アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(3)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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このプロジェクトが終わった2週間後、ジェリーはもう6週間プロジェクトをやるつもりがあるかと私に尋ねました。「癌の子どもたちと一緒にやるつもりはある?」とジェリーは言い、続けて、自分は死に直面するような子どもたちのために仕事をするようにという強い内なる導きを得たのだと言いました。当時、ジェリーは自分が死ぬことをとても怖れていました。私はと言えば、死の話題を感情的に避けていました。ジェリーはここに何か大切なことがあるのだということを心の中で知っていたのです。

私はそのプロジェクトが怖いと思いました。たった6週間のことだと自分に言い聞かせ、その間、参加している子どもたちに何も起こらないようにと望みました。それまで、重い病気の子どもが身近にいたことがなく、私は、率直に言って、とても怖かったのです。

4人の人たちが参加しました――ジェリー・ジャンポルスキーと、パット・テイラー(この計画のコーディネーター役)、グロリア・マーレイと、私です。私たちはまず子どもを見つけなければなりませんでした。私たちは医師や友人に尋ね、参加の意思がある子どもたちを、望んでいた数だけ見つけました。今度もまた、6名の子どもたちが選ばれました。それから私たちは子どもたちと親に連絡を取り、家を訪問してプロジェクトについて話し合いました。この実験の結果、他のたくさんの子どもたちが恩恵を被るかもしれないということを話し、協力を求めました。この子どもたちは、これからの6週間、私たちがお互いにどうやって助け合えるかを知るために週1回集まる気になってくれるのでしょうか? 言うまでもなく、全ての子どもたちと親たちが、参加に同意してくれました。

1975年の夏に、私たちの最初の集まりが持たれました。私たちはまだ「埠頭レストラン」の下の部屋に集まっており、まだ集まりの名前がありませんでした。ジェリーとパットとグロリアと私は皆そこにいました。私たちは夕食を用意しました。サラダ、スパゲッティ、フランスパン、そしてデザートにはクッキーを。夕食は、緊張を解くのには完璧でした。私たちは皆少し緊張していたのです。日程表を作っていなかったので、何が起こるのかもよくわかりませんでした。集まりの時間は2時間と決めてありました。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)