アメリカ報告18 ――アメリカ人のコミュニケーション

 今週はいろいろと変わったことがあり、また日米の比較をしたくなりましたので、少々ご報告させていただきます。社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3)は、次回にします。

 5月19日には、Noetic Sciencesという、スピリチュアリティと科学の関係を研究している団体の講演会に誘われて出かけて行ったのですが、その講演の演者として招かれていたのが村上和雄先生でした。村上先生は現在筑波大学の名誉教授ですが、DNA解明の世界的権威で、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功したことで有名です。ノーベル賞に最も近い日本人とも言われています。村上先生の著書「サムシング・グレート」などは、スピリチュアルな本として、科学が苦手な人でも楽しく読めるのではないでしょうか。

 村上先生とは以前漢方関係のシンポジウムでご一緒させていただいたことがありますが、まさか北カリフォルニアの、日本人がほとんどいないところで再会できるとは思いませんでした。改めて親しくお話しさせていただき、すっかり意気投合いたしました。

 そして夜の10時ごろに上機嫌で帰途に着いたのですが、最近怪しげだった車がいよいよ本格的にオーバーヒートしてしまいました。嫌な予感がして高速を途中で降りたところ、降りてすぐにエンジンが止まり、ブレーキもロックされてしまいました。あそこで高速を降りる判断をしていなかったら、と思うと、ちょっとゾッとします。

 無事に車を止め、自ら修理を試みたのですが、ラジエーターに穴があいているようで、どうにもなりません。仕方なく保険会社に電話をかけて心細く到着を待っている間に、親切な巡査部長に発見していただきました。最終的には、巡査部長が牽引会社に催促してくださり、牽引車が来るまで付き添っていただいたので、安心できました。また、「なんでこんな古い車に乗っているんだ」などと価値観を押しつけるようなことは一切言わず、お説教もせず、ユーモアすらもって、親身になって事態に対処してくださったので、新鮮な体験でした。(もちろん、すべての警察官がこういう人だというわけではないようで、私はかなり運がよかったようです)

 巡査部長に発見していただく前には、遅い時間であるにもかかわらず、いろいろな車が止まって「何か手伝いましょうか」と声をかけてくれました。アメリカでは、本当にこうした人の善意をありがたく感じることが多いです。

 声をかけると言えば、アメリカ人は、本当に平気で人に声をかけます。例えば、郵便局で列に並んでいなかった人(アメリカ人はよくカードや手紙を送るということもあるのですが、アメリカではパスポートの発行も郵便局で行っており、地域の拠点として機能している郵便局は、とにかく込んでいることが多いのです。もちろん、郵便局は国営です)が窓口に先に行ってしまったように見えたとき。私も「?」と思いながら見ていると、必ず誰かが「あの人は前からいたの?」と問題提起します。「彼は最初から、ドアのところにいたよ」などと証言が出てきて、本人も「自分は誰よりも先に来ていた」と主張し、「それなら良い」ということになるのですが、以前、問題提起をした女性が「だって、あの人がもしも外国人でここのルールを知らない人だったら、教えてあげなければ不親切でしょう」と言っていました。確かにその通りです。

 また、バスに乗っていたとき、バスの止まった場所が悪くて歩行者用の信号が見えなかった、と運転手に苦情を怒鳴ってきた人がいました。運転手も負けてはおらず「だって、ここから左に曲がってすぐに右に曲がらなければならないのに、これ以外にどういうルートがあるんだ」と言い返します。歩行者は「もっと信号の手前で止まればいいじゃないか」。運転手は「ここに来たとき、信号は青だったんだ。途中で信号が変わったんだから仕方ないじゃないか」。こうしてしばらく怒鳴りあって、あとはさっぱりと出かけていきます。

 人前で注意をするとそのときは言い返しもしないけれど、後で待ち伏せしていて仕返しをする、という、日本でよく見られるやり方よりははるかに気持ちが良いです。

 アメリカ人と結婚してずっとアメリカに住んでいる日本人に、「日本ではアメリカ人は自分勝手で公共心がないと思っている人が多い」と言ったら、「反対じゃないの?」ととてもびっくりしていました。「だって、日本人は、人にぶつかっても謝らないじゃないの」と。NPOのときにも書きましたが、公共心はアメリカのほうがはるかに強いと思います(もちろん例外もありますが)。

 また、何といっても見習うべきはコミュニケーション能力です。自分の意見はしっかり主張するけれども相手の意見も尊重する、というのは、例えば、人が話している間は口をはさまない、というマナーにも現れていると思います。日本で、ガチャガチャと、結局声の大きい人が会話を支配する、というような文化に慣れてしまっていると、アメリカの会話は最初はストレスがたまるのですが、相手が話さずに待っているので、できるだけ相手にとって価値のある話をしようという気にもなります。

 また、私のセンターでも、よほどの急用でない限り、他の人たちが話をしているところに駆け込んで自分の用事をすませる、というのはご法度です。上下関係が緩やかなセンターだからということもあるのでしょうが、上司が部下に何かを伝えたいときも、よほど差し迫っているのでなければ、「手が空いたら私の部屋に来てください」というメッセージだけ残して、そこにいる人たちの会話を尊重します。

 今週は、ひょんなことから、アメリカに来て5年という日本人のお宅にお招きをいただき、行ってきました。会社員であるお父さんが言っていたことが印象的でした。「アメリカに来て、これほど子どものことに関わるようになるとは思ってもいなかった。日本にいたときは、仕事ばかりで、家庭での存在感は全くなかったと思う。こちらに来たら、あらゆることに親の参加を求められるので、自分はすっかり変わった。こちらの学校では、平日の昼間の行事でも、両親そろって参加している人が多い」と言っていました。8歳でアメリカに来たという中学生の息子さんに、日本にいたときのお父さんとアメリカでのお父さんの違いを尋ねてみたのですが、「日本にいたときのお父さんはよく覚えていない」とのことでした。

 日本でもアメリカでも、「家族」というものが政治的に重要なキーワードになっている昨今ですが、少なくとも、「家族を大切に」というスローガンは、アメリカのほうが実態を伴っているようです。

 余談ですが、そのお宅に招かれたときに、もう一組、日本人の家族が来ていたのですが、そこの男性は、ついに私の職業すら聞きませんでした(私の夫には尋ねて、いろいろと仕事の話をしていました)。個人が尊重されるアメリカでは、まずあり得ないことです。「夫の仕事は・・・」と女性が言ったとしても、「それであなたは何をしているの?」と聞くのが当たり前です。久しぶりに日本を体験した気がしました。