12月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2010年12月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年12月01日(水)

これだけ課題が多い日本の政治において、今の仕組みが機能しているとはどうしても思えない。二大政党制(小選挙区制)では、相手を叩けば自分の得点になる。この「勝ち負け」の仕組みが多くの無駄を生んでいるし、政治のネガティブなエネルギーも増やしているのは昨今の国会でも明らか。

二大政党制は政権交代を可能にするための秘薬として語られてきたが、その結果として失われたものは多い。こうして政権交代の現実を見た以上、「民主党か自民党か」というレベルを超えて、より民主主義的な選挙制度そのものについてもっと考えた方がよいと思う。

民主主義的、というのは、単に有権者の意見が政策に反映されるというだけではなく、自分たちが持っている力に気づける仕組みでもあると思う。権力行使という観点のみならず、社会の雰囲気作りにおいても。国民からどういうエネルギーを引き出す政治か、という視点は重要だと思う。


2010年12月02日(木)

日韓図書協定の今国会中の承認が困難になる一方で、感情的な懲罰動議にまた時間が費やされる。最近の国会は何かにハイジャックされたみたいに見える。同じレベルで自動反射しないで(絶望することも含む)、違う次元にエネルギーを集中させたいと思う。絶望は民主主義の放棄。

英国留学中の後輩は、多国籍の研究者たちから日本は真っ逆さまに沈没しつつある印象だと言われるそうだ。沈没かどうかは別として日本が大きな変化を経験しているということは事実。変化へのバランスの取れた適応を促進するのが政治の課題と考えれば、話が整理されると思うのだが。


2010年12月03日(金)
ウィキリークスの件は本当にいろいろと考えさせられるテーマの宝庫。今朝の朝日2面米欧メディア「公益か国益か苦悩」も興味深い。これはメディアだけの話ではなく、私たちが「国」というシステムをどう考えるかの話でもある。

生の情報にジャーナリスティックな分析を加えるのが新聞メディアの役割、という仏ルモンド紙のスタンスを見て、そもそも「生の情報」そのものに手が加えられがちな日本のメディアの現状を考える。どれほど多くの人が加工された「生の情報」を本当の情報だと思わされていることか。


2010年12月04日(土)

今朝の朝日の「天声人語」。給食費無料化という趣旨には賛成だが、給食費を払えるのに払わない親について「ふざけた親を税金で養う余裕はない」と断言しているのにびっくり。本来であれば、虐待的な環境として細やかなケアをしていくべき世帯ではないだろうか。税金を使ってでも。

一つの参考になるのが、イギリスでの取り組み。過去に私が書いた報告。http://bit.ly/e7DahC ここでは子どもの行動面について書いたが、妊娠出産の過程から、ケアが必要な家庭を早期に見つけ出して地域での支援につなげる試みもされている。


2010年12月05日(日)

給食費問題にしても、朝鮮学校授業料無償化の話にしても、大人の事情がどうであれ一人ひとりの子どもが社会から愛され受け入れられているという信頼感を持って育てるようになってほしい。その後のいろいろな問題が、この基本的信頼感の欠如から起こってくる。

大人の事情にはそれぞれの背景があり、解決に時間がかかるものだ。そうしている間にも子どもは育っていく。「まずは大人を改善してから」と考えることそのものが、子どもたちの現在から目をそらすことになってしまい、「社会とはそういうもの」という不信につながってしまう。


2010年12月06日(月)

土井隆義著「人間失格? 「罪」を犯した少年と社会をつなぐ」はお勧め。http://amzn.to/fZwvkF 若干意見が異なる部分もあるが、一読の価値はおおいにある本だと思う。修復的司法的だなと思って読んでいたら、やはりエピローグに出てきた。

虐待や犯罪など社会的事象について論じる際に、前提となる現実認識が共有されているとは思えない。センセーショナルな事件報道、日頃から地道に取り組んでいるわけでもない「有識者」によるコメントばかりが目立ち、地に足のついた現状分析は驚くほど少ない。土井氏の本はその貴重な1冊。

基礎データが足りないと私たちは容易に評価を下すようになる。評価は、「異物」を自分なりに消化しようとする試みだからだ。人間としての相手についてよく知ることで「異物」感は間違いなく減り、一方的な評価を下すのではなく本当に必要なことは何かを考えられるようになるのだと思う。


2010年12月07日(火)

人と違うことを言いにくい雰囲気。空気が読めないと言われることへの怖れ。ちょっと違うことを言うと人格攻撃。最近の日本で政治を語るときに感じるこれらの傾向は、実はいじめ現場の空気と同じ。だから、それを変えていくのも、社会を構成する私たち一人ひとりの態度だと思う。

私は「正論」であることにはあまり意味はないと思っている。どんな人にもその人なりの「正論」があるからだ。自分の「正論」を守ろうとすることよりも、自分の「事情」を正直に話していった方が、得るものも大きいし空気が平和になる。

メディアの人たちにも、「みんな」の「正論」を語ろうとする姿勢ではなく、それぞれの事情を聞き出して伝える役割を果たしてほしいと切に願う。メディアは、「決めつける人」「裁く人」ではなく、「調べる人」「いろいろな角度から見てみる人」「知られていないものを見せる人」であるはず。


2010年12月08日(水)

拙著「自分でできる対人関係療法」http://amzn.to/hjoUksと「対人関係療法でなおす 社交不安障害」http://amzn.to/fkKWBBが共に重版になるという連絡をいただく。「自分でできる対人関係療法」は2004年刊行だが多くの方に読み続けていただいている。


2010年12月09日(木)

また政局話が増えてきた。いつもの疑問だが、どうして政局になるとメディアは元気になるのだろう。「政治とは所詮権力闘争」というイメージは、こんなところからも強化されるのではないだろうか。

政局をしたり顔で語る人に非生産性を感じるのは、その話の根拠が過去の政治だから。未来のことを語っているようでいて、過去を語っているに過ぎない。今は新しい政治文化を創ることが必要なとき。だから、メディアがそろって政局をしたり顔で語り始めると、本当に不毛だと思う。


2010年12月11日(土)

小選挙区制は「勝ち負け」の制度として問題を感じるが、政界再編を困難にするという要素もある。小選挙区制で当選するには、現在推薦してもらっている団体の推薦を失うリスクをおかせないなど、いろいろな点で保守的にならざるを得ない。これが政党を形骸化させる一因だとも思う。

民主党は片山総務相が言う通り「シマウマ」政党であり、それが様々な場面で民主党への失望感につながってきた。これは、現在の民主党(新民主党)が小選挙区制時代の政党であることと無関係ではないはず。「自民党から出たいがすでに候補者がいるので」という層も誕生し、選挙互助会的になった。

いろいろな政治家を直に見てきて、人間としての善意が「選挙のリスク」によって縛られていると感じる人も少なくない。だからと言って選挙というシステムを放棄するわけにもいかない。「政治家は選挙のことだけ」と非難していても何も始まらない。やはり選挙の形を機能的にする必要がある。


2010年12月15日(水)

今朝の朝日新聞の社説「過疎とお年寄り 地域にあった支え合いを」はとてもよい。地域でうまくいっている実例を効率よく共有するための機能が必要だということを以前から発言してきたが、同じテーマ。地域活性化につながると共に、国と地方との関係性も変えていくことになるだろう。

政治がワイドショー化して軽く見えるようになった一方で、政治そのものは決して軽くなっていない。諫早の開門にこれだけの時間とエネルギーがかかっている。検察や警察が無実の一人の人間の生物的・社会的生命すら奪えることは今も同じ。年金や税金はもちろん生活を直撃する。

政治のワイドショー化は「政治を身近に感じてもらうために」だそうだが、本来、政治を身近に感じるには、自分の生活や地域の仕組みを考えるなど身近なテーマからであって、ワイドショーでよく顔を見るからと言って、政治との関係性が生産的に変わるわけでもないと思う。


2010年12月16日(木)

法制審議会がようやく親権停止の民法改正へ。2004年に児童虐待防止法を改正したとき、大きな積み残しとして附則に記したもの。子どもと親の現実に合った形で、懲罰的ではなく福祉的な運用をすること、そしてすでに手一杯な現場が適切な形で機能できるような人手と仕組みが必要。

2004年当時、法務省はまだ準備ができていないと、民法改正に最後まで首を縦に振らず、附則に盛り込むところが当時の政治的限界だった。今回はようやく準備ができたということなのだろう。政治においては、きちんと撒いておいた種は育つという印象を持つことが多い。「きちんと」が重要だが。


2010年12月17日(金)

大林検事総長引責辞任の報を見て、組織トップの引責辞任について、責任とは何かをいろいろと考えている。今やめても効果が薄いなどというコメントを見ると、相手(今回の場合は世論?)との関係性の中での「けじめ」(責任を認める)いう色彩が強いようだ。

私が知りたいのは、検察は反省しているかということではなく、どうすればこのような事態の再発を防げるのかという構造的な改善。人間はミスを犯すし、検事の人権感覚が完璧ではないという前提に立った上での有効な構造だ。検察が反省していますと言われて納得する次元の話ではない。

最高検は証拠チェック専門機能を作るそうだが、今回の「改革」が証拠隠滅という焦点だけで終わってしまったら困ると私は思う。証拠が起訴事実と合わないと知りながら起訴したという事実の方がより重いことだと思う。そこにきちんと構造的な手当てがされるのだろうか。


2010年12月18日(土)

この頃考えるのが「評論家」(評論家的有識者も含めて)のこと。特にテレビ番組などで、同じ評論家の意見ばかり聞かされると違和感が強い。一人の意見ばかり聞くとそれが真実であるかのような錯覚に陥るが、その前提となっているデータがどれほど正確なのかすらわからない。

例えば私から見ると、何らかの事件が起こった当日から加害者の心理状態について語り始める有識者にびっくりする。私もそういうコメントを求められたことがあるが「会ったこともない人について、情報が十分にない中、コメントするような姿勢が大変問題だと思う」と断っている。

コメントを断ると相手はハッとして「確かにそうですね」と認めるが、そこはテレビの悲しいところで、コメントをくれる別の人さがしに移っていく。同じ評論家ばかりが目につくのは、それらの人たちが「メディアが言ってほしいことを言ってくれる人」という側面もあるのだろう。


2010年12月19日(日)

鳩山さんの引退正式撤回。「民主党の友愛」が壊れていないかという指摘。それにしても私の目につくのは、その挨拶の中ですら小沢氏を「小沢先生」と呼んでいること。民主党は「先生」を排し、「長」「主」ではなく「代表」という言葉を用い、と民主主義を形でも示してきたはずだ。

相手を「先生」と呼ぶかどうかはTPOもあるだろう。しかし公的なメッセージの中でも先輩政治家を「先生」と呼んでしまうと、おそろしく民主主義が後退したような印象を私は受ける。その「友愛」が、所詮は内向きのものであるようにすら感じてしまう。


2010年12月20日(月)

通り魔事件に関連して「今の若者は健全な怒り方を教わっていない」というコメントをたまたま見た。しかし私自身(おそらくさらに上の世代も)、健全な怒り方など教わっていない。そんなことよりも、人とのつながりを感じられない孤独感・不全感の方がずっと大きな問題だと思うのだが。


2010年12月22日(水)

安全保障も「つながり」をキーワードにしてよい時代だと思う。「国家の安全保障」か「人間の安全保障」かという議論も乗り越えられるし、限られた資源と財源をより効率的に用いることができる。ただ、そのために手放さなければならない「怖れ」は、米国内だけでなく日本にも。

安全保障と言えば、国会時代にいつも気になっていたのは、安全保障を議論する場にはどうしても好戦的な人が集まりやすいということだった。そうでない人は軍事に関心を持たないことが多いからだ。軍事に造詣が深いが「つながり」志向の、希少価値の政治家を大切にしたいと思う。


2010年12月23日(木)

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」を刊行しました。治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。 比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。http://bit.ly/i7CGuk

医学的な意味だけでなく、社会におけるトラウマ(広義)についてもこの頃よく考えている。「怖れ」とはトラウマを反映したものではないかとも考える。それを意識せずにただ「正論」をぶつけてしまうと、さらに傷が深まり、怒りや抵抗を招いてしまう。そのうちまとめて書いてみたい。


2010年12月24日(金)

今朝の朝日3面イラク戦争検証の記事を読んで、改めて過去を検証できない日本の体質について考える。政権交代は過去の検証の好機とは言っても、乗り越えるべき様々な「怖れ」がある。特に怒りの振り子のようになってしまっている現在の政治状況では、生産的な検証は難しいだろう。

朝日3面谷内元外務次官「小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった」当時の他の閣僚のコメントからも、小泉氏がイラク戦争支持を一人で決めたことは確かなようだ。それが今流行の「リーダーシップ」だとしたら大問題。


2010年12月28日(火)

自分の過去に心から向き合うという作業は、自己正当化という「怖れ」を手放す作業だ。自己正当化をやめてしまったらとてももたない、という「怖れ」が、否認、隠蔽、責任のすり替え、などにつながっていく。

自己正当化をやめた方が安全を感じられる、という環境を作っていければ、社会のあちこちに見られる「否認、隠蔽、すり替え」複合体が解消される方向に進むはず。現実的な責任をとっていくということと、その精神をサポートすることを区別できれば効果的なのだが。

これだけ問題が多い今は、「どういう姿勢で臨むのが最も効果的か」ということを真剣に考えるべき時。「悪い人」を糾弾していくやり方は「否認、隠蔽、すり替え」複合体にエネルギーを供給するし、相手の自己正当化を強めると反撃のエネルギーになり、社会の安全を直接脅かす。


「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」刊行しました

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」
という本を刊行しました。
治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。

トラウマにご関心のある方はもちろん、評価(ジャッジメント)を手放すということにご関心のある方、ゆるしにご関心のある方にもお勧めできます。

比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。

トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ

岩崎学術出版社

定価 2100円(税込)

アマゾンで購入する方は
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4753310140?ie=UTF8&tag=mizucx-22&linkCode=xm2&camp=247&creativeASIN=4753310140

★★★ 目次

はじめに
 
第1章 「不信」という現実に向き合う──治療の土台づくり

第2章 「コントロール感覚の喪失」という現実に向き合う──治療のメインテーマ

第3章 「病気」という現実に向き合う──治療の位置づけ

第4章 「文脈」という現実に向き合う──トラウマの位置づけ

第5章 「身近な人たち」の現実に向き合う──トラウマと対人関係

第6章 「ジャッジメント」の現実に向き合う──燃え尽きを防ぐ

第7章 治療者自身の現実に向き合う──自らの価値観やトラウマ

第8章 「トラウマ体験」という現実に向き合う──ゆるすということ

 
★★★「はじめに」より抜粋

 トラウマ治療において、「安全」というテーマを終始一貫して守ることは生命線だと思う。これは特定の戦略や技法以上にずっと大切なことである。もちろん特定の戦略や技法は効果的な治療のための必要条件だとは思うが、十分条件ではない。そもそもが、「持続エクスポージャー療法など、トラウマ関連の病気に対する治療法を知っていること」と、「実際に臨床の場でトラウマ体験者の役に立つこと」とは必ずしも一致しない。

 治療関係も一つの人間関係である以上、「信頼」というテーマを抱えたトラウマ体験者にとって、治療に入るということは多大なる勇気を必要とする場合も少なくない。患者に初めて会ってから、「トラウマ関連の病気に対する治療法」に入るまでの間が、ある意味では最も治療的なプロセスを要するとも言える。

 治療導入の難しさだけでなく、一歩間違えると、すでに傷つきやすくなっている人をさらに傷つけ、すでに対人不信を持っている人をさらに対人不信に陥らせてしまう。また、治療者側の姿勢によっては、容易に燃え尽きてしまう領域でもある。「どのような姿勢でトラウマ体験者に向き合うか」ということは、個別の治療戦略や技法よりもさらに本質的に、治療の成否に関わることだと思う。個別の治療戦略や技法について言えば、そもそも、どんな治療法も万能ではなく(そしてそれを用いるどんな治療者も万能ではなく)、ある患者にとってある治療者によるある治療法の効果がうまく出ない、ということは当然起こりうることである。

 本書を通してトラウマ治療に向き合う治療者の姿勢について考えていきたいが、今までに多くのトラウマ体験者に関わってきた経験からは、その鍵は、「治療者は病気の専門家ではあるが、人間の専門家ではない」というところにあると私は思っている。治療者が立ち入れるのは、病気に関する部分だけである。その点を忘れてしまい、人間としての相手に評価を下してしまうところにさまざまな問題が起こってくるのだと思う。そこに支配関係が生まれたり、新たなトラウマが発生したり、治療への絶望感が起こったり、治療者の燃え尽きが生じたりするのだ。「治療者は病気の専門家」という部分は、成功する治療を支える重要な要素であり、決して軽視すべきことではない。しかし、それが本当に発揮されるのは、「治療者は人間の専門家ではない」という部分が十分に認識されたときなのだと私は信じている。これは実はどんな病気についても言えることだが、ことトラウマ関連の病気については特に意識すべきことだと思う。

 本書ではこの点を掘り下げながら、トラウマに向き合う治療姿勢について考えていきたいと思う。トラウマを持つ人の役に真に立ちたいと思っている方、自らの燃え尽きや苛立ちを感じつつある方のお役に立てば幸いである。

11月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

11月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年11月02日(火)

政権をきちんとチェックすることと、国民の破壊的感情をあおることは別の話だ。奇しくも、裁判員制度で、死刑判決を我がこととして考えるとこれほど違う次元が見えてくるということが示されているところ。「違う次元」を見せることもメディアの重要な役割だと思うのだが。


2010年11月03日(水)

グローバル化にしろ、検察による証拠改ざんや警察情報流出など社会の信頼の根底に関わる不祥事にしろ、当たり前の生活が壊れていくように見えるときほど、自分の生活を丁寧に生きていきたいものだ。一人ひとりが人間として安定することが、必ず世界の安定につながると信じている。


2010年11月04日(木)
今の日本も米国もそうだが、誰がやっても難しい時期の政治においては、「今すぐの結果」ではなく「少し先の結果」をうまく示す必要がある。それを精神論で代用しようとすると怪しげに見えてしまい、支持されないということになるのだと思う。


2010年11月06日(土)

海上保安庁のビデオ流出という衝撃的な事件に対するいろいろな意見の中でも、「そもそも隠した政府が悪い」という論調には特に違和感がある。また、これを正当な内部告発とする説にも違和感。民主主義の国の形がこんなところから崩れていくとしたら怖いことだ。

情報管理について、特に高度な機密を扱う機関は、現在の技術レベルに合わせた改良が絶対に絶対に必要。その上でも、何事にも完璧がないとすれば、あとは情報流出があったときに、流出行為を肯定するようないかなる態度もとらないことで、私たちが責任を果たしていくしかないと思う。


2010年11月07日(日)

昨日はAHのボランティア・トレーニングだった。「相手のために」と考えてやることは暴力的にすらなりうるけれども、「自分の心の平和のために」やることは相手のためにすらなる、ということを、毎回違う参加者と共に実感する一日。やはり社会の平和は一人ひとりの心の平和から。

政治が機能していないと思われる局面では、市民の意識が本当に大切だと思う。「政治がこんなに悪いのだから何でもあり」という姿勢が、自分たちの生活の基本的な安全を脅かしていくということを忘れずにいたい。政権の是非と、それを変えようとする手段の是非は、全く別の次元の話。


2010年11月12日(金)

今朝の朝日新聞17面「耕論」はとてもよいと思う。映像流出問題で、ようやく読みたい意見が読めたという感じ。私自身の考えは佐藤優氏のものに近いが、西山太吉氏(沖縄密約の「西山事件」当事者)、長谷部恭男氏、鈴木謙介氏いずれの意見も重要な論点を含んでいると思う。

ちなみに佐藤優氏の論点は主に「データが編集されたものであること」と「歴史」についてである。特に後者の、五・一五事件を軽い処分ですませたことが二・二六事件を誘発したという視点は、私が懸念していた点そのもの。何かの意見を言うことに「怖さ」を感じる社会は危険だと思う。

「データの編集」について言えば、テレビなどの「街の声」にもずっと違和感がある。非暴力コミュニケーションの第一歩は、「自分が下した評価ではなく事実を語ること」。何らかの評価を下して終わらせるのではなく事実の多面性を考えることは、人を思いやることでもあると思う。


2010年11月14日(日)

今朝の朝日新聞「ウオッチ沖縄 基地 まるで机上の話」を読んでの個人的感想。沖縄発の記事がもっと増えてほしいと思うが、その際、沖縄県外の人の罪悪感ではなく共感を呼ぶようなものが効果的だろうと思う。罪悪感を抱くとどうしてもつながりを感じにくくなるからだ。

また、話題になったときだけ「点」で仕事をする政治家が多い中、一つのテーマに粘り強く取り組み「線」で仕事をする政治家をもっと応援することも大切だと思う。ここのところの極端な選挙の振り子でかなり失われてしまった層だ。


2010年11月15日(月)

政権交代後の政治状況を見ていると、私が昨年予測した通りになっているような気がする。昨年11月北大での講演内容 http://bit.ly/dxbJSL 総選挙当日のブログ http://bit.ly/93RT1W 

ここまでの民主党が、(前政権批判による)政権交代、事業仕分けなど、怒りをエネルギーにして前進してきたことと、今その怒りに叩かれて大変な状況にあることは無関係ではないと思う。怒りの次元から抜け出し、民主党の原点を取り戻すことにしか、希望はないように思う。


2010年11月16日(火)

事業仕分けは「野党的」であり役割を終えたという意見については、必ずしも賛成しない。政策面から考える人と経済効率面から考える人の両方がよく議論する「二元政治」はむしろ必要だと思う。事業仕分けの問題は、それが独善的な暴力になってしまうリスクにあると思う。

仕分けされたはずの事業が看板をかけかえて復活した件。それが単なる不誠実なトリックなのか、政策側からの新たな提言なのかを明らかにできる公平な場を作ればよいと思う。事業仕分けという一方の舞台でそれをしてしまうと、まず不誠実ありきという印象になりがちだ。

情報アクセスに限界がある野党に事業仕分けはできない以上、与党の仕事だ。あとは与党にとっての事業仕分けの位置づけの話。前政権を叩くだけの場なのか、新たな政治文化を創る場なのか。話し合いのプロセスを共有できる新たな政治文化に向けての一歩にすることは可能だと思う。


2010年11月17日(水)

「多くの人が・・・と言っている」という論調が多い今の日本において、報道されている裁判員の様子はまさに「私はどう考えるか」を示しているが、人は「私は」を問われると、自分の内面に立ち返り、物事の多面性をとらえようとするものだ、と改めて実感している。

私自身にとっても、衆議院議員を二期経験したことは、政治を見る目を明らかに変えた。議員をやめてからも「自分だったらどうするか」という目を常に持つようになったし、良心的にこつこつ頑張っている議員たちをつぶさずに育てるためには何が必要かということを考えるようになった。


2010年11月18日(木)

一票の格差は放置できない問題。この手の問題で停滞するのを見る度に、選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さを何とかする必要を感じる。議員でい続けることが「命がけ」である現状では、区割り変更に抵抗するのも当然だと思う。

選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さは、世襲議員の量産や、質の低い議員の温存にもつながる。せめて選挙がもう少し効率的なものになれば、と思うが、政治に関心のない層にも働きかけるという必要がある以上、どぶ板的な部分もそれなりに意味がある。

あるアメリカ人から聞いたが(つまり出典や真偽は不明)、2期だけつとめる「市民議員」という考え方があったそうだ。自分の専門知識を政策立案に役立てるが、職業政治家にはならない、というのが市民議員。それが本来の民主主義のあり方ではないか、とその人は言っていた。

有権者から見ての「当然」と、そこで働く生の人間にとっての「当然」のずれをきちんと考えないと、政治の質は上がらないと思う。「政治家たるもの、自らしっかりしろ」などと言っているだけでは、一票の格差も改善されないし、政治の質の劣化が結局我が身に返ってくるだけだと思う。

「現代用語の基礎知識2011年度版」の見本が届いた。今回からメンタルヘルスの項目を執筆したため。小さい頃から馴染んできた本であるだけに、(よい意味で)複雑な気持ち。それだけ年をとったということか。


2010年11月19日(金)

法務大臣の失言問題。なぜこの手の問題が後を絶たないのかということについては拙著「国会議員を精神分析する」でも述べた記憶があるが、やはり抜け落ちているのは「その他の人たち」への配慮である。それは政治家の命と言えるくらい大切なものだと私は思っている。

法務大臣の答弁の陰でどれほど多くの人が悔しい思いをしてきたかということへの配慮が抜け落ちている。私も法務委員会に所属していたことがあったのでわかるが、昨日まで普通の国会議員だった人がなぜ急に検察官僚みたいな雰囲気になるのだろう、と不思議に思っていた。

確かに検察組織を代表して柔軟な答弁をするのは難しいと思う。しかし、その点にこそ政治家としての腕が問われるはずだ。その重要なポイントについて、「この答弁でいいから、法務大臣はいい」というのは、さすがに強い違和感。単なる失言と本質的な失言の区別は必要だと思う。


2010年11月21日(日)

政治を語るとき、それが自分にどう関わってくる可能性があるか、という点から考えると本質に近づくような気がする。「この大臣をどう評価するか」ではなく、「この大臣の言動が、自分の暮らしにどう影響する可能性があるか」ということだ。

もちろんその「自分」とは、現在の自分のことだけでなく、「もしも相手国に自分の肉親がいたら」「もしも虐待家庭に生まれてきていたら」「もしも明日突然事故に遭ったら」など、様々な想像上の「自分」を含む。日本の政治姿勢や制度がどうであれば、人間らしく生きていけるのか。

政治がワイドショー化してから、政治評論家みたいな語り口があちこちに増えている気がするが、「政治をどう思うか」ではなく、「こんなことだと自分がどう困るか」という視点から語るだけでも雰囲気がだいぶ主体的になるし、政治の責任の範囲も明確になるような気がする。


2010年11月22日(月)

この頃国際ニュースを見ていてつくづく思うのは、地球規模の修復的司法が必要だということ。なぜその国がそんな体制になってしまったのか、ということにはそれぞれの歴史があり、そこには何らかの形で他国も関わっている。突然変異的に生まれたわけではない。

修復的司法では、行為を正当化することはもちろんしないが、お互いの事情をよく知り、行為と人間性を切り離す努力をすることによって、共同体の癒しを実現していく。その根底には人間への信頼があるが、単なる理想論ではなく唯一効果的な再発防止策としても期待されている。

地球という共同体においても、お互いに罪悪感や被害者意識を刺激し合うのではないレベルでの癒しを模索していくべき時代だと思う。自然環境と同じことを社会的な現象についても進めていく必要があると思う。未来を損なうネガティブなエネルギーをどれだけ減らせるかだ。


2010年11月23日(火)

今朝の朝日新聞1面。私が最も不思議に思うタイプの記事。民主党執行部4名と首相・官房長官だけの話し合いの内容がそのまま載っている。それも「(出席者の)誰もがそう感じた」と書いたり、首相の内心を「どうしても信じられなかったのだ」などと断定的に忖度したりしている。

さすがに全国紙の1面であるから、出所は確かなのだろう。閉鎖された会談の内容が漏れるときには政治的意図を疑うのが常識ではあるから、誰かが何らかの意図で漏らしたのだろうが、さすがに1面トップにこういう記事があると、その「意図」にうかうか乗ってしまいそうだ。

ここのところの政権バッシングで思うこと。やはり怒りではない方法で政治を動かすことが必要だと思う。この一連の騒動が終わって残るのは「政治的焼け野原」だけではないか。問題のある政治家は討ち取れたかもしれないが、同時に希望も失われているような気がする。


2010年11月26日(金)

裁判員初の少年死刑判決。「更生の可能性」という、高度な専門性を要する極めて難しい判断を、精神医学の素養、特にトラウマ関連の知識も臨床経験もない人たちが限られた時間で下すよう要求されているという極めて不適切な現実に改めて強い強い違和感。

「更生の可能性」を本当に知るための裁判であれば、修復的司法のスタイルで、はるかに長い時間をかけて行う必要がある。そのこと自体が、多くのケースで、実際に「更生の可能性」を増すことになるだろう。そんなふうに人間的に処遇されるのが初めての経験になる人も少なくないはずだ。

本来判断できない立場にあるのに判断を強いられた裁判員の方たちの負担は想像を超える。「更生の可能性」という、本来は(裁判官も含めて)人間が判断してはいけないものをもとに死刑か否かを決める、という考え方に私は大きな無理を感じる。放置したくないことだ。


2010年11月27日(土)

問責決議案の可決がニュースになっているが、参議院の現状を考えれば、提出されれば可決されて当然。「問責が可決された後どうするか」は政局的な話で、それよりも「そもそも問責決議案を提出したことは妥当だったのか」という観点からの、より本質的な議論を聞きたいところ。

朝鮮半島は問責決議よりもはるかに重要な国政課題だと思うが、自らの「怖れ」の中で自爆しつつある北朝鮮にいかにして巻き込まれないようにするか、という戦略が、日本を含む周辺諸国の安全と北朝鮮内の多くの「人質」の安全を考えるととても重要だと思う。対処と巻き込まれは別。

今日のパックインジャーナルで田岡俊次さんが言っていたこと。「菅政権は尖閣問題で国益を損ねたと言われているが、実効支配の継続と、経済関係の維持という二大目標は達成したのだから何ら損ねていない。強いて言えば、船長釈放を『米国に言われて』したところ」。同感。

尖閣問題と今回のヨンピョン島事件の相似性も話題になった。同様の構造の対立の中、武力が行使された方では短時間でもあれだけ島民生活に壊滅的な影響がある、という事実は軽視できないことだと思う。「暴力装置」という言葉をただ批判するよりもすべきことがあるのでは。

拙著「拒食症・過食症を対人関係療法で治す」がまた重版になったとの連絡をいただく。とても多くの方に読んでいただき役に立っている様子で、幸せな本だ。改訂前の前著が絶版になり版元探しに奔走した時代が嘘のよう。http://amzn.to/fgiA52

さらに田岡俊次さんから聞いた話。事件勃発前に韓国が行っていた訓練の内容が注目されていない。相手国のすぐ近くで実弾射撃訓練をするというのは通常あり得ない話で、かなり刺激的だとのこと。北朝鮮は当日の朝に「実弾射撃訓練をするのなら迎え撃つ」と声明を出していたそうだ。

もう一つ田岡俊次さん情報。自民党の世耕議員が国会で問題にして以来騒ぎになっている「自衛隊施設内での政治的発言などを制約する防衛事務次官通達」だが、これは単に自衛隊法に則ったもの。同じテーマで小泉進次郎議員について田岡さんが書いた記事。http://bit.ly/dRfk1g


2010年11月28日(日)

またも菅首相の「支持率1%でもやめない」が切り取られてあちこちに。国会での正式な発言ならいざ知らず、会食の場での一言。どういう文脈で出てきた発言なのだろう、とか、鳩山さんはどういう意図でそれを公表したのだろう、とか、考えることはたくさんあるはずだが。

「空気の支配」は、発言者の罪悪感や不全感を刺激するところから始まると思う。この頃国会で目につく「それは○○に対する侮辱です!」「国益を損ねます!」、メディアの「みんな・・・と言っている」が気になるのは、そういう点。違う意見を持つことが不適切だという空気が作られる。


2010年11月29日(月)

「支持率1%」報道もそうだが、新聞がどれほど裏を取って書かれているのか心配になる。例えば27日の朝日新聞1面の見出しは「中国、米韓演習に反対」だが、「中国の排他的経済水域では反対」というのは、外交用語では「それ以外の場所では容認」という意味(実際、毎日は「容認」の見出し)。

国会で政権バッシングが行われ、それをメディアが繰り返し報道し、という状況を見ていると、その「ショー」を見るために私たちはずいぶん多大なツケを払っていると思う。目下国会関係に費やされている税金もそうだし、結果としての政治的荒廃も。全く対価に見合わないショーだと思う。

これを「政権が悪い」と言ってしまうのは簡単だが、どんな状況でも私たちは見たいものだけを見ることによって環境に影響を与えていくことができる。質の低い情報を見て「あーあ」と言うよりも、自分が向かいたい方向を示すものに、もっと意識を向けていきたいと思う。


CS放送出演のお知らせ

11月27日(土)11:00~13:00、朝日ニュースター(CS放送)の「愛川欽也パックイン・ジャーナル」にコメンテーターとして出演する予定です。

テーマは

(1)北朝鮮 ウラン濃縮と砲撃はなぜ?
(2)終盤国会、政治に何を望む
(3)沖縄知事選 明日投票
(4)名古屋市議会リコール 市長対市選管の対立へ

CS放送をご覧になれる環境の方は、ぜひご覧くださいませ。

10月のツイッターより(特に反響が大きかったものの抜粋)

ほとんど毎日書いているツイッターですが、特に反響が大きかったものをまとめてみました。


2010年10月02日(土)

今朝の朝日新聞政治面、福田宏樹氏の「菅首相の出直し所信表明に思う」は好感をもって読んだ。主語は「私」。所信表明演説から消えた「最小不幸社会」を思い、今こそ遠望するまなざしが必要、という趣旨。「今回の政府の対応に国民の多くが不満と答えています!」などとあおるメディアとは対照的。

政治家が使う「国民の皆さま」「増税のお願い」などという言葉に私は常に違和感を覚えている。「有権者の代弁者として意思決定の場に出ている」という意味合いが見失われるように思うからだ。


2010年10月03日(日)

昨日パックインジャーナルに出演して田岡俊次さんから教えてもらったニュース。9月29日に福岡市役所前で中国人ツアー客1300人の観光バスを街宣車が包囲してバスを蹴ったり叩いたりし、約20分間足止めされた事件。地方版に小さく報道されただけで全国ニュースになっていない。

日本人の観光客が外国で同じ目に遭ったらどう報道されるかと考えると、この事件が日本で広く報道されないことが不思議だ。「国民みんなが中国に対して怒っています!」とメディアがあおる中、こういう事件はきちんと報道される必要があると思う。本来「ニュース」とはそういうものであるはず。

こちらは石川好さんに教えてもらった話。中国では深夜に招かれることが親愛の証なのに日本では深夜に大使が招かれたことを「無礼」と怒っている。それも深夜にずれこんだのは日本側の対応の遅れによるものだったらしい。相手の立場を理解しようとする姿勢が欠けているようだ。

どこの国にも過激なナショナリストはいて、それを認識しながら政治のバランスをとる必要がある。「国民はみんな怒っています!」「毅然とした対応を!」と主張している政治家を見ると、そういう政治本来の役割がわかっているのだろうか、と心配になる。


2010年10月05日(火)

ちょうど今書いている本のテーマでもあるのだが、「人を変えようとすること」と「変化を起こすこと」は違う。変化を起こすためには、「変わりやすい環境」を作ることが有効で、その中には「人を変えようとしないこと」「まずは自分が変わること」も含まれる。人は変わるときにしか変わらない。

今朝の朝日の社説。「推定無罪の原則」と「政治的責任」は別問題、というのはもちろん賛成。しかし「強制起訴」をきっかけに議員辞職を、と言うのは両者を混同していないか。本件については妥当に聞こえるかもしれないが、一般化するのは危険。民主主義の根幹に関わる問題は原則が重要だと思う。


2010年10月06日(水)

情報が多く、どれを信じたらよいのかわからない、という戸惑いの声を最近よく聞く。この多くは真偽というレベルではなく、「誰の解釈が正しいか」というレベルの問題のよう。結局は、「誰が」正しいかではなく、「自分は」世の中をどう見ていきたいのか、というところにたどりつく。


2010年10月08日(金)

今朝の朝日新聞の社説。国会運営の邪魔になりクリーンな民主党のイメージを妨げるから離党させよ、というのはやっぱり違和感。まるで「空気を読め」「邪魔者は消えろ」と要求しているかのような話だ。こういうのを連続して流されると、「世論」が形成されてしまうのだろう。

どうしても違和感があるのは「強制起訴を機会に」という視点だ。「国会での説明を求めたのに断った」というのなら「機会」になるが、強制起訴は性質の違う話だ。説明させようとしない民主党をいくら批判してもかまわないと思うが、強制起訴と政治的な身分を関連づけることは本当に危険。

他者に関わることを主張するのであれば、その必要性を示す原則的根拠(法律)かデータ(証拠)を示すべきだ。それらは主張の正当性を裏付けると共に、「他の選択肢の存在」を考えさせてくれるからだ。民主主義と法治国家を守ろうとするのであれば、そのような「節度」が必要だと思うのだが。


2010年10月12日(火)

「希望の持てる新しい動き」について考えていくと、「自分が存在すること」もその一つだと思える人が増えれば、社会が「コントロールのきかない、悪化の一途をたどるもの」ではなくなるだろう。自分が社会で何をするかということではなく、社会との関係性の問題だ。

「偉い人たち」が変わらなければ社会が変わらない、と思っている限り、毎日をただ憤って絶望的に過ごしていくことになる。そんなふうに自分の力を明け渡す必要はない。「偉い人たち」の方が物理的にできることは多いかもしれないが、社会をどう見るかは万人に平等に与えられた選択肢。


2010年10月13日(水)

政治の守備範囲はかなり限られていて、「政治がすべてを解決すべき」という発想でいる限り、社会における重要なものが育たないように思う。そして政治の守備範囲の限界がきちんと認識されていないことが、政治そのものの質も下げているように思う。


2010年10月16日(土)

「自己責任」という言葉は要注意ですね。他人に対して自己責任を要求するということは、一方的な押しつけという暴力であり分離の姿勢だと思います。本当の自己責任とは、自分の心の姿勢についてのものだと私は思っています。人に自己責任を要求したくなる姿勢も含めて。


2010年10月19日(火)

政権交代後の「政治主導」では事業仕分けに代表されるような既得権廃止・無駄遣い削減機能ばかりが目立つが、本来は縦割り行政の壁を突破して省庁横断的な大きな政治課題を実現するのが政治主導の真骨頂のはず。壊す政治から創る政治への転換を期待。


2010年10月23日(土)

大臣の立場で他国を「ヒステリック」呼ばわりする政治家がいることに改めて驚いた。ちょうど、「評価に潜む暴力性」についての本を書き終えたところだが、「ヒステリック」という評価の持つ暴力性は特に強い。破壊的な戦争を始めるつもりでもなければあり得ない発言。

政治の世界には不必要に曖昧な言葉が多いのも事実だが、同時に、相手がある話については、「~を期待する」という程度の表現にとどめて出口を確保しておくという知恵もある。平和とは老獪な知恵によってしか得られない、というのはこういうことだろう。自ら出口を塞いではいけないと思う。


2010年10月27日(水)

裁判員制度初の死刑求刑例について。多数決ではなく全会一致で、という提案は現状で可能な選択肢としてうなずけるが、死刑判決の重みから裁判員を守るだけでなく、死刑そのものについても考える機会になってほしい。「死刑判決の重み」は、実は国民全員にかかっているものだからだ。

死刑をテーマにした本で私がお勧めするものは、森達也さんの「死刑」http://amzn.to/9te68Bと、その中でも紹介されている原田正治さんの「弟を殺した彼と、僕」。http://amzn.to/dg9Jt3 賛成・反対を超えた自由な頭で読んでいただきたいです。


2010年10月28日(木)

企業・団体献金問題にしても「政治とカネ」問題にしても、その基本には「政治にはお金がかかる」という暗黙の前提がある。いったい何にそんなにお金がかかっているのか、という検討をせずにこれらの問題を論じても本質的ではないように思う。

例えばよくある支出に、地元紙に載った弔報に対してすべて弔電を打つ、というものがある。莫大なお金がかかるので私にはできなかったが、「やはり国会議員から弔電が来るのは嬉しいものだから何とかならないか」とよく言われた。この「嬉しさ」と「政治とカネ」も無関係ではない。


2010年10月29日(金)

管制官ニアミス有罪確定を知り、よく飛行機を利用する一人として複雑な気持ちだ。医療もそうだが、直接人の命に関わる領域は特に、「人はミスをする」という前提に立ったシステムの構築が何よりも重要。個人の責任を追及することによって最も重要なことが見失われないよう望む。

個人的に引っかかるのは、処罰を支持する根拠の中心が「誰かが処罰されないと浮かばれない」被害者感情であること。そのように感じる時期が被害者にあることは確かだが、それが全てではない。また、本質は処罰そのものよりも社会による支持・共感にあるのではないだろうか。


2010年10月30日(土)

「勝ち負け」「善悪」「正邪」にとらわれている人は、一見「毅然として」見えるのかもしれないが、結局は政治家に不向きだと思う。いろいろな事情を抱えた人が折り合っていくための仕組み作りが政治であり、外交も基本は同じだ。結局は同じ地球上で関わり合って生きているのだから。

先日ジャーナリストの田岡俊次さんから教えてもらったが、武士が大敵を予め察知して逃げる「聞き逃げ」は逃げではなく戦術で、相手の姿を見て逃げる「見逃げ」は逃げだそうだ。外交とは、メンツに関わる「見逃げ」に至る前に、いかに「聞き逃げ」の戦術を使いこなすかだとも言える。


「対人関係療法でなおす 気分変調性障害」を刊行しました

創元社から出していただいている対人関係療法シリーズの第四弾として、気分変調性障害(慢性のうつ病)の本を刊行いたしましたのでお知らせします。
一般の方(患者さん、ご家族、その他ご関心のある方)向けです。

対人関係療法でなおす 気分変調性障害 ― 自分の「うつ」は性格の問題だと思っている人へ

創元社

1575円(税込)

アマゾンで購入する方は

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4422114646?ie=UTF8&tag=mizucx-22&linkCode=xm2&camp=247&creativeASIN=4422114646

「本書を読んでいただきたい方」について、「はじめに」より抜粋します。

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はじめに 本書を読んでいただきたいのはこんな方です

自分は人間としてどこか欠けていると思う。
他の人は苦しいことにもしっかり耐えているのに、自分は弱い人間だと思う。
自分は何をやってもうまくいかない。
自分は何か、なすべき努力を怠っているような気がする。
人が「本当の自分」を知ったら、きっと嫌いになるだろう。 
「○○したい」と言うのは、わがままなことだと思う。
自分が何かを言って波風を立てるくらいなら、我慢したほうがずっとましだ。
自分の人生がうまくいかないのは、自分が今までちゃんと生きてこなかったからだ。
人生は苦しい試練の連続であり、それを楽しめるとはとても思えない。
これから先の人生に希望があるとは思えない。

もしもあなたが、ほとんど毎日、上に挙げたように感じているのであれば、本書をぜひ読んでみてください。本書のテーマである「気分変調性障害」である可能性が高いからです。
そんなふうに感じる方の多くが、「気分変調性障害」などという病名を聞いたことがないかもしれませんし、今まで一度も治療を受けたことがないかもしれません。おそらく、「これは病気ではなく性格の問題」「これは治療で解決すべきことではなく、人間力をつけることで解決しなければならない問題」などと思っておられるのではないでしょうか。そしてその先には、「性格の問題だからどうしようもない」「自分には解決する力などない」という絶望もついてくると思います。絶望を感じながらも、自己啓発の本を読んでみたり、セミナーなどに参加してみたりしたことがあるかもしれません。そしてそれらの結論も、「やっぱり自分はだめだ」というものだったのではないでしょうか。
実は、冒頭に挙げた感じ方はいずれも「気分変調性障害」という「病気」の症状として現れてくるものであって、治療可能であるということを聞いたことがあるでしょうか? もしもなければ、ぜひ本書を読み進めてください。また、聞いたことはあっても、よくわからない、ぴんとこない、という方も、本書でその具体的な内容を知っていただきたいと思います。「病気」と言われることに何らかの抵抗を感じる方にも、本書がお勧めです。第一章で述べますが、本当に気分変調性障害を持つ人であれば、「自分の場合は病気ではなくて、本当に人間としての欠陥があるのだ」と感じるてしまうのがふつうですから、「あなたは病気で、治療可能です」と言われることに懐疑的な人こそが、本書にふさわしい読者なのです。

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CS放送出演のお知らせ

10月2日(土)11:00~13:00、朝日ニュースター(CS放送)の「愛川欽也パックイン・ジャーナル」にコメンテーターとして出演する予定です。

テーマは以下の予定です。
(1)臨時国会始まる
(2)日中関係の着地点
(3)検察特捜事件のその後
(4)北朝鮮 3代世襲へ
(5)日本 ミャンマー難民受け入れ

CS放送をご覧になれる環境の方は、ぜひご覧くださいませ。

「正しく知る不安障害 ~不安を理解し怖れを手放す~」を刊行しました

技術評論社の「ぐっと人がわかるシリーズ」の1冊として、「正しく知る不安障害 ~不安を理解し怖れを手放す~」を出版していただきました。

パニック障害、社交不安障害、強迫性障害、心的外傷後ストレス障害(PTSD)など不安障害について一般の方向けに説明した本です。

不安障害をお持ちの方、その身近にいる方、不安が強い方、不安という感情に関心がある方にお勧めです。

あとがきより一部抜粋します。

(前略)もう一つ本書で明らかにしたかったのは、「不安」と「怖れ」の違いです。この二つはほとんど同義に用いられることもある言葉ですが、私は本書で、単なる感情としての「不安」と、心の姿勢としての「怖れ」を区別することを心がけました。不安は、「安全が確保されていませんよ」ということを教えてくれる感情であり、基本的には役に立つものです。でも、不安だらけの毎日になってしまうと、それは苦しいことになります。単なる感情である「不安」を苦しいものにしてしまうのは、「不安」を怖れる心の姿勢なのですが、これは案外語られてこなかった側面だと思います。
本書を通してお伝えしたかったのは、不安も、不安障害も、怖れる必要はないということです。不安は役立てていくことができますし、不安障害は治していくことができます。そこから何かを学ぶことすらできるのです。不安も不安障害も、実物大で見ることができれば、生活を支配し、人生の質を台無しにするようなものにはなりません。実物大で見るための大きな一歩が、まずは正しく知るということです。それが、本書のサブタイトルで言っている「『不安』を理解し『怖れ』を手放す」ということです。一見首をかしげるようなサブタイトルですが、まさに、本書の目的はそこにあります。(後略)

お役に立てば幸いです。

正しく知る不安障害 ~不安を理解し怖れを手放す~
技術評論社
1554円(税込)

アマゾンで購入する(送料無料)

民主党の代表選に思う

民主党の代表選を見ながら、「政党とは何か」ということを考えている。

本来、一人一人が選挙によって選ばれる国会議員は、全員が「無所属議員」であってよいはずである。
しかし、よほど国会議員数が少ない小国でない限り、全員が無所属議員として一つ一つの政治課題を議論していたら、手間も時間もかかって税金の無駄になってしまうだろう。
また、同僚と協力し合うことで得られるメリットも大きい。政党の存在は、これらのニーズに応えるものだと考えられる。

北欧などの多数政党制の国々を見ると、この、「政党 = 政策立案と実現のための集団」ということがわかりやすい。国民は、どの党に力を持たせるかによって、どの政策の方向性を選ぶかを自分で考えることができる。

一方、今の日本のように、「選挙に出たいけれども、自民党は候補者が決まっているので」とか「今は民主党から立候補した方が当選しやすいので」「自分の所属する組織は民主党からしか立候補できないので」などという理由で所属政党を決めている人が多い状況では、政党のあり方も歪んでくるのは当然だと思う。
「次の選挙に勝つための代表は誰か」という視点から代表選が語られるのも理解できる。
この場合の政党とは、単に選挙に勝つための装置に過ぎず、それ自体が民主主義の成熟につながるものではないだろう。
「選挙に勝つための装置」としての政党の存在を否定するつもりはないが、それなら「政策立案と実現のための集団」のような顔をしない方がよいと思う。
「政策立案と実現のための集団」という顔をしておいて、実際の行動が「選挙に勝つための装置」である、というズレが、政治不信を強めていると言えるだろう。
(なお、政権交代までの民主党について言えば、「政権交代至上主義」が駆動力であったことは間違いなく、そういう意味では「選挙に勝つための装置」としての役割が大きかったように思う。もちろん、与党になった今では不適切な考え方だと思うが)

このように考えてくると、報道の中にさかんに出てくる「挙党態勢」という言葉についても考えさせられる。

何を目的とした「挙党態勢」なのか。
参院選前に不用意に消費税増税に言及した菅首相を批判するにしても、「選挙に勝つための集団」のトップとして批判するのか、「政策立案と実現のための集団」のトップとして批判するのか、ではスタンスが変わってくる。

そもそも、政党が「政策立案と実現のための集団」であれば、厳密に言えば、二大政党制はあり得ないと思う。
二大政党下で、それぞれの政党に所属する議員がほとんどの領域で一致しているということは、人間の多様性を考えればまずあり得ない話である。したがって、最低限の基本政策の一致だけを期待する方がよほど理にかなっている。つまり、「党議拘束」を極力排除すべきだということである。
私は現職議員のときに何度か「造反」をし、処分すら受けたことがあるが、二大政党制を目指すのであればおかしなことであった。
もちろん、「選挙に勝つための装置」としての政党であれば、バラバラ感は好ましくないだろうし、党議拘束は重要なのだろうが、「選挙に勝つための装置」としての政党を多くの有権者は望んでいるのだろうか。

代表選の結果がどうなるかはわからないが、負けた側は、自らの政策的主張を引っ込めるのだろうか。
あたかも「政策立案と実現のための集団」のようなことを言っているのに、政局に合わせてその主張を変えるのであれば、本質は「選挙に勝つための装置」としての政党にしか関心がない、と考えた方がよいのだろう。(今回の代表選ではそれよりもさらに一段レベルの低い、個人的感情論が先に立っているような気もするが)

「党が決めたことだから」という言い訳も、こうして考えてみると、何とも説明のつかないことだ。
最低限の基本政策に関わることであれば、自分と方向性の一致する政党に所属すべきだろうし、それ以外のことであれば、やはり自分の信念を貫くのが政治家だと思う。
「党が決めたこと」を重視するという姿勢そのものが、「選挙に勝つための装置」としての政党を認めているのではないだろうか。

これらのわかりにくさを排除するためには、個人の裁量が最大限に認められた二大政党制か、北欧のような、政策本位の多数政党制(それぞれの政党がそれぞれの主張を持ち、政治状況に応じて複数の政党が連立政権を組み、それが最終的な政策決定に反映される)かのどちらかを選ぶ必要があると思う。

追伸 ツイッターについて

前回、「ツイッターを始めました」と簡単にお知らせをしましたが、「そもそもツイッターとは何?」というご質問も受け、実に不親切な説明であったことに気づきました。
私のホームページ http://www.hirokom.org/ のトップページに、最近10個の「つぶやき」(140字以内の短文メッセージ)が載っており、そこからそれ以前のものも読めるようになっていますので、ツイッターそのものにおなじみでない方も、時々ご覧いただければ幸いです。
今のところだいたい毎日書いています。