10月のツイッターより(特に反響が大きかったものの抜粋)

ほとんど毎日書いているツイッターですが、特に反響が大きかったものをまとめてみました。


2010年10月02日(土)

今朝の朝日新聞政治面、福田宏樹氏の「菅首相の出直し所信表明に思う」は好感をもって読んだ。主語は「私」。所信表明演説から消えた「最小不幸社会」を思い、今こそ遠望するまなざしが必要、という趣旨。「今回の政府の対応に国民の多くが不満と答えています!」などとあおるメディアとは対照的。

政治家が使う「国民の皆さま」「増税のお願い」などという言葉に私は常に違和感を覚えている。「有権者の代弁者として意思決定の場に出ている」という意味合いが見失われるように思うからだ。


2010年10月03日(日)

昨日パックインジャーナルに出演して田岡俊次さんから教えてもらったニュース。9月29日に福岡市役所前で中国人ツアー客1300人の観光バスを街宣車が包囲してバスを蹴ったり叩いたりし、約20分間足止めされた事件。地方版に小さく報道されただけで全国ニュースになっていない。

日本人の観光客が外国で同じ目に遭ったらどう報道されるかと考えると、この事件が日本で広く報道されないことが不思議だ。「国民みんなが中国に対して怒っています!」とメディアがあおる中、こういう事件はきちんと報道される必要があると思う。本来「ニュース」とはそういうものであるはず。

こちらは石川好さんに教えてもらった話。中国では深夜に招かれることが親愛の証なのに日本では深夜に大使が招かれたことを「無礼」と怒っている。それも深夜にずれこんだのは日本側の対応の遅れによるものだったらしい。相手の立場を理解しようとする姿勢が欠けているようだ。

どこの国にも過激なナショナリストはいて、それを認識しながら政治のバランスをとる必要がある。「国民はみんな怒っています!」「毅然とした対応を!」と主張している政治家を見ると、そういう政治本来の役割がわかっているのだろうか、と心配になる。


2010年10月05日(火)

ちょうど今書いている本のテーマでもあるのだが、「人を変えようとすること」と「変化を起こすこと」は違う。変化を起こすためには、「変わりやすい環境」を作ることが有効で、その中には「人を変えようとしないこと」「まずは自分が変わること」も含まれる。人は変わるときにしか変わらない。

今朝の朝日の社説。「推定無罪の原則」と「政治的責任」は別問題、というのはもちろん賛成。しかし「強制起訴」をきっかけに議員辞職を、と言うのは両者を混同していないか。本件については妥当に聞こえるかもしれないが、一般化するのは危険。民主主義の根幹に関わる問題は原則が重要だと思う。


2010年10月06日(水)

情報が多く、どれを信じたらよいのかわからない、という戸惑いの声を最近よく聞く。この多くは真偽というレベルではなく、「誰の解釈が正しいか」というレベルの問題のよう。結局は、「誰が」正しいかではなく、「自分は」世の中をどう見ていきたいのか、というところにたどりつく。


2010年10月08日(金)

今朝の朝日新聞の社説。国会運営の邪魔になりクリーンな民主党のイメージを妨げるから離党させよ、というのはやっぱり違和感。まるで「空気を読め」「邪魔者は消えろ」と要求しているかのような話だ。こういうのを連続して流されると、「世論」が形成されてしまうのだろう。

どうしても違和感があるのは「強制起訴を機会に」という視点だ。「国会での説明を求めたのに断った」というのなら「機会」になるが、強制起訴は性質の違う話だ。説明させようとしない民主党をいくら批判してもかまわないと思うが、強制起訴と政治的な身分を関連づけることは本当に危険。

他者に関わることを主張するのであれば、その必要性を示す原則的根拠(法律)かデータ(証拠)を示すべきだ。それらは主張の正当性を裏付けると共に、「他の選択肢の存在」を考えさせてくれるからだ。民主主義と法治国家を守ろうとするのであれば、そのような「節度」が必要だと思うのだが。


2010年10月12日(火)

「希望の持てる新しい動き」について考えていくと、「自分が存在すること」もその一つだと思える人が増えれば、社会が「コントロールのきかない、悪化の一途をたどるもの」ではなくなるだろう。自分が社会で何をするかということではなく、社会との関係性の問題だ。

「偉い人たち」が変わらなければ社会が変わらない、と思っている限り、毎日をただ憤って絶望的に過ごしていくことになる。そんなふうに自分の力を明け渡す必要はない。「偉い人たち」の方が物理的にできることは多いかもしれないが、社会をどう見るかは万人に平等に与えられた選択肢。


2010年10月13日(水)

政治の守備範囲はかなり限られていて、「政治がすべてを解決すべき」という発想でいる限り、社会における重要なものが育たないように思う。そして政治の守備範囲の限界がきちんと認識されていないことが、政治そのものの質も下げているように思う。


2010年10月16日(土)

「自己責任」という言葉は要注意ですね。他人に対して自己責任を要求するということは、一方的な押しつけという暴力であり分離の姿勢だと思います。本当の自己責任とは、自分の心の姿勢についてのものだと私は思っています。人に自己責任を要求したくなる姿勢も含めて。


2010年10月19日(火)

政権交代後の「政治主導」では事業仕分けに代表されるような既得権廃止・無駄遣い削減機能ばかりが目立つが、本来は縦割り行政の壁を突破して省庁横断的な大きな政治課題を実現するのが政治主導の真骨頂のはず。壊す政治から創る政治への転換を期待。


2010年10月23日(土)

大臣の立場で他国を「ヒステリック」呼ばわりする政治家がいることに改めて驚いた。ちょうど、「評価に潜む暴力性」についての本を書き終えたところだが、「ヒステリック」という評価の持つ暴力性は特に強い。破壊的な戦争を始めるつもりでもなければあり得ない発言。

政治の世界には不必要に曖昧な言葉が多いのも事実だが、同時に、相手がある話については、「~を期待する」という程度の表現にとどめて出口を確保しておくという知恵もある。平和とは老獪な知恵によってしか得られない、というのはこういうことだろう。自ら出口を塞いではいけないと思う。


2010年10月27日(水)

裁判員制度初の死刑求刑例について。多数決ではなく全会一致で、という提案は現状で可能な選択肢としてうなずけるが、死刑判決の重みから裁判員を守るだけでなく、死刑そのものについても考える機会になってほしい。「死刑判決の重み」は、実は国民全員にかかっているものだからだ。

死刑をテーマにした本で私がお勧めするものは、森達也さんの「死刑」http://amzn.to/9te68Bと、その中でも紹介されている原田正治さんの「弟を殺した彼と、僕」。http://amzn.to/dg9Jt3 賛成・反対を超えた自由な頭で読んでいただきたいです。


2010年10月28日(木)

企業・団体献金問題にしても「政治とカネ」問題にしても、その基本には「政治にはお金がかかる」という暗黙の前提がある。いったい何にそんなにお金がかかっているのか、という検討をせずにこれらの問題を論じても本質的ではないように思う。

例えばよくある支出に、地元紙に載った弔報に対してすべて弔電を打つ、というものがある。莫大なお金がかかるので私にはできなかったが、「やはり国会議員から弔電が来るのは嬉しいものだから何とかならないか」とよく言われた。この「嬉しさ」と「政治とカネ」も無関係ではない。


2010年10月29日(金)

管制官ニアミス有罪確定を知り、よく飛行機を利用する一人として複雑な気持ちだ。医療もそうだが、直接人の命に関わる領域は特に、「人はミスをする」という前提に立ったシステムの構築が何よりも重要。個人の責任を追及することによって最も重要なことが見失われないよう望む。

個人的に引っかかるのは、処罰を支持する根拠の中心が「誰かが処罰されないと浮かばれない」被害者感情であること。そのように感じる時期が被害者にあることは確かだが、それが全てではない。また、本質は処罰そのものよりも社会による支持・共感にあるのではないだろうか。


2010年10月30日(土)

「勝ち負け」「善悪」「正邪」にとらわれている人は、一見「毅然として」見えるのかもしれないが、結局は政治家に不向きだと思う。いろいろな事情を抱えた人が折り合っていくための仕組み作りが政治であり、外交も基本は同じだ。結局は同じ地球上で関わり合って生きているのだから。

先日ジャーナリストの田岡俊次さんから教えてもらったが、武士が大敵を予め察知して逃げる「聞き逃げ」は逃げではなく戦術で、相手の姿を見て逃げる「見逃げ」は逃げだそうだ。外交とは、メンツに関わる「見逃げ」に至る前に、いかに「聞き逃げ」の戦術を使いこなすかだとも言える。