本のご案内・原口一博さんの「平和 核開発の時代に問う」

原口一博衆院議員(民主党)が、ご著書「平和 核開発の時代に問う」を送ってきてくださいました。

いろいろな方との対談を軸に作られている本ですが、私もその一人だからです。
アティテューディナル・ヒーリングに大変関心を持たれて、話を聞きに来てくださいました。

原口さんは大学で心理学を専攻され、関心領域が私と近い方です。虐待や暴力の問題にも大変敏感で、私から見て好感度の高い国会議員の一人です。

私自身は今の自分の役割は政治の外にあると思っていますが、原口さんのような方にはぜひ引き続き政治の世界でがんばっていただきたいと思います。

以下が、本の概要です。対談相手の人選が、原口さんらしいユニークさであるのもポイントです。

「平和 核開発の時代に問う」 原口一博著

第1章 「平和」の原点

第2章 隠されたヒバクシャ 対談 高橋博子氏(広島市立大学広島平和研究所助手)

第3章 なぜ、北朝鮮に核開発を許してしまったのか 対談 佐藤優氏(起訴休職外務事務官)

第4章 領土交渉と外交の立て直し 対談 佐藤優氏(前出)

第5章 テロを生む土壌

第6章 怖れから生まれるものと愛から生まれるもの 対談 水島広子

第7章 日本の核保有がいかに無益で危険か 対談 石破茂氏(自民党衆院議員)

第8章 歴史に正対する力

第9章 危機管理と安全保障 対談 長島昭久氏(民主党衆院議員)

第10章 エネルギーをめぐる戦いと気候変動の危機 対談 中川修治氏(「太陽光・風力発電トラスト」運営委員)

第11章 真実にフタをしない政治 対談 河野太郎氏(自民党衆院議員)

第12章 人間の安全保障 対談 枝野幸男氏(民主党衆院議員)

第13章 「教育」こそが貧困と怖れをなくすもの

第14章 核廃絶への道 対談 梅林宏道氏(NPO法人ピースデポ代表・太平洋軍備撤廃運動コーディネーター)

ゴマブックスから1800円+税 です。

「どうする? 日本のお産」のご案内

全国的に広がる産科医院の閉鎖、産科医・助産師不足など、マスコミでも注目されている日本のお産の深刻な現状ですが、本当に産む場所が消えてしまわないようにと、いろいろな方たちが行動を開始しています。
以前このメルマガでもご紹介した「どうする? 日本のお産」ですが、全国8ヵ所でリレー企画を続けてこられ、いよいよファイナル・ディスカッションが東京で開かれます。
ご関心のある方はぜひご参加ください。

日時:2006年12月17日(日) 10:30-16:00

場所:港区男女平等参画センター(リーブラ)

参加費:1000円

参加申し込みなど詳しくは http://do-osan.socoda.net/ をご覧ください。
お子さま連れも可だそうです。

難民支援・今野東さん

11月22日(水)、元衆議院議員今野東(こんの・あずま)さんの難民支援チャリティー寄席に行ってきました。
私と同期当選だった今野さんですが、2003年の総選挙における選挙違反(宮城県)のけじめをつける形で議員辞職されました。
同期当選組の中では貴重な平和主義・リベラル議員でしたから引き続き親しくさせていただいております。

議員辞職後も、現職時代からの重点領域であった難民支援活動を続けておられ、難民支援基金・理事長を務めておられます。

====以下、今野東さんの「ご挨拶」より抜粋====

2005年度、難民認定を申請した人は384人、そのうち難民として認定された人は42人だけです。2004年度は426人の申請に対して15人の認定ですから、いくらかよくなったという評価もあるかもしれませんが、難民認定手続きが極めて不透明である事には変わりがありません。

難民認定は法務局の入国管理局が行いますが、そもそも入国管理局は、不法に入国する者がいないかどうかをチェックする役所ですから、難民は保護しなければならないという前提に立っての認定業務とは矛盾しがちです。よって難民申請する人々には冷たい対応になってしまうという問題があります。

自由を求めて日本に逃れてきた人々は、日本の硬直した難民行政のもとで希望を見出せない状況にあります。多くの方々は刑務所同然のところに収容されていますし、そこから仮放免される場合も保釈金のような性質を持った保証金を要求されます。上限30万円の保証金を要求するのは、命からがら迫害の祖国から逃れてきた方々にはあまりにも過酷です。難民の方々の暮らしを公的に支援する制度もない現状では、誰かが救いの手を差し伸べなければなりません。

=====以上、今野東さんの「ご挨拶」より抜粋====

今野さんはもともとアナウンサーですが、1997年に東北弁の話芸の確立を目的に東方落語を設立しました。以来、毎月の定期会はもちろん、全国で精力的に高座をつとめています。

22日のチャリティー寄席は、収益金を難民支援のために役立てる目的で開かれたもので、今野さんに支援されてきた難民の方たちもずいぶん見かけました。

以前から評判だった今野さんの東方落語を聞くのは初めてでしたが、チャリティーという目的を忘れても、落語として本当に楽しませてもらいました。

今野東さんは、来年の参院選に民主党公認・比例区候補として立候補される予定です。難民支援にご関心のある方は、ぜひ、今野さんの活動をご支援ください。

「いわき病院事件」・矢野さん

11月26日(日)、高知在住の矢野啓司さん・千恵さんご夫妻のご来訪をいただきました。

矢野さんご夫妻は、昨年12月6日に、最愛のご子息を28歳で殺人事件によって突然失うという体験をされました。見ず知らずの人間であった犯人が、入院先の精神病院「いわき病院」からの外出中に起こった事件でした。犯人は病院から社会復帰訓練のための外出をし、100円ショップで包丁を購入し、その直後に矢野さんのご子息・真木人さんを刺殺したのです。

「精神科の患者だから責任能力は問えない」と弁護を引き受ける弁護士すらなかなか見つからない状況の中、矢野さんは絶望することなく全力を尽くして、懲役25年の実刑判決を勝ち取りました。

さらに、現在は、犯人の外出を許可した病院を相手取って民事訴訟を起こしておられます。犯人は当日の午前中に頭痛を訴えて医師の診察を求めていたにも関わらず、診察を受けられない不満が看護記録に残されているそうです。

精神障害を持つ人による重大犯罪は、衆議院議員時代の私の大きな仕事の一つでした。
「心神喪失者医療観察法案」という、世にもおかしな法案を政府が出してきたときに、民主党の対案を作って提出しました。
その柱は、責任能力を問う唯一の根拠たる精神鑑定を、現行のように安易に簡易鑑定で済ませるのではなく、鑑定センターを作ってきちんと行うということ、そして、重大犯罪を犯した患者を手厚い人手で集中的に治療できるような精神科ICUを作ること、さらには、精神科医療の質の全体的な底上げをし地域の受け入れ態勢を整えて社会的入院を解消すること、というものでした。

矢野さんの経験されたことは、まさにこれらの柱が本当に必要なものだということを裏づけています。

「精神科の患者だから責任能力は問えない」と皆が及び腰になった(中には矢野さんを嘲笑した人すらいるそうです)のも、鑑定という仕組みがきちんと機能していない証拠です。本来は精神科の患者すべてに責任能力がないわけではないのですが、精神科の診察券を持っているだけで警察が無罪放免にするなど、いい加減な運用が目についてきました。これも、精神科患者に対する一つの偏見と言えるでしょう。

また、この領域があいまいなままになってしまっていることが、「精神障害者=危険」という偏見を生み、精神障害を持つ人のノーマライゼーションが進まないという問題意識も共有することができました。

「いわき病院事件」というのは矢野さんが使われている呼称ですが、精神衛生法を精神保健法に変えるきっかけになった「宇都宮病院事件」と同じように、今回の事件が、精神科医療の質を本当に高めるきっかけになれば、という思いでそう呼んでいるそうです。

誰もが「無理だ」と言う中、矢野さんご夫婦は息子さんへの愛情ゆえに、決して諦めずにここまでやってこられました。現在の民事訴訟も、「医療過誤訴訟は、医療側が圧倒的に有利」と言われる中で、果敢に取り組んでおられます。矢野さんが作成した膨大な量の資料を見せていただきましたが、どれほどのエネルギーを傾けておられるかがよくわかりました。資料のコピー代だけでも十万円単位のお金がどんどん出て行くということで、たまたま経済的・時間的にゆとりのある自分たちだからやっているけれども、普通の犯罪被害者にここまでのことをやるのは無理だと矢野さんはおっしゃっていました。

これだけエネルギッシュな活動をされている矢野さんですが、「息子を自分の会社で働かせなければ、あの日あのときに息子があの場所にいることはなかった。そうすれば息子は殺されずにすんだ」という罪悪感に苦しまれています。未だにお墓すら作れない精神状態だそうです。

11月25日から12月1日までが犯罪被害者週間となっていますが、日本でほとんど目を向けられてこなかった犯罪被害者の現状を直視する必要があります。

また、心神喪失者医療観察法案の審議のときに厚生労働大臣が約束した社会的入院の解消期限がどんどん迫ってきているというのに、病棟の看板を「退院支援施設」とかけ替えれば退院とみなそうとするようなおかしな行政が続いています。

矢野さんの体験については、ご著書「凶刃」(きょうじん)(ロゼッタストーン刊)をご覧ください。
また、どこにでも出向いて体験をお話しになる用意があるそうです。
「凶刃」は事件からわずか2ヶ月後に出版された本で、矢野さんの生々しい悲しみと怒りに満ちていますが、そんな中でも、加害者の親も不適切な医療の被害者と言えるのではないか、という公平な視点を失っていない姿に感銘を受けました。

学校仲裁所

 米国の中間選挙の結果は、米国滞在中、振り子を元に戻す生命力を感じていた私にとっては期待通りでした。振り子が振り切れてしまいそうな日本も、生命力を身につけていかなければなりません。

 さて、前回のメルマガに関連して、北海道・恵庭市議会議員で社会福祉士の藤岡登さんから大変勉強になるメールをいただきましたので、ご本人の許可のもと、ご紹介いたします。

 ノルウェーの学校仲裁所制度についてです。

以下、いただいたメールより引用==================

 先週、ノルウェーの福祉と教育を見てきました。ノルウェーはノーベル平和賞の国だけではなく、いじめを克服した国、とも言われています。そのヒントの一つが私たちが訪問した「学校仲裁所(School Mediation , Student Mediation…)」と言う制度ではないかと思いました。この制度はノルウェーだけでなく、世界各国に見られる制度のようです。ノルウェー政府は制度の導入当初全国で導入を試みたようですが、残念、政権が変わって(労働党政権が下野しました)、そのおかげで全国への波及は進んでいないと、訪問した学校で伺いました。
 
 制度のことを簡単に書きますと、もめ事の仲裁員(Mediator)がいます。もちろん生徒です。もめ事を起こした当事者は、双方の合意によって、この仲裁所へ行きます。仲裁員は裁判官ではなく、どちらが良いか悪いかの裁定をするものではありません。仲裁所のルール(①あったこと事実だけを言う②相手のことを悪く言うことから始めない③相手が話しているときに口を挟まない④相手を理解するよう努力する・・・などなど)に従って話し合いが行われます。仲裁員はこのルールが守られて話し合いが進められように、のウォーッチャーであり話し合いのファシリテーターです。大人は一切口を出しません。ここで劇的なことが起こります。話し合いを進めている内に、「相手によって傷ついたのは自分だけではない」事にお互いが気づくのです。

「相手のことを理解するように努力する」というルールは、とても大事なことのように思えました。この気付きで双方は、もめ事の時の自分たちよりも一段高いステージに自分たちを押し上げることになります。話し合いは自然に、「では同じもめ事が起きないためにはどうしたらよいか?」を提案し合うステージへと移ってゆきます。合意が出来たら文書化して双方と仲裁員がサインして終わりです。後日、話し合いの通りに進んでいるかのどうか、仲裁員に報告を求められることもあります。

 ここで大事なのは、大人が一切関与しないことです。もちろんノルウェーでも、もっと大きないじめや暴力も実際にはある、と聞きました。しかし、こうした積み重ねで、低学年のうちは仲裁所へ行って解決することが多くても、高学年になるとその場で、自分たちで問題を解決する様になるそうです。実際、この10年ほどの間で仲裁所に持ち込まれる件数は半減した、と説明を受けました。

 子どもは、「自身で問題を解決する力」を育てれば、大人に頼ることなく自分たちでもめ事を解決するようになります。これまで日本では、もめ事が起きたときに先生など大人が割って入って「ケンカは止めろ」と言ってきました。その場は収まっても、大人がいなくなると又、もめ事をぶり返すことになります。この過程で強いものがいじめて、弱いものがいじめられる構造が出来上がってゆきます。教育再生会議のように、ここにもっと強い大人が入り込むのですから子どもたちはこれをどう受け止めて新しい反応を示してゆくのでしょう? 不安ですね。
 
 学校仲裁所で、しっかりもめ事を解決する力を身につけた子どもたちが将来、政治家になったり外交官になったりしたら・・・あらゆる紛争は話し合いで解決できるよう、人類は新しい一歩を踏み出すことになるのではないでしょうか。ノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥングの言う、「社会制度としての戦争を廃止しなければならない。専制政治や奴隷制、選民思想や植民地主義や家父長制などと一緒に歴史の排水溝に流してしまえ!」と言う社会が実現することになります。

=============引用終わり

 私はノルウェーの政策をたくさん学ばせていただいたというのに、学校仲裁所制度については知りませんでした。さすがノルウェー、こんな制度もあったのかという思いでおります。
この制度は、修復的司法と同様の手法のように思われます。単に善悪を裁くことは本当の意味での再犯防止にはならないし、被害者にとっても乏しい情報の中恐怖感だけが残る、という問題意識が修復的司法の出発点だと思いますが、現実にはまだまだ多くの課題を抱えています。より小さなコミュニティである学校こそ、まさに修復的司法の先駆けとして見本を示せるはずです。私がかつて視察したイギリスでも、修復的司法のトレーニングを受けた専門警察官がスクールポリスとして配置され、成果を上げていました。

カリフォルニア州オークランド市は、治安の悪いことで有名な市ですが、そのオークランドの修復的司法のプロジェクトはアティテューディナル・ヒーリングを中核に据えています。前回のメルマガで「アティテューディナル・ヒーリングはいじめの特効薬」と書きましたが、行政もそれを認識するに至ったというわけです。本当に効果的なことに向けて、世界各地で先進的な取り組みが始まっています。日本も、やらせ質問などで時間と資源を無駄に使っている場合ではありません。

大人社会が最大の教育

ここのところ、教育について考えさせられる出来事が、いつにも増して続いている。

来週にも衆議院を通過すると言われている教育基本法改正案、今度は中学にも波及しそうな「必修漏れ」騒動、そして、ここにきて一段と顕在化しているいじめ自殺。

「必修漏れ」騒動に対する、世にもお粗末で不可解な決着に首をひねり、いじめ自殺については、最近の日本ではお定まりの「犯人さがし」にため息をつき、そんな中、全く関係のない教育基本法の改正を最重要課題だと思い込んでいる首相と、それを中心に回っている国会に違和感を覚えているのは私だけではないと思う。

「必修漏れ」については、少なくとも一定期間、自分たちの教育方針が正しいと信じて生徒を従わせていた学校側は、なぜきちんと発言しないのだろう。受験を多分に意識していたとはいえ、必要な教育だと思って提供していたのなら、そう言えば良いはずだ。そうすれば、これほどの不信感が現場に生まれることはなかっただろう。子どもたちにとって、何の科目を学んだかということ以上に、自分を教育していた人たちの人間としての姿勢は大きな意味を持つ。そこに人間としての真剣さを感じるか、ご都合主義を感じるかで、その後の人生に与える影響は大きく異なるだろう。

また、子どもたちは何もサボっていたわけではないのに、望まない時期に突然の補習をしなければならず、まるで罰を受けているかのようだ。本来は、サボっていたどころか、教育を受ける権利を侵害された被害者として位置づけられるはずだ。

文部科学省も、教育を所管しているという自負があるのであれば、そのような全人的な教育にどうして配慮できないのだろうか。それこそが、「こころの教育」「生きる力」なのではないだろうか。

学習指導要領というメンツを守るために、まるで罰のような補習が組まれ、政治家の圧力によって時間数がディスカウントされる、などという解決策は本当にいびつだ。これを機に、高等教育の意味やあり方を見直し、意見が対立する人たちの調整をどのように行うかを子どもたちに示すことができれば、日本の教育が飛躍的に成長する絶好の機会になったはずだと思う。そうやって前向きに捉えずに「大変だ」と後ろ向きに捉えたため、結局、いつもと同じように、大人たちの都合が見えないところで調整され、子どもたちがそのツケを払わされることになった。
 
いじめについては、いじめを議論している今の社会の姿勢そのものが、実はいじめの構造に陥っていると思う。

人間は、現実を冷静に直視することが怖いとすぐに「犯人探し」を始めるものだが、私は、ここで直視を避けられているのは、大人たち自身に潜む「いじめ心」なのではないかと思う。ここ数年、特に顕著になってきている「バッシング」は、いじめそのものである。少しでも弱みを見せた人、少しでもミスを犯した人に対して、「あの人は間違っている」と徹底的にバッシングするのである。

子どもたちがいじめる理屈も、それと大差ない。結局、大人社会が、弱みを見せた人に襲い掛かるような構造を変えられない限り、いじめはなくならないと思う。

もちろん、実際に起きたいじめにどう対応するかという制度を考えることは重要だ。そういう意味で、教育委員会の存在の是非も含めて、組織や制度を議論することは必要だ。だが、どれほど制度をいじろうと、それはいじめの撲滅にはつながらない。

いじめる子ども、それを黙認する子どもは、いずれも「怖れ」によって動かされている。いじめる子どもの多くが、家庭で広い意味での虐待をされているという事実もある。その「怖れ」を認識して癒していくことなくしては、問題は根本的に解決しない。私も、被害者にとっても加害者にとってもいじめの特効薬であるアティテューディナル・ヒーリングの考え方を引き続き広めていきたいと思っている。

だが、そうした子どもたちへのアプローチとともに、まずは私たち大人自身が、ひとたび「悪者」と決まると相手の事情をいろいろな角度から考えてみることもせずに一方的に非難するなど、何らかの形でいじめの土壌作りに加担しているのではないか、と振り返ってみることが重要であると感じている。

「必修漏れ」にしても、いじめにしても、大人社会がこの問題とどう向き合うか、ということが、現在の教育に対する最大の解決策になると思う。
 
ふと、子どもが米国で通っていたチャータースクールを懐かしく思う。担任の先生との個人面談のときに、日本の親である私は「英語が不十分なのでクラスにご迷惑をおかけして・・・」というようなことを言おうとしたのだが、先生は、他の子どもたちが読書をしている時間に英語が読めないうちの娘に何をさせているか、などを一生懸命説明して、英語が不十分だからと言ってうちの子どもが教育の権利を奪われていないということを一生懸命説明してくれた。明らかに、子ども個人が教育の主役として位置づけられていた。文化の違いがあるとは言え、折にふれて子どもを抱きしめて愛情を示してくれたことも、子どもにとっては温かい思い出なのだそうだ。人間としてのコミュニケーションが大切だということは教育の場であっても(場だからこそ)重要なのであって、それを阻害しているものが何なのか、見極める必要があると思う。
 

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アティテューディナル・ヒーリングのワークショップを終えて

おかげさまで、10月14日(土)にアティテューディナル・ヒーリングの第一回ワークショップを終えることができました。

北は北海道、西は大阪からさまざまな方にご参加いただき、大変豊かな時間を共有できたと思います。

参加者の方のご感想を

www.ah-japan.com/kanso.htm

に載せてありますので、ぜひご覧ください。

今後のご参加をお待ちしております。(日程はwww.ah-japan.com/workshop.htmにて随時更新中)

対人関係療法ワークショップのお知らせ

以前から「対人関係療法のワークショップはないのか」というお問い合わせをいただいてまいりましたが、このたび下記の日程でワークショップ(専門家向け)を行うことになりましたので、お知らせいたします。

対人関係療法ワークショップ 入門編 ~対人関係療法の理論から実際~

日時: 2007年1月28日(日) 10:00-16:00(昼食休憩1時間)

対象: 専門家(メンタルヘルスに関わっている方、関わる予定の学生さん)

講師: 水島広子

場所: 水島広子こころの健康クリニック(東京都港区元麻布)

定員: 10名

参加費用: 10,000円(学生証をお持ちの方は7,000円)

  参加ご希望の方、お問い合わせは、メールあるいはファクス(03-3470-5355)でご連絡ください。

今後のワークショップのお知らせは基本的にホームページ上でさせていただきますが、今回は都合がつかないけれども今後参加を検討したいという方がいらっしゃいましたらご連絡いただければ、優先的にお知らせいたします。

A君と北朝鮮

うちの子どもの友達に、いわゆる「特別な配慮を必要とする子」がいる。仮にA君としよう。

我が家によく遊びに来るが、うちのカレーが大好きで、「おいしい、おいしい」とおかわりしてくれる。うちの子どもたちと遊んでいるときのA君は、本当に優しい良い子だ。マンションの防火扉にいたずらをした嫌疑をかけられて泣いてトイレにこもってしまったうちの子どもをかばって、マンションの管理人さんに事情を説明してくれたこともある。

一件落着して戻ってきた彼が、トイレにこもって泣いているうちの子どもに「もうだいじょうぶだよ、出てきてもだいじょうぶだよ」と優しく声をかけていた彼の姿が忘れられない。

さて、そんな優しいA君なのだが、学校で姿を見ると全く別人だ。暴れて、教室のドアを蹴飛ばしている。先生の指示に全く従わない。

クラスメートからは「またあいつだよ」という目で見られ、非難されている。
まじめにやっても勉強はよくわからない。クラスメートから馬鹿にされ、立ち上がって暴れる。他人に暴力を振るうこともあるのだが、よく見ると彼の目は涙がいっぱいだ。どうしたらよいかわからなくて、やけくそになって暴れているのがありありとわかる。

担任の先生はまじめな先生で、「それ以外の子どもたち」とはうまくやっている。でも、A君からは「死ね」などと毒づかれて、持て余している。
時々、A君の手を押さえつけて、
「A君。先生は○○しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と強い調子で怒っている。
私は目撃したことはないが、子どもたちの話によると、時々体罰ともとれることをするそうだ。

こうなるとますます彼は逆上して暴れてしまう。クラスメートからはますます馬鹿にされる。地団太を踏んで泣き叫ぶ。このような「特別な配慮を必要とする子ども」であるA君を見ていて、ふと北朝鮮のことを考えた。

北朝鮮首脳にA君のような優しさがあるかどうかは疑問だが、怯えてやけくそになって暴れている国に対して、
「○○さん。私たちは××しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と正論を強い調子で言うことに、どういう効果があるのだろうか。北朝鮮は「特別な配慮が必要な国」なのである。

他の生徒や保護者が見ている前で、生徒をきちんとコントロールできているところを見せなければという先生の「メンツ」に、馬鹿にされたままではおさまらないA君の「メンツ」。
これを収められなければ学級崩壊するのではないかという先生の「恐怖」と、ここで素直に言うことを聞いてしまうとそのままなめられるのではないかというA君の「恐怖」。

ここでも「怖れ」の綱引きが行われている。どちらかが怖れを手放さない限り、事態は取り返しのつかない方向に進んでいく。また、怖れは周りに伝染し、A君を口汚くののしることすら正当化されるような雰囲気が生まれていく。

先生とA君の関係では、怖れをまず手放さなければならないのは、もちろん教育者である先生の方だろう。これは誰でも納得できる話だと思う。

では、「特別な配慮が必要な国」北朝鮮の場合はどうなのだろう?
政権が崩壊することだけを恐れ、米国からの攻撃を恐れている政権が「怖れ」を原動力に行動していることは誰の目にも明らかだろう。その「怖れ」をさらに煽るアプローチは、危険な方向にしかつながらないはずだ。また、北朝鮮がまず態度を改めるべきだというのは、先生ではなくまずA君が態度を改めるべきだと言うのと同じくらい、現実を見ていない考え方だと思う。

何を甘いことを言っているのだ、これだけ手を尽くしても破壊的な行動しかとれない北朝鮮ではないか、という意見が出てくるかもしれない。でも、一番のカギを握りながらこの間一貫して一対一の協議に応じてこなかった米国ひとつみても、「手を尽くした」とはとても言い難い。すでに米国ではブッシュ政権の怠慢を問う声が上がっている。

怖れにエネルギーを供給するのは他者の怖れだ。まずは、私たちが、「怖れ」の綱引きから離脱しなければならないのではないだろうか。

これは北朝鮮に対して何もするなと言っているわけではない。「怖れ」を動機に行動すべきではないというだけのことだ。

そもそも、A君に対する先生の「怖れ」の背景には、A君のような子をどうやって理解し扱ったらよいかという専門知識の欠如がある。先生にはぜひそれを学んでほしい。そして、各国首脳、特に安倍首相にも、そのような専門知識を学ぶことで怖れを手放してほしいものだ。その専門知識を「外交」と呼ぶのではないだろうか。