安倍政権誕生に政治を思う

 安倍政権がスタートしました。すでに、いろいろな形での懸念が表されています。それらの懸念は私も共有しており、特に、外交、教育、男女共同参画という面では期待できないどころか、さらに破壊的な方向に進みうると思います。日本の政治は今、暗雲に包まれていると言っても良いかもしれません。戦後の民主主義への努力が、すべて白紙に戻されてしまうかもしれないのです。

 この安倍政権に対して、どういう心の姿勢をとったら良いのか、ということを考えてきました。

 まず、安倍政権の誕生ですが、私にとっては何の驚きもありませんでした。昨年の総選挙の結果が出た時点から十分予想されていたことであり、「来るべきものが来た」という気持ちです。今回「大変だ」と言っている人の中には、昨年の総選挙で民主党を強く批判し小泉支持を表明していた人もいます。自らの言動が安倍政権につながる可能性を全く考えていなかったとしたら、やはりあれは熱病のような選挙だったと言えるのかもしれません。

さて、私にとっては驚きのない安倍政権ですが、だからと言って簡単に受け入れられるものでもありません。ただ、明らかに「怖れ」が原動力になっている安倍政権に対して、怖れをもって対抗することほど効果のないことはないと思います。ですから、攻撃をしたり、馬鹿にしたり、絶望的になったり、というアプローチはいずれも望ましいものではないと言えます。

そもそも、安倍政権はこの日本に突然変異で生まれた政権ではありません。どんな政権も、突然変異で生まれるということはないと思います。小泉政権ですら、そうでした。私は自分自身が選挙で選ばれるという体験を通して、政治というのは実に国民の「身の丈」を表すものであり、選挙というのは大雑把だけれども有権者の意思を案外正確に表すものだということを痛感してきました。利権政治ですらそうなのです。戦後の日本で、お金を稼ぐことに最大の価値が置かれてきたことは否定しがたい事実だからです。小泉政権は、「この希望のない、不公平な世相を突破するために、とにかく破壊したい」という人々の願望を反映して誕生しました。小泉さんはそういう願望を増幅しましたが、創造したわけではありません。

 安倍政権は、ここのところの「なんとなく右傾化」という傾向を反映して生まれてきたのだと思います。筋金入りの右翼でもない。そもそも、自分の言動が「右」に分類されるなどという認識もない。でも、「そりゃあ、自虐はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、美しい国は大切だろう。誰が美しくない国に住みたいだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、教育改革は大切だ。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、過激な性教育はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」という具合に、自分の目で確かめず、あまり深く考えずに「なんとなく右傾化」なのです。

こういう傾向はここのところかなり顕著になってきており、いつか直視されなければならないものになってきていました。安倍政権に価値があるとすれば、それを検証する機会を与えてくれるということなのでしょう。これは、日本が前に進むためにはどうしても踏まなければならないプロセスです。「なんとなく右傾化」の人がこんなにたくさんいる中で、これ以上の民主主義の成熟は望めないと思うからです。

私たちにできることは、この「安倍的なるもの」の検証作業が前進のために必要なものであって、長い目で見れば私たちは前に進んでいるという認識を持つこと、つまり、絶望的にならないことだと思います(絶望的になると何もできなくなってしまいます)。そして、「なんとなく右傾化」の人たちの怖れをさらに刺激することなく、怖れをできるだけ手放してもらえるようなアプローチを考えていきたいと思います。「こんなこともわからないの?」という姿勢だけは、くれぐれもとってはいけないと思います。以前、同期の男性議員が、男女共同参画に詳しい女性議員の議論を聞いて「男女共同参画を専門的に勉強したわけでもない自分の劣等感を刺激される」とぼやいていましたが、「保守的」と言われる人たちの一面には、そんな気持ちもあると思います。

怖れを認めて手放してもらうための重要な柱として、現在アティテューディナル・ヒーリング活動を通してやっている、「一人一人が自分の心の姿勢の選択に責任を持つ」という意識を広められるだけ広めたいと思っています。