2013年1月のツイッターより(抜粋)

2013年1月のツイッターより、反響の大きかったものの抜粋です。


2013年01月01日(火)

明けましておめでとうございます。やるべきこと(「べき思考のべき」ではなく、「必然としてのべき」。この違いは3月刊行予定のイライラの本で解説)がかなり明確な中始まる年ですが、くれぐれもそれを「べき思考のべき」にすり替えないように決意。本年もよろしくお願いいたします。


2013年01月02日(水)

「新年」という「形」をどう使うかも、心の姿勢の問題。「年が変わったのにまだ進歩していない…」と焦るのは怖れの姿勢。自分のプロセスと、暦による新年は全く別の次元の話。新年という形は淡々と受けとめ、前年の自分をねぎらい、あくまでも自分のプロセスを尊重したい。

実はこういう現象は、新年よりも4月に多く見られる。みんなが社会的に一歩進むとき、患者さんの多くが進歩しない自分に自虐的になる。人の活躍は衝撃。それだけの話であって、自分は自分のプロセスを歩めばよいだけ。自分のプロセスと暦は別個のもの。


2013年01月03日(木)

先日サッチャーを描いた映画「鉄の女の涙」を見た。感想は、「サッチャーは、自分が精神的に豊かに育てられたという自覚がない」ということ。経済的な意味ではない。人への信頼を親から受け継いでいるからこそ、「小さな政府」「自己責任」を追求できる。でもそうでない人は?

自分の国の文化に誇りを持つことは反対しない。私は英語の名刺も姓を先にしている(英語になると突如名・姓の順にするのは違和感がある)。これは文化交流。日本はそういう国だと知らせているだけ。外国人から反発を買ったことはない。でも「愛国心」に排他性を感じるのは嫌いだ。


2013年01月10日(木)

次回の摂食障害親御さん向けワークショップ、4月15日(月)に決まりました。 詳細は http://t.co/Du5UJrWA


2013年01月12日(土)

今朝の朝日新聞、体罰についての元プロ野球選手の桑田真澄さんのメッセージにはとても共感した。私自身、医学部という枠ではあったけれども、大学時代体育会に所属していたので、プロではないが雰囲気はある程度わかる。

私の場合、マゾヒスティックな状況を敢えて楽しみたいという目的意識が明確だったので(合宿中男子先輩に布団むしすらされた)、体育会という文化を下級生の間は楽しめた。しかし、上級生になって、理不尽を後輩に押しつける立場になると耐えきれずに退部した。

上下関係は、「文化を学ぶ」「礼儀を学ぶ」「限界に挑戦する」など目的意識という主体性があってこそ意義があるもので、無力な立場で翻弄されるのはすでに支配関係になってしまい、本来の自分の力が伸びないと思う。

「上下関係」という「形」と、心の姿勢は、やはり別だと思う。当時の先輩への感謝と愛情は今でも十分にある。桑田さんのメッセージ、「怖れに支配されていないときにこそ、真の実力が伸びる」ということは、私の信念。全く違う業界の人から同じ見解を聞くことができて、満たされた朝。


2013年01月26日(土)

AHで「愛」について定義していないのは、定義すれば何であれ「形」になってしまい、「心の姿勢」とは異なるものになるからだ、と今日ふと気づいた。「愛とは・・・」と言ってしまうと、「べき思考」(怖れ)の対象にすらなり、自分でぽかぽか感じる愛とは異なるものになる。


2013年01月30日(水)

「べき思考」で生きている人の問題は、それが自分の癒やされなさであり、怖れであり、自分の力を奪うものだという自覚がないまま、「正しさ」だと信じて他者すら攻撃するところにあると思う。このあたりは近刊でうまく書いてみたい。

身近な人を、カルトもどきから取り返した(そんなに大げさな団体ではなかったが、少なくとも洗脳はされていて、解けてきた)。洗脳手法など勉強になったことも多かったが、一番自信につながったのは「愛は怖れよりも強い」と確信することができたことだった。

自分が取り戻したいと思っている相手に対して、本人が洗脳されている理屈にそのまま反論するのは「怖れ」の土俵の話。そこは評価を下さずに放置し、私はせっせと「ありのままを受け入れてもらう温かさとつながり」を提供した。土俵を変えないと、この手の問題は難しいと思う。