民主党の代表選に思う

民主党の代表選を見ながら、「政党とは何か」ということを考えている。

本来、一人一人が選挙によって選ばれる国会議員は、全員が「無所属議員」であってよいはずである。
しかし、よほど国会議員数が少ない小国でない限り、全員が無所属議員として一つ一つの政治課題を議論していたら、手間も時間もかかって税金の無駄になってしまうだろう。
また、同僚と協力し合うことで得られるメリットも大きい。政党の存在は、これらのニーズに応えるものだと考えられる。

北欧などの多数政党制の国々を見ると、この、「政党 = 政策立案と実現のための集団」ということがわかりやすい。国民は、どの党に力を持たせるかによって、どの政策の方向性を選ぶかを自分で考えることができる。

一方、今の日本のように、「選挙に出たいけれども、自民党は候補者が決まっているので」とか「今は民主党から立候補した方が当選しやすいので」「自分の所属する組織は民主党からしか立候補できないので」などという理由で所属政党を決めている人が多い状況では、政党のあり方も歪んでくるのは当然だと思う。
「次の選挙に勝つための代表は誰か」という視点から代表選が語られるのも理解できる。
この場合の政党とは、単に選挙に勝つための装置に過ぎず、それ自体が民主主義の成熟につながるものではないだろう。
「選挙に勝つための装置」としての政党の存在を否定するつもりはないが、それなら「政策立案と実現のための集団」のような顔をしない方がよいと思う。
「政策立案と実現のための集団」という顔をしておいて、実際の行動が「選挙に勝つための装置」である、というズレが、政治不信を強めていると言えるだろう。
(なお、政権交代までの民主党について言えば、「政権交代至上主義」が駆動力であったことは間違いなく、そういう意味では「選挙に勝つための装置」としての役割が大きかったように思う。もちろん、与党になった今では不適切な考え方だと思うが)

このように考えてくると、報道の中にさかんに出てくる「挙党態勢」という言葉についても考えさせられる。

何を目的とした「挙党態勢」なのか。
参院選前に不用意に消費税増税に言及した菅首相を批判するにしても、「選挙に勝つための集団」のトップとして批判するのか、「政策立案と実現のための集団」のトップとして批判するのか、ではスタンスが変わってくる。

そもそも、政党が「政策立案と実現のための集団」であれば、厳密に言えば、二大政党制はあり得ないと思う。
二大政党下で、それぞれの政党に所属する議員がほとんどの領域で一致しているということは、人間の多様性を考えればまずあり得ない話である。したがって、最低限の基本政策の一致だけを期待する方がよほど理にかなっている。つまり、「党議拘束」を極力排除すべきだということである。
私は現職議員のときに何度か「造反」をし、処分すら受けたことがあるが、二大政党制を目指すのであればおかしなことであった。
もちろん、「選挙に勝つための装置」としての政党であれば、バラバラ感は好ましくないだろうし、党議拘束は重要なのだろうが、「選挙に勝つための装置」としての政党を多くの有権者は望んでいるのだろうか。

代表選の結果がどうなるかはわからないが、負けた側は、自らの政策的主張を引っ込めるのだろうか。
あたかも「政策立案と実現のための集団」のようなことを言っているのに、政局に合わせてその主張を変えるのであれば、本質は「選挙に勝つための装置」としての政党にしか関心がない、と考えた方がよいのだろう。(今回の代表選ではそれよりもさらに一段レベルの低い、個人的感情論が先に立っているような気もするが)

「党が決めたことだから」という言い訳も、こうして考えてみると、何とも説明のつかないことだ。
最低限の基本政策に関わることであれば、自分と方向性の一致する政党に所属すべきだろうし、それ以外のことであれば、やはり自分の信念を貫くのが政治家だと思う。
「党が決めたこと」を重視するという姿勢そのものが、「選挙に勝つための装置」としての政党を認めているのではないだろうか。

これらのわかりにくさを排除するためには、個人の裁量が最大限に認められた二大政党制か、北欧のような、政策本位の多数政党制(それぞれの政党がそれぞれの主張を持ち、政治状況に応じて複数の政党が連立政権を組み、それが最終的な政策決定に反映される)かのどちらかを選ぶ必要があると思う。

追伸 ツイッターについて

前回、「ツイッターを始めました」と簡単にお知らせをしましたが、「そもそもツイッターとは何?」というご質問も受け、実に不親切な説明であったことに気づきました。
私のホームページ http://www.hirokom.org/ のトップページに、最近10個の「つぶやき」(140字以内の短文メッセージ)が載っており、そこからそれ以前のものも読めるようになっていますので、ツイッターそのものにおなじみでない方も、時々ご覧いただければ幸いです。
今のところだいたい毎日書いています。

菅直人新政権誕生に思う

菅直人さんが首相となり新政権が発足しました。

菅さんは私がかねてから現在の日本の政治家の中で最も高く評価している人ですので、これからの政権運営を楽しみにしています。

それにしても気になるのは、ここのところ乱高下を繰り返している政権支持率です。

政権発足直後は超高値がつくけれども、短期間のうちに超安値になる、という傾向をほぼ各政権が繰り返しています。

これは今の日本では政治が怒りを振り子にして進んでいる証拠だと私は思っています。

この傾向を続けていくと、「期待したのに裏切られた」という無力感が強まり、有権者と政治の距離が広がり、民主主義は形骸化していきます。

民主主義を根づかせるためには、「期待した」「裏切られた」という受け身の形ではなく、自分自身も社会の現状に何らかの責任を担っているという感覚が必要だと思っています。

菅新政権には、ぜひ、政治の新しい可能性を感じさせるような政権運営をしていただきたいと思っています。

どういう形でか、というと、「市民が主役の民主党」の結党時の理念をできるだけ具現化すること、また、個々の問題に、その理念を持って取り組む姿勢を例外なく見せることです。

従来型で「国民の皆さま」とおもねるのではなく、「官ではない公」を育てようとしている民主党らしさがわかる形にしてほしいです。

目の前に現れる政権に期待し、絶望し、怒り、というサイクルを繰り返すのではなく、自分もその社会作りに一緒に参加してみたいと思わせるような「夢」を示すのも政治家の仕事だと私は思っています。

最近若手の民主党議員が、優秀な官僚のような感じに変質してきていて、「夢」を感じさせる人が減っていることも気になります。

「夢」と言えば、かねてから気になっていたことを一つ・・・。

今朝の新聞にも、小沢前幹事長が「一兵卒として」新政権に協力する、という記事が載っていました。

選挙「戦」などもそうですが、政治絡みのことに戦争用語を使う文化は、そろそろ何とかできないものでしょうか。

多様な価値観や事情を持つ人たちが共に「最小不幸社会」を目指して暮らしていくための仕組みが、政治であるはずです。

そんな政治を戦争に見立てるという思想そのものが、社会の不幸を増やしていると思うのですが。

菅政権の活躍を期待すると共に、私自身もアティテューディナル・ヒーリングの活動を通して、新たな政治文化の構築に少しでも貢献したいと思っています。

総選挙を経て、小選挙区制を考える

本日はCS放送に出演したということもあり、夕方までのワークショップを終えた後は珍しくもTVの選挙報道を見ておりました。
(そして、普段だったら起床時間が近づいてくる今の時間に、まだこんなものを書いています)

★ 小選挙区制の「取り扱い注意」

愛川欽也さんは「日本に民主主義の芽生え」と総括されていましたし、もちろん有権者の付託は確かに存在すると私も思います。

でも、今の場合の「付託」は、具体性を持ったものではなく、「今がひどすぎるから何とかしてくれ」というのに一番近いように思います。

それと同時に、小選挙区制の「取り扱い注意」も改めて痛感しています。

今回の議席数を見ると、ちょうど郵政選挙の自民党と民主党のバランスがひっくり返ったような感じです。
これを「政権交代可能な小選挙区制」として見ることは簡単です。
政官業の癒着構造など、政権交代によってしか解消できないものもありますので、この時点での政権交代にはもちろん反対するものではありません。

でも、同時に、小選挙区制を使いこなしていくためには、かなり高い民意が必要だということも痛感しています。

最悪のシナリオは、
「自民党に4年間やらせてみた。社会が悪くなった。自民党が悪い」
「今度は民主党に4年間やらせてみた。社会が悪くなった。民主党が悪い」という繰り返しが続く、ということです。
市民の被害者意識はつのり、政治への絶望感が深まって終わるだけでしょう。

そこには当事者として参加する有権者の姿が見えません。

私が小選挙区制反対なのは、常に責めるべき相手が見えてしまうということと、多様な民意が拾えないということが最大の理由です。
また、政権交代が頻繁に起こるようなら各政党は緊張感を持って切磋琢磨するだろうという予想もあるようですが、少なくとも私が落選させた候補者は「なりふりかまわず」品性も捨てて、本来踏み込んではいけないようなことまで必死でやって議席を取り戻したという印象が強いです。人を追い込むと、「何でもあり」になってしまうのだな、と苦々しい思いで見ていました。

ネガティブキャンペーンで議席を獲得するよりも、ヴィジョンと当面やっていくことを明らかにして議席を獲得する方が、世の中の空気が遙かによくなると思います。

そういう意味では、北欧型の比例中心・多数政党連立政権が私の理想です。
政策一つ一つの吟味において、個々人の主体性(=責任)が明確になるからです。

もう一つの懸念事項は、小選挙区ではかなりの票をとらなければならないので、当然「より多くの人におもねる」必要が出てきます。
結果としては政策的に拮抗する二大政党ができるというよりも、似たような二つの政党ができるように思います。(民主党が第二自民党になる怖れは確かにあり)

似たような二つの政党ができればまだましなのですが、自民党がこのまま崩壊してしまうと、単に民主党が長期に政権を担当することによって根っこが生えて第二の自民党になる可能性も否定できません。

私は、市民がより政策に関心を持つためには、「民主党にお任せしてみよう」という発想よりも、どういう政策に自分は希望を感じるのか、どういう社会を思い描けるのか、と言う検証の方が大切なように思います。それが民主主義の成熟というものではないでしょうか。

★ 当面の民主党に望むこと

民主党がマニフェストの内容を完璧に4年で仕上げることを私は期待していません。それよりも、「政治が変わった」という感覚を国民に与えることが不可欠だと思っています。菅直人さんが厚生大臣のときに行った薬害エイズへの対応は、政治への信頼を取り戻してあまりあるものでした。

今度は、政府をあげて、それをやっていくことになります。

私は最初の選挙の時に、「新人議員に何ができる?」と聞かれ、「少なくとも、自分が何をやろうとしていて、どんな抵抗にあってできないのか、ということを情報公開することはできる」と答えました。(実際には、思ったよりも遙かに政策を実現できましたが)

政権の座についた民主党も、霞ヶ関や業界との癒着の中で、脅し・すかし・かわしの洗礼は受けていくことになりますから、そういう中で、すべてを達成しようと思うよりも、「何をやっていて、どんな抵抗にあってできないのか」ということを情報公開していくことが何よりも「市民が主役の民主党」なのだと思います。
世論の後押しがあれば、抵抗は弱まります。

今の民主党にバラ色の希望を持っているわけではありませんが、せっかく政権交代するのですから、くれぐれも細川政権の二の舞にならないように、何かしらの行動が未来のプラスにつながるのだという前例を作ってもらいたいと思います。

また、私の最大の希望としては、「自分が変われば政治も変わる」という意識を多くの方に持っていただきたいと思います。

★ 小選挙区制の中の国会議員

これはまだ私もよくわからないところです。2005年の郵政選挙、そして今回の政権交代選挙、と見てくると、個々の議員を個人的に知る立場にある私は、「選挙は個人の資質ではない」としみじみ感じます。小選挙区制のもとでは、党に逆風が吹くと、議員の個人的な資質はほとんど関係なく、吹き飛ばされる人は吹き飛ばされてしまいます。よほど利権の強い人は生き残ります。

小選挙区制は政党中心になるわけですが、では、国会議員の役割は何? ということになります。
強いて言えば、党の政策立案過程に加わる人間。これは、民主党が透明性を保った政策立案過程を続けていけば、現実になるでしょう。

私自身も5年間議員をやってみて思ったのが、本人がその気になればできる仕事はたくさんあるということです。小選挙区制でこんなにも多くの議員が吹き飛ばされている現状を見ると、本人の業績はどうなるのだろう、そもそも議員本人の個性はどうなるのだろう、といろいろと考えさせられます。

何はともあれ、少なくとも形式的には新しい政治の夜明けです。

心のバリアフリーとメディア

最近、昨年来の疑問が一つ解けたことを機に、バリアフリーについていろいろと考えましたので少し報告させていただきます。

昨年、ある地方都市の大学に招かれて講演をしました。その後、夕食をとりながら遅くまで医局の方たちと懇談しました。その席で、私の子どもはどんなタイプか、という質問があったので、子どもたちの特徴を話し、「病気になるとしたら上の子は○○で、下の子は××(子どもたちのプライバシーを尊重して病名は伏せますが、いずれも私の得意分野の病気です)だと思うので、できるだけストレスをためさせないように気をつけて育てています」と言いました。

すると、その席にいた一人の精神科医が、「それはお子さんにとってとても失礼なことではないかしら」と言いました。私は大変びっくりしました。患者さんに失礼だという話なら状況によってわからなくもないのですが、子どもにとって、という発想は全くなかったからです。
実はそれ以前にも一度、私は仕事の合間に雑談していたカウンセラーから同様の状況で「それはお子さんにとってはきついですね」と言われたことがありました。そのときもとても驚いたものです。
いずれの場合も、違和感は覚えつつ、その正体がよくわからずに放置していました。

先日、その正体が明らかになる出来事がありました。地方出張の際に、福祉職の方と雑談をしていると、その方のお子さんの話になりました。「いかにも摂食障害になりそうなタイプなんですよね・・・」とおっしゃっていたので、「そうやって思っていらっしゃることが、リスクの認識になって、予防につながるでしょうね」と言いました。するとその方はとてもびっくりされていました。その反応に私がかえって驚き、「だって、糖尿病になりやすい体質だとわかっていれば栄養に注意するのと同じですよね」と伝えておきました。

後ほど、その方からメールがきて、「我が子が摂食障害になりそうだ、などと考えているのは子どもに悪いと思っていたけれども、リスクの認識と思ったら気が楽になった」とのことでした。
そのときに、私は、昨年の不可解な出来事がようやく理解できたような気がしました。

私はいろいろと忙しいので、子どもと一緒にいられる時間はあまり長くありませんが、せめて自分が毎日どんな仕事をしているかは詳しく説明するようにしています。その日にどこで何をしているかを子どもは知っていますし、いろいろと後で報告もします。ですから、当然、自分が患者さんから学んだことも子どもには日常的に話しています。「自分の気持ちを人に言わないでため込むと病気になるみたいだから、何でも話してね」などという具合に、です。そんな環境で育った子どもたちは、心の病気というのは、自分たちも何かの拍子になるものだと思っています。そして、「もしも心の病気になったら治してね」と言ってきたりします。
今回出会った方の「子どもに悪い」という言葉を聞いて、ようやく違和感の正体がわかりました。自分の子どもが心の病を煩う可能性がある、ということは、私にとってはむしろ当然のことであり、否定すべきことではないからなのだと思います。もちろん病気になると本人も周りもつらいですから、病気にならないように努力して育てておりますが、「絶対にならない」などと言い切れる人はいないのではないでしょうか。

自分や家族がいつでもなり得るもの、と自然に考えていることはバリアフリーの一歩だと思いますが、同時に、やたらと病名を日常会話に乱用することには違和感があります。例えば、肥満ぎみの中年男性が「過食症なんだよねー」と言っていると、そういうことを言わないでほしいと思います。過食症の患者さんが持つ、病気ならではのつらさが共有されていないからです。過食症についての知識がほとんどないのでしょう。

この話で思い出しましたが、私は国際摂食障害学会のメディア対策委員会に日本代表として参加しています。その委員会では、摂食障害とメディアの強い関連に注目して、「どういうニュースをどういうふうに取り上げてもらいたいか」ということを話し合っています。例えば、「アノレクシック・マック(拒食症マック)」という名前のコンピュータが出たときには、メンバーは懸念を話し合いました。単にスリムなコンピュータを「拒食症」という病名で呼ぶことが、病気のつらさを隠してしまうのではないかと思われたからです。

このメディア対策委員会、おもしろいのですが、私は現在長期のお休みをいただいています。何かと多忙で、月1度の国際電話会議の時間をやりくりするのが難しいというのも理由の一つですが、より大きな理由として、「日本と諸外国とはレベルが違いすぎるので当面意味がない」というものがあります。この委員会に参加して私が一番驚いたのは、他国では学術的なニュースが普通に記事になっているということでした。日本では考えられない、と言ったら、試しに1~2か月間、「グーグル・アラート」(自分の関心のある領域のニュースが配信される仕組み)を利用して調べてみるようにという助言を受けました。それで実際にやってみたのですが、摂食障害関連のキーワードで探しても、芸能人の誰が拒食症の疑い、などというニュースしか引っかかってこないのです。私自身、政治家になる前に自分の研究結果が夕刊の一面トップになるという光栄な体験をしていますが、そういう記事は滅多に見ません。何かの賞をとるような研究は報道されますが、それ以外の情報は、一般に共有されていないと思います。
シアトルで開かれた今年の国際摂食障害学会では、この委員会が主催して、メディア・トレーニングの講座も開かれました。これは、メディアに自分の言いたいことをどのようにわかってもらうか、ということを学ぶためのトレーニングです。社会的な色彩の強い病気の場合には、こういう努力も重要だと思います。

メディアの役割は重要です。昨今の医療崩壊を加速している一因は、政治やメディアなどに医療の現場を知っている人があまりにも少ないことにあると言われていますし、私もそう思います。防ぎようのない医療過誤と悪質な医療怠慢を混同する風潮にも危機感を抱きます。まあ、「医者には社会的常識がない」などと公言してしまう首相のいる国の医療が健全に保たれるとも思いませんが。(もちろん、医師にも非常識な人はいますが、これは他の職種も同じことだと思います)

「雅子妃問題」

先日、週刊女性の依頼を受けて寄稿した「雅子妃問題」の原稿が11月4日発売号に載りましたが、「おもしろかった」という声をいくつかいただきましたので、ご紹介させていただきます。(今売られているよりも前の号です)
この問題については、かねてから、心の病を持った一人の女性という観点と、皇室という仕組みの問題からの観点が混乱していると感じていましたので、この機会に整理させていただいたものです。

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雅子妃問題に見られる二つの混乱

私は直接雅子妃を診ている立場でもありませんので具体論は避けますが、一般論として、この問題には大きく二つの混乱があると思います。
第一に、そもそも皇室は「家庭」なのか「仕事」なのかがはっきりしない、ということです。公務をこなすというだけの「仕事」であれば、一般の職場の感覚として、確かに5年間働けていないということは問題視して良いことかもしれません。でも、「象徴天皇制」という言葉のあいまいさから来ることですが、「象徴的な家庭を作る」ことも皇室の「仕事」の要素だとしたら、家族が病気になったときにどう対応するか、という点でも「象徴的な家庭」を作ることが必要でしょう。うつ病なのに家族の理解が得られず、「できの悪いヨメ」として見られて苦しんでいる女性もたくさんいます。「象徴家族」がどう対応するかが、そういう人へのメッセージになるでしょう。皇室を支える納税者である国民のニーズはどこにあるのでしょうか。天皇制に求めるものを、冷静に考えてみる機会になると思います。
第二に、「病気」と「気合い」が混同されていることが挙げられます。これはひとえに、心の病についての知識不足からくるものです。例えば、雅子妃が長患いを余儀なくされる身体疾患にかかっていたとしたら、事態はずいぶん違っていたでしょう。「雅子妃には公務は無理だ」という前提のもとに、環境調整がされ、それについて不満に思ったりハッパをかけたりする人はあまりいなかったと思います。
うつ病などの心の病も、身体疾患と対等な病気です。治療法についても多くの科学的研究がなされ、明確になってきています。「自覚が足りない」「気合いで何とかすべき」と言っている人たちは、まるで、手術で治癒することが可能ながんを呪術で治すべきだと主張しているようなものです。皇室の方たちも、がんに対する手術をはじめ、現代医学の恩恵にあずかってきたはずです。
私が専門としている「対人関係療法」は、うつ病(適応障害もそれに準ずるものとして考えられます)に対して、薬と同じだけの効果があることが科学的に確認されている2つの精神療法のうち1つですが、きちんとした治療マニュアルがあります。そこでの考え方は、まさに雅子妃のケースにも当てはまると思います。つまり、「病気の症状は、長引くと、周囲からネガティブな反応を引き起こす。それが本人の症状に、さらなる悪影響を与える」というものです。ですから、治療においては、ご本人だけでなく周囲の人たちにも病気についての教育をし、治療にプラスな行動をとってもらうようにします。その際には、患者さんご本人が何を期待しているのか、周囲は何を期待しているのかを明確にし、よく話し合っていきます。雅子妃の場合、「周囲の人たち」には、ご家族のみならず、「職場の人たち」(官僚組織)も含まれるわけですが、対人関係療法の言葉を使えば、現状は、「役割をめぐる不和が行き詰まりに達した状態」と呼ぶことができます。こうした対人関係上の調整も含めて、もっといろいろなことが明らかにされれば、国民が現代の精神医学のレベルが案外高いということを知る機会にもなるでしょう。
うつ病などがこれだけ蔓延している現代社会です。それにどう対応するか、ということも「象徴」の方たちには求められているのではないでしょうか。

政治における「メンツ」と政策

日銀総裁と道路特定財源という二つのテーマで国会が「空転」しているが、流れを見ていて、政治文化の問題を改めて痛感している。

日銀総裁はさておき、道路特定財源については、多くの国民が問題を感じている。特に、衆院審議を通して明らかになってきた「常軌を逸した無駄遣い」を目にして、このまま道路特定財源を守っていくべきだと考える人はまずいないだろう。

ところが、与党を中心に「それでも道路は必要だ」「地方切捨てだ」というような声が出てくる。これは政策論の明らかなすり替えであり、一般財源化した上で、地方分権の中、何に優先的にお金を遣うかは地方が決めていけばよいことだ。その地方が「それでも道路は必要だ」と思えば、一般財源から道路を作ればよいだけのことだ。地方切捨てでもなんでもない。

こうした政策論議は、どんどん進めていくべきだし、進めれば進めるほど国民の政治意識は高まる。自分たちが政治に関心を持つことがなぜ必要なのか、ということも本当に理解できるようになってくる。
政策論議を活性化するのは、まさに野党の役割であり、与党による「政策論のすり替え」を鋭く指摘して、論議を正しい軌道に乗せていく必要がある。

衆院審議は、その役割をよく果たしたものだと言えるだろう。

ところが、強行採決という「手続き」から流れが変わる。
気づくと「政治を混乱させて国民の利益を損なっているのは野党」というような空気ができてくる。私もかつて選挙区でそのような批判をたびたび受けた。
今回も、すでにそのような空気が作られ始めている。
「本来は与党が仕掛けたことなのに」という悔しさは、野党議員が常に抱くものである。民主的な手続きを先に放棄したのは与党の方なのに、応援してくれるはずの有権者が案外冷たい、ということはよく経験されることだ。

これは、強行採決という「手続き」を境に、主役が政策論議から「メンツ」に移るために起こることだと言える。
私ですら、先日新聞で「民主党の幹部が『衆院で強行採決をした与党が謝罪してこなければ先に進めない』と言った」という記事を読んで、かなり呆れた。
進めるべきなのは政策論議であり、与党と野党の「メンツ」問題は国民の利益とは何の関係もないからだ。

国会が紛糾していくうちに国民が飽きてくるのは、政策論議から「メンツ」へ、という主役の変化と直接関係している。「メンツ」の応酬を見ていると、「政治は関係ない」「自分が関心を持ってもどうせ変わらない」という気持ちになってくる。政策論議を聞いていたときには「自分の問題」だったのに、「メンツ」問題になってくると「勝手な政治家たちの問題」に変わってしまう、という構造である。

ところが実際に、政治を動かすエネルギーは「メンツ」だということは、私も政治の場にいて痛感したことだ。いかにして相手の「メンツ」をつぶさないかが、国会で成果をあげるためのポイントとなる。

確かに日本の社会はまだまだ「メンツ」が重要な構造になっているので、その代弁者である政治家たちが「メンツ」を中心に動くというのは仕方のないことなのだろうが、ここで野党が「怖れの綱引き」から手を放して、「メンツではなく政策を」という姿勢に徹することができれば、どれほど日本の政治文化が変わるだろう、と思っている。道路特定財源は、まさにそのための理想的なテーマだと思うのだが。

なお、「石原銀行」(新銀行東京)も、どれだけ「メンツ」から脱して政策論議ができるか、という重要なテーマだ。ポイントは都議会の対応になるわけだが、「どちらが正しかったか」という「怖れの綱引き」をするのではなく、現状に合わせた柔軟な政策論議が行われることを強く希望している。

お勧めの本 「武装解除」

異例ではありますが、ぜひ読んでいただきたい本がありますのでお知らせします。
すでに注目されている方も多いと思いますが、現在東京外国語大学教授の伊勢崎賢治さんが書いた本です。

武装解除 紛争屋が見た世界 (講談社現代新書) 
伊勢崎賢治著
740円(税別)

伊勢崎さんは、国際NGOに身を置き、シエラレオネ、東チモール、アフガニスタンで紛争処理を指揮してきた現場の人間です。アフガニスタンの北部同盟に武装解除させるという、不可能に思われたことを実現した奇跡の人です。

新テロ特措法をめぐり、ますます「何も知らない人たちの空論」が激化している中、ぜひ現場の本当の事情に触れていただきたいと思います。

私はかねてから「平和主義というのは、理想主義ではなく老練な現実主義だ」という持論がありますが、この本は精緻にそれを示してくれる良書だと思います。
伊勢崎さんとは先日CS放送でご一緒させていただきましたが、醸し出される雰囲気が平和ですてきな方でした。

なお、アフガンでの伊勢崎さんの活躍を可能にしたのは、日本が長年にわたり培ってきた信頼によるものだということです。私自身も中東や北アフリカを旅行して、その厚い信頼を一般の人たちから常に感じてきました。「日露戦争、ヒロシマ、ナガサキ」というキーワードが、日本を特別な立場に置いてきたのです。伊勢崎さんは「アフガンでの日本は、国連以上に中立性を感じてもらえる存在だった」とおっしゃっていましたが、米国の戦争への追従姿勢を国際社会に示すことによってその信頼を数年間で壊しているのが現状です。独特な信頼感を生かしてこそ、独特で有意義な国際貢献ができたはずなのですが、本当に貴重な財産を失ったと思いますし、それを取り返すためのかなりの意識的な努力が必要だと思います。

安部総理辞任と自民党総裁選

昨日、アメリカ人の友人から電話があり、次のようなことを質問されました。

こちらの新聞に、「日本は高ストレス社会」というタイトルで、安倍首相、朝青龍、過労サラリーマンのことが書いてあったが、よく教えてほしい。

私は意外な感じがしました。それは、日本では、安倍首相の辞任問題は、どちらかというと世間知らずのお坊ちゃんの資質として語られているからです。

もちろん、安倍さんに首相としての資質がないことは先刻承知のことです。とにもかくにもそういう人が表舞台から去ってくれたことは日本にとって良かったと思います。

また、「お坊ちゃん世襲議員」については、拙著「国会議員を精神分析する」にも書かせていただきましたが、今回指摘されているような、いろいろな問題があるものです。

それでも、安倍さんのことを「お坊ちゃんだから」ということで片づけようとしている風潮には、やや懸念を感じています。

安倍さんは、ある意味ではタカ派の典型のような人ですが、問題解決の方法として「圧力」を好みます。相手の言い分を聞かずに「自分こそが正しい」という姿勢を貫く人です。

官房副長官時代に、小泉さんと菅直人さんの党首討論の場で、さかんに下品な野次を飛ばしていたのをよく記憶しています。(世間では「お上品」として通っていたようですが、野次はとにかく下品でした)
通常、野次は議員の仕事で、政府関係者は静かにしているのが礼儀なのですが、安倍さんはどうしても我慢できなかったようです。

「この人はいつも自分が正しくないと気がすまない人なんだな」と、強く感じました。

この姿勢は、首相としての仕事にも、そして、最後の辞任会見にすら、表れていたと思います。

だから、多くの人が指摘しているように、国民への謝罪がなかったのでしょう。

「お坊ちゃん」であっても、自分だけが正しいわけではないということを知っている人はたくさんいます。
世間知らずであっても、とにかく人の意見は聞いてみようと思っている人もたくさんいます。

安倍さんのこういう姿勢は、「お坊ちゃん」だから、というよりも、その思想体系が攻撃的だから、というふうに見たほうが妥当です。

自分だけが正しいと信じて他人のことを攻撃している人は、実は自信のない人だと思います。
常に自分の正しさを証明していないと安心できないのです。

そして、自分の正しさを証明するために、常軌を逸した行いをした指導者は、ヒトラー、スターリン、ポルポトを含め、過去にたくさんいました。

今回の安倍さんの突然の辞任も、その「常軌を逸した行い」のひとつと考えればわかりやすいものです。

たまたま安倍さんは側近に「恵まれて」いなかったため、他人への攻撃の装置を作ることができず、自分自身への攻撃という結果の方が目立ったということでしょう。

でも、他人への攻撃の装置を作れた人たちも、安倍さんと同じように、ひどいストレスを自分自身に加えていたと思います。
いくら敵を排除しても安心できない、というのがその症状のひとつでしょう。

今回のことを単なる「お坊ちゃんバッシング」に終わらせることなく、政治家としての攻撃的な姿勢を見直す結果につなげることができれば、と思っています。

なお、自民党の総裁選ですが、「派閥談合」でできあがった福田さんを批判する向きに、不思議を感じています。

なぜなら、自民党というのは、そうやって出来上がった組織であり、そのやり方を変える(民主的な方法で物事を決める)ということになると、自民党の存在そのものを否定するようなことになってしまうからです。

地方組織からすべて、自民党というのはそうやってできあがっている組織なのです。

選挙の時も、町内会などの長が「○○を支援する」と決めたら、皆が従う、というのが自民党の「古きよき伝統」であって、日本の伝統的なやり方にマッチしているのです。

談合を熱く批判している自民党関係者も、自分自身の足元を見れば、日頃から談合的な暮らしをしているのです。

このようなやり方にはプラスの面もマイナスの面もあり、変えていこうと思うのであれば、単に批判して破壊するだけでなく、そのような「社会的伝統」を今後どういう形にしていきたいのかを考えなければ、小泉さんがやったように、社会は壊れていくだけでしょう。
この点をしっかりと踏まえないと、政治を本質的に変えていくことはできないと思っています。

大人社会が最大の教育

ここのところ、教育について考えさせられる出来事が、いつにも増して続いている。

来週にも衆議院を通過すると言われている教育基本法改正案、今度は中学にも波及しそうな「必修漏れ」騒動、そして、ここにきて一段と顕在化しているいじめ自殺。

「必修漏れ」騒動に対する、世にもお粗末で不可解な決着に首をひねり、いじめ自殺については、最近の日本ではお定まりの「犯人さがし」にため息をつき、そんな中、全く関係のない教育基本法の改正を最重要課題だと思い込んでいる首相と、それを中心に回っている国会に違和感を覚えているのは私だけではないと思う。

「必修漏れ」については、少なくとも一定期間、自分たちの教育方針が正しいと信じて生徒を従わせていた学校側は、なぜきちんと発言しないのだろう。受験を多分に意識していたとはいえ、必要な教育だと思って提供していたのなら、そう言えば良いはずだ。そうすれば、これほどの不信感が現場に生まれることはなかっただろう。子どもたちにとって、何の科目を学んだかということ以上に、自分を教育していた人たちの人間としての姿勢は大きな意味を持つ。そこに人間としての真剣さを感じるか、ご都合主義を感じるかで、その後の人生に与える影響は大きく異なるだろう。

また、子どもたちは何もサボっていたわけではないのに、望まない時期に突然の補習をしなければならず、まるで罰を受けているかのようだ。本来は、サボっていたどころか、教育を受ける権利を侵害された被害者として位置づけられるはずだ。

文部科学省も、教育を所管しているという自負があるのであれば、そのような全人的な教育にどうして配慮できないのだろうか。それこそが、「こころの教育」「生きる力」なのではないだろうか。

学習指導要領というメンツを守るために、まるで罰のような補習が組まれ、政治家の圧力によって時間数がディスカウントされる、などという解決策は本当にいびつだ。これを機に、高等教育の意味やあり方を見直し、意見が対立する人たちの調整をどのように行うかを子どもたちに示すことができれば、日本の教育が飛躍的に成長する絶好の機会になったはずだと思う。そうやって前向きに捉えずに「大変だ」と後ろ向きに捉えたため、結局、いつもと同じように、大人たちの都合が見えないところで調整され、子どもたちがそのツケを払わされることになった。
 
いじめについては、いじめを議論している今の社会の姿勢そのものが、実はいじめの構造に陥っていると思う。

人間は、現実を冷静に直視することが怖いとすぐに「犯人探し」を始めるものだが、私は、ここで直視を避けられているのは、大人たち自身に潜む「いじめ心」なのではないかと思う。ここ数年、特に顕著になってきている「バッシング」は、いじめそのものである。少しでも弱みを見せた人、少しでもミスを犯した人に対して、「あの人は間違っている」と徹底的にバッシングするのである。

子どもたちがいじめる理屈も、それと大差ない。結局、大人社会が、弱みを見せた人に襲い掛かるような構造を変えられない限り、いじめはなくならないと思う。

もちろん、実際に起きたいじめにどう対応するかという制度を考えることは重要だ。そういう意味で、教育委員会の存在の是非も含めて、組織や制度を議論することは必要だ。だが、どれほど制度をいじろうと、それはいじめの撲滅にはつながらない。

いじめる子ども、それを黙認する子どもは、いずれも「怖れ」によって動かされている。いじめる子どもの多くが、家庭で広い意味での虐待をされているという事実もある。その「怖れ」を認識して癒していくことなくしては、問題は根本的に解決しない。私も、被害者にとっても加害者にとってもいじめの特効薬であるアティテューディナル・ヒーリングの考え方を引き続き広めていきたいと思っている。

だが、そうした子どもたちへのアプローチとともに、まずは私たち大人自身が、ひとたび「悪者」と決まると相手の事情をいろいろな角度から考えてみることもせずに一方的に非難するなど、何らかの形でいじめの土壌作りに加担しているのではないか、と振り返ってみることが重要であると感じている。

「必修漏れ」にしても、いじめにしても、大人社会がこの問題とどう向き合うか、ということが、現在の教育に対する最大の解決策になると思う。
 
ふと、子どもが米国で通っていたチャータースクールを懐かしく思う。担任の先生との個人面談のときに、日本の親である私は「英語が不十分なのでクラスにご迷惑をおかけして・・・」というようなことを言おうとしたのだが、先生は、他の子どもたちが読書をしている時間に英語が読めないうちの娘に何をさせているか、などを一生懸命説明して、英語が不十分だからと言ってうちの子どもが教育の権利を奪われていないということを一生懸命説明してくれた。明らかに、子ども個人が教育の主役として位置づけられていた。文化の違いがあるとは言え、折にふれて子どもを抱きしめて愛情を示してくれたことも、子どもにとっては温かい思い出なのだそうだ。人間としてのコミュニケーションが大切だということは教育の場であっても(場だからこそ)重要なのであって、それを阻害しているものが何なのか、見極める必要があると思う。
 

A君と北朝鮮

うちの子どもの友達に、いわゆる「特別な配慮を必要とする子」がいる。仮にA君としよう。

我が家によく遊びに来るが、うちのカレーが大好きで、「おいしい、おいしい」とおかわりしてくれる。うちの子どもたちと遊んでいるときのA君は、本当に優しい良い子だ。マンションの防火扉にいたずらをした嫌疑をかけられて泣いてトイレにこもってしまったうちの子どもをかばって、マンションの管理人さんに事情を説明してくれたこともある。

一件落着して戻ってきた彼が、トイレにこもって泣いているうちの子どもに「もうだいじょうぶだよ、出てきてもだいじょうぶだよ」と優しく声をかけていた彼の姿が忘れられない。

さて、そんな優しいA君なのだが、学校で姿を見ると全く別人だ。暴れて、教室のドアを蹴飛ばしている。先生の指示に全く従わない。

クラスメートからは「またあいつだよ」という目で見られ、非難されている。
まじめにやっても勉強はよくわからない。クラスメートから馬鹿にされ、立ち上がって暴れる。他人に暴力を振るうこともあるのだが、よく見ると彼の目は涙がいっぱいだ。どうしたらよいかわからなくて、やけくそになって暴れているのがありありとわかる。

担任の先生はまじめな先生で、「それ以外の子どもたち」とはうまくやっている。でも、A君からは「死ね」などと毒づかれて、持て余している。
時々、A君の手を押さえつけて、
「A君。先生は○○しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と強い調子で怒っている。
私は目撃したことはないが、子どもたちの話によると、時々体罰ともとれることをするそうだ。

こうなるとますます彼は逆上して暴れてしまう。クラスメートからはますます馬鹿にされる。地団太を踏んで泣き叫ぶ。このような「特別な配慮を必要とする子ども」であるA君を見ていて、ふと北朝鮮のことを考えた。

北朝鮮首脳にA君のような優しさがあるかどうかは疑問だが、怯えてやけくそになって暴れている国に対して、
「○○さん。私たちは××しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と正論を強い調子で言うことに、どういう効果があるのだろうか。北朝鮮は「特別な配慮が必要な国」なのである。

他の生徒や保護者が見ている前で、生徒をきちんとコントロールできているところを見せなければという先生の「メンツ」に、馬鹿にされたままではおさまらないA君の「メンツ」。
これを収められなければ学級崩壊するのではないかという先生の「恐怖」と、ここで素直に言うことを聞いてしまうとそのままなめられるのではないかというA君の「恐怖」。

ここでも「怖れ」の綱引きが行われている。どちらかが怖れを手放さない限り、事態は取り返しのつかない方向に進んでいく。また、怖れは周りに伝染し、A君を口汚くののしることすら正当化されるような雰囲気が生まれていく。

先生とA君の関係では、怖れをまず手放さなければならないのは、もちろん教育者である先生の方だろう。これは誰でも納得できる話だと思う。

では、「特別な配慮が必要な国」北朝鮮の場合はどうなのだろう?
政権が崩壊することだけを恐れ、米国からの攻撃を恐れている政権が「怖れ」を原動力に行動していることは誰の目にも明らかだろう。その「怖れ」をさらに煽るアプローチは、危険な方向にしかつながらないはずだ。また、北朝鮮がまず態度を改めるべきだというのは、先生ではなくまずA君が態度を改めるべきだと言うのと同じくらい、現実を見ていない考え方だと思う。

何を甘いことを言っているのだ、これだけ手を尽くしても破壊的な行動しかとれない北朝鮮ではないか、という意見が出てくるかもしれない。でも、一番のカギを握りながらこの間一貫して一対一の協議に応じてこなかった米国ひとつみても、「手を尽くした」とはとても言い難い。すでに米国ではブッシュ政権の怠慢を問う声が上がっている。

怖れにエネルギーを供給するのは他者の怖れだ。まずは、私たちが、「怖れ」の綱引きから離脱しなければならないのではないだろうか。

これは北朝鮮に対して何もするなと言っているわけではない。「怖れ」を動機に行動すべきではないというだけのことだ。

そもそも、A君に対する先生の「怖れ」の背景には、A君のような子をどうやって理解し扱ったらよいかという専門知識の欠如がある。先生にはぜひそれを学んでほしい。そして、各国首脳、特に安倍首相にも、そのような専門知識を学ぶことで怖れを手放してほしいものだ。その専門知識を「外交」と呼ぶのではないだろうか。