非暴力コミュニケーション(NVC)

★サマータイム★

 アメリカは4月からサマータイムになります。こちらではDaylight Savings Timeと呼ぶようですが、4月2日から1時間時間がずれます(始まる日は年によってまちまちのようです)。12月にこちらに来た頃は、夜6時に子どもを保育園に迎えに行く頃は暗かったのですが、この頃は7時ごろまで明るい毎日です。これで1時間時間がずれると、ますます明るい晩を楽しめるようになります。東京で育った私としては、朝がなかなか明るくならないのは馴染みませんが、仕事が終わった後にも明るいというのは楽しいことです(私は夜もセンターのグループに行くので、すべてが終わる頃にはさすがに暗くなりますが)。
 ただ、平年であればとっくに終わっているはずの雨季がまだ終わらず、相変わらず嵐などが続いているのには閉口しています。気温もあまり上がりませんし、カリフォルニアらしい日差しを楽しめるのにはまだ時間がかかりそうです。先日はあまりにも珍しい雪まで降って大騒ぎになりました。私の周囲のアメリカ人は、「地球が温暖化しているのに、なぜここだけ寒くなるのだろう」と不思議がっています。

★非暴力コミュニケーション(NVC)★

 さて、今日は、「非暴力コミュニケーション」について少々ご紹介したいと思います。バイロン・ケイティの「ワーク」と同じく、アティテューディナル・ヒーリングと直接関係のあるものではありませんが、きわめて親和性の高い内容を持つものです。また、対人関係療法を通してコミュニケーションの問題に取り組んできた私には、とても納得のいくものです。

 アティテューディナル・ヒーリングにしても、バイロン・ケイティにしても、そして今日ご紹介する「非暴力コミュニケーション」にしても、いずれも、個々人の「意識」に焦点を当てたものです。ものの受け止め方、自分の感じ方については、自分自身が責任を持たなければならない、という考え方が基本にあります。

 これは、とても大切な考え方だと思います。歴史を振り返っても、一番危険なのはヒトラーや小泉純一郎のようなエキセントリックな人物ではありません。そういう時代に、ほとんど無意識のままに流されていった人たちが、一番危険だと思うのです。「だって、社会がこんなだから」「だってうちの国の首相は異常だから」というような理屈で、自分の意識を問い直すこともせず、そのまま流されていくことが、歴史の流れを作ってきたのです。

 実は、これは国家レベルの話だけではありません。例えば、DV(ドメスティック・バイオレンス)などについても、加害者が「だって妻が私を怒らせるようなことをしたから」「私のプライドを傷つけたから」というような理屈を述べるのが常です。「妻がやったこと」と「自分の感じ方」を無条件に結びつけているというのが大きな特徴です。

 「非暴力コミュニケーション」は、このような結びつけ方を問い直すものです。そして、相手について何かを決めつけるのではなく、自分自身の感情や要求を表現するようにします。
 例えば、相手が自分に挨拶をしなかったとき。
「挨拶もしないで何という失礼な人間だ」と怒るのは、非暴力コミュニケーションではありません。相手を裁いているだけだからです。

また、「あなたは私を無視した」とか、「私をないがしろにした」というのも、非暴力コミュニケーションではないのです。まだまだ、重点が相手側にあって、自らの内部の感情を表現できていないからです。

 非暴力コミュニケーション的に言うとすれば、「あなたが挨拶をしてくれなかったとき、私は悲しかったし腹が立った。なぜなら、人から尊重されたいという私の要求が満たされなかったから」というような内容を述べるのです。

 あなたが相手側の立場だとして、「挨拶もしないで何という失礼な人間だ」といきなりののしられるのと、「あなたが挨拶をしてくれなかったとき、私は悲しかったし腹が立った。なぜなら、人から尊重されたいという私の要求が満たされなかったから」という趣旨を述べられるのと、どちらを暴力的だと感じるでしょうか。そして、どちらであれば、自己防衛に走らずに、もっと相手に対して親身になれるでしょうか。

  非暴力コミュニケーション(NVC)を始めたのはマーシャル・B・ロゼンバーグ(Marshall B. Rosenberg, Ph.D.)ですが、彼の本の序文で、アラン・ガンジー(マハトマ・ガンジーの孫。ガンジー非暴力研究所の創設者兼代表)は、祖父との思い出を述べています。非暴力主義で知られるガンジーですが、身体的な暴力だけに注目していたわけではありません。むしろ重要なのは心理的な暴力であって、身体的な暴力はその一つの爆発の形であり、身体的な暴力に「燃料を供給する」のが心理的な暴力だということを述べていたそうです。ですから、日ごろのコミュニケーションをいかに非暴力的に行うか、ということにマハトマ・ガンジーも力点を置いていたそうです。ガンジーの哲学は「社会にもたらしたい変化に、まず自分がなるべきだ」というものですが、暴力のない世の中を作りたいのであれば、まず自分が使う言葉から気をつけなければならないということでしょう。

  政治の世界においてこれは特に重要なことであると同時に難しいことなのですが、不可能なことではないと思っています。現在、この点で尊敬できるハワイの上院議員といろいろなやりとりをしていますし、6月末にはハワイを訪問して懇談することになっていますので、またご報告いたします。

 非暴力コミュニケーションにご関心のある方は、
http://www.cnvc.org/index.htm へどうぞ。英語のウェブサイトです。
 私が知る範囲では、まだ日本語訳された本はないようです。

 アメリカに来て良かったことの一つに、しっかりした本をたくさん読めるということです。日本における出版業界の斜陽ぶりは目に余りますが、自分の著作を出すときにも「一文ごとに改行してください。そうしないと日本の読者は読みませんから」と言われたことがあります。200ページ以上のペーパーバックを普通に読みこなしているアメリカ人を見ると、国の将来の違いが見えてくるようです。また、アメリカでは、本を読むのが苦手な人のために、カセットテープやCDも大変はやっています。

 日本語で非暴力コミュニケーションについてもっと知りたい、というご希望が多いようでしたら、このメルマガでもまたご報告させていただきます。

アメリカ報告10 ――「許し」、アティテューディナル・ヒーリングの原則6――

 さて、今日はアティテューディナル・ヒーリングの原則の6「私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる」をご紹介するのですが、いよいよ「許し」がテーマになります。
「許し」という言葉は、どちらかというとキリスト教文化でよく聞かれる言葉で、日本人にはあまりピンとこないかもしれません。また、なんとなくうさんくさげに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、アティテューディナル・ヒーリング流に「許し」を考えると、実はこれこそ心の健康の中核であることがわかります。特に、虐待や性暴力やいじめなどのトラウマ被害についてはとても重要な概念です。
これを読んで、「え? 虐待を許すの?」と思われた方も多いかもしれません。私も最初はそんな違和感を抱いていました。でも、もちろんそういう意味ではありません。

 被虐待経験のある人で、未だに心が癒されていない人は、往々にして、「許し」を終えていません。加害者に対しても、そして、被害者である自分に対しても、です。自尊心に問題を抱えているというのは、まさにその証拠です。虐待の事実を思い出すと今でも辛くなり、過去を消せない限り自分は幸せになれないと感じたり「親に愛されなかった自分には何か根本的な問題があるのだ」というふうに感じたり、特に性的虐待の被害者などで「自分は汚れた存在になってしまった。もう誰からも愛される資格はない」と感じたりするのです。

 ここで「許す」ということがどういうことかというと、過去の出来事にともなうネガティブな感情を手放すということです。過去を忘れるということでもありません。また、出来事を正当化したり「仕方がなかった」と認めたりすることでもありません(ただ、虐待の場合など、「許し」を経て、親が置かれていた状況を同情的に見ることができるようになることはあります)。そうではなく、過去の出来事にとらわれている限り自分の心に平和が訪れないということを知り、とらわれを手放す、ということなのです。

 その結果、過去の出来事は記憶しているけれども、それが自分の価値を下げるようなものではなかったということを理解できるようになります。単に自分に起こった不幸な出来事だったというふうに位置づけられるようになります。さらに踏み込んで、相手側の問題だったのだと理解できるようにもなります。過去へのとらわれを手放さなければ、いつまでも過去の出来事によって自分を苦しめ続けるということが理解できるようになるのです。

 アティテューディナル・ヒーリング・センターのグループには、すでに「許し」を終えた人と、「絶対に許すものか」という状態の人が、一緒に参加しています。「許し」を終えた人の自由で明るい様子を見て、まだ許す気になれない人は、「私は絶対に許さない。許したら私の人生の意味がなくなる」と言いながらも、「でも、許さないでいることが私の気持ちを苦しめていることはよくわかる」と話すようになります。以前「怒り」のところでお伝えしましたが、許さないでいることによって相手を苦しめているつもりが、実際のところは自分自身に毒を盛っているということがわかるようになるのです。

 センターのグループではもちろん「早く許した方が良いですよ」などというアドバイスはしません。安全な環境で気持ちを分かち合えるようになると、いずれ、人は許しに達することができるという基本的な信頼が根底にあります。

 繰り返しになりますが、「許し」というのは決して自分に傷を与えた相手の行為を「大目に見る」ことではありません。いじめの被害者が「いじめられた自分にも非があった」などと自虐的になることでも全くありません。いじめられたという事実を忘れ去るということでもありません。いじめという行為が加害者の「怖れ」によって起こされるということを理解すると共に、いじめという経験を経てもなお、自分には心の平和を選択する力があるということを認識する、というイメージでしょうか。ですから、虐待の被害者が、自らの被虐待体験を「許す」と共に、虐待をなくすための活動を続ける、ということは十分に可能な話です。わかりにくいかもしれませんので、ぜひご質問ください。

 では、以下に、この箇所について、パッツィの本の翻訳をご紹介します。

☆☆☆

6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。

 私たちは他人を裁くときにはいつも、自分自身のことも裁いているものです。アティテューディナル・ヒーリングでいう意味での許しは、他人の行動を大目に見たり賛成したりすることを意味するのではありませんし、その人が悪いことをしたと感じる自分自身をとりあえず脇において相手を許すことを選ぶという意味でもありません。単に、許しというのは私たちの誤ったものの受け止め方を明らかにするための手段だという意味なのです。

 単純に言うと、「許しとは手放すこと」、つまり、心を乱す原因となる信念へのしがみつきをやめるという選択です。自分について言えば、苦しむのをやめて自分を充実させるために、まずは責任をもって自分自身を十分に愛する必要があります。

 「攻撃」を例に挙げてみましょう。A Course In Miracles(奇跡のコース)には、他人を見る際に役立つ考えが記されています。それは、その人は私たちを攻撃しているのではなくて、助けを求めているか愛を必要としているのだという見方をするというものです。人間関係においては、これは最も難しい原則であることが多いものです。なぜかというと、私たちのエゴは、「攻撃されている」と言うからです。でも、本当のところは、それは真実ではなく、私たちがそう受け止めているだけなのです。

 受け止め方というのは、意欲を持って集中すれば、自分で変えることができるものです。自分は愛でできているとみなすことができるようになれば、自分を防衛する必要もなくなり、他人を違う形で見ることができるようになります。このことに気づき始めれば、何かしら自信がなかったり足りないと思ったりするところにおいてだけ、私たちは「ボタンを押す」ことができるのです。

 自分はこれで良いのだと思えるときは、他人のふるまいについてもあまり問題にならなくなるものです。もう一度言いますが、自分は攻撃されていると感じるのは、自分自身の受け止め方に過ぎないのです。自分自身を防衛する必要すらなくなるように、強力な愛のエネルギーで満たされることを選ぶことができます。
 
☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

民主党の男女共同参画オンブッド会議報告とテニス

 私が民主党の男女共同参画委員長になって新規企画として立ち上げた男女共同参画オンブッド会議ですが、この難局を乗り越えて、報告書がようやく形になって3月13日に代表に手渡された、というお知らせを西村ちなみ衆議院議員からいただきました。

 今の民主党の状況を見ると、代表に手渡されたからどうなるのだろう、という気がしないでもないのですが、日本の政党として自らを男女共同参画という観点から第三者評価してもらったというのは初めてのことですから、価値のある記念すべきことだと思います。また、この報告書の結果を踏まえて民主党が何をしたかということを検証しながら、このオンブッド会議がこれからも続くことを強く期待します。

 私が心をこめて人選させていただいた有識者の方たちによる報告書ですので、皆さまもぜひご一読ください。
 民主党ホームページで読むことができます。
 http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.html

 このページのタイトル右下「>>オンブッド会議報告書(PDF2.83MB)はこちら」というところから報告書に入れます。(直接報告書に入りたい方は       http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.pdf へどうぞ)

 私自身も西村議員からお知らせいただかなければ民主党がそんな催しをやったことは気づかずに過ごしていたと思います。まあ、今は海外にいますので、情報という意味ではもちろんハンディキャップがあるのですが、それでも、インターネット時代ですから、主要なニュースは簡単に入ってきます。

 現職議員時代から、いろいろと努力しているのに、どうしてメディアは取り上げてくれないのだろう、という気持ちを抱いてきました。
メディアは明らかに異常です。先日、日本に一時帰国したときにそれを痛感しました。私が日本にいたのは2月23日午後から26日午後まででしたが、その間の報道は民主党メール問題と荒川選手の金メダル一色でした。これでは日本人の価値観が一食に染まるのも仕方がないと思いました。

 こうしたメディアの問題は確かにあるのですが、それと同時に、メディアの責任だけに帰するべき問題でもないだろうと思ってきました。

 男女共同参画政策や子ども関連の政策では明らかに民主党のほうが質は良いと思いますが、政治と特に深いかかわりのある方でなければそれを知りません。つまり党としてのイメージになっていないのです。「男女共同参画といえば民主党」という雰囲気になれば、オンブッド会議のことももっと注目されるでしょう。

 西村議員にメールの返事を書きながらふと思い出したのが、自分の大学時代です。私は医学部の体育会で硬式テニスをしていたのですが、基礎体力のためのトレーニングばかりしていて、結局テニスは上手になりませんでした。その代わり、体力だけはやたらとついたので、選挙の時にはいくら走っても平気でしたが・・・。

 テニスの試合に強くなるためには、基礎体力は絶対に必要です。一見器用に球を操る人でも、走りこんでいないと、本格的なシングルスには勝てません。でも、基礎体力だけではテニスの試合に勝てないことも事実です。つまり、必要条件だけれども十分条件ではないということです。

 政党にとっての個別政策も基礎体力と同じで、必要条件だけれども十分条件ではないということなのだと思います。
でも自民党には政策などないのでは? と思われるかもしれませんが、自民党に政策はなくても、官僚組織には(質の良し悪しはさておき)政策がありますので、土俵には乗ってくるのです。

 なぜテニスのことなど思いついたのかよくわかりませんが、「基礎体力さえつけていればいつか試合に勝てる日がくるはず」という幻想を捨てて、基礎体力をさらに充実させながら、もう一つの次元に挑戦していかないと、「男女共同参画といえば民主党」「生活者重視といえば民主党」「子どもの味方といえば民主党」というふうにはならないだろうなとしみじみ思いました。そして、この問題意識を持ち続けないと、基礎体力トレーニングが単なる自己満足に陥ってしまうことを危惧します。

アメリカ報告9 ――怒りについて、アティテューディナル・ヒーリングの原則5――


 前回のバイロン・ケイティの「ワーク」については好意的な反応をたくさんいただき、ありがとうございました。また折を見て、ワークについては続編を書きたいと思います。

 「怒り」について少々補足しておきたいのですが、このワークは怒りから目を背けることを目的としたものではありません。あくまでも、怒りによって自分が損なわれないようにするためのものです。

 アティテューディナル・ヒーリングの創始者であるジェラルド・ジャンポスルキー博士がどこかに書いていたと思いますが、私たちは、食べ物などについては有害なものを摂取しないようにとても気を遣うのに、どうして自分の心の中に抱く感情については有害なものを平気で選んでしまうのだろうか、ということなのです。健康を損なうという意味では、食べ物と同じか、それ以上の意味を持つと思います。

 「許し」についてはいずれ改めて取り上げますが、たとえば、ある人を許せないとします。その人への怒りを抱き続けることで、その人を呪い殺したい、というような気持ちになることもあります。でも、その結果、健康を損なうのは相手ではなく自分自身であるということが往々にして起こるのです。相手に毒を盛ったつもりが、自分自身が毎日せっせと毒を食べていた、ということなのです。

 このことについては、精神神経免疫学が発達して、ネガティブな感情を持って自らを抑え込むことが免疫能に悪影響を与えることが科学的にも証明されてきました。うつ病になると風邪をひきやすくなることも示されています。

ポイントは怒りを否定することではないのだいということは、前々回にご紹介したパッツィ・ロビンソンの翻訳の中にも、次のように書かれています。

 怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。

 つまり、怒りを感じることが問題なのではなく、それにとらわれ、しがみつくことが問題だということなのです。

 でも、怒りを抱き続けることこそが、変化に向けてのエネルギーなのでは? と思う方もいらっしゃるでしょう。歴史を見ても、何らかの進歩の影には大衆の怒りがあったのだ、と。

 自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識することは必要だと私は思います。前回の「ワーク」の説明でも、それまで正当化することはないのだ、ということを強調させていただきました。必要なことは、自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識し、変化に向けての現実的なステップを踏んでいくということであり、怒りにとらわれて自らの健康まで損なうということではないはずです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識することと、それに対して怒りを抱き続けることは、決して一体化したものではないのです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識してもなお、怒りを手放すという選択があるのです。

 また、変化を起こすには、多くの人の共感を得る必要があります。怒りにとらわれて、他人から自らを切り離してしまうと、とても目標は達成できません。ガンジーがなぜ非暴力独立を実現できたかというと、怒りにとらわれていなかったからです。イギリスに侵略されていることが理不尽であることを彼は十分認識していましたが、そのイギリス人の心に訴えかける力すら持っていたのですから。

 一方、カンボジアにおけるポルポトの悲惨な歴史を見ても、怖れや疑心暗鬼に基づいた「改革」ほど怖ろしいものはないと思います。また、ここのところ日本で起こっている「バッシング」も、非生産的な怒りの好例だと思います。

 怒りについては、「許し」を述べるときに、もっと書かせてください。

 さて、中断していたアティテューディナル・ヒーリングの原則に戻りますが、例の翻訳が「難しい」とあまり評判が芳しくないので、翻訳は毎回1項目のみ紹介させていただき、私の解釈やセンターでの体験を補足させていただきたいと思います。

 ちなみに、先日、ジェラルド・ジャンポルスキー博士の強い勧めでパッツィ・ロビンソンに会ってきましたが、本当にすてきな人でした。慢性的な呼吸器疾患で酸素吸入をしていましたが、「すべてのことには理由があるのだから、私のこの健康状態にも必ず理由があると思っている」と前向きにとらえ、何かを学ぼうとしていました。
 また、私に対して「あなたの光は世界で明るく輝いている」と書いてくれました。部屋に入ってきたときにそう感じたから、と言っていました。光栄です。

 今日は原則5「あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある」の翻訳をご紹介します。「あるのは今このときだけ」というのは、パワフルな原則です。そして、「今この瞬間」にとどまる、ということは、センターでの大きなテーマです。考えが過去や未来に飛んでしまって、今いっしょにいる人の話に集中できない、という経験は誰もがしていると思います。その結果、「今この瞬間」の質が損なわれ、それが満足できない過去を作り、未来への不安をさらに膨らませる、ということになると思います。「今この瞬間」に、どれだけ与えられるか、ということが人生の質を決めると言っても過言ではないでしょう。

 「未来を手放す」ことも重要です。これは、子育てなどではよくある話ですが、「子どもの未来のために」と、「今」を犠牲にしてしまいがちです。子どもの未来のためにお金をためておこうと、親が働きづめで、親ともっとコミュニケーションしたい子どもの「今」が犠牲になる。あるいは、「こういう子になってくれないと将来困る」と子どもに理想の姿ばかり押しつけて、「今」の子どもを見てあげられない。寂しい子どもは薬物に走ったりして、結局、子どもの未来すらだめにしてしまうのです。

☆☆☆

5 あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある。

 この原則は、私たちが今のこの瞬間にとどまれるようにと作られたものです。私たちはすぐに、過去のことを考えたり将来への不安を膨らませたりしてしまうものです。こうなってしまうと、私たちの心は往々にして平和でなくなります。これが認識できれば、自分の気持ちの焦点を、平和を経験できる現在へと戻すことができます。私たちが現在にとどまっていれば、全ての出来事に一番良い形で対応することができます。現在でないところにいると、ものごとを決めることができません。本質的には、あるのは今このときだけなのです。愛のエネルギーが私たちからあふれ出すのも「今」です。私たちが決めつけることなく何が起こっているかをはっきりと見ることができるのも「今」です。

 私たちは外で起こっていることをコントロールすることができません。それをやろうとすると決して平和な気持ちにはなれません。でも、私たちは自分の考えをコントロールすることならできます。受け取ろうとする気持ちから与えようとする気持ちへと変えていくと、外で起こることについても明らかな変化が起こることに気づくようになります。

 私の今までの経験の中で、起こり得ることの例として最も深いものは、「平和の教師としての子どもたち」というグループ、そしてその創設者であるジャンポルスキー博士と共にモスクワに行ったときのことです。私たちはソ連の青年組織の代表とともに、記者会見をしていました。その青年代表は、45分間にわたって、米ソの関係が良くならないのはどれほどアメリカの責任であるかということなどを演説しました。私たちは皆彼の話を聞きました。そして、彼が子どもたちに質問はないかと尋ねたところ、子どもたちはその青年が考えもしなかったやり方で応えたのです。子どもたちは一人ずつ、ロシア人がいかに私たちに対して親切だったかを青年に伝えました。今回の旅でロシア人から受けた親切なもてなしの話をアメリカ人が聞いたら、戦争はなくなるだろうと言ったのです。さらに、子どもたちそれぞれがチェルノブイリ災害への寄付を申し出ました。

 それぞれの子どもが心から話をすると、その青年は美しい変化をとげました。彼の顔は柔らかくなり、色鮮やかになりました。目はうるみました。とても警戒した状態から、とても共感しやすい状態になりました。私はミーティングが終わった後で彼のところに行って話しました。彼は、来てくれて本当にありがとうと言い、部屋に入ってきたときとは違う人間であることが私の目には明らかでした。私も、また、違う人間になっていました。私はとても感動していました。どれほどの障害があるように見えても、平和な関係を持つことは実際にできるのだということを心の底から感じたからです。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカ報告8 ――米国の刑務所で「ワーク」をやってきました――

 3月6日、カリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所(男子刑務所)に行きました。「ワーク」というグループのためです。
これは、アティテューディナル・ヒーリングそのものではないのですが、アティテューディナル・ヒーリングで長い間中核的な役割を果たしてきたキャシーという女性が橋渡しをしてくれているものです。

 「ワーク」を考えたのは、バイロン・ケイティという女性です。彼女は、自らがうつで悲惨な状態に陥っていたときに、突然、真実に目覚めた人です。真実というのは何かというと、自分を苦しめているのは現実そのものではなく、現実に逆らおうとする自分の思考だということです。現実がいかに望ましくないものであっても、現実は現実なのですから、「こうあるべきではない」という思考にとらわれてしまうと、自分が苦しむという単純な理屈です。そして、その思考を問い直すための「ワーク」を、世界中に広めています。彼女の最初の著書Loving What Isは名著ですが、日本語にも翻訳されているようです。(人生を変える4つの質問(アーティストハウスパブリッシャーズ))

 私自身も、定期的に「ワーク」のグループに参加して学んでいますので、皆さんのご関心があればもっとご紹介する機会を作りたいと思います。単純ですが、とてもパワフルな手法だと思っています。

 バイロン・ケイティの直弟子(?)にあたるキャシーが、毎週月曜日に刑務所で「ワーク」をやっているというので、私も連れて行ってもらいました。

 刑務所の様子は日本と大差なく、こちらでも過剰収容の問題を抱えているようです。ただ、お国柄か、日本よりはそれぞれが伸び伸びと過ごしているような印象を受けましたし、受刑者が私たちに気軽に声をかけたり挨拶をしたりしてきます。
グループに参加できるのは、開放房(200人以上が巨大なドームに寝泊りしている)に入っている人たちだけだそうですが、そこに参加者を呼びに行くと、「「ワーク」っていうのは、何のワークだ」と、興味津々で近づいてくる人も結構いました。

 グループに参加して、私も一参加者として一緒に作業をしたのですが、なかなか感動的なグループでした。

 「ワーク」の代表的なやり方は、こんなふうです。
 まず、自分が頭に来ていることや不快に思っていることを文章にします。
「・・・なので、私は○○に腹を立てている」という具合です。
それから、この「・・・」の部分だけを抜き出して、「入れ替え」をするのです。

 たとえば、受刑者の一人が、
「私たちを意味もなくロックダウンしているので、管理者に腹が立つ」という文章を作ります。ロックダウン(封じ込め)というのは、私も今日はじめて知ったシステムですが、刑務所では、何かしらの暴動が起きると、それを起こした「人種」が、一定期間グループへの参加などを許可されなくなるのです。人種単位でのこんな懲罰がなぜ許されるのか理解できませんが、暴動にかかわりのない人も、同じ人種であるというだけの理由でロックダウンの対象になります。ちなみに、今日はヒスパニックの人たちがロックダウン中で、グループには白人と黒人しかいませんでした。

 自分には何の落ち度もないことで懲罰を受けるというのはいかにも理不尽なことで、これに腹が立つというのはいかにも正当な怒りです。
 でも、「ワーク」では、こんなふうに考えます。まず、「・・・」として抜き出されるのは「管理者は私たちを意味もなくロックダウンしている」になります。

 「ワーク」で要求される「入れ替え」は、4通りあります。
(1) 自分と相手との入れ替え
(2) 自分自身に向けて
(3) 正反対への入れ替え
(4) 「自分の思考」との入れ替え

 まず、一番簡単な(3)からやってみます。正反対にすると、「管理者は私たちを意味もなくロックダウンしていない」というふうになります。この文章を作ってから、3つの根拠を考えてみます。たとえば、「ロックダウンはさらなる暴力の発生を防ぐので、意味がないわけではない」「彼らは単に決められたことをやっているだけであり、意味なくやっているわけではない」「暴動は確かに人種単位で起こることが多いので、安全の確保という観点からはまったく無意味でもないかもしれない」・・・という具合にです。
 
 ここで重要なのは、何もロックダウンを正当化する必要はないということです。「完全に無意味」というよりは多少ましな根拠を思いつけば、それで上等です。

 次に(4)ですが、「私たちの思考は私たちを意味もなくロックダウンしている」というふうになります。この根拠になるのは、管理者への怒りにとらわれてしまうと、不快なエンドレス・テープを聞かされているようなもので、他の健康な活動ができなくなります。ですから、自らの思考が自らを封じ込めてしまう、というのはその通りだということになります。ここでも管理者を正当化する必要はありません。でも、「管理者が理不尽なことをしたら私たちは怒らなければならない」という思考に取りつかれてしまうと、私たちの自由が奪われるということです。
 (2)は「私たちは私たち自身を意味もなくロックダウンしている」というふうになり、これは(4)とほとんど同じです。

 そして(1)は「私たちは管理者を意味もなくロックダウンしている」となります。一瞬戸惑いますが、これにもまた真実があり、私たちが怒りにとらわれてしまうと、管理者とのやり取りの選択肢が狭まりますし、管理者が私たちに対してできることの可能性を減らしてしまうことにもなるのです。
 
 この「入れ替え」の作業を、バイロン・ケイティは、「轍にはまったタイヤを前後に動かしてみる作業」と呼びます。ただ読み流していると「そんな簡単なことで自分の気持ちは変わらない」と思うかもしれませんが、実際に自分の問題を文章に書いて「入れ替え」をしていくと、本当に目が覚める思いがするものです。ぜひ、試してみてください。

 この「ワーク」の考えは、アティテューディナル・ヒーリングの中核である「物事のとらえ方はいつでも自分で選択することができる」という考え方と共通します。「いやなことがあったから怒る」というのでは、自動操縦の飛行機と同じで、まさにロボットです。いやなことがあっても怒らないという選択肢があるのです。「ワーク」でも、それを教えていると思います。

 これが受刑者にどういう影響を及ぼしているかというと、それは計り知れないものがあります。グループの中での受刑者たちのやり取りだけでも十分に感動的でしたが、グループ外でも、他人の怒りに自動的に反応してケンカばかり起こしていた人が、他人の怒りに対してただ首を振って静かにしている、という変化が報告されていました。また、刑務所に入るまでは怒りのコントロールが課題だった人が、今では怒りをコントロールできる自信があるといっていました。なぜかというと、「ワーク」を通して、「自分はマッチョでいる必要はない。泣いても、感情的になってもオーケーだということがわかったからだ」と教えてくれて、とても感動しました。「自分が一番尊敬する人」をテーマにしたエクササイズもありましたが、そのときに、グループリーダーであるキャシーの名前を挙げている人がいたのも微笑ましかったです(なにしろむくつけき男性ばかりですから)。

 生育環境の中で怒りがコントロールできるということをどの大人も示してくれなかった、だから自分はここにいる、ということを言っている人もいました。でも刑務所に入ったおかげで「ワーク」に出会うことができたということを参加者はみな肯定的にとらえており、希望を見出すことができました。日本ではもちろん刑務所に入っても「ワーク」に出会えないので残念です。これは明らかに再犯防止にもプラスになるはずです。

次期衆議院議員選挙栃木一区からの立候補について

 2月26日、一時帰国して参加した「水島広子と歩む会総会」において、以下の文書を公表させていただきました。県連幹部の方たちのご判断だと思いますが、2月21日付の下野新聞の1面トップに「水島氏 1区出馬せず」の大きい記事が載ったようです。突然の新聞記事に「どうなっているんだ」というお尋ねもいただいてまいりましたが、以下が私が皆さまに直接ご報告したい内容です。本来は、もっと日本で時間のとれるときにご報告すべき内容であるのはもちろんですが、いろいろな事情を考慮した結果、この時期のご報告となりました。

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次期衆議院議員選挙栃木一区からの立候補について

 水島広子と歩む会の皆さまには、今まで衆議院議員としての活動を共に歩んでいただきありがとうございました。改めまして心から感謝申し上げます。

 おかげさまで、任期五年の間に、おそらく他の議員では実現できなかった領域の成果をいくつも上げさせていただきました。これもすべては、一九九九年の十月に移り住んで以来、二度にわたって国政へと送り出していただいた栃木一区の皆さま、特に主体的なご支援をくださった水島広子と歩む会の皆さまのおかげです。

 昨年九月の総選挙で議席を失って以来、今後の政治とのかかわり方を自分なりに考えてまいりました。多くの方から、ぜひ栃木一区から再出馬するようにという温かいお励ましもいただいてまいりました。大変ありがたいことです。

 栃木一区においては、本当にすばらしい方たちとの出会いをいただき、一生の財産とも言えるような関係を築かせていただいたことを感謝しております。その一方で、落下傘候補としてこの地にまいりました私は、「宇都宮に住んで初めて代弁者たり得る」と思ってまいりましたし、そのための努力を続けてまいりました。しかし、国会での活動が本格化するにつれ、国会で最大限の成果を上げながら家族そろって選挙区に居住するということはほとんど不可能であることがわかりました。

 そんな中でも選挙区の皆さまとの関わりを最大限に確保できるように、家族の理解と協力を得て、週日は議員宿舎、週末は宇都宮、という移動生活を家族そろって続けてきましたが、宇都宮に移り住んだときには一歳であった娘も小学校二年生となり、連続して過ごせる自分の地域を必要とする年齢になりました。六年半前とは異なり、栃木一区の代弁者として小選挙区から立候補できる環境にはなくなったと判断せざるを得ません。また、候補者が選挙区に居住しているかどうかが唯一の争点になってしまうような選挙は、民主主義の成熟のためにも望ましいものではありません。

 子どもたちが健康な心をもって成長できる社会の実現という目標に向ける思いは政治にかかわる前よりもむしろ強くなっております。栃木一区からの立候補という選択肢を断念せざるを得ない現状を踏まえた上で、自分にできることを考えながら前進を続けたいと思っています。現在米国で研修中のアティテューディナル・ヒーリングからは、そのためのヒントをたくさん学ばせていただいていると感じています。もちろん、自分にできる範囲で、政治にもかかわってまいりたいと思っております。

 今までいただきましたご支援に心より感謝申し上げますと共に、今後ともご指導をいただけますようお願い申し上げます。メールマガジンでの活動報告はこれからも続けさせていただくつもりです。

 最後になりますが、皆さまのご健康とご活躍を心よりお祈り申し上げます。

二〇〇六年二月二十五日               水島広子

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 総会の後の記者会見では、「つまり、今は政治よりも育児ということですか?」というご質問をいただき、私の文章のつたなさを恥ずかしく思った次第ですが、もちろんそんなことが言いたいわけではありません。

 政治というものの性質を考えれば、当然育児真っ最中の人間でも参加できるべきだと思っていますし、自分自身、育児中の立場だからこそ提言できたことが多々あると思います。

 記者の方に説明申し上げたのは、「自分の目標を達成するための仕切り直し」ということです。本来何のために政治を志したのかということは一刻たりとも忘れたことがありませんが、それを考えればこそ、そのための環境調整に自ら努めるべきだと思っています。

 幸い、お忙しい中駆けつけてくださいました「水島広子と歩む会」の皆さまには、真意を理解していただき、とても温かいお言葉をいただきました。私が栃木一区から出馬しようとしなかろうと、この後援会活動を通してできたネットワークを生かして、栃木に新しい力をつけていきたい、という前向きなご提言もいただきました。
 
 また、私は現在米国での勉強に専念しており、今後は全く白紙の状態ですが(下野新聞の記事によると、すでに他の形での立候補が視野に入っているかのように読めますが、そういうことではありません)、今後どんな活動をしようと支援を続けてくださる、という温かいお気持ちを皆さまからいただきました。

 改めて、「水島広子と歩む会」の皆さまのご見識の高さに感激すると共に、こういう方たちに支えていただいていたからこそ、充実した5年の任期を全うすることができたのだ、と改めて感謝しております。

 明日の午後にはまた飛行機に乗って米国に戻り、活動報告を続けさせていただきます。
 慌ただしいご報告で申し訳ございませんが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

アメリカ報告7 ――AHの原則2~4――

 前回に続き、パッツィ・ロビンソンの「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の翻訳をご紹介したいと思います。今回は原則2から4をご紹介します。わかりにくいところはぜひご質問ください。

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2 健康とは心の平和であり、癒しとは怖れを手放すこと。

心の平和を感じるためには、まずそれをただ一つの目標にすることが必要です。そうして初めて、障害物を取り除いていくことができるのです。

 私たちにはいろいろな感情があります。それらはすべて怖れに関連したものですが、私たちから見るといろいろな形をとっています。怒り、嫉妬、罪悪感、落ち込みなどは、常に私たちの中で起こっています。これらの感情とどのようにつき合っていくかを決めるのは自分自身なのだということを知っておくのは大切なことです。無力な被害者になることもできますし、このような気持ちを変えることもできるのです。心は私たちが持っている最も強力な手段であって、自分を傷つける気持ちを変えるために使うことができるのです。

 そのためには、変化に向けての意識と意欲を持つことが必要です。自分たちの心の声に耳を傾けるのです。心の声というのは、エゴが支配している自分ではなく、もっと高次の自分とつながっているものを意味します。真実を、裁くことなく教えてくれる声です。次のステップは、感情を体験することです。

 たとえば、怒りが起こるのを感じたとき、それと「接触してみる」ことが大切です。「接触してみる」というのは、それを感じ、認め、優しくすることを意味します。怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。

 驚くべき女性が約10年前にセンターにやってきました。彼女は、9歳の娘が重症の白血病と診断され、打ちのめされていました。ジェリー・ジャンポルスキー博士と会った彼女は、「実は、この瞬間にも、あなたが感じているような痛みではなく心の平和を選ぶことができる」と言われたのです。彼女は、何とか、彼が何を言おうとしているのかを理解し、即座にものの受け止め方を変化させることができたのです。

 この女性はやがてセンターの熱心なボランティアとして何年も活躍し、彼女と同じ体験をした大勢の親たちを助けることができました。これは何も、親たちが完全に打ちのめされているときに「あなたは心の平和を選ぶことができるのよ」と言ったという意味ではありません。そうではなく、どういう状況のときにも、親たちのために彼女がいた、ということなのです。そして自分自身の経験があったために、彼女は、どんな形であっても親たちの助けとなれるように、自分の内なる力を頼ることができたのです。このようにこの女性が即座に変化することができたのは、私にとって本当に目をひきつけられる経験でした。「なにごとも、不可能なことはない」ということを私に教えてくれたレッスンでした。

3 与えることと受け取ることは同じ

 世の中には、「与える人」と分類できる人がたくさんいます。与える人は、ふつう、受け取り方を学ぶのに苦労するものです。「受け取る人」もいて、受け取るのはうまくても、与え方をよく知りません。与える人は、ふつう、相手を操作しながら助けています。相手が期待にこたえないと、失望するのです。受け取る人は、反対に、次から次へと新たな要求を出して、決して満足することがないようです。どちらも、自分の要求を満たすものを外側の世界に探しており、自分の内側には空虚感を抱えていることが多いものです。

 アティテューディナル・ヒーリングにおける与えることと受け取ることの定義は、別のところから来ます。エゴがありません。条件もつけず、期待もしませんし、どの人と愛を分かち合うかという境界線も引きません。他人を変えようという目標や意欲を持たず、他人から何かを得る必要がなければ、別のことが起こるのです。エゴも手放し、ただその人のためにあろうとすると、心の平和を感じられるようになるのです。

 他人と一体化していく感覚を持ち始めると、自分のことは忘れるようです。相手に心を向けていくと、自分の気持ちはあまり気にしなくなります。与えることと受け取ることが同じだという幸せを感じられるようになるのは、まさにこのときです。与えるものは尽きることがなく、どんどん満たされてくるのです。

 このような種類のやりとりは、センターのグループでは毎週起こっています。センターは、自分の心を他人に向けていくための安全な環境を作っています。グループでは自意識を忘れることができます。そして、そのプロセスを通して、愛によるエンパワーメントを受け、お返しを期待せずに相手に手を差し伸べることができるようになるのです。この時点で、助けられているほうの人はほとんど自動的に怖れや不安を手放すことができ、グループのほかの人たちと一体化することができます。人々が本当にこのモードに入ると、怖れが手放され、癒しが起こり始めるのです。

4 私たちは過去も未来も手放すことができる

 過去は学習のためにあります。すべての経験には価値があり、私たちの成長の糧になります。私たちがそのような見方を選択しさえすれば、ですが。私たちが「過ち」とラベルを貼ったことも、そこから学び、新たな一歩を踏み出すための経験に過ぎません。でも、過去に浸ることは私たちのためにはなりません。「過去にこれをやっておいたなら」とか「こうでなければよかったのに」というのは、私たちの邪魔になるだけです。

 事実は、私たちが現在に生きていて、「今」起こっていることに対処しなければならないということです。これは、つまり、私たちの心がしっかりと目覚めて生き生きしているように訓練しなければならないということです。過去や未来にタイムスリップしてしまうのはとても簡単なことですが、今この瞬間に生きていなければ本当の意味で生きているとはいえないのです。

 今の状況によって、未来は楽しみなものにも怖いものにもなります。いくらでも未来の不安に浸ることはできますが、心の平和がもたらされることはまずないでしょう。

 ここで重要な区別をしておかなければなりません。これは決して、未来に向けての計画を立ててはいけないという意味ではないのです。もちろん計画を立てるのは大切なことです。どのように区別するのかというと、未来に向けての計画を立てている間も、私たちの意識は現在にとどまっているということなのです。私たちは未来を予見することはできませんから、何が起こるか、何が起こらないか、ということに浸るのは生産的ではありません。私たちにできることは、予約をとるというように、未来に向けての自分の意思を決めておくことと、それが実際に現実のものになってきたときに、実現に向けてさらなるステップを踏むことだけなのです。

 この原則について重要なことは、過去の考えで役に立たないものや苦痛をもたらすものは、自分で選んで変えられるということです。そのためには、それに気づき、手放すための意識的な選択をすることが重要です。その考えがまた戻ってくるようだったら、また同じプロセスを繰り返すだけです。しがみついていたくないものが出てくる度に、テープを消すという新鮮な決意をすることができるのです。アティテューディナル・ヒーリングで特に価値のある考えの一つが、「私の心は苦痛をもたらす考え全てを変えることができる」というものです。自分のものの受け止め方を変えて新しい現実を作り出したいのであれば、これは強力な手段になります。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

★ 前回の内容について補足 ★

 前回の翻訳の中に「愛」とか「裁く」とか「エゴ」という言葉が出てきたので、宗教(特にキリスト教)との関係を問うご質問をいくつかいただきました。

 この一部は単なる翻訳のまずさの問題で、お詫びいたします。「裁く」の原語はjudgeです。キリスト教に見られる「神の裁き」ではなく、日常的によく使われている言葉です。英語の中で使っていると、自分の知識や価値観などをもって相手を判断したり評価したりする、という感じなのですが、「評価する」と訳しても「判断する」と訳しても、どちらもちょっと変な感じです。「自分の枠に当てはめる」「決めつける」というのが雰囲気的には近いのですが、judgeを全てそう訳すのもちょっと無理がありそうです。とりあえずよく訳される言葉である「裁く」(神の裁きではなく裁判官の裁きのほうのイメージで)としておきますが、より良い訳語の案がありましたら教えていただければ幸いです。

 肝心の宗教との関係の方を少しご説明します。いずれアティテューディナル・ヒーリングが生まれた背景について詳しくお伝えしたいと思いますが、アティテューディナル・ヒーリングは、「A Course In Miracles(奇跡のコース)」というスピリチュアルな本から生まれたものです。A Course In Miraclesは特定の宗教と関係のあるものではありませんが、アメリカで生まれた本だけあって、キリスト教の言葉を多用して書かれています。

 A Course In Miraclesを勉強していたジャンポルスキー博士がアティテューディナル・ヒーリングをスタートさせる際に心がけたことは、宗教を連想させる言葉をできるだけ排除するということだったそうです。なぜかというと、どのような宗教を持つ人も、また宗教を持たない人も、あるいは教会に対して嫌な思い出しか持っていない人も、アレルギー反応を起こさないようなものにしたかったからだということです。
 ですから、宗教との関係はない、と言ってよいでしょう。ただ、禅を含め東洋思想とは共通する内容も多いと思います。
 また、「エゴ」という言葉が出てくるので、大いなる神と罪深い自分、というキリスト教的構造なのかと思われるかもしれませんが、信じるべきは、「どこかにいる」神ではなく、自分が本来持っている高次の心であり、それを妨げているのが怖れに取りつかれたエゴなのだという構造になっています。
 「愛」については、こちらでは全く普通の言葉で、日本人が「愛」という言葉を使うときの「こそばゆさ」のようなものはないようです。

 今後もいろいろとご質問いただければ幸いです。

アメリカ報告6 ――アティテューディナル・ヒーリングの原則1――

 今日は、アティテューディナル・ヒーリングの12の原則を書きます。

1 私たちの本質は愛。
2 健康とは、心の平和(やすらぎ)。癒しとは、怖れを手放すこと。
3 与えることと受け取ることは同じ。
4 私たちは、過去も未来も手放すことができる。
5 存在する時間は「今」だけ。それぞれの瞬間は与えるためにある。
6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。
7 私たちは他人の欠点を見つけるのではなく愛を見つけることができる。
8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。
9 私たちはお互いに生徒であり教師である。
10 私たちは自分たちを分断された存在ではなく一つのいのちとしてとらえることができる。
11 愛は永遠のものなので、死を怖れる必要はない。
12 どんな人も、愛を差し伸べているか助けを求めているかのどちらかととらえることができる。

 これらの原則について、私の考えや経験をいずれお伝えしようと思いますが、まずは、パトリシア・ロビンソンという女性が書いた「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」という小冊子をご紹介したいと思います。アティテューディナル・ヒーリング・センターがジェラルド・ジャンポルスキー博士と4名の女性によって創設されたのは1975年ですが、その4名の女性の一人がパトリシア(パッツィと呼ばれています)・ロビンソンです。
 パッツィの小冊子は最近印刷されたもので、昨年10月の国際会議で配られました。現在もセンターにおいて1冊5ドルで配布されています。

 ちょうど皆さまにアティテューディナル・ヒーリングの原則をご紹介しようと思っていたところに、ジャンポルスキー博士から電話がかかってきて、「パッツィが病気で末期の状態なので、私は小冊子が彼女の遺言だと思っている。いろいろな国の言葉に翻訳してもらっているところだが、日本語に訳してもらえないか」という依頼がありました。もちろん快諾すると共に、インターネットでも紹介することを許可していただきました。

 そこで、少しずつ翻訳しながらご紹介していきたいと思います。わかりにくいところや疑問に思われるところは、ぜひご質問ください。

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☆ アティテューディナル・ヒーリングの定義 ☆

 アティテューディナル・ヒーリングというのは、単に、私たちの態度を変えるというものではありません。むしろ、物事を怖れる気持ちを手放すことを意識的に選択していくということなのです。アティテューディナル・ヒーリングは、自分、他人、世界を、裁くことなく見られるようになるためのスピリチュアルな道です。目標は行動を変えることではなく、変化のための最も強力な手段、つまり、「心」のあり方を変えることなのです。

 心の平和というただ一つの目標を持ち、「許し」の実行というただ一つの機能を果たしていくことは可能です。その中で、私たちは人間関係を癒し、心の平和を感じ、怖れを手放すことができます。自分の中にあるエネルギーとつながるときに、アティテューディナル・ヒーリングは私たちの人生における創造的な力になるのです。

☆ アティテューディナル・ヒーリングの12の原則 ☆

1 私たちの本質は愛であり、愛は永遠である

 愛というものは、うまく説明できるものではありません。経験することだけができるものです。アティテューディナル・ヒーリングにおいても、愛は定義づけるよりも経験するものです。

 愛はエネルギーです。不変で永遠のものです。科学者たちが「生命力」と呼ぶもので、未だに測定はできないけれども、存在は誰もが知っているものです。私たちの中を流れる純粋なエネルギーです。痛みや、不安、怒り、さまざまな形で現れる怖れによって妨げられることがなければ、私たちは愛の本質を認識することができますし、心の平和を感じられるようになります。

 大切なことは、私たちの心の曇りをとるように常に努め、そこには愛のエネルギーしかないのだということ、そして、「負の感情」と呼んでいるもののために愛を感じることができないのだということを認識することです。私たちの人生が、自らを愛し、他人にもその愛を与えるためのものなのだということを体験できるようになります。

 これは、世間の大部分の人が考えている愛とは違います。一般に、愛というのは、誰か他の人から「得る」ものです。愛が「足りなくなるかもしれない」という怖れとセットになっています。この怖れの中で生きてしまうと、愛を惜しげなく与えることができなくなってしまいます。それはエゴの仕業です。愛は、測定できるようなものではなく、分かち合うためにあるのです。

 愛の本質は、身体の癒しにも重要な役割を果たします。私たちのセンターのグループの一つで、50代半ばの女性が、もう9年も慢性的な背中の痛みに悩まされてきたと不満を述べていました。この痛みから解放されたことは一瞬たりともなかったと言いました。私たちは、一つの実験に参加していただけないかと彼女に頼みました。彼女は了解しました。私たちは約15名のグループの参加者たちに、30秒ほどこの女性に愛を送ってもらえないかと頼みました。すべての参加者が了解しました。それから、今度はその女性に、グループの参加者たちに向けて同じことをしてくれないかと頼みました。つまり、グループが彼女に愛を送るのと同時に彼女がグループに愛を送るのです。彼女は了解し、私たちは始めました。
 それは、私たちが一つだけの目標――他の人に愛を送るという――に集中したすばらしい30秒間でした。30秒が終わったとき、参加者たちはその結果を話し合おうとしました。私たちファシリテーターはそれをしないように注意し、グループミーティングでの話し合いはそれ以前よりも深いレベルで続けられました。ミーティングの終わりに、背中の痛みの女性が興奮した様子で言いました。「どうしても我慢できません。この1時間、背中の痛みがすっかり消えていたということを皆さんにどうしてもお伝えしたいんです」

 これは、ずっと以前に起こったことですが、信頼することについてのレッスンとして私の中に永遠に植えつけられています。このミーティングで起こったことは、見たり測定したりできるようなものではありません。そのとき私に起こっていた唯一のことは、この女性に対して愛を感じようとする意思だけでした。私の目標は彼女の痛みをとることでも、自分の気持ちを良くしようということでも、何でもありませんでした。それは、ただそのときに集中し、愛を送り、結果については心配しない、ということでした。人の気持ちははっきりと送ることができるもので、別の人がそれを深いレベルで感じることができるのだということを私に認識させてくれた強力なレッスンでした。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

★★ グループ対人関係療法の訳書を出版しました。注目の対人関係療法、初めてのグループ療法版です。 ★★

アメリカ報告5 ―― ゲイのカウボーイ映画

 このタイトルに「?」と思われた方もいらっしゃるかと思いますが、実は、今アメリカで大変ホットな話題になっているのがこの映画です。

 Brokeback Mountainという映画なのですが、単なるカウボーイ映画かと思いきや、実はゲイの恋愛映画、というものです。なぜ話題になっているのかというと、アメリカでは、(ブッシュ大統領を見ればわかりますが)カウボーイというのは「男らしさ」の象徴。そのカウボーイがゲイだという設定そのものが、一部の人たちには受け入れがたいことになっているのです。

 聞くところによると、すでにユタ州ではこの映画を上映禁止にしたそうです。「そんなの憲法違反では?」とアメリカ人に質問してみましたが、「ユタでは14歳の少女との結婚が許されているのだ。あそこは私的クラブみたいな州だから、自分たちが決めれば何でも許されるらしい」との答えでした。
 とにかく、そのくらいに、赤の州(赤は共和党の色。赤の州というのは、大統領選でブッシュが勝った、保守的な州ということ。ちなみに、青は民主党の色で、カリフォルニアは青の州ということになります)を中心として反発が強いそうなのです。

 ただ、12月9日にたった6つの映画館(もちろん、サンフランシスコ、ニューヨーク、ロサンゼルスといった場所の映画館)で封切られたこの映画は、先週は683軒の映画館で上映されるまでに広がってきています(それでも、人気映画に比べればまだまだ3分の1以下という規模だそうです)。サンフランシスコやニューヨークだけではなく、リトルロック(アーカンソー州)やバーミングハム(アラバマ州)といった南部の都市でも予想以上に多くの人が観たそうで、アメリカが今や単に「赤の州」「青の州」に分けられるわけでもない、ということを示しているようです。
 この映画が今年のアカデミー賞のオスカーを受賞する可能性が高い、ということになって、騒ぎが大きくなっているようです。オスカーを受賞すれば、もっと多くの映画館が上映するようになり、「アメリカにゲイが広がる」と懸念している保守層がいるとか。ゲイについて全く理解していないといわざるを得ませんが、それほど恐怖が強いようなのです。

 私はまだ観ていませんが、実際に観た人の話を聞くと、「とにかく素晴らしい映画で、偏見が全くなくなった」という人から、「陳腐なラブストーリー。ゲイに対する偏見はもともとないが、映画としてはつまらない」という人まで、さまざま。ただ、ゲイも要するに人を愛する人間なのだということを描き出し、これだけ社会的な議論を引き起こしたという点では、やはり優れた映画なのだと思います。機会があったらぜひ観てみたいと思っています。

アメリカ報告5 ―― コミュニティ・サービスとしてのアティテューディナル・ヒーリング(その2)

 前々回の報告で、アティテューディナル・ヒーリング・センターで提供しているグループのテーマをご紹介しましたが、グループがどのように運営されているかというところが、センターの鍵だと思います。

 グループは、ファシリテーター(グループでの話し合いを促進する人)数名と、参加者によって運営されます。精神療法や患者教育のためのグループなどでは、もっと構造化されていることが一般的ですが、アティテューディナル・ヒーリングのグループは、完全に自由参加で、いつでも誰でも参加することができます。何年にもわたって毎週参加している人もいる一方で、時々思い出したようにやってくる人もいて、人それぞれの形で参加しています。
 グループ参加は無料です。毎週水曜日の子どものグループだけは、さらに無料で夕食も提供します。あるレストランが定期的においしい料理を寄付してくれるほかは、センターの経費でまかないます。これはセンター始まって以来の伝統だそうです。
 
 ファシリテーターは、センターで規定したトレーニングを受けた人がなりますが、基本的にボランティアであり、さらに、「転移癌を持つ女性のグループ」であれば、自らも転移癌を持っている女性がファシリテーターをやっていたり、と、当事者であるケースも多いです。これは、まずは自分がグループに参加して救われたという体験から、アティテューディナル・ヒーリングの価値を実感し、トレーニングを受けて、ボランティアとしてファシリテーターを務める、ということのようです。

 このことからもわかるように、アティテューディナル・ヒーリングのグループは、治療グループではなくピアサポート(同じ立場の人たちの助け合い)グループなのです。ですから、サービスを提供する人とされる人という区別はありません。この姿勢は、アティテューディナル・ヒーリングのグループ運営のガイドライン(指針)を見ればもっとよくわかります。

 ガイドラインは全部で9項目あり、アティテューディナル・ヒーリングの原則12項目とともに、グループの始めに参加者が順番に読み上げていきます。12項目の全体は後日ご紹介したいと思いますが、ピアサポートのあり方をご理解いただく上で特に重要なものだけここで抜粋します。

★★★
2 ここにいる目的は自分たちを癒すことです。他人に助言をしたり誰かの信念や行動を変えたりするためにいるのではありません。自分をありのままに受け入れてもらえると、他人を受け入れやすくなります。

4 私たちはそれぞれが独特な存在だということを尊重します。大切なのはそれぞれの人のプロセスなのであって、それを裁くことではないと認識します。

6 生徒と教師の役割は入れ替えることができます。年齢や経験にかかわりなく、お互いが生徒になったり教師になったりします。
★★★

 第2項目で述べられている「助言しない」ということはアティテューディナル・ヒーリングの命のようなものです。正解はその人の中にあるのであって、それを自らが見つけ出すために支えるという姿勢が貫かれています。ある人の話に関連して何かを言いたくなったときは、その人に対する意見という形ではなく、あくまでも自分の経験から自分が話すという形をとります。
 参加者の意見を聞いてみると、助言されないという環境はやはりとても安心できるそうです。自分のプロセスを自分で経ていくことができるからです。ただただ愛情をもって聞いてもらえる環境、そして、助言に対して身構えなくて良い環境、これが自分のアティテュード(心の姿勢)を変えるためには必要な要素なのです。

 アティテューディナル・ヒーリングについては、まだまだ続きます。