アメリカ報告10 ――「許し」、アティテューディナル・ヒーリングの原則6――

 さて、今日はアティテューディナル・ヒーリングの原則の6「私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる」をご紹介するのですが、いよいよ「許し」がテーマになります。
「許し」という言葉は、どちらかというとキリスト教文化でよく聞かれる言葉で、日本人にはあまりピンとこないかもしれません。また、なんとなくうさんくさげに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、アティテューディナル・ヒーリング流に「許し」を考えると、実はこれこそ心の健康の中核であることがわかります。特に、虐待や性暴力やいじめなどのトラウマ被害についてはとても重要な概念です。
これを読んで、「え? 虐待を許すの?」と思われた方も多いかもしれません。私も最初はそんな違和感を抱いていました。でも、もちろんそういう意味ではありません。

 被虐待経験のある人で、未だに心が癒されていない人は、往々にして、「許し」を終えていません。加害者に対しても、そして、被害者である自分に対しても、です。自尊心に問題を抱えているというのは、まさにその証拠です。虐待の事実を思い出すと今でも辛くなり、過去を消せない限り自分は幸せになれないと感じたり「親に愛されなかった自分には何か根本的な問題があるのだ」というふうに感じたり、特に性的虐待の被害者などで「自分は汚れた存在になってしまった。もう誰からも愛される資格はない」と感じたりするのです。

 ここで「許す」ということがどういうことかというと、過去の出来事にともなうネガティブな感情を手放すということです。過去を忘れるということでもありません。また、出来事を正当化したり「仕方がなかった」と認めたりすることでもありません(ただ、虐待の場合など、「許し」を経て、親が置かれていた状況を同情的に見ることができるようになることはあります)。そうではなく、過去の出来事にとらわれている限り自分の心に平和が訪れないということを知り、とらわれを手放す、ということなのです。

 その結果、過去の出来事は記憶しているけれども、それが自分の価値を下げるようなものではなかったということを理解できるようになります。単に自分に起こった不幸な出来事だったというふうに位置づけられるようになります。さらに踏み込んで、相手側の問題だったのだと理解できるようにもなります。過去へのとらわれを手放さなければ、いつまでも過去の出来事によって自分を苦しめ続けるということが理解できるようになるのです。

 アティテューディナル・ヒーリング・センターのグループには、すでに「許し」を終えた人と、「絶対に許すものか」という状態の人が、一緒に参加しています。「許し」を終えた人の自由で明るい様子を見て、まだ許す気になれない人は、「私は絶対に許さない。許したら私の人生の意味がなくなる」と言いながらも、「でも、許さないでいることが私の気持ちを苦しめていることはよくわかる」と話すようになります。以前「怒り」のところでお伝えしましたが、許さないでいることによって相手を苦しめているつもりが、実際のところは自分自身に毒を盛っているということがわかるようになるのです。

 センターのグループではもちろん「早く許した方が良いですよ」などというアドバイスはしません。安全な環境で気持ちを分かち合えるようになると、いずれ、人は許しに達することができるという基本的な信頼が根底にあります。

 繰り返しになりますが、「許し」というのは決して自分に傷を与えた相手の行為を「大目に見る」ことではありません。いじめの被害者が「いじめられた自分にも非があった」などと自虐的になることでも全くありません。いじめられたという事実を忘れ去るということでもありません。いじめという行為が加害者の「怖れ」によって起こされるということを理解すると共に、いじめという経験を経てもなお、自分には心の平和を選択する力があるということを認識する、というイメージでしょうか。ですから、虐待の被害者が、自らの被虐待体験を「許す」と共に、虐待をなくすための活動を続ける、ということは十分に可能な話です。わかりにくいかもしれませんので、ぜひご質問ください。

 では、以下に、この箇所について、パッツィの本の翻訳をご紹介します。

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6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。

 私たちは他人を裁くときにはいつも、自分自身のことも裁いているものです。アティテューディナル・ヒーリングでいう意味での許しは、他人の行動を大目に見たり賛成したりすることを意味するのではありませんし、その人が悪いことをしたと感じる自分自身をとりあえず脇において相手を許すことを選ぶという意味でもありません。単に、許しというのは私たちの誤ったものの受け止め方を明らかにするための手段だという意味なのです。

 単純に言うと、「許しとは手放すこと」、つまり、心を乱す原因となる信念へのしがみつきをやめるという選択です。自分について言えば、苦しむのをやめて自分を充実させるために、まずは責任をもって自分自身を十分に愛する必要があります。

 「攻撃」を例に挙げてみましょう。A Course In Miracles(奇跡のコース)には、他人を見る際に役立つ考えが記されています。それは、その人は私たちを攻撃しているのではなくて、助けを求めているか愛を必要としているのだという見方をするというものです。人間関係においては、これは最も難しい原則であることが多いものです。なぜかというと、私たちのエゴは、「攻撃されている」と言うからです。でも、本当のところは、それは真実ではなく、私たちがそう受け止めているだけなのです。

 受け止め方というのは、意欲を持って集中すれば、自分で変えることができるものです。自分は愛でできているとみなすことができるようになれば、自分を防衛する必要もなくなり、他人を違う形で見ることができるようになります。このことに気づき始めれば、何かしら自信がなかったり足りないと思ったりするところにおいてだけ、私たちは「ボタンを押す」ことができるのです。

 自分はこれで良いのだと思えるときは、他人のふるまいについてもあまり問題にならなくなるものです。もう一度言いますが、自分は攻撃されていると感じるのは、自分自身の受け止め方に過ぎないのです。自分自身を防衛する必要すらなくなるように、強力な愛のエネルギーで満たされることを選ぶことができます。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)