社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その2)

 私が大部分の時間を過ごしているサウサリートのセンターでは、アティテューディナル・ヒーリングは、病気を持つ人、死を迎えようとしている人、愛する人を亡くした人、虐待を含め不適切な養育を受けた人、などを主な対象としていますが(この4月から、「家族を戦争に出している人」のグループも始まりました)、オークランドのセンターの中心的なテーマは社会正義です。私自身は、むしろこちらの方に高い関心があります。なぜかというと、差別などの問題を解決していくにあたって、アティテューディナル・ヒーリングのアプローチは、私が現在唯一有効だと思えるものだからです。私が国会での活動を通して身をもって学んできたことのエッセンスでもあります。

 前回ご紹介した原則の12「どんな人も、愛を差し伸べているか助けを求めているかのどちらかととらえることができる」というのは、個人的な人間関係においても役立ちますが、政治活動などをするときには特に役に立つ考え方です。自分を攻撃しているように見える人は、実は助けを求めて叫んでいる人に他ならない、ということです。私自身、アティテューディナル・ヒーリングに出会う前に、このことには気づいていました。拙著「国会議員を精神分析する」にも、人の話を聞こうとしない人の不安の強さについて書きましたが、現在日本で大きな問題になっているジェンダー・バッシング(男女共同参画の流れに対する揺り戻し現象)なども、まさに不安に基づく行動です。

 「バッシング」などは、一見すると「攻撃」に見えます。私も、男女共同参画や平和を目指す言動について、いろいろな「攻撃」を受けてきました。でも、私は自分が「攻撃」されているとは考えず、相手の「不安」としてとらえるように努めてきました。そうすれば、自分がぐらつかないのはもちろんのこと、相手が理解可能な存在になりますし、歩み寄りが可能になります。

 相手の「攻撃」を攻撃としてとらえてしまうと、今度はこちらの不安が喚起されます。そして、逃げるか、反撃するか、という形をとることになります。どちらも、問題解決をますます難しくしていきます。
 国会にいたときに、私の法案修正率が高かったのは、基本的にこの姿勢をとっていたからだと思います。

 オークランドのセンターの代表であるアイーシャは、まさに「攻撃」に対して愛を返してきた人です。彼女は様々な差別にあってきました。例えば、孫娘が生まれたときに、貸しオムツのサービスを受けようとしたら、(黒人が多く住む)治安の悪い地域だから配達できない、と言われたとき、彼女は怒るのではなく、心の平和を保ちながら、担当の女性に「あなたが初めて赤ちゃんを産んだ母親だったら、どう思う?」と語りかけ、最終的にオムツの配達を可能にしました。また、中華料理のレストランで、黒人にはサービスをしないと断られたときにも、怒らず、「あなたがサービスしたくないと言うのなら、それはあなたの選択でしょう。でも、あなたの言動から、この店の若い従業員たちがどういうことを学ぶか、考えてみてください」と語りかけ、最終的には求めていたサービスを受けました。

 こうした差別を受けたときに、アイーシャが(正当な)怒りを相手にぶつけていたとしたら、どうなったでしょうか。相手との溝はますます深まったでしょう。そして、相手に、人種問題を考え直させる機会を与えることもできなかったでしょう。

 これらの感動的なエピソードが詰まった「Beyond Fear(怖れを超えて)」という著書は本当にお勧めです。人種問題の解決はここにしかないだろう、という気持ちにさせてくれます。日本語に翻訳できれば良いのですが、どちらか関心のある出版社をご存知でしたらご紹介ください。(日本の出版界の景気の悪さは、良書の紹介をどんどん難しくしていると思います。)

 社会正義とアティテューディナル・ヒーリングについては、また次回にも続けます。