと私は思っている。

法務大臣の答弁の陰でどれほど多くの人が悔しい思いをしてきたかということへの配慮が抜け落ちている。私も法務委員会に所属していたことがあったのでわかるが、昨日まで普通の国会議員だった人がなぜ急に検察官僚みたいな雰囲気になるのだろう、と不思議に思っていた。

確かに検察組織を代表して柔軟な答弁をするのは難しいと思う。しかし、その点にこそ政治家としての腕が問われるはずだ。その重要なポイントについて、「この答弁でいいから、法務大臣はいい」というのは、さすがに強い違和感。単なる失言と本質的な失言の区別は必要だと思う。


2010年11月21日(日)

政治を語るとき、それが自分にどう関わってくる可能性があるか、という点から考えると本質に近づくような気がする。「この大臣をどう評価するか」ではなく、「この大臣の言動が、自分の暮らしにどう影響する可能性があるか」ということだ。

もちろんその「自分」とは、現在の自分のことだけでなく、「もしも相手国に自分の肉親がいたら」「もしも虐待家庭に生まれてきていたら」「もしも明日突然事故に遭ったら」など、様々な想像上の「自分」を含む。日本の政治姿勢や制度がどうであれば、人間らしく生きていけるのか。

政治がワイドショー化してから、政治評論家みたいな語り口があちこちに増えている気がするが、「政治をどう思うか」ではなく、「こんなことだと自分がどう困るか」という視点から語るだけでも雰囲気がだいぶ主体的になるし、政治の責任の範囲も明確になるような気がする。


2010年11月22日(月)

この頃国際ニュースを見ていてつくづく思うのは、地球規模の修復的司法が必要だということ。なぜその国がそんな体制になってしまったのか、ということにはそれぞれの歴史があり、そこには何らかの形で他国も関わっている。突然変異的に生まれたわけではない。

修復的司法では、行為を正当化することはもちろんしないが、お互いの事情をよく知り、行為と人間性を切り離す努力をすることによって、共同体の癒しを実現していく。その根底には人間への信頼があるが、単なる理想論ではなく唯一効果的な再発防止策としても期待されている。

地球という共同体においても、お互いに罪悪感や被害者意識を刺激し合うのではないレベルでの癒しを模索していくべき時代だと思う。自然環境と同じことを社会的な現象についても進めていく必要があると思う。未来を損なうネガティブなエネルギーをどれだけ減らせるかだ。


2010年11月23日(火)

今朝の朝日新聞1面。私が最も不思議に思うタイプの記事。民主党執行部4名と首相・官房長官だけの話し合いの内容がそのまま載っている。それも「(出席者の)誰もがそう感じた」と書いたり、首相の内心を「どうしても信じられなかったのだ」などと断定的に忖度したりしている。

さすがに全国紙の1面であるから、出所は確かなのだろう。閉鎖された会談の内容が漏れるときには政治的意図を疑うのが常識ではあるから、誰かが何らかの意図で漏らしたのだろうが、さすがに1面トップにこういう記事があると、その「意図」にうかうか乗ってしまいそうだ。

ここのところの政権バッシングで思うこと。やはり怒りではない方法で政治を動かすことが必要だと思う。この一連の騒動が終わって残るのは「政治的焼け野原」だけではないか。問題のある政治家は討ち取れたかもしれないが、同時に希望も失われているような気がする。


2010年11月26日(金)

裁判員初の少年死刑判決。「更生の可能性」という、高度な専門性を要する極めて難しい判断を、精神医学の素養、特にトラウマ関連の知識も臨床経験もない人たちが限られた時間で下すよう要求されているという極めて不適切な現実に改めて強い強い違和感。

「更生の可能性」を本当に知るための裁判であれば、修復的司法のスタイルで、はるかに長い時間をかけて行う必要がある。そのこと自体が、多くのケースで、実際に「更生の可能性」を増すことになるだろう。そんなふうに人間的に処遇されるのが初めての経験になる人も少なくないはずだ。

本来判断できない立場にあるのに判断を強いられた裁判員の方たちの負担は想像を超える。「更生の可能性」という、本来は(裁判官も含めて)人間が判断してはいけないものをもとに死刑か否かを決める、という考え方に私は大きな無理を感じる。放置したくないことだ。


2010年11月27日(土)

問責決議案の可決がニュースになっているが、参議院の現状を考えれば、提出されれば可決されて当然。「問責が可決された後どうするか」は政局的な話で、それよりも「そもそも問責決議案を提出したことは妥当だったのか」という観点からの、より本質的な議論を聞きたいところ。

朝鮮半島は問責決議よりもはるかに重要な国政課題だと思うが、自らの「怖れ」の中で自爆しつつある北朝鮮にいかにして巻き込まれないようにするか、という戦略が、日本を含む周辺諸国の安全と北朝鮮内の多くの「人質」の安全を考えるととても重要だと思う。対処と巻き込まれは別。

今日のパックインジャーナルで田岡俊次さんが言っていたこと。「菅政権は尖閣問題で国益を損ねたと言われているが、実効支配の継続と、経済関係の維持という二大目標は達成したのだから何ら損ねていない。強いて言えば、船長釈放を『米国に言われて』したところ」。同感。

尖閣問題と今回のヨンピョン島事件の相似性も話題になった。同様の構造の対立の中、武力が行使された方では短時間でもあれだけ島民生活に壊滅的な影響がある、という事実は軽視できないことだと思う。「暴力装置」という言葉をただ批判するよりもすべきことがあるのでは。

拙著「拒食症・過食症を対人関係療法で治す」がまた重版になったとの連絡をいただく。とても多くの方に読んでいただき役に立っている様子で、幸せな本だ。改訂前の前著が絶版になり版元探しに奔走した時代が嘘のよう。http://amzn.to/fgiA52

さらに田岡俊次さんから聞いた話。事件勃発前に韓国が行っていた訓練の内容が注目されていない。相手国のすぐ近くで実弾射撃訓練をするというのは通常あり得ない話で、かなり刺激的だとのこと。北朝鮮は当日の朝に「実弾射撃訓練をするのなら迎え撃つ」と声明を出していたそうだ。

もう一つ田岡俊次さん情報。自民党の世耕議員が国会で問題にして以来騒ぎになっている「自衛隊施設内での政治的発言などを制約する防衛事務次官通達」だが、これは単に自衛隊法に則ったもの。同じテーマで小泉進次郎議員について田岡さんが書いた記事。http://bit.ly/dRfk1g


2010年11月28日(日)

またも菅首相の「支持率1%でもやめない」が切り取られてあちこちに。国会での正式な発言ならいざ知らず、会食の場での一言。どういう文脈で出てきた発言なのだろう、とか、鳩山さんはどういう意図でそれを公表したのだろう、とか、考えることはたくさんあるはずだが。

「空気の支配」は、発言者の罪悪感や不全感を刺激するところから始まると思う。この頃国会で目につく「それは○○に対する侮辱です!」「国益を損ねます!」、メディアの「みんな・・・と言っている」が気になるのは、そういう点。違う意見を持つことが不適切だという空気が作られる。


2010年11月29日(月)

「支持率1%」報道もそうだが、新聞がどれほど裏を取って書かれているのか心配になる。例えば27日の朝日新聞1面の見出しは「中国、米韓演習に反対」だが、「中国の排他的経済水域では反対」というのは、外交用語では「それ以外の場所では容認」という意味(実際、毎日は「容認」の見出し)。

国会で政権バッシングが行われ、それをメディアが繰り返し報道し、という状況を見ていると、その「ショー」を見るために私たちはずいぶん多大なツケを払っていると思う。目下国会関係に費やされている税金もそうだし、結果としての政治的荒廃も。全く対価に見合わないショーだと思う。

これを「政権が悪い」と言ってしまうのは簡単だが、どんな状況でも私たちは見たいものだけを見ることによって環境に影響を与えていくことができる。質の低い情報を見て「あーあ」と言うよりも、自分が向かいたい方向を示すものに、もっと意識を向けていきたいと思う。


10月のツイッターより(特に反響が大きかったものの抜粋)

ほとんど毎日書いているツイッターですが、特に反響が大きかったものをまとめてみました。


2010年10月02日(土)

今朝の朝日新聞政治面、福田宏樹氏の「菅首相の出直し所信表明に思う」は好感をもって読んだ。主語は「私」。所信表明演説から消えた「最小不幸社会」を思い、今こそ遠望するまなざしが必要、という趣旨。「今回の政府の対応に国民の多くが不満と答えています!」などとあおるメディアとは対照的。

政治家が使う「国民の皆さま」「増税のお願い」などという言葉に私は常に違和感を覚えている。「有権者の代弁者として意思決定の場に出ている」という意味合いが見失われるように思うからだ。


2010年10月03日(日)

昨日パックインジャーナルに出演して田岡俊次さんから教えてもらったニュース。9月29日に福岡市役所前で中国人ツアー客1300人の観光バスを街宣車が包囲してバスを蹴ったり叩いたりし、約20分間足止めされた事件。地方版に小さく報道されただけで全国ニュースになっていない。

日本人の観光客が外国で同じ目に遭ったらどう報道されるかと考えると、この事件が日本で広く報道されないことが不思議だ。「国民みんなが中国に対して怒っています!」とメディアがあおる中、こういう事件はきちんと報道される必要があると思う。本来「ニュース」とはそういうものであるはず。

こちらは石川好さんに教えてもらった話。中国では深夜に招かれることが親愛の証なのに日本では深夜に大使が招かれたことを「無礼」と怒っている。それも深夜にずれこんだのは日本側の対応の遅れによるものだったらしい。相手の立場を理解しようとする姿勢が欠けているようだ。

どこの国にも過激なナショナリストはいて、それを認識しながら政治のバランスをとる必要がある。「国民はみんな怒っています!」「毅然とした対応を!」と主張している政治家を見ると、そういう政治本来の役割がわかっているのだろうか、と心配になる。


2010年10月05日(火)

ちょうど今書いている本のテーマでもあるのだが、「人を変えようとすること」と「変化を起こすこと」は違う。変化を起こすためには、「変わりやすい環境」を作ることが有効で、その中には「人を変えようとしないこと」「まずは自分が変わること」も含まれる。人は変わるときにしか変わらない。

今朝の朝日の社説。「推定無罪の原則」と「政治的責任」は別問題、というのはもちろん賛成。しかし「強制起訴」をきっかけに議員辞職を、と言うのは両者を混同していないか。本件については妥当に聞こえるかもしれないが、一般化するのは危険。民主主義の根幹に関わる問題は原則が重要だと思う。


2010年10月06日(水)

情報が多く、どれを信じたらよいのかわからない、という戸惑いの声を最近よく聞く。この多くは真偽というレベルではなく、「誰の解釈が正しいか」というレベルの問題のよう。結局は、「誰が」正しいかではなく、「自分は」世の中をどう見ていきたいのか、というところにたどりつく。


2010年10月08日(金)

今朝の朝日新聞の社説。国会運営の邪魔になりクリーンな民主党のイメージを妨げるから離党させよ、というのはやっぱり違和感。まるで「空気を読め」「邪魔者は消えろ」と要求しているかのような話だ。こういうのを連続して流されると、「世論」が形成されてしまうのだろう。

どうしても違和感があるのは「強制起訴を機会に」という視点だ。「国会での説明を求めたのに断った」というのなら「機会」になるが、強制起訴は性質の違う話だ。説明させようとしない民主党をいくら批判してもかまわないと思うが、強制起訴と政治的な身分を関連づけることは本当に危険。

他者に関わることを主張するのであれば、その必要性を示す原則的根拠(法律)かデータ(証拠)を示すべきだ。それらは主張の正当性を裏付けると共に、「他の選択肢の存在」を考えさせてくれるからだ。民主主義と法治国家を守ろうとするのであれば、そのような「節度」が必要だと思うのだが。


2010年10月12日(火)

「希望の持てる新しい動き」について考えていくと、「自分が存在すること」もその一つだと思える人が増えれば、社会が「コントロールのきかない、悪化の一途をたどるもの」ではなくなるだろう。自分が社会で何をするかということではなく、社会との関係性の問題だ。

「偉い人たち」が変わらなければ社会が変わらない、と思っている限り、毎日をただ憤って絶望的に過ごしていくことになる。そんなふうに自分の力を明け渡す必要はない。「偉い人たち」の方が物理的にできることは多いかもしれないが、社会をどう見るかは万人に平等に与えられた選択肢。


2010年10月13日(水)

政治の守備範囲はかなり限られていて、「政治がすべてを解決すべき」という発想でいる限り、社会における重要なものが育たないように思う。そして政治の守備範囲の限界がきちんと認識されていないことが、政治そのものの質も下げているように思う。


2010年10月16日(土)

「自己責任」という言葉は要注意ですね。他人に対して自己責任を要求するということは、一方的な押しつけという暴力であり分離の姿勢だと思います。本当の自己責任とは、自分の心の姿勢についてのものだと私は思っています。人に自己責任を要求したくなる姿勢も含めて。


2010年10月19日(火)

政権交代後の「政治主導」では事業仕分けに代表されるような既得権廃止・無駄遣い削減機能ばかりが目立つが、本来は縦割り行政の壁を突破して省庁横断的な大きな政治課題を実現するのが政治主導の真骨頂のはず。壊す政治から創る政治への転換を期待。


2010年10月23日(土)

大臣の立場で他国を「ヒステリック」呼ばわりする政治家がいることに改めて驚いた。ちょうど、「評価に潜む暴力性」についての本を書き終えたところだが、「ヒステリック」という評価の持つ暴力性は特に強い。破壊的な戦争を始めるつもりでもなければあり得ない発言。

政治の世界には不必要に曖昧な言葉が多いのも事実だが、同時に、相手がある話については、「~を期待する」という程度の表現にとどめて出口を確保しておくという知恵もある。平和とは老獪な知恵によってしか得られない、というのはこういうことだろう。自ら出口を塞いではいけないと思う。


2010年10月27日(水)

裁判員制度初の死刑求刑例について。多数決ではなく全会一致で、という提案は現状で可能な選択肢としてうなずけるが、死刑判決の重みから裁判員を守るだけでなく、死刑そのものについても考える機会になってほしい。「死刑判決の重み」は、実は国民全員にかかっているものだからだ。

死刑をテーマにした本で私がお勧めするものは、森達也さんの「死刑」http://amzn.to/9te68Bと、その中でも紹介されている原田正治さんの「弟を殺した彼と、僕」。http://amzn.to/dg9Jt3 賛成・反対を超えた自由な頭で読んでいただきたいです。


2010年10月28日(木)

企業・団体献金問題にしても「政治とカネ」問題にしても、その基本には「政治にはお金がかかる」という暗黙の前提がある。いったい何にそんなにお金がかかっているのか、という検討をせずにこれらの問題を論じても本質的ではないように思う。

例えばよくある支出に、地元紙に載った弔報に対してすべて弔電を打つ、というものがある。莫大なお金がかかるので私にはできなかったが、「やはり国会議員から弔電が来るのは嬉しいものだから何とかならないか」とよく言われた。この「嬉しさ」と「政治とカネ」も無関係ではない。


2010年10月29日(金)

管制官ニアミス有罪確定を知り、よく飛行機を利用する一人として複雑な気持ちだ。医療もそうだが、直接人の命に関わる領域は特に、「人はミスをする」という前提に立ったシステムの構築が何よりも重要。個人の責任を追及することによって最も重要なことが見失われないよう望む。

個人的に引っかかるのは、処罰を支持する根拠の中心が「誰かが処罰されないと浮かばれない」被害者感情であること。そのように感じる時期が被害者にあることは確かだが、それが全てではない。また、本質は処罰そのものよりも社会による支持・共感にあるのではないだろうか。


2010年10月30日(土)

「勝ち負け」「善悪」「正邪」にとらわれている人は、一見「毅然として」見えるのかもしれないが、結局は政治家に不向きだと思う。いろいろな事情を抱えた人が折り合っていくための仕組み作りが政治であり、外交も基本は同じだ。結局は同じ地球上で関わり合って生きているのだから。

先日ジャーナリストの田岡俊次さんから教えてもらったが、武士が大敵を予め察知して逃げる「聞き逃げ」は逃げではなく戦術で、相手の姿を見て逃げる「見逃げ」は逃げだそうだ。外交とは、メンツに関わる「見逃げ」に至る前に、いかに「聞き逃げ」の戦術を使いこなすかだとも言える。