安倍政権誕生に政治を思う

 安倍政権がスタートしました。すでに、いろいろな形での懸念が表されています。それらの懸念は私も共有しており、特に、外交、教育、男女共同参画という面では期待できないどころか、さらに破壊的な方向に進みうると思います。日本の政治は今、暗雲に包まれていると言っても良いかもしれません。戦後の民主主義への努力が、すべて白紙に戻されてしまうかもしれないのです。

 この安倍政権に対して、どういう心の姿勢をとったら良いのか、ということを考えてきました。

 まず、安倍政権の誕生ですが、私にとっては何の驚きもありませんでした。昨年の総選挙の結果が出た時点から十分予想されていたことであり、「来るべきものが来た」という気持ちです。今回「大変だ」と言っている人の中には、昨年の総選挙で民主党を強く批判し小泉支持を表明していた人もいます。自らの言動が安倍政権につながる可能性を全く考えていなかったとしたら、やはりあれは熱病のような選挙だったと言えるのかもしれません。

さて、私にとっては驚きのない安倍政権ですが、だからと言って簡単に受け入れられるものでもありません。ただ、明らかに「怖れ」が原動力になっている安倍政権に対して、怖れをもって対抗することほど効果のないことはないと思います。ですから、攻撃をしたり、馬鹿にしたり、絶望的になったり、というアプローチはいずれも望ましいものではないと言えます。

そもそも、安倍政権はこの日本に突然変異で生まれた政権ではありません。どんな政権も、突然変異で生まれるということはないと思います。小泉政権ですら、そうでした。私は自分自身が選挙で選ばれるという体験を通して、政治というのは実に国民の「身の丈」を表すものであり、選挙というのは大雑把だけれども有権者の意思を案外正確に表すものだということを痛感してきました。利権政治ですらそうなのです。戦後の日本で、お金を稼ぐことに最大の価値が置かれてきたことは否定しがたい事実だからです。小泉政権は、「この希望のない、不公平な世相を突破するために、とにかく破壊したい」という人々の願望を反映して誕生しました。小泉さんはそういう願望を増幅しましたが、創造したわけではありません。

 安倍政権は、ここのところの「なんとなく右傾化」という傾向を反映して生まれてきたのだと思います。筋金入りの右翼でもない。そもそも、自分の言動が「右」に分類されるなどという認識もない。でも、「そりゃあ、自虐はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、美しい国は大切だろう。誰が美しくない国に住みたいだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、教育改革は大切だ。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、過激な性教育はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」という具合に、自分の目で確かめず、あまり深く考えずに「なんとなく右傾化」なのです。

こういう傾向はここのところかなり顕著になってきており、いつか直視されなければならないものになってきていました。安倍政権に価値があるとすれば、それを検証する機会を与えてくれるということなのでしょう。これは、日本が前に進むためにはどうしても踏まなければならないプロセスです。「なんとなく右傾化」の人がこんなにたくさんいる中で、これ以上の民主主義の成熟は望めないと思うからです。

私たちにできることは、この「安倍的なるもの」の検証作業が前進のために必要なものであって、長い目で見れば私たちは前に進んでいるという認識を持つこと、つまり、絶望的にならないことだと思います(絶望的になると何もできなくなってしまいます)。そして、「なんとなく右傾化」の人たちの怖れをさらに刺激することなく、怖れをできるだけ手放してもらえるようなアプローチを考えていきたいと思います。「こんなこともわからないの?」という姿勢だけは、くれぐれもとってはいけないと思います。以前、同期の男性議員が、男女共同参画に詳しい女性議員の議論を聞いて「男女共同参画を専門的に勉強したわけでもない自分の劣等感を刺激される」とぼやいていましたが、「保守的」と言われる人たちの一面には、そんな気持ちもあると思います。

怖れを認めて手放してもらうための重要な柱として、現在アティテューディナル・ヒーリング活動を通してやっている、「一人一人が自分の心の姿勢の選択に責任を持つ」という意識を広められるだけ広めたいと思っています。

アメリカ人のコミュニケーション(補足)

 前回、「アメリカ人のコミュニケーション」について書かせていただきましたが、「北カリフォルニア」と地域を限定するのを忘れてしまったので、自分の経験は違ったというような声をいくつかいただきました。失礼いたしました。

 私が暮らしている北カリフォルニア、特にサンフランシスコを中心としたベイエリアは、アメリカの「良さ」が強く現れている地域だと思います。多様性を尊重する土地柄のため、ゲイのメッカでもあります。また、アメリカの中では最もスピリチュアルな場所のひとつだと言われています。
 
 こちらでは、カープール(相乗り)という制度があります。車に3人以上乗っていると、橋の通行料が無料になり、高速道路でカープール車線という優先車線を走ることができます。渋滞のときには本当に助かります。個人にとっても橋の通行料やガソリン代などが節約できるありがたい制度ですが、環境政策としても、相乗りを促進して車の数を減らす効果があります。もちろん、渋滞解消効果もあります。日本と違って駐車するスペースがたくさんありますので、家から車で出てきて、途中で他人の車かバスに乗り換えて通勤する人はたくさんいます。サンフランシスコ市内の駐車事情は悪いので、私も普段はバス停の近くに車を駐車して、バスでサンフランシスコに行きます。

 先日、サンフランシスコまで車で行かなければならなかったときに、ゴールデン・ゲート・ブリッジの通行料5ドル節約のため、男性を一人乗せました。話しているうちに、サンフランシスコ市役所で働く弁護士だということがわかったのですが、東海岸出身だという彼は、「ここに初めて来たときには驚いた。スーパーに入ったら、皆が私を助けようとしてくれるのだから。ニューヨークやワシントンDCでは、なぜあなたを助けなければならないのという雰囲気だった」と言っていました。そして、「マリン郡は確かにお金持ちの多い地域だけれども、ここではいくらお金持ちになっても相変わらずブルージーンズをはいて、全く偉ぶらないところも特徴」と言っていました。彼に言わせると、ベイエリア以外では、シアトルとオレゴンのポートランドが似たような雰囲気だそうです。

 日本から来た私と、東海岸から来た彼が、同じようなところに目をつけていることが大変おもしろかったです。
 そもそも、考えてみれば、こうして気軽に他人を車に乗せて、おしゃべりを楽しみながら道を行く、というのも、日本の都会では考えられないぜいたくな体験です。

 最後に、前回のメルマガを読んで、共感のメールを送ってくださった、北カリフォルニア在住のSabrina Hiroko Okadaさんのメールを一部ご紹介します(ご本人の了解を得て、日本の読者にわかりやすいように、文意を変えずに一部を変更してあります)。

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私はバスとバート(高速交通システム)に乗ってサンフランシスコまで行き、そこから成田に飛びます。この国にいる限りは、いろんな人が声をかけてくれて、スーツケースをもってくれたり、バスの運転手が声をかけてくれたりしますが、成田に着くと同時に、逆カルチャーショックをいつも受けます。私がどんなに重い荷物をもっていても、ぶつかっていくのになんの言葉もかけない人はたくさんいるどころか、長い長い階段を荷物を持って上がったりするのに、「手伝いましょうか」と声をかけられたことは一度もありません。

言いたいことは本人の前ではっきりと言い、あとくされはほとんどなし!という人付き合いの仕方も非常に心地よいです。
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 もちろんアメリカにも医療や人種問題など困った問題はたくさんありますし、「アメリカは良くて日本は悪い」と言うつもりは全くありません。でも、少なくともこのベイエリアの人々の暮らし方からは多くを学ぶことができると思っています。多様性を尊重することで、社会全体に寛容と活気が生まれること。また、それぞれが他人に微笑みかけ、援助の手を伸ばすことで、自分も気持ちよく暮らせるし、困ったときにも助けられること。スーパーのレジを待っている列の中でも会話が始まるので、退屈する時間が少ないこと。

また、私の住むマリン郡では、全面積の40%を自然のままに保存してあり、サンフランシスコから車で20分程度という便利な土地柄でありながら、自然に包まれて暮らせるというのも、住民運動の大きな成果です。

アメリカ報告18 ――アメリカ人のコミュニケーション

 今週はいろいろと変わったことがあり、また日米の比較をしたくなりましたので、少々ご報告させていただきます。社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3)は、次回にします。

 5月19日には、Noetic Sciencesという、スピリチュアリティと科学の関係を研究している団体の講演会に誘われて出かけて行ったのですが、その講演の演者として招かれていたのが村上和雄先生でした。村上先生は現在筑波大学の名誉教授ですが、DNA解明の世界的権威で、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功したことで有名です。ノーベル賞に最も近い日本人とも言われています。村上先生の著書「サムシング・グレート」などは、スピリチュアルな本として、科学が苦手な人でも楽しく読めるのではないでしょうか。

 村上先生とは以前漢方関係のシンポジウムでご一緒させていただいたことがありますが、まさか北カリフォルニアの、日本人がほとんどいないところで再会できるとは思いませんでした。改めて親しくお話しさせていただき、すっかり意気投合いたしました。

 そして夜の10時ごろに上機嫌で帰途に着いたのですが、最近怪しげだった車がいよいよ本格的にオーバーヒートしてしまいました。嫌な予感がして高速を途中で降りたところ、降りてすぐにエンジンが止まり、ブレーキもロックされてしまいました。あそこで高速を降りる判断をしていなかったら、と思うと、ちょっとゾッとします。

 無事に車を止め、自ら修理を試みたのですが、ラジエーターに穴があいているようで、どうにもなりません。仕方なく保険会社に電話をかけて心細く到着を待っている間に、親切な巡査部長に発見していただきました。最終的には、巡査部長が牽引会社に催促してくださり、牽引車が来るまで付き添っていただいたので、安心できました。また、「なんでこんな古い車に乗っているんだ」などと価値観を押しつけるようなことは一切言わず、お説教もせず、ユーモアすらもって、親身になって事態に対処してくださったので、新鮮な体験でした。(もちろん、すべての警察官がこういう人だというわけではないようで、私はかなり運がよかったようです)

 巡査部長に発見していただく前には、遅い時間であるにもかかわらず、いろいろな車が止まって「何か手伝いましょうか」と声をかけてくれました。アメリカでは、本当にこうした人の善意をありがたく感じることが多いです。

 声をかけると言えば、アメリカ人は、本当に平気で人に声をかけます。例えば、郵便局で列に並んでいなかった人(アメリカ人はよくカードや手紙を送るということもあるのですが、アメリカではパスポートの発行も郵便局で行っており、地域の拠点として機能している郵便局は、とにかく込んでいることが多いのです。もちろん、郵便局は国営です)が窓口に先に行ってしまったように見えたとき。私も「?」と思いながら見ていると、必ず誰かが「あの人は前からいたの?」と問題提起します。「彼は最初から、ドアのところにいたよ」などと証言が出てきて、本人も「自分は誰よりも先に来ていた」と主張し、「それなら良い」ということになるのですが、以前、問題提起をした女性が「だって、あの人がもしも外国人でここのルールを知らない人だったら、教えてあげなければ不親切でしょう」と言っていました。確かにその通りです。

 また、バスに乗っていたとき、バスの止まった場所が悪くて歩行者用の信号が見えなかった、と運転手に苦情を怒鳴ってきた人がいました。運転手も負けてはおらず「だって、ここから左に曲がってすぐに右に曲がらなければならないのに、これ以外にどういうルートがあるんだ」と言い返します。歩行者は「もっと信号の手前で止まればいいじゃないか」。運転手は「ここに来たとき、信号は青だったんだ。途中で信号が変わったんだから仕方ないじゃないか」。こうしてしばらく怒鳴りあって、あとはさっぱりと出かけていきます。

 人前で注意をするとそのときは言い返しもしないけれど、後で待ち伏せしていて仕返しをする、という、日本でよく見られるやり方よりははるかに気持ちが良いです。

 アメリカ人と結婚してずっとアメリカに住んでいる日本人に、「日本ではアメリカ人は自分勝手で公共心がないと思っている人が多い」と言ったら、「反対じゃないの?」ととてもびっくりしていました。「だって、日本人は、人にぶつかっても謝らないじゃないの」と。NPOのときにも書きましたが、公共心はアメリカのほうがはるかに強いと思います(もちろん例外もありますが)。

 また、何といっても見習うべきはコミュニケーション能力です。自分の意見はしっかり主張するけれども相手の意見も尊重する、というのは、例えば、人が話している間は口をはさまない、というマナーにも現れていると思います。日本で、ガチャガチャと、結局声の大きい人が会話を支配する、というような文化に慣れてしまっていると、アメリカの会話は最初はストレスがたまるのですが、相手が話さずに待っているので、できるだけ相手にとって価値のある話をしようという気にもなります。

 また、私のセンターでも、よほどの急用でない限り、他の人たちが話をしているところに駆け込んで自分の用事をすませる、というのはご法度です。上下関係が緩やかなセンターだからということもあるのでしょうが、上司が部下に何かを伝えたいときも、よほど差し迫っているのでなければ、「手が空いたら私の部屋に来てください」というメッセージだけ残して、そこにいる人たちの会話を尊重します。

 今週は、ひょんなことから、アメリカに来て5年という日本人のお宅にお招きをいただき、行ってきました。会社員であるお父さんが言っていたことが印象的でした。「アメリカに来て、これほど子どものことに関わるようになるとは思ってもいなかった。日本にいたときは、仕事ばかりで、家庭での存在感は全くなかったと思う。こちらに来たら、あらゆることに親の参加を求められるので、自分はすっかり変わった。こちらの学校では、平日の昼間の行事でも、両親そろって参加している人が多い」と言っていました。8歳でアメリカに来たという中学生の息子さんに、日本にいたときのお父さんとアメリカでのお父さんの違いを尋ねてみたのですが、「日本にいたときのお父さんはよく覚えていない」とのことでした。

 日本でもアメリカでも、「家族」というものが政治的に重要なキーワードになっている昨今ですが、少なくとも、「家族を大切に」というスローガンは、アメリカのほうが実態を伴っているようです。

 余談ですが、そのお宅に招かれたときに、もう一組、日本人の家族が来ていたのですが、そこの男性は、ついに私の職業すら聞きませんでした(私の夫には尋ねて、いろいろと仕事の話をしていました)。個人が尊重されるアメリカでは、まずあり得ないことです。「夫の仕事は・・・」と女性が言ったとしても、「それであなたは何をしているの?」と聞くのが当たり前です。久しぶりに日本を体験した気がしました。

新聞の書き方

 アメリカで新聞を読んでいて、ちょっと気づいたことがあります。それは、一言で言うと、記事に血が通っていて読むのが面白いということです。

 例えば、4月28日のサンフランシスコ・クロニクルの地域版(ベイエリア+カリフォルニア版)には、サンフランシスコの自動車事故が大々的に取り上げられています。

 ビュイックが赤信号に突っ込んで、駐車場に入ろうとしていたBMWにぶつかった、という事故です。この事故の結果、BMWの運転手が死亡し、8台の車が燃えました。大変な事故だったようです。

 この記事を読んでいくと、こんな箇所が出てきます。

 近くのバーにいたマイケル・ガンブルは、慌てて外に飛び出したが、デインという名前しかわからないホームレスがBMWに飛び込んで運転手を引っ張り出そうとしているのを見た。バーや周りの店から半ダースの人が出てきて、助けようとした。
「私たちは火を避けようとして消火器を持って出てきた」とガンブルは言った。「ガソリンが道中に広がっているとは知らなかった・・・デインは(BMWの運転手を)半分引っ張り出したが、そこで私たちはもっと消火器を持ってこなければならなくなった。私たちは運転手を引っ張り出して、わき道に寝かせた。目の前で人が死んでいくんだよ。人が死ぬところを見たい人がいるかい?」
 その頃には、最初の消防車が到着した。非番の消防士が蘇生をしようとしたが、(BMWの)運転手はその場で死亡した。(後略)

 この箇所を読んだだけでも、警察発表だけではなくきちんと取材していることがわかりますが、ホームレスをはじめとした人々の善意が読み取れ、悲惨な事故の記事であるにもかかわらず、絶望だけが残らないようになっています。

 日本でもこういう記事を読んだことがないわけではないのですが、それは善意に焦点を当てた記事であることが多いものです。「ホームレスがBMWの運転手を救助」などというタイトルがつくのでしょう。こちらの記事はあくまでも事故の報道で、タイトルは「衝突で運転手が死亡、カストロ地区が火の海に」というものです。
 
 メディアのあり方については過去にも取り上げたことがありますが、このような記事を読むと、単なる事故記事であっても責任を持って書かれているということを感じます。そして、社会の雰囲気作りに確かに一役買っていると思いながら新聞を読んでいます。
 

アメリカのNPO

 今回は、アメリカのNPOについて書きたいと思います。アメリカに来て、やはりその格差や未だに根強い人種差別など、社会構造の問題を感じることも確かに多いのですが、その一方で、以前もご紹介したような多様性の尊重など、日本社会にはない活力を感じることも多々あります。その一つが、何といってもNPOです。
 
 アティテューディナル・ヒーリング・センターもNPOですが、とにかくアメリカのNPOの層の厚さには驚かされます。福祉分野はもちろんのこと、矯正プログラムのきめ細かさなど、このNPOの層の厚さなくしては語れません。アメリカ社会の最後のセーフティ・ネットがNPOだと言っても過言ではないと私は思っています。

 NPO先進国であるアメリカでは、総雇用に占めるNPOの割合は10%近くに達し、それ自体が、巨大な雇用市場を形成しています。センターのスタッフに聞いても、採用時の条件として「NPOでの経験」を重視することが多いそうで、営利企業とは異なる独特なキャリアとして確立しているということでしょう。地域に根づいた小さなNPOもたくさんある一方で、いくつかのNPOは大企業並の財力・運営力・人材力を兼ね備え、国内外に大きな影響力を持っています。

 「官から民へ」というときに、絶対に忘れてはならないのがこの「公」たるNPOです。NPOなくしては、「小さな政府」などあり得ません。そもそも市民社会からスタートしているアメリカでは、政府に多くの仕事をさせることを「税金の無駄遣い」「単なる依存」と考える人が多いわけですが、その意識を支えているのは、日本でしばしば報道されるような単なる「自己責任論」ではなく、伝統的な共助の精神です。つまり、「官」と「民」だけではなく、その間に存在する「公」を担うのが自分たちだという意識がしっかりしているのです。
 
 この意識は、個人のボランティア精神にも現れますし、税制にも現れます。社会人たるもの、何らかのボランティアをしているのは当たり前、という感覚は確かにあります。税制では、個人や企業が寄付をしたときの控除は大きな支えです。また、アティテューディナル・ヒーリング・センターでも、財団助成金は収入の大きな割合を占めますが、大きな財産を持つ人が税制上の恩恵も受けながら社会に還元する仕組みがきちんと活用されています。もちろん、これは指をくわえていれば自然と入ってくる収入ではありません。毎年、各財団に申請書をきちんと出すこと、助成金を受けた財団には、利用者の詳細など統計をきちんと報告すること、などが、センターのスタッフの大きな仕事になります。この統計のために、毎日のグループ利用者のデータも、しっかりしたデータベースで管理しています。

 なお、アティテューディナル・ヒーリング・センターは、すべてのグループや家庭・病院訪問を無料で行っているところに大きな特徴があります(トレーニングはかなりしっかりとしたお金をとります)。30年の歴史を持つNPOで、未だに無料でサービスを提供しているところはなかなか例を見ないようです(当然、その分財政は厳しくなります)。

 もちろん、アメリカにも拝金主義のような人はいますが、華々しいキャリアの途中で非営利活動に転身する人もいますし、どこかの時点で「社会へのお返し」を考え始める人も少なくないようです。

 私の娘が通うチャータースクール(保護者が作る公立学校)では、多忙なエンジニアである父親が、学校の理事として、校庭の設計に汗をかいています。「官から民へ」を叫んでいる方たちに、そこまでの覚悟があるのでしょうか。

民主党の男女共同参画オンブッド会議報告とテニス

 私が民主党の男女共同参画委員長になって新規企画として立ち上げた男女共同参画オンブッド会議ですが、この難局を乗り越えて、報告書がようやく形になって3月13日に代表に手渡された、というお知らせを西村ちなみ衆議院議員からいただきました。

 今の民主党の状況を見ると、代表に手渡されたからどうなるのだろう、という気がしないでもないのですが、日本の政党として自らを男女共同参画という観点から第三者評価してもらったというのは初めてのことですから、価値のある記念すべきことだと思います。また、この報告書の結果を踏まえて民主党が何をしたかということを検証しながら、このオンブッド会議がこれからも続くことを強く期待します。

 私が心をこめて人選させていただいた有識者の方たちによる報告書ですので、皆さまもぜひご一読ください。
 民主党ホームページで読むことができます。
 http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.html

 このページのタイトル右下「>>オンブッド会議報告書(PDF2.83MB)はこちら」というところから報告書に入れます。(直接報告書に入りたい方は       http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.pdf へどうぞ)

 私自身も西村議員からお知らせいただかなければ民主党がそんな催しをやったことは気づかずに過ごしていたと思います。まあ、今は海外にいますので、情報という意味ではもちろんハンディキャップがあるのですが、それでも、インターネット時代ですから、主要なニュースは簡単に入ってきます。

 現職議員時代から、いろいろと努力しているのに、どうしてメディアは取り上げてくれないのだろう、という気持ちを抱いてきました。
メディアは明らかに異常です。先日、日本に一時帰国したときにそれを痛感しました。私が日本にいたのは2月23日午後から26日午後まででしたが、その間の報道は民主党メール問題と荒川選手の金メダル一色でした。これでは日本人の価値観が一食に染まるのも仕方がないと思いました。

 こうしたメディアの問題は確かにあるのですが、それと同時に、メディアの責任だけに帰するべき問題でもないだろうと思ってきました。

 男女共同参画政策や子ども関連の政策では明らかに民主党のほうが質は良いと思いますが、政治と特に深いかかわりのある方でなければそれを知りません。つまり党としてのイメージになっていないのです。「男女共同参画といえば民主党」という雰囲気になれば、オンブッド会議のことももっと注目されるでしょう。

 西村議員にメールの返事を書きながらふと思い出したのが、自分の大学時代です。私は医学部の体育会で硬式テニスをしていたのですが、基礎体力のためのトレーニングばかりしていて、結局テニスは上手になりませんでした。その代わり、体力だけはやたらとついたので、選挙の時にはいくら走っても平気でしたが・・・。

 テニスの試合に強くなるためには、基礎体力は絶対に必要です。一見器用に球を操る人でも、走りこんでいないと、本格的なシングルスには勝てません。でも、基礎体力だけではテニスの試合に勝てないことも事実です。つまり、必要条件だけれども十分条件ではないということです。

 政党にとっての個別政策も基礎体力と同じで、必要条件だけれども十分条件ではないということなのだと思います。
でも自民党には政策などないのでは? と思われるかもしれませんが、自民党に政策はなくても、官僚組織には(質の良し悪しはさておき)政策がありますので、土俵には乗ってくるのです。

 なぜテニスのことなど思いついたのかよくわかりませんが、「基礎体力さえつけていればいつか試合に勝てる日がくるはず」という幻想を捨てて、基礎体力をさらに充実させながら、もう一つの次元に挑戦していかないと、「男女共同参画といえば民主党」「生活者重視といえば民主党」「子どもの味方といえば民主党」というふうにはならないだろうなとしみじみ思いました。そして、この問題意識を持ち続けないと、基礎体力トレーニングが単なる自己満足に陥ってしまうことを危惧します。

アメリカ報告4 ――多様性に富んだカリフォルニアで感じること――

 北カリフォルニアに落ち着いて1ヶ月がたちましたが、本当にこちらではストレスを感じることがほとんどありません。困難がない、という意味ではなく、不愉快な思いをしたり閉塞感を感じたりすることがほとんどないのです。

 なぜなのだろう、と、日本と北カリフォルニアの違いをここのところよく考えているのですが、その理由の中の主なものに多様性と言語があると思います。

 たとえば、日本にいるときには、他人から意見を押しつけられていると感じることや、「どうしてこういう失礼な言い方ができるのだろう」と不思議に思うことがよくあったのですが、こちらではほとんどそういうことがありません。こちらに長く住む日本人になぜだと思うかと聞いたところ、「日本はみんな同じだと思っているからでしょう。こちらでは、あまりにもそれぞれの背景が違いすぎて、単一の価値観を押しつけるなんてことは恐ろしくてできない」と言っていました。確かにその通りで、こちらでは、それぞれが違っているというところからすべてがスタートしますから、よく知らない人に「あなたはこうすべきだ」などという意見を述べることなど不可能です。(まったく余計な話ですが、私のセンターで働いているメリッサという若い女性はてっきりメキシコ人だと思っていたのですが、フィリピン人の母親とユダヤ人の父親を持つ人だということがつい先日判明しました。本当にこちらでは顔から人を判断することもできない、と改めて感じました。)
 また、こちらの人は本当に「余計なお世話」をしません。服装など、日本人の感覚からはギョッとするような人にしばしば出会いますが、良いときには「その服すてきね」などとほめますが、「何、その格好」などと非難している人はまったく見たことがありません。

 ただ、この話をすると、多くのアメリカ人が「それは面白い考察だ」と言う一方で、「でも、カリフォルニアの外に出たらぜんぜん違うよ」と、地域差を必ず指摘してくれます。アメリカの地域差はそれはそれは大きく、たとえば、死刑にしても、先日カリフォルニアでは76歳の人に死刑が執行されて新聞の一面に大きく記事が載りましたが(高齢ということで)、カリフォルニアは死刑執行の件数が大変少ない州(つまり死刑に対して慎重な州)である一方、テキサスなどは大変容易に死刑を執行する州だそうです。税金は高いけれども福祉はそれなりにしっかりしていること、労働組合の強さなど、大雑把な言い方をすれば、カリフォルニアはアメリカの中でもヨーロッパ型の州なのだと思います。
 ちなみに、リベラルなカリフォルニアは大統領選でももちろん反ブッシュの州でした。私の身近でも「ブッシュを弾劾せよ!」という靴下を履いた人や垂れ幕を窓からたらしている家を見かけます。先日、小学校5年生が「ブッシュは嫌いだ」と言うので、どこが嫌いなのかと聞いたら、「戦争をやっていることと、ホームレスの面倒を見ないこと」と言っていました。その意識の高さに感心して、あなたは特別な子どもなのかと聞いたら、友達ともそんな話をしているよと言っていました。
 リベラルなカリフォルニアの中でも特にリベラルなサンフランシスコはアメリカ政治独特の争点である中絶についても、中絶反対派の人たちの標的となっていて、近々大規模なデモが行われるそうです。当然、受けて立つほうも「選択の自由」を掲げて、大規模なデモを行うようです。この二つのデモが鉢合わせないように、警察は必死で知恵を絞っているという噂です。

 カリフォルニアは税金が高くてビジネスにならない、などとぼやく人もいますが(シュワルツネッガーが知事選に出たときの公約がそれだったそうですが、何もなされていないそうです)、基本的に、カリフォルニアの多様性を愛している人が多いようです。私もその一人です。

 カリフォルニアの場合は人間の多様性が一目瞭然なので誰もがそれを尊重しますが、日本では多様性がまだ事実として認識されていないところに問題があるのではないかと思います。人間は人それぞれ違っているもので、どの国の人も本当は多様なのに、それが当然のこととして認められていない社会では、「価値観の押しつけ」に苦しむ人が多いということではないでしょうか。

 もう一つの要因である言語ですが、ここのところつくづく日本語と英語の違いを考えています。日本語と異なり、英語は基本的に性別・世代中立的な言語です。また、関係の距離が言語に反映されることも基本的にありません。つまり、初対面であっても、性別がどうであろうと、世代の違いがあろうと、基本的に同じ言葉を使うということです。これがどういう結果につながるかというと、外的要因にとらわれずに、伝えたいメッセージの内容だけに集中できるということになります。これはなかなか心地よいもので、日本でしばしば感じる「どのくらいくだけた言葉を使おうか」という悩みからは完全に解放されています。もちろんこちらは英語を母語としない立場ですから、語彙など別の悩みはありますが・・・。

 なお、前回のメールマガジンに対して、私が感じている教育の「良さ」に共感してくださるメールをたくさんいただきありがとうございました。こんなに良い学校ばかりではないはずなので、アメリカの教育制度全体について包括的な報告をすべきだというご意見もいただきましたが、今回の渡米はあくまでもアティテューディナル・ヒーリング・センターでの私の研修兼ボランティアが目的で、アメリカの教育制度の視察に来ているものではありません。ですから、私の現在の生活からは、アメリカの教育制度の全体を論じるような余裕もありませんし、そのような意思もありません。皆さまにご報告しているのは、あくまでも一人の保護者として体験した事実ですので、決して包括的なものではありません。私が、アメリカの中でもおそらく最も恵まれている地域の一つであるカリフォルニア州マリン郡に住んでいるということも考慮に入れる必要はあると思います。

 ただ、教育とは結局、子どもなり保護者なりに及ぼす影響がすべてなのではないでしょうか。そして、他国の教育を当事者として経験できるというのは大変貴重な機会だと思っています。ですから、教育制度を大所高所から論じることよりも、ここでは、日常の些事をご報告していきたいと思っています。ご理解をいただければ幸いです。

 また長くなってしまったので、アティテューディナル・ヒーリングの続きは次回にしますが、日中のボランティアに加えて連夜グループに出席する上に、週末もここのところトレーニングが続き、宿題も多いので、なかなか忙しくなってきました。

子どもの事件をめぐって

 12月10日、子どもの村シンポジウムの帰りの新幹線で、相次ぐ痛ましい事件をめぐって朝日新聞の取材を受けたのですが、大阪にしか配られない新聞のようなので、少々ご報告します。

 子どもの安全をどう図るか、ということについて、私は、問題解決の柱は大きく二つだと思っています。一つは、学童保育の整備です。共働き世帯や片親世帯であっても、学童保育に入れていない子どもがまだまだいます。学童保育の充実をめぐっては毎年要請活動が続けられてきていますが、保育園に比べると明らかに出遅れています。保育園時代は何とかなっても、子どもが学校に上がると突如として「放課後問題」が出てくる、というのは、政策的にも整合性に欠けることだと思います。この一連の事件を見て、日本も欧米のように保護者に子どもの送迎義務をかけるべきでは、という意見を述べている方もおられ、私も理解できる部分がありますが、その大前提としては、学童保育で、せめて保育園なみの時間は預かってもらえる、という環境整備が必要だと思います(さらに言えば、ワーク・ライフ・バランスを改善させて、子どもの送迎を優先させられる職場環境も必要)。

 記者の方が心配しておられたのは、「送迎義務という話になると、やはり女が仕事などせずに家にいるべきだという話になるのではないか」ということでした。おそらく、一部の無理解な政治家はそのようなことを言うでしょう。でも、現実を見れば、少子化と地域の空洞化は間違いなく進んでいるのであり、その時代に、母親が子どもを迎えに来れば子どもは安全で充実したときを過ごせるのか、というと、それは違うと思います。私はかねてから、保育園と学童保育の整備を、「希望するすべての子どもたちに家庭と学校以外のコミュニティを」をスローガンに訴えてきましたが、学童保育の整備は、子どもの通学路の安全を確保する効果があるとともに、少子化時代の子どもたちに安全な遊び場を提供することにもなるのです。

 もう一つの柱は、やはり地域です。自分自身も子育てをしていて地域の方たちに助けられていますが、顔が見える関係の中での助け合いというのは本当にありがたいものです。そして、その「つなぎ役」をしてくれるのは、往々にして子どもたち自身です。「開かれた学校を進めていたら事件が起こったので、また閉ざすしかなくなった」というような話を時々聞きますが、不審者対策と、顔が見える地域の方に学校を開く、ということは、まったく別の次元の話であって、十分両立するものだと思います。

 また、子どもの安全という観点からは、商店街というのは貴重な存在です。開放的に子どもにも目をかけていただけるので、安全の拠点になります。商店街がシャッター通りになってしまっているところが多いですが、やはり、自分たちはどういう地域に住みたいのか、という地域づくりを真剣に考えなければならない時代だと思います。

 12月13日から渡米することになりましたので、次号は、アメリカからの活動報告となります。今後ともよろしくお願いいたします。

メディアのあり方

昨日パックインジャーナルに出演して、いろいろと思うところがありましたので一言。

★ 司会者の姿勢 ★

まず、司会の愛川欽也さんの姿勢に深い感銘を受けました。

パックインジャーナルは、いまどき珍しい「反権力」番組で、そのことも高く評価できるのですが、それ以上に、愛川さんの姿勢には最近のメディアに見られない気高さを感じました。

出演した自民党議員が中国の反日教育のことなどを例によって話していると、愛川さんが、「ほかの番組ではどうだか知らんが」と断った上で、自分の番組では、敵を作ってナショナリズムを煽るような姿勢は嫌いなのだ、ということを明言しておられました。これで会場の雰囲気が大きく変わりました。

先の総選挙を見るまでもなく、メディアの影響というのは異様に大きいものです。メディアがなぜこれほどまでに影響を持ってしまうのかということについては、先日もご紹介した「自民党が負けない50の理由」にいくつか分類されていますが、たとえば、毎日のように「中国では反日教育が・・・」というようなことをメディアを通して見聞きしていると、それが「真実」であるかのような気になってしまうのです。
司会者の役割というのは案外大きく、ゲストがそういう発言をしたときに、そのまま「ほう、ほう」と聞くのか、それとも、愛川さんのように発言の位置づけをきちんとするのか、という姿勢一つで、受け取る側の印象が大きく変わります。

すべての番組で、司会者が愛川さんのような姿勢をとってくれれば、それだけで日本は大きな可能性のある国になるでしょう。

★ メディアの生命線 ★

昨日のパックインジャーナルのテーマの一つが「NHK民営化議連(自民党)」でした。私自身は、公共放送は必要だと思っているので、何でもかんでも民営化という立場には反対です。なぜ公共放送が必要かというと、災害放送などももちろんなのですが、質のよいニュースやドキュメンタリーを、スポンサーの意向を気にせずに追求できることも、公共放送でなければできないことだと思うからです。

ところが、今のNHKは、国民が知りたいことを報道する、という本来公共放送に期待される役割ではなく、政府が知らせたいことを報道する、という本末転倒な役割を果たしてしまっているところが大問題です。これが、例の従軍慰安婦番組をめぐる政治圧力問題でも明らかになったところです。

もう一つ、NHKが、政官業の癒着の構造を作り出してしまっているという点も、改革が必要な大きな問題です。公共のための放送ではなく、公共の料金に群がる利権の複合体が作られてしまっているということでしょう。

NHK改革のために必要なことは、現在NHKが考えているような、「受信料の不払いをなくせば、改革が進む」というトンチンカンなことではありません。
利権の構造をなくすことももちろん重要ですが、それ以上に大切な問題として、この機会に考えるべきなのは、メディアの姿勢です。

今まで、日本のメディアは「中立」を旨としており、政治的に、右か左かどちらかに偏っていると問題だとされてきました。そして、なぜか政府は「真ん中」という位置づけになることが多かったように思います。
その結果として、多くのメディアが政府の御用放送のようになってしまい、パックインジャーナルのような番組が「いまどき珍しい反権力番組」ということになるのです。

でも、メディアの生命線は、本当に「中立」なのでしょうか。そうではなく、「独立」なのだと私は思います。スポンサーによって立つ民放であれば、完全な独立はありえないとしても、少なくとも、「公共放送」については、政府からの独立はもちろん、すべてから独立であるということが生命線なのだと思います。

NHKの予算承認を国会で行っているというのも、独立を妨げる一つの要因でしょう。「予算を通してもらわないとどうしようもないから」というのが、NHKの人たちが与党の政治家に気を遣う大きな理由だと言われています。

NHK問題が、「受信料を払わない人が増えたから、今のままではもたない。民営化しよう」という安易な方向に進むのではなく、これを機に、ここのところあまりにもおかしいメディアの方向性が是正されることを心から祈るものです。

そして、政府の提灯持ちのような番組や、公務員や官僚を単に批判する憂さ晴らしのような番組ではなく、権力をきちんと検証し、あるべき方向性を建設的に模索しようとするパックインジャーナルのような番組がもっと増えることを、さらに、愛川欽也さんのように、「人として望ましい姿勢」を身をもって示せる司会者が増えることを、心から期待しています。

自民党が負けない50の理由

 10月31日、宇都宮にて、選対解散式を行いました。選挙を共にたたかってくださった選対役員の方たちがお集まりくださいました。これで、選挙後の処理が一段落したということになります。選挙後の厄介な仕事を共にお引き受けくださった方たちには心から感謝を申し上げます。

 また、10月20日をもって、現職時代の事務所体制を終結しました。事務所本体、ボランティア事務所、私設秘書が5人、という体制は、とても現在の財力では無理ですので、事務所本体と秘書1名程度の体制に変えることになります。どの程度の体制を維持できるかは、今後の党本部とのやりとりの結果次第、ということになります。
 私の事務所では、政治家事務所には珍しく、かなりのやせ我慢をして、雇用保険を含めて秘書全員の社会保険を完備しておりましたので、何とか気持ちよく事務所を縮小できそうです。

 さて、選挙が終わってから、いろいろな場で「総括」をする機会がありました。その都度、いろいろなご意見をうかがってきました。「水島を支持しているとわかると、自治会から声がかからなくなる」という「村八分」現象が、栃木一区ではまだまだあちこちで報告されています。また、「水島は六本木ヒルズに住んでいる」というデマは、泉町(宇都宮の飲屋街)で毎晩のように語られていたそうです。「自民党は、日頃の飲み会の一つ一つが、結果としては選挙運動になる」と、支持者の方がいみじくもおっしゃったように、自民党ネットワークが地域のネットワークとどれだけ一致しているか、というのは、野党サイドで選挙をやった人間しかわからないかもしれません。

 最近、全ての「総括」が書かれていると思う本に出会いました。

「50回選挙をやっても 自民党が負けない50の理由」(土屋彰久著、自由国民社 1400円+税)

という本です。
 2004年7月に発行されたこの本を、ひょんなことで読み始めたのですが、私がこの6年間に身をもって体験したこと、そしてうすうす気づいていたことが、整然と書かれています。

 著者は、「むすび」の中で、本書の内容について「これは全く勝手な憶測だが、ある部分では納得し、ある部分では疑問を覚えたという人が大半であり、しかも人それぞれで、納得した部分、疑問の残った部分は違うのではないかと思う。ついでに憶測を重ねさせて欲しい。あなたが納得した部分というのは、他の部分に比べて、あなたがより多くの知識を持っていたり、日頃から関心を持っていた分野のものではなかったろうか?」と書いています。

 この6年間、政治活動に専念してきた立場からは、この本の内容はほとんどが「より多くの知識を持っていたり、日頃から関心を持っていた分野」ということになりますが、まさに、納得の連続でした。

 政治関係の本としては、近年まれにみるヒット商品だと思います。ぜひ皆さまもお読みになることをお勧めします。そして、この「50の理由」を覆すにはどうしたら良いのか、現実的なご意見をいただければ幸いです。