アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(5)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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6週間の終わりに、ジェリーとグロリアとパットと私は、子どもたちが私たちの教師になってくれたことに対して、お礼のカードにサインをし、5ドル札を封筒に入れました。私たちにどれほどのものを与えてくれたかを、子どもたちに伝えたかったのです。子どもたちは、まさに異口同音に「もうおしまいにしなければならないの?」と言いました。これは完璧な質問でした。なぜかというと、私たちも終わりにしたくないということをとてもよくわかっていたからです。私たちが合意したのは、皆にとって役に立っている限りは続けようということと、皆がこれほどたくさんのものを受け取っているときにやめる理由はないということでした。これは12年前のことです。そしてアティテューディナル・ヒーリング・センターが生まれたのです。(訳注:センターができたのは1975年)

私たちのグループは、それから数年間にわたって続きました。小さいグループでした。私たち皆が定期的に同じやり方で参加しました。私たちは愛を分かち合いました。無条件の愛で、お互いに与え、受け取り、サポートしたのです。そして、やり方はほとんどいつも同じであっても、グループはいつも生き生きとしてワクワクするものでした。いつも何かしら新しいものを与えました。いつも何かしら新しいものを受け取りました。

ゆっくりと、子どもたちが私たちのところに紹介されるようになってきました。医師や看護師や家族が、子どもたちの態度に違いを見出すようになってきたからです。自分たちが対処しなければならない問題について、別の対処の仕方をするようになったのです。注射、化学療法、その結果髪を失うことの心理的な影響といった問題に。

その例が、7歳のブライアンでした。ブライアンは、とても苦しい耳の癌でした。毎週病院に行くと、彼は病院全体が混乱するほどひどい騒ぎを起こしました。病院の職員は、ブライアンが来る日をとても怖れるようになりました。なぜかというと、ブライアンの泣き声があまりにも大きく、抵抗があまりにも強いので、一日のスケジュール全体が遅れてしまうからです。そして、ブライアンの騒ぎの結果、治療を待っている親たちや子どもたちの不安がどうなるかは、言うまでもありません。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(4)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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夕食を終えると、私たちは皆で輪になって座りました。1分間くらい手を握りました。これは、全ての集まりの最初と終わりに今でも行われている習慣です。仕事のミーティングであろうと、グループセッションであろうと、本当にそうなのです。

次に起こったことは、私にとって、センターの始まりのカギとなることでした。私たちは順番に、自分が怖れていることについて話しました。正直に、率直に。私は目前の怖れを話しました。それは、自分が失明するのではないかということでした。私は緑内障を患っていました。緑内障というのは、視神経を損傷するほど眼圧を高くする可能性のある病気なのです。

死についても、もちろん、話し合いました。私はそれまでに自分自身の死についても家族の死についても考えようとしたことがなかったので、子どもたちが最も深い心配事について自由に話すのを、畏敬の念をもって見ていました。

お互いに自分自身の怖れを打ち明け始めてみると、私たちには何の違いもないのだということに気づきました。大人も子どもも同じことに直面していました。子どもたちは私たちの教師になりました。子どもたちは、とても怖いテーマについて、私よりもはるかに直接的なやり方で物事に対処していました。

最初のセッションの終わりに、私たちは全員がずっと昔から友だちだったような気持ちになりました。深く気持ちを打ち明けあうことの何かが、他の何よりも人々をつなぐのです。でも、気軽な雰囲気がずっとその場を占めていたということも、大切なこととして言っておきましょう。いたわり打ち明け合う中に、笑いと愛がありました。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3)、LEFT TO TELL

★ 社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3) ★

 社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その2)で、「攻撃は不安に基づく行動」と書いたところ、「自分と違う考えの人は不安に基づいて行動していると独善的に考えるのか」という趣旨のメールをいただきましたが、もちろんそんなことを言いたいわけではありません。ここで問題にしているのは、あくまでも「攻撃」という、コミュニケーションの形であって、内容ではありません。アティテューディナル・ヒーリングでは、すべてのコミュニケーションは人と人を結びつけるためにすべきものであると考えますので、バッシングのように、相手の言い分を理解しようともせず、相手を悪と決めつけて叩くというようなコミュニケーションは、当然、アティテューディナル・ヒーリング的ではないということになります。そして、こういうコミュニケーションパターンを支配しているのが、「怖れ」であり「不安」であるということを言いたいのです。

 そうは言っても、内容も全く無関係とは言えません。例えば、選択的夫婦別姓などを考えた場合、本当に相手を理解して結びつこうとすれば、「別姓は家族の絆を壊す」などという空論を言い続けるわけにはいかないからです。また、非嫡出子の差別にしても、本当に相手の話に心から耳を傾ければ、親の事情がどうであれ、子どもは一人の人間として生まれ、成長し、周りの人たちと関わっているのであり、差別は差別なのだということが理解できるはずです。そして、その差別を解消するために、自分には何ができるだろうかということを考えるようになるはずです。ですから、ある人たち(特に、自分とは関係のない人たち)に、何らかの我慢や価値観を強いるような理念は、やはりアティテューディナル・ヒーリング的ではないと言え、そこには「不安」が強く根づいていると言えます。

 このあたりのことは、拙著「国会議員を精神分析する」を書いたときに、ある程度まとめました。対立軸は今や「保守か革新か」にあるのではなく、「共感か共感の欠如か」にある、ということ、そして、共感の欠如の裏側には不安があるのだということ、これが拙著の主張ですが、当時はまだ知らなかったアティテューディナル・ヒーリングと全く同じ考え方です。

 さて、社会正義になぜアティテューディナル・ヒーリングなのかと言うと、不正義の背景に不安がある以上、こちらも不安に基づく行動をしている限り、事態は悪くなる一方だからです。不安に基づく行動というのは、「逃避」「防御」「反撃」ということになりますが、どれも、事態の改善に結びつかないということは、皆さまも経験的にご存知のことだと思います。強烈な反撃をして、一見うまくいったように見えても、その火種は必ずくすぶっているものです。相手が攻撃してくるときに、怖れを抱かないのはなかなか訓練のいることですが、「攻撃」という相手の「不安」に反応するのではなく、不安によって覆い隠されている本当の相手に働きかけることが重要なのだと思います。

★LEFT TO TELL(伝えるために一人生き残った)★

 社会正義に関連して、最近読んだ本の中でとても感動した一冊に、LEFT TO TELL(伝えるために一人生き残った)という本があります。これは、ルワンダの最悪の虐殺を生き残ったイマキュレという女性が書いた本なのですが、ツチ族の彼女は、海外留学していた兄を除き最愛の家族をすべて残虐な形で殺され、自らは身動きのとれない小さなトイレに7人の女性と共に3ヶ月間隠れて生き延びました。最初の頃は、自分たちを虐殺したフツ族を全て殺して仕返しをしてやりたいと思う彼女ですが、もともと敬虔なカトリックとして育ったこともあり、身動きのとれないトイレで祈りを続けるうちに、最終的には、許しの境地に達します。そして、解放後には刑務所を訪れ、自分の母と兄を虐殺した犯人に「あなたを許します」と言うのです。これだけの残虐を経験し、絆の強かった家族を失い、自らも、何度も殺される恐怖をくぐってきた人ですから、その道のりは簡単なものではありませんでした。でも、許しあうことによってしかルワンダは正常化しないし、許すことによってしか心の傷は癒されないという彼女の信念は揺るがないものになっています。

 隠れていたトイレから脱出してフランス軍のキャンプに保護された彼女は、その指揮官から、「フツ族は邪悪だ。復讐したい奴がいたら殺してやるから、家族を殺した人間の名前を言え」と言われますが、殺し屋と指揮官に同じにおいを嗅ぎ取った彼女は、もちろん同調しませんでした。自分が求めるのは新たな殺人ではなく平和である、と指揮官の提案を退けたのです。

 真の「許し」を学ぶためにも、また、もちろんルワンダの虐殺について知るためにも、さらには、内戦国にとって外国からの援助がどう映ったのかを知るためにも、とても勉強になる一冊です。アメリカでもこの2月に出版されたばかりの本ですが、日本語訳を早く実現するように、こちらの出版社の方とやりとりしています。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(3)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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このプロジェクトが終わった2週間後、ジェリーはもう6週間プロジェクトをやるつもりがあるかと私に尋ねました。「癌の子どもたちと一緒にやるつもりはある?」とジェリーは言い、続けて、自分は死に直面するような子どもたちのために仕事をするようにという強い内なる導きを得たのだと言いました。当時、ジェリーは自分が死ぬことをとても怖れていました。私はと言えば、死の話題を感情的に避けていました。ジェリーはここに何か大切なことがあるのだということを心の中で知っていたのです。

私はそのプロジェクトが怖いと思いました。たった6週間のことだと自分に言い聞かせ、その間、参加している子どもたちに何も起こらないようにと望みました。それまで、重い病気の子どもが身近にいたことがなく、私は、率直に言って、とても怖かったのです。

4人の人たちが参加しました――ジェリー・ジャンポルスキーと、パット・テイラー(この計画のコーディネーター役)、グロリア・マーレイと、私です。私たちはまず子どもを見つけなければなりませんでした。私たちは医師や友人に尋ね、参加の意思がある子どもたちを、望んでいた数だけ見つけました。今度もまた、6名の子どもたちが選ばれました。それから私たちは子どもたちと親に連絡を取り、家を訪問してプロジェクトについて話し合いました。この実験の結果、他のたくさんの子どもたちが恩恵を被るかもしれないということを話し、協力を求めました。この子どもたちは、これからの6週間、私たちがお互いにどうやって助け合えるかを知るために週1回集まる気になってくれるのでしょうか? 言うまでもなく、全ての子どもたちと親たちが、参加に同意してくれました。

1975年の夏に、私たちの最初の集まりが持たれました。私たちはまだ「埠頭レストラン」の下の部屋に集まっており、まだ集まりの名前がありませんでした。ジェリーとパットとグロリアと私は皆そこにいました。私たちは夕食を用意しました。サラダ、スパゲッティ、フランスパン、そしてデザートにはクッキーを。夕食は、緊張を解くのには完璧でした。私たちは皆少し緊張していたのです。日程表を作っていなかったので、何が起こるのかもよくわかりませんでした。集まりの時間は2時間と決めてありました。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(2)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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 私はこの考えに夢中になり、実験に喜んで参加したいと言いました。私たちはバイオフィードバックの道具を使い、結果が私たちにも子どもたちにもよくわかるようにしました。これは6週間の計画でした。ジェリーは6名のボランティアの大人たちと6名の子どもたちの協力を得ることができました。私たちは6週間続けて、火曜日の放課後に、ティブロンのジェリーの診療所の隣の「埠頭レストラン」のすぐ下にジェリーが借りた部屋で会いました。それぞれの大人が一対一で子どもに対応しました。

 最初のプロセスは、子どもたちの指に装置をつけて、想像を働かせることによって手の温度を上げたり下げたりできるようにさせることでした。たとえば、私が、担当している7歳のブラッドに、手が温かい水にひたっていると思い描いたり、あるいは反対に、冷たい水に入っているとイメージしたりしてごらんと言います。全く何の問題もありませんでした。彼は最初のセッションでこれができるようになり、他のほとんどの子どもたちもそうでした。

 私たちのどちらも、これが目の前で難なく実際にできるのを見てワクワクしました。それは自然なプロセスだったのです。次のステップは、「ブラッドの人生に起こっていることで変えたいことは何?」ということです。最初に取り組んだのは、野球をするときの恥ずかしさでした。打席に立ってみんなの注目が集まると、とても緊張してしまうのです。彼は固まってしまい、ボールを打つなどほとんど不可能な状態になってしまいます。私たちは野球場における彼の状況に、バイオフィードバックの技術を使うことができました。ブラッドが打席に向かって歩き、バットを振り、ボールをしっかりと高く打っている姿をイメージするようにしました。私たちは、共通の目標に向かって、遊びながら、楽しんでやりました。この練習が終わる頃には、よい結果が出るだろうという自信を二人とも持っていました。次の週、ホームランを打ったというニュースをもって現れたのは、喜んで、やすらいでいるブラッドでした。

 6週間のセッションの間、私たちはたくさんのことに取り組みました――読み方、うまくいっていない友達との関係、父親に関する問題など、ブラッドが取り組んできた主だった問題は全てです。追跡調査をしてみると、その結果は長く続いていました。子どもたちは技術を自分のものにし、生活で必要になったときに自分で応用できるようになっていたのです。私は、良い友情が築けただけでなく、多くのことを学ばせてもらったこの実験プロジェクトが終わってしまうのが残念でした。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(1)

 パッツィ・ロビンソンの翻訳ですが、前回までで「アティテューディナル・ヒーリングの原則」のご紹介は終わりました。この冊子は2部構成になっており、後半は、センター誕生の経緯が書かれています。これもなかなか興味深いものですので、引き続き、ご紹介します。

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アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生 カリフォルニア州、ティブロン

アティテューディナル・ヒーリング・センターは1975年にジェラルド・ジャンポルスキー博士によって創設されました。ジャンポルスキー博士は、ジェリーと呼ばれるのを好みますが、当時、サンフランシスコ湾を見渡すカリフォルニア州ティブロンの魅力的な場所で開業をしている精神科医でした。彼は、いろいろな手法のよいところを取り入れるタイプの精神科医だと考えられていました。バイオフィードバック、催眠療法、リラクゼーションの技術をはじめ、彼が必要だと直感したものは何でも利用していました。彼の専門は、学習障害を持つ子どもたちでした。

私の息子マイケルが失読症で苦しんでいたとき、私は必死で助けを求めていました。マイケルは9歳で、私の家庭の状況は悲惨でした。1971年、自分たちが深刻な状況に陥っており、抜け出せる見通しがないと思ったときに、私はジェリーを紹介されました。ですから、私たちは怖れおののきながら、ティブロンの小さな診療所に毎週通い始めたのです。息子は良くなり、治療をやめましたが、私は通い続けました。自分自身について学べるという期待にとてもワクワクしていたのです。私は1950年代にバークレーで心理学を学んでいましたが、それが今新たな魅力を感じさせたのです。過去には私の心理学の焦点は他人を理解することにありましたが、今度は自分についての気づきを深めるためのものとして見るようになりました。

治療は私をすばらしく目覚めさせました。私が自分自身について探り学び始めると、人間の成長には限界がないということに気づいてきました。本当のことを言うと、それはとても苦しいプロセスでしたが、それだけ得るものも大きいものでした。

アティテューディナル・ヒーリング・センターはスピリチュアルな方法で作られました。数ヶ月前に、ジェリーは「奇跡のコース」という読み物を紹介されました。彼はこれに深く感動しました。それを読んだ瞬間から、彼のスピリチュアルな変化が始まりました。彼が学んだことについて話してくれるのを聞いて、私も惹きつけられ、もっと詳しく話してくれるようにと常に質問をしました。この時点では、私は「奇跡のコース」のコピーを持っていませんでした。手に入らなかったからです。でも、ジェリーは自分が学んでいることの全てを喜んで教えてくれました。そしてその過程で、彼も自分自身の経験を強化したのです。

実は、現在知られているアティテューディナル・ヒーリング・センターが作られる前に、ジェリーは私に、ある実験の計画に参加する気があるかどうか尋ねてきました。それは、地元の私立学校の低学年の健康で活発な子どもたちを対象に行われるものでした。ジェリーは、この子どもたちが、外で何が起こっていようと自分の内面をコントロールできるようになるかどうかを知りたかったのです。毎日の生活を送りやすくなるように、ものの受け止め方を実際に変えられるのかということを知りたかったのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その2)

 私が大部分の時間を過ごしているサウサリートのセンターでは、アティテューディナル・ヒーリングは、病気を持つ人、死を迎えようとしている人、愛する人を亡くした人、虐待を含め不適切な養育を受けた人、などを主な対象としていますが(この4月から、「家族を戦争に出している人」のグループも始まりました)、オークランドのセンターの中心的なテーマは社会正義です。私自身は、むしろこちらの方に高い関心があります。なぜかというと、差別などの問題を解決していくにあたって、アティテューディナル・ヒーリングのアプローチは、私が現在唯一有効だと思えるものだからです。私が国会での活動を通して身をもって学んできたことのエッセンスでもあります。

 前回ご紹介した原則の12「どんな人も、愛を差し伸べているか助けを求めているかのどちらかととらえることができる」というのは、個人的な人間関係においても役立ちますが、政治活動などをするときには特に役に立つ考え方です。自分を攻撃しているように見える人は、実は助けを求めて叫んでいる人に他ならない、ということです。私自身、アティテューディナル・ヒーリングに出会う前に、このことには気づいていました。拙著「国会議員を精神分析する」にも、人の話を聞こうとしない人の不安の強さについて書きましたが、現在日本で大きな問題になっているジェンダー・バッシング(男女共同参画の流れに対する揺り戻し現象)なども、まさに不安に基づく行動です。

 「バッシング」などは、一見すると「攻撃」に見えます。私も、男女共同参画や平和を目指す言動について、いろいろな「攻撃」を受けてきました。でも、私は自分が「攻撃」されているとは考えず、相手の「不安」としてとらえるように努めてきました。そうすれば、自分がぐらつかないのはもちろんのこと、相手が理解可能な存在になりますし、歩み寄りが可能になります。

 相手の「攻撃」を攻撃としてとらえてしまうと、今度はこちらの不安が喚起されます。そして、逃げるか、反撃するか、という形をとることになります。どちらも、問題解決をますます難しくしていきます。
 国会にいたときに、私の法案修正率が高かったのは、基本的にこの姿勢をとっていたからだと思います。

 オークランドのセンターの代表であるアイーシャは、まさに「攻撃」に対して愛を返してきた人です。彼女は様々な差別にあってきました。例えば、孫娘が生まれたときに、貸しオムツのサービスを受けようとしたら、(黒人が多く住む)治安の悪い地域だから配達できない、と言われたとき、彼女は怒るのではなく、心の平和を保ちながら、担当の女性に「あなたが初めて赤ちゃんを産んだ母親だったら、どう思う?」と語りかけ、最終的にオムツの配達を可能にしました。また、中華料理のレストランで、黒人にはサービスをしないと断られたときにも、怒らず、「あなたがサービスしたくないと言うのなら、それはあなたの選択でしょう。でも、あなたの言動から、この店の若い従業員たちがどういうことを学ぶか、考えてみてください」と語りかけ、最終的には求めていたサービスを受けました。

 こうした差別を受けたときに、アイーシャが(正当な)怒りを相手にぶつけていたとしたら、どうなったでしょうか。相手との溝はますます深まったでしょう。そして、相手に、人種問題を考え直させる機会を与えることもできなかったでしょう。

 これらの感動的なエピソードが詰まった「Beyond Fear(怖れを超えて)」という著書は本当にお勧めです。人種問題の解決はここにしかないだろう、という気持ちにさせてくれます。日本語に翻訳できれば良いのですが、どちらか関心のある出版社をご存知でしたらご紹介ください。(日本の出版界の景気の悪さは、良書の紹介をどんどん難しくしていると思います。)

 社会正義とアティテューディナル・ヒーリングについては、また次回にも続けます。
 

アティテューディナル・ヒーリングの原則12

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12 どんな人も、愛を差し伸べているか助けを求めているかのどちらかととらえることができる。

この原則は、人間関係の中で利用できる並外れた道具です。人とやりとりするときにこの原則を頭に入れておくことができれば、人間関係をより望ましい形にすることができるでしょう。人間関係の中で、相手が私たちに愛を差し伸べているのだということが明らかである場合、ふつう、何の問題も起こらないものです。愛とサポートの気持ちを受け取り、愛とサポートで応えることができます。何の葛藤も感じませんし、問題は難なく解決するように見えます。

 反対に、何らかの理由で自分が攻撃されていると感じる場合には、防衛の姿勢をとり、逃げるか攻撃し返すかをしがちです。逃げる姿勢で反応しても、戦う姿勢で反応しても、行動につながります。これは、自分を傷つけずに守るように学んできた、条件反射なのです。私たちを攻撃しているように見える人を、怖れから行動している人だと見ることができるようになると、その状況の力動について全く新しい次元で見ることができるようになります。
この原則を、他の原則と共に、さらに発展的に利用できるようになるために、まず自分の心の焦点を変えるところから始めましょう。どういうことかと言うと、ここでもまた、自分の気持ちについて責任をとり、ストレスが起こる瞬間に私たちに起こる反応について他人のせいにしない、ということです。

 私たちが責任を持っているのは自分自身の心の平和であって、他の人のことではありません。人の話を聞くときにこの原則に焦点を当てていれば、攻撃に見えるものが、実は、怖れの表現であり助けを求める声だということがわかるでしょう。そうなると、他の力動が起こり始めます。その瞬間に私たちが自己防衛をしなくなると、エネルギーに変化が起こり、「攻撃者」はそれを感じます。私たちの受け止め方の変化によって新たな力動が起こる余裕ができたため、はじめと同じような切迫感は続かなくなります。この新しい力動は私たちの人間関係のパターンと質を変えていきます。

 これらの原則がきちんと働くようにするには、まず、自分の考えのパターンについて完全な責任をとることを選びます。常に、しっかりとした意識を持っていられるようにします。怖れが現れてくるのは過去や未来なのですから、「今」に生きることは、アティテューディナル・ヒーリングにとって肝心なことです。

 怖れというのは愛と正反対のものであり、両方の枠組みの中で同時に生きることは不可能です。愛の中で生きたいのであれば、過去のものも未来のものも怖れを手放すことによってそれが可能になります。実は、この瞬間にこそ、私たちにはそれができるのです。どういう状況に置かれているとしても。この瞬間に生きることによって、私たちは何が起こっても対処することができます。それが感情的な、身体的な、スピリチュアルな痛みであっても。

 私たちの心を再訓練し始めるには、アティテューディナル・ヒーリングの12の原則のリストを、いつでも目にできるよう持ち歩くと良いでしょう。難しい状況になったら、私たちは直ちに問題の焦点を変えることができるのだということを認識することが大切です。私たちは、望むときにはいつでも役に立つ原則をどれでも選ぶことができます。原則を全て読んでも良いですし、起こっていることと関係のあるものを一つ選んでも良いのです。どのように原則を使おうとも、私たちは自分の態度をすぐに変えることができ、その結果として外で起こっていることの力動を変えることができるのだということがわかるでしょう。外側の状況は実際には変わることも変わらないこともあるでしょうが、私たちの受け止め方を変えることによって、世界を違うふうに見たり感じたりすることができるようになります。

 アティテューディナル・ヒーリングは、やる気と、自覚と、率直さと練習を必要とします。必要なのはそれだけです。失敗のように見えるものによってやる気をなくさないことが重要です。それは、私たちが道を歩んでいく上での学びのための経験にすぎないのです。私たちに起こることは全て、私たちの学びのために起こるのです。そして、そこから、私たちは、学びが決して止まることがないように改めて選ぶことができるのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その1)


 日本はゴールデンウィークだと思いますが、こちらは通常の週末で、それも、センターのトレーニングと、娘の学校の資金集めのボランティア(地元のサウサリート祭りにホットドッグ屋さんを出しています)で、忙しい週末になっています。
 
 この頃私はサウサリートのセンターだけでなく、オークランドにあるアティテューディナル・ヒーリング・センターも訪問しています。日本からはなかなかイメージできないのですが、このベイエリアは、サンフランシスコだけでなく、オークランド、バークレー、スタンフォード、という有名な場所が近くにあって、車で楽に行き来できます。治安が極めて良いマリン郡(私が住んでいるところ)に比べて、オークランドは犯罪の発生率が高いことで有名ですが、なかなか魅力的なところです。

 さて、私がオークランドのセンターに出入りしている理由ですが、それは、オークランドのセンターが、「社会正義」に力を入れているユニークなセンターだからです。オークランドのセンターの代表は、ココモンとアイーシャという黒人のカップルです。アイーシャはアメリカ南部に生まれ、バークレー大学時代に人種差別の激しさからブラック・ムスリム運動に目覚めた女性ですが、後にアティテューディナル・ヒーリングと出会います。白人を敵とみなすブラック・ムスリム運動から、愛と許しのアティテューディナル・ヒーリングへと軸足を移したアイーシャの半生は、「Beyond Fear」という著書で大変うまく描かれています。

 一方、夫のココモンは、アフリカ・ガーナ生まれで、アメリカに移民してきた人です。オークランドのセンターには、「アフリカ太鼓の瞑想」というグループがありますが、これはココモンなくしてはできない活動です。

 今までアメリカの良い面を主に書いてきましたが、悪い面もたくさんあります。その一つが、明らかに、人種差別です。アメリカの中でも最も多様性に富んだカリフォルニアにあっても、特に黒人に対する人種差別は根強く感じます。(ちなみに、私がいろいろなアメリカ人にヒラリー・クリントンが初の女性大統領になると思うかと尋ねると、ほとんどの人が否定的ですが、「女性が大統領になる日」と「黒人が大統領になる日」とどちらが先かという議論を持ちかけると、かなり議論が沸騰します。つまり、どちらも未だにかなり差別されているということなのです)

アイーシャとココモンは、人種差別を「致命的な病」と呼んでいます。確かに、暴動で命を落とす人もいるし、黒人だという理由だけで(それもしばしば冤罪で)警官の銃弾に倒れる人もいるし、人種問題で命を落とす人は少なくありません。また、黒人に生まれたゆえに、自尊心の問題を深く抱えて自殺する人もいます。確かに「致命的な病」です。

そして、この「致命的な病」に対して、アティテューディナル・ヒーリングのアプローチこそが有効なのだ、ということを訴えています。
この話は次回に続けたいと思いますが、ちょうどアティテューディナル・ヒーリングの原則12が関係のある話題ですので、以下にパッツィ・ロビンソンの翻訳を紹介します。社会正義とアティテューディナル・ヒーリングについては、次回に続けます。
 

アティテューディナル・ヒーリングの原則11

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則11です。アティテューディナル・ヒーリングの創始者ジャンポルスキー博士は、自分の死をとても怖れていたといいます。原則の紹介は次回12で終わりますが、その後、センターの初期についてパッツィの回想が続きます。原則11については、その回想とあわせて読んだ方が理解しやすいかもしれません。今では、ジャンポルスキー博士は、「死とは身体をわきに置くこと」と明言しています。東洋の輪廻転生思想に馴染んでいる方にはあまり意外ではないかもしれませんが。

 私自身、原則11だけはまだ「理解しようと努めている」段階ですが、センターで、子どもを失った母親が、「生きていたときよりも愛が強まったような気がしている。いつも娘は私と一緒にいる」と言っているのを聞くと、説得力があります。

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11 愛は永遠のものなので、死を怖れる必要はない。

この原則をうまくとらえるために、原則の1に戻りましょう。「私たちの本質は愛であり、愛は永遠である。」命が永遠であると信じれば、死への怖れはなくなります。私たちの本質である愛は続き、新たな形に入るだけなのだという考え方を強めれば、死への怖れを消すことができます。死への怖れを消すことができた分だけ、私たちは今このときに完全に生きることができるようになります。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)