アティテューディナル・ヒーリングの原則11

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則11です。アティテューディナル・ヒーリングの創始者ジャンポルスキー博士は、自分の死をとても怖れていたといいます。原則の紹介は次回12で終わりますが、その後、センターの初期についてパッツィの回想が続きます。原則11については、その回想とあわせて読んだ方が理解しやすいかもしれません。今では、ジャンポルスキー博士は、「死とは身体をわきに置くこと」と明言しています。東洋の輪廻転生思想に馴染んでいる方にはあまり意外ではないかもしれませんが。

 私自身、原則11だけはまだ「理解しようと努めている」段階ですが、センターで、子どもを失った母親が、「生きていたときよりも愛が強まったような気がしている。いつも娘は私と一緒にいる」と言っているのを聞くと、説得力があります。

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11 愛は永遠のものなので、死を怖れる必要はない。

この原則をうまくとらえるために、原則の1に戻りましょう。「私たちの本質は愛であり、愛は永遠である。」命が永遠であると信じれば、死への怖れはなくなります。私たちの本質である愛は続き、新たな形に入るだけなのだという考え方を強めれば、死への怖れを消すことができます。死への怖れを消すことができた分だけ、私たちは今このときに完全に生きることができるようになります。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリングの原則10

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則10です。ちょっと難しいかもしれません。

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10 私たちは自分たちを分断された存在ではなく一つのいのちとしてとらえることができる。

 心の平和を感じるためには、自分自身と周りの人たちが一体のものであるということに焦点を当ててみる必要があります。これは、私たちにいつも痛みをもたらしている「分断」の感覚を追い払うという意味です。「分断」の感覚は、自分自身が傷つかないように守るために築いた障壁の一つです。私たちが、正誤、善悪という罠に捕らわれているときには、全体の中の一部分だけを見ているに過ぎません。このゲームを始めると、心の平和を保つことはできなくなります。たまたま今どういう結果が出ていようと、常に「勝ちのない」状況になるからです。

 私たちは、自分に対して、周りの人たちに対して、そして私たちが見ている世界に対して、新しい態度を持てるようになります。トンネルのような視野の他に、もっと大きな全体があるのだということを認識することができます。自分の中にある活発な力を通して、より大きなイメージを感じることができるのです。この力によって、私たちは広がっていき、この大きな全体に気づくようになりますので、他の人たちが苦しんでいる葛藤に巻き込まれる必要はないのです。他の人たちが苦しんでいる葛藤は、その人たちの道であって、私たちの道ではないのです。私たちがやるべきことは、それぞれの状況に対して今までとは違う見方をすることができるように、そして、意味のないパターンにはまりこまないように、集中し続けることなのです。それぞれの状況が起こるたびに私たちの心を再訓練することによって、私たちの意識をより高度の気づきに持っていきます。

 私たちは自分自身に「たった今起こっていることに巻き込まれることは選びません。その代わり、人生の全体を見ることを選びます」と言うことができます。こうすることによって、私たちの焦点は広がり、変化し、物事を違う形で見られるようになるのです。

 思考パターンを変えるときに自分の内面で起こる変化を経験すると、信じられないほどワクワクします。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリングの原則9

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則9です。教師と生徒の役割を入れ替えるということは、特に「権威」のある人たちには難しいと言われています。なぜ難しいのかということを考えれば、やはり「怖れ」が妨げになっているということが理解できます。

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9 私たちはお互いに生徒であり教師である。

 関わりを持つ全ての人が自分にとって教師であると考えるようになると、人生に対して別の見方をすることができるようになります。いろいろなことにすぐに気づくようになり、人の話をよく聞くようになります。学びには序列はなく、おそらく子どもたちが一番の教師だということがわかってきます。

 子どもたちは率直で正直です。私たち大人が持っているような障壁をまだ築いていません。私たちの障壁は、自分を保護する覆いのようなものですが、子どもたちと一緒にいることではずすことができます。この原則は、私たちは必ずしも他人にとって最善のことを知っているわけではないということを意味します。そして、知っている必要もないのです。私たちのそれぞれが、自分にとって何が最善かを知っているだけです。自分を知ろうとするプロセスを分かち合うことによって学ぶことができます。そして、そこから、学び成長するための人間関係を築くことができるのです。

 階層のある、垂直構造の学びではなく、水平なのです。そこでは、生徒と教師の役割を入れ替えることが、全体にとって最終的によい結果をもたらすことにつながります。この種の人間関係では、自分自身をより深く知ることの自由を感じやすくなります。もっと深く進むことが許されており、「間違い」「愚か」などと判断されないことが保障されています。こうして私たちがお互いに与えたり受け取ったりする努力を絶え間なく続けることによって、愛の経験の仕方をお互いから学べるようになるのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカ報告13 ――センター外の青少年支援プログラム

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの中で行われている青少年支援は、水曜日の夜に互い違いに行われている「喪失グループ(近親者を失った子どもたちのグループ)」と「病気グループ(子ども本人か家族が病気のグループ)」だけですが、センター外の支援活動も活発に行っています。

● 学校プロジェクト

 これが最も歴史の長いもので、10年以上続いているそうです。日本で言う中高生(11歳~18歳)に対して、プログラムを提供します。

 一つは、危機介入です。クラスの子どもが銃で撃たれた、などというときに、短期的に介入をします。子どもに対するサポートグループはもちろんのこと、教職員、保護者、学校の管理者、といった人たちに対してもサポートグループを行っていきます。

 もう一つは、学校の教育課程に組み込まれる定期的なグループです。うちの娘が通っている学校でも、高学年の子どもたちに対して昨年このグループを採用したそうです。一学期あるいは半年という期間、毎週グループを行っていきます。これは「総合学習」のような時間を使って行われるそうです。学校で日ごろから問題になっている人間関係のトラブルなどがあれば、この期間に対応することができます。

 センターとは直接関係ありませんが、センターに来るHIVの人から聞いたところ、HIV陽性の人が学校に行って子どもたちに話をする、というボランティアもさかんに行われているようです。このボランティアをするための2日間のトレーニングまであって、そこでは「教育現場にふさわしい話し方」などを学ぶそうなのですが、偏見によって苦しんでいる人たちの声を直接発してもらう、という手法が日本の学校現場に必要だとかねてから思ってきましたので、これは大変参考になります。

● conservation corps

「環境保護青年隊」とでも訳すのでしょうか、なかなかユニークなシステムです。高卒の資格あるいはGEDと呼ばれる「一般教育修了証書」(高卒よりも簡易なもの)をもらい、職業訓練も受けられる場所です。最低賃金をもらいながら自然保護の仕事をすると、証書取得に向けての教育が保障される、という仕組みになっています。学歴、最低賃金、仕事を通じてのスキル習得、と、3つが同時に得られる点は、「やり直しのきく社会」に向けて効果的な仕組みだと思います。

 ここにいる18~25歳の青年に対して、やはり週1回のグループを行うのがアティテューディナル・ヒーリング・センターのスタッフの役割です。それまでドロップアウトしていた多感な年頃の青年たちが「やり直し」を始めるわけですから、グループは大きな心の支えになるようです。

● juvenile hall

 一時保護所のようなところと言えばよいのでしょうか。18歳未満の少年非行・犯罪に対して、施設・グループホーム・里親のどこに行くかを決めるまで子どもたちが置かれる場所です。ですから、基本的には2ヶ月以内の滞在、ということになっているそうですが、常態として6~12ヶ月滞在している子どもが多いそうです。ここでもセンターのスタッフが週1回グループを行っています。

 もちろん、いずれのグループも、アティテューディナル・ヒーリングの原則に基づいて行われます。わざわざセンターに来る人たちを対象としているわけではないところが特徴ですので、センターの価値観を前提としないなど配慮がなされます。

 センター外の支援は11歳以上の子どもたちが中心ですが、センター内のグループは年齢制限がありませんので、5歳の子どもも来ています。

アメリカ報告12 ――アティテューディナル・ヒーリングの原則8――

 今日は、アティテューディナル・ヒーリングの原則8を紹介します。

8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。

 これは、「心の平和」の「意識的選択」であり、アティテューディナル・ヒーリングの中核的な考えを示したものです。
 もちろん、外で起こっていることを否認して自分の殻に逃げ込むということでもありませんし、外で起こっていることを都合よく解釈するということでもありません。

 例えば、大切な人を失ったとき。精神医学的にもよく知られている「悲哀」の反応が起こります。大雑把に言って、一定期間、「否認(喪失そのものを受け入れることができない) → 絶望(もう自分には何の望みもない) → 脱愛着(他の対象にも心を開いていく)」というプロセスを経ていきます。「心の平和を選ぶ」というのは、何も、この「絶望」を経験しないですませるということではありません。「絶望」を否定しようと葛藤するのではなく、「絶望」している自分を認め、「絶望」している自分を「許し」てやさしくする、という「選択」をするのです。

 センターの悲哀グループに来る人の中には、「妻が生きているうちは、人生は選択に満ちていた。でも、彼女が亡くなってからは、何の選択肢もなくなってしまった」と嘆く人もいます。そういう人が、「そんな自分に辛く当たる態度」と、「そんな自分を認めてあげる態度」の選択があるのだということに気づいていくと、他の選択肢にも気づいていきます。
 
 また、センターには介護者のグループもあります。介護の現場は日本と似たり寄ったりで、時には相手を殺してやりたいと思う場面も出てきます。そんなときには、介護者は追い詰められた気持ちになっており、「選択」という概念が抜け落ちてしまいます。

 センターの介護者のグループでは、「介護は自分で選択してやっている」ということを基本に置いています。これは、決して、いわゆる「自己責任論」ではありません。自分で選んでやっているのだから、何が起こっても我慢しろという考えではないのです。

 そうではなく、「介護を引き受けないという選択肢もある。でも、自分は、自分の人生を豊かにするために、介護をするという選択をした」というふうに考え、さらに自分の人生を豊かにするためにはどうしたらよいだろうか、という観点で話をするのです。ですから、介護を怠けたいと思う気持ちも正当なものとして認められます。相手を殺したいと思った、というエピソードも、打ち明けあうことができます。そして、そんな自分に罪悪感を持つのではなく、自分を認めてあげよう、という選択をしていくのです。介護者グループのもう一つの焦点は、「いかに自分の介護をするか(自分をいたわるか)」ということでもあります。

 介護者のグループにいた人は、期間の長短はあれ、やがて「悲哀のグループ」に移っていきます。でも、介護者のグループにいた時代を「本当に支えられた」と懐かしそうに話す姿を見ると、週に2時間程度のグループでも、どれほど介護者の支えになっているかを痛感します。
 
 この原則について、もう一つ誤解を招きそうな点として、「では、完全に無抵抗になるのか」ということがあります。もちろん、そんなことではありません。虐待をされて、心の平和を選んだから、無抵抗でいるということではありません。もちろん、心の平和を選びつつ、現状を変えるための行動を起こしてよいのです。自分自身の経験からも、心の平和に基づいて起こした行動の方が、結局のところ、自分を大切にする変化につながることの方が多いと思います。心が平和なだけ、起こすべき行動に集中できるわけですから。
 
 以下に、この原則について、パッツィ・ロビンソンの冊子の翻訳を記します。2段落目の「私たちはロボットではありません」というところが、私は好きです。  「非暴力コミュニケーション」のときにも述べましたが、ロボットのように、ただ無意識に反応する人の集合体が最も怖ろしいと思うからです。

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8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。

 心の平和をただ一つの目標として選びたいのであれば、「世間」の言うとおりに行動をとる必要がないということがわかるようになります。私たちは皆、「世間」がどれほど「正当な怒り」を守り、「正当な怒り」へのしがみつきをサポートしているかを知っています。私たちは、「世間」がサポートしてくれることをすることもできるし、自分の気持ちに責任を持ち、心の内面を見つめ、怒り・罪悪感・決めつけを捨てることを選ぶこともできます。

 私たちはロボットではありません。ロボットは外側の世界によって動かされます。ボタンが押されれば、誰かがやらせたいと思ったとおりのことをするようにプログラムされています。私たちはロボットのように行動する必要はありません。自分に最も平和をもたらすことをし、感じ、ふるまう自由があります。本質的に、誰も私たちのことを幸せに「したり」、悲しく「させたり」、寂しく「させたり」、怒ら「せたり」することはできないのです。「私の配偶者がこんな(あんな)ふうに振舞ってくれれば、私はもっと幸せになれるのに」というとき、私たちはそれが事実だというふうに感じることが多いものです。

 実は、このような状況を使って、自分の心のトレーニングをすることができます。今このときに、自分の心をもっと平和にするために、起こっていることの受け止め方をどのように変えられるのか、考えてみることができます。他人のふるまいを変えようとすることは操作でありコントロールであり、長い目で見ると決してうまくいかないのです。他人を変えることは決してできず、自分自身を変えることしかできないのです。自分の気持ちに気づき、認め、それを変えることを積極的に選べるように、自分の気持ちを見つめ続ける意識とやる気が必要です。私たちが変わり始めることができるように、今この瞬間に集中して、しっかりと考え続ける勇気が必要なのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリングの原則7

今日のパッツィ・ロビンソンの冊子の翻訳は、原則7です。

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7 私たちは他人の欠点を見つけるのではなく愛を見つけることができる。

 他人の欠点を見つけるのはとても簡単です。他人が変わってくれさえすれば自分はもっと幸せになるのにと思うことがあります。これもまた一つの幻想です。私たちが幸せになるためには、誰も変わる必要がありません。自分自身の幸せを作り出すのは、自分の仕事なのです。

 私たちが他人の欠点を探すのは、自分自身の中に、同じ欠点や、欠点になる怖れのあるものを必ずしも見たくないからです。他人を批判することは、単に自分自身の内側で起こっている問題の現われだということも多いものです。

 アティテューディナル・ヒーリングを練習するための課題は、「許す」ことを始めること、「裁く」のをやめること、自分と他人を愛することです。これら3つのことを意識的なレベルでやり始めると、私たちは自動的に人々や物事に対して別の見方をするようになります。曇った日は必ずしも「悪い」日ではなくなり、晴れた日とは反対の単なる曇った日になるでしょう。

 私たちは、それぞれの人の中に光を見るようになるでしょう。私たち全ての中に光があるからです。中にはそれを必死で隠そうとしている人もいますが、それが私たちの本質である以上、何らかの形で輝きだしてくるものです。
自分の光を輝き出させるほど、他人の中に光を見ることができるようになります。 

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカ報告10 ――「許し」、アティテューディナル・ヒーリングの原則6――

 さて、今日はアティテューディナル・ヒーリングの原則の6「私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる」をご紹介するのですが、いよいよ「許し」がテーマになります。
「許し」という言葉は、どちらかというとキリスト教文化でよく聞かれる言葉で、日本人にはあまりピンとこないかもしれません。また、なんとなくうさんくさげに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、アティテューディナル・ヒーリング流に「許し」を考えると、実はこれこそ心の健康の中核であることがわかります。特に、虐待や性暴力やいじめなどのトラウマ被害についてはとても重要な概念です。
これを読んで、「え? 虐待を許すの?」と思われた方も多いかもしれません。私も最初はそんな違和感を抱いていました。でも、もちろんそういう意味ではありません。

 被虐待経験のある人で、未だに心が癒されていない人は、往々にして、「許し」を終えていません。加害者に対しても、そして、被害者である自分に対しても、です。自尊心に問題を抱えているというのは、まさにその証拠です。虐待の事実を思い出すと今でも辛くなり、過去を消せない限り自分は幸せになれないと感じたり「親に愛されなかった自分には何か根本的な問題があるのだ」というふうに感じたり、特に性的虐待の被害者などで「自分は汚れた存在になってしまった。もう誰からも愛される資格はない」と感じたりするのです。

 ここで「許す」ということがどういうことかというと、過去の出来事にともなうネガティブな感情を手放すということです。過去を忘れるということでもありません。また、出来事を正当化したり「仕方がなかった」と認めたりすることでもありません(ただ、虐待の場合など、「許し」を経て、親が置かれていた状況を同情的に見ることができるようになることはあります)。そうではなく、過去の出来事にとらわれている限り自分の心に平和が訪れないということを知り、とらわれを手放す、ということなのです。

 その結果、過去の出来事は記憶しているけれども、それが自分の価値を下げるようなものではなかったということを理解できるようになります。単に自分に起こった不幸な出来事だったというふうに位置づけられるようになります。さらに踏み込んで、相手側の問題だったのだと理解できるようにもなります。過去へのとらわれを手放さなければ、いつまでも過去の出来事によって自分を苦しめ続けるということが理解できるようになるのです。

 アティテューディナル・ヒーリング・センターのグループには、すでに「許し」を終えた人と、「絶対に許すものか」という状態の人が、一緒に参加しています。「許し」を終えた人の自由で明るい様子を見て、まだ許す気になれない人は、「私は絶対に許さない。許したら私の人生の意味がなくなる」と言いながらも、「でも、許さないでいることが私の気持ちを苦しめていることはよくわかる」と話すようになります。以前「怒り」のところでお伝えしましたが、許さないでいることによって相手を苦しめているつもりが、実際のところは自分自身に毒を盛っているということがわかるようになるのです。

 センターのグループではもちろん「早く許した方が良いですよ」などというアドバイスはしません。安全な環境で気持ちを分かち合えるようになると、いずれ、人は許しに達することができるという基本的な信頼が根底にあります。

 繰り返しになりますが、「許し」というのは決して自分に傷を与えた相手の行為を「大目に見る」ことではありません。いじめの被害者が「いじめられた自分にも非があった」などと自虐的になることでも全くありません。いじめられたという事実を忘れ去るということでもありません。いじめという行為が加害者の「怖れ」によって起こされるということを理解すると共に、いじめという経験を経てもなお、自分には心の平和を選択する力があるということを認識する、というイメージでしょうか。ですから、虐待の被害者が、自らの被虐待体験を「許す」と共に、虐待をなくすための活動を続ける、ということは十分に可能な話です。わかりにくいかもしれませんので、ぜひご質問ください。

 では、以下に、この箇所について、パッツィの本の翻訳をご紹介します。

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6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。

 私たちは他人を裁くときにはいつも、自分自身のことも裁いているものです。アティテューディナル・ヒーリングでいう意味での許しは、他人の行動を大目に見たり賛成したりすることを意味するのではありませんし、その人が悪いことをしたと感じる自分自身をとりあえず脇において相手を許すことを選ぶという意味でもありません。単に、許しというのは私たちの誤ったものの受け止め方を明らかにするための手段だという意味なのです。

 単純に言うと、「許しとは手放すこと」、つまり、心を乱す原因となる信念へのしがみつきをやめるという選択です。自分について言えば、苦しむのをやめて自分を充実させるために、まずは責任をもって自分自身を十分に愛する必要があります。

 「攻撃」を例に挙げてみましょう。A Course In Miracles(奇跡のコース)には、他人を見る際に役立つ考えが記されています。それは、その人は私たちを攻撃しているのではなくて、助けを求めているか愛を必要としているのだという見方をするというものです。人間関係においては、これは最も難しい原則であることが多いものです。なぜかというと、私たちのエゴは、「攻撃されている」と言うからです。でも、本当のところは、それは真実ではなく、私たちがそう受け止めているだけなのです。

 受け止め方というのは、意欲を持って集中すれば、自分で変えることができるものです。自分は愛でできているとみなすことができるようになれば、自分を防衛する必要もなくなり、他人を違う形で見ることができるようになります。このことに気づき始めれば、何かしら自信がなかったり足りないと思ったりするところにおいてだけ、私たちは「ボタンを押す」ことができるのです。

 自分はこれで良いのだと思えるときは、他人のふるまいについてもあまり問題にならなくなるものです。もう一度言いますが、自分は攻撃されていると感じるのは、自分自身の受け止め方に過ぎないのです。自分自身を防衛する必要すらなくなるように、強力な愛のエネルギーで満たされることを選ぶことができます。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカ報告9 ――怒りについて、アティテューディナル・ヒーリングの原則5――


 前回のバイロン・ケイティの「ワーク」については好意的な反応をたくさんいただき、ありがとうございました。また折を見て、ワークについては続編を書きたいと思います。

 「怒り」について少々補足しておきたいのですが、このワークは怒りから目を背けることを目的としたものではありません。あくまでも、怒りによって自分が損なわれないようにするためのものです。

 アティテューディナル・ヒーリングの創始者であるジェラルド・ジャンポスルキー博士がどこかに書いていたと思いますが、私たちは、食べ物などについては有害なものを摂取しないようにとても気を遣うのに、どうして自分の心の中に抱く感情については有害なものを平気で選んでしまうのだろうか、ということなのです。健康を損なうという意味では、食べ物と同じか、それ以上の意味を持つと思います。

 「許し」についてはいずれ改めて取り上げますが、たとえば、ある人を許せないとします。その人への怒りを抱き続けることで、その人を呪い殺したい、というような気持ちになることもあります。でも、その結果、健康を損なうのは相手ではなく自分自身であるということが往々にして起こるのです。相手に毒を盛ったつもりが、自分自身が毎日せっせと毒を食べていた、ということなのです。

 このことについては、精神神経免疫学が発達して、ネガティブな感情を持って自らを抑え込むことが免疫能に悪影響を与えることが科学的にも証明されてきました。うつ病になると風邪をひきやすくなることも示されています。

ポイントは怒りを否定することではないのだいということは、前々回にご紹介したパッツィ・ロビンソンの翻訳の中にも、次のように書かれています。

 怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。

 つまり、怒りを感じることが問題なのではなく、それにとらわれ、しがみつくことが問題だということなのです。

 でも、怒りを抱き続けることこそが、変化に向けてのエネルギーなのでは? と思う方もいらっしゃるでしょう。歴史を見ても、何らかの進歩の影には大衆の怒りがあったのだ、と。

 自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識することは必要だと私は思います。前回の「ワーク」の説明でも、それまで正当化することはないのだ、ということを強調させていただきました。必要なことは、自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識し、変化に向けての現実的なステップを踏んでいくということであり、怒りにとらわれて自らの健康まで損なうということではないはずです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識することと、それに対して怒りを抱き続けることは、決して一体化したものではないのです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識してもなお、怒りを手放すという選択があるのです。

 また、変化を起こすには、多くの人の共感を得る必要があります。怒りにとらわれて、他人から自らを切り離してしまうと、とても目標は達成できません。ガンジーがなぜ非暴力独立を実現できたかというと、怒りにとらわれていなかったからです。イギリスに侵略されていることが理不尽であることを彼は十分認識していましたが、そのイギリス人の心に訴えかける力すら持っていたのですから。

 一方、カンボジアにおけるポルポトの悲惨な歴史を見ても、怖れや疑心暗鬼に基づいた「改革」ほど怖ろしいものはないと思います。また、ここのところ日本で起こっている「バッシング」も、非生産的な怒りの好例だと思います。

 怒りについては、「許し」を述べるときに、もっと書かせてください。

 さて、中断していたアティテューディナル・ヒーリングの原則に戻りますが、例の翻訳が「難しい」とあまり評判が芳しくないので、翻訳は毎回1項目のみ紹介させていただき、私の解釈やセンターでの体験を補足させていただきたいと思います。

 ちなみに、先日、ジェラルド・ジャンポルスキー博士の強い勧めでパッツィ・ロビンソンに会ってきましたが、本当にすてきな人でした。慢性的な呼吸器疾患で酸素吸入をしていましたが、「すべてのことには理由があるのだから、私のこの健康状態にも必ず理由があると思っている」と前向きにとらえ、何かを学ぼうとしていました。
 また、私に対して「あなたの光は世界で明るく輝いている」と書いてくれました。部屋に入ってきたときにそう感じたから、と言っていました。光栄です。

 今日は原則5「あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある」の翻訳をご紹介します。「あるのは今このときだけ」というのは、パワフルな原則です。そして、「今この瞬間」にとどまる、ということは、センターでの大きなテーマです。考えが過去や未来に飛んでしまって、今いっしょにいる人の話に集中できない、という経験は誰もがしていると思います。その結果、「今この瞬間」の質が損なわれ、それが満足できない過去を作り、未来への不安をさらに膨らませる、ということになると思います。「今この瞬間」に、どれだけ与えられるか、ということが人生の質を決めると言っても過言ではないでしょう。

 「未来を手放す」ことも重要です。これは、子育てなどではよくある話ですが、「子どもの未来のために」と、「今」を犠牲にしてしまいがちです。子どもの未来のためにお金をためておこうと、親が働きづめで、親ともっとコミュニケーションしたい子どもの「今」が犠牲になる。あるいは、「こういう子になってくれないと将来困る」と子どもに理想の姿ばかり押しつけて、「今」の子どもを見てあげられない。寂しい子どもは薬物に走ったりして、結局、子どもの未来すらだめにしてしまうのです。

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5 あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある。

 この原則は、私たちが今のこの瞬間にとどまれるようにと作られたものです。私たちはすぐに、過去のことを考えたり将来への不安を膨らませたりしてしまうものです。こうなってしまうと、私たちの心は往々にして平和でなくなります。これが認識できれば、自分の気持ちの焦点を、平和を経験できる現在へと戻すことができます。私たちが現在にとどまっていれば、全ての出来事に一番良い形で対応することができます。現在でないところにいると、ものごとを決めることができません。本質的には、あるのは今このときだけなのです。愛のエネルギーが私たちからあふれ出すのも「今」です。私たちが決めつけることなく何が起こっているかをはっきりと見ることができるのも「今」です。

 私たちは外で起こっていることをコントロールすることができません。それをやろうとすると決して平和な気持ちにはなれません。でも、私たちは自分の考えをコントロールすることならできます。受け取ろうとする気持ちから与えようとする気持ちへと変えていくと、外で起こることについても明らかな変化が起こることに気づくようになります。

 私の今までの経験の中で、起こり得ることの例として最も深いものは、「平和の教師としての子どもたち」というグループ、そしてその創設者であるジャンポルスキー博士と共にモスクワに行ったときのことです。私たちはソ連の青年組織の代表とともに、記者会見をしていました。その青年代表は、45分間にわたって、米ソの関係が良くならないのはどれほどアメリカの責任であるかということなどを演説しました。私たちは皆彼の話を聞きました。そして、彼が子どもたちに質問はないかと尋ねたところ、子どもたちはその青年が考えもしなかったやり方で応えたのです。子どもたちは一人ずつ、ロシア人がいかに私たちに対して親切だったかを青年に伝えました。今回の旅でロシア人から受けた親切なもてなしの話をアメリカ人が聞いたら、戦争はなくなるだろうと言ったのです。さらに、子どもたちそれぞれがチェルノブイリ災害への寄付を申し出ました。

 それぞれの子どもが心から話をすると、その青年は美しい変化をとげました。彼の顔は柔らかくなり、色鮮やかになりました。目はうるみました。とても警戒した状態から、とても共感しやすい状態になりました。私はミーティングが終わった後で彼のところに行って話しました。彼は、来てくれて本当にありがとうと言い、部屋に入ってきたときとは違う人間であることが私の目には明らかでした。私も、また、違う人間になっていました。私はとても感動していました。どれほどの障害があるように見えても、平和な関係を持つことは実際にできるのだということを心の底から感じたからです。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカ報告7 ――AHの原則2~4――

 前回に続き、パッツィ・ロビンソンの「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の翻訳をご紹介したいと思います。今回は原則2から4をご紹介します。わかりにくいところはぜひご質問ください。

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2 健康とは心の平和であり、癒しとは怖れを手放すこと。

心の平和を感じるためには、まずそれをただ一つの目標にすることが必要です。そうして初めて、障害物を取り除いていくことができるのです。

 私たちにはいろいろな感情があります。それらはすべて怖れに関連したものですが、私たちから見るといろいろな形をとっています。怒り、嫉妬、罪悪感、落ち込みなどは、常に私たちの中で起こっています。これらの感情とどのようにつき合っていくかを決めるのは自分自身なのだということを知っておくのは大切なことです。無力な被害者になることもできますし、このような気持ちを変えることもできるのです。心は私たちが持っている最も強力な手段であって、自分を傷つける気持ちを変えるために使うことができるのです。

 そのためには、変化に向けての意識と意欲を持つことが必要です。自分たちの心の声に耳を傾けるのです。心の声というのは、エゴが支配している自分ではなく、もっと高次の自分とつながっているものを意味します。真実を、裁くことなく教えてくれる声です。次のステップは、感情を体験することです。

 たとえば、怒りが起こるのを感じたとき、それと「接触してみる」ことが大切です。「接触してみる」というのは、それを感じ、認め、優しくすることを意味します。怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。

 驚くべき女性が約10年前にセンターにやってきました。彼女は、9歳の娘が重症の白血病と診断され、打ちのめされていました。ジェリー・ジャンポルスキー博士と会った彼女は、「実は、この瞬間にも、あなたが感じているような痛みではなく心の平和を選ぶことができる」と言われたのです。彼女は、何とか、彼が何を言おうとしているのかを理解し、即座にものの受け止め方を変化させることができたのです。

 この女性はやがてセンターの熱心なボランティアとして何年も活躍し、彼女と同じ体験をした大勢の親たちを助けることができました。これは何も、親たちが完全に打ちのめされているときに「あなたは心の平和を選ぶことができるのよ」と言ったという意味ではありません。そうではなく、どういう状況のときにも、親たちのために彼女がいた、ということなのです。そして自分自身の経験があったために、彼女は、どんな形であっても親たちの助けとなれるように、自分の内なる力を頼ることができたのです。このようにこの女性が即座に変化することができたのは、私にとって本当に目をひきつけられる経験でした。「なにごとも、不可能なことはない」ということを私に教えてくれたレッスンでした。

3 与えることと受け取ることは同じ

 世の中には、「与える人」と分類できる人がたくさんいます。与える人は、ふつう、受け取り方を学ぶのに苦労するものです。「受け取る人」もいて、受け取るのはうまくても、与え方をよく知りません。与える人は、ふつう、相手を操作しながら助けています。相手が期待にこたえないと、失望するのです。受け取る人は、反対に、次から次へと新たな要求を出して、決して満足することがないようです。どちらも、自分の要求を満たすものを外側の世界に探しており、自分の内側には空虚感を抱えていることが多いものです。

 アティテューディナル・ヒーリングにおける与えることと受け取ることの定義は、別のところから来ます。エゴがありません。条件もつけず、期待もしませんし、どの人と愛を分かち合うかという境界線も引きません。他人を変えようという目標や意欲を持たず、他人から何かを得る必要がなければ、別のことが起こるのです。エゴも手放し、ただその人のためにあろうとすると、心の平和を感じられるようになるのです。

 他人と一体化していく感覚を持ち始めると、自分のことは忘れるようです。相手に心を向けていくと、自分の気持ちはあまり気にしなくなります。与えることと受け取ることが同じだという幸せを感じられるようになるのは、まさにこのときです。与えるものは尽きることがなく、どんどん満たされてくるのです。

 このような種類のやりとりは、センターのグループでは毎週起こっています。センターは、自分の心を他人に向けていくための安全な環境を作っています。グループでは自意識を忘れることができます。そして、そのプロセスを通して、愛によるエンパワーメントを受け、お返しを期待せずに相手に手を差し伸べることができるようになるのです。この時点で、助けられているほうの人はほとんど自動的に怖れや不安を手放すことができ、グループのほかの人たちと一体化することができます。人々が本当にこのモードに入ると、怖れが手放され、癒しが起こり始めるのです。

4 私たちは過去も未来も手放すことができる

 過去は学習のためにあります。すべての経験には価値があり、私たちの成長の糧になります。私たちがそのような見方を選択しさえすれば、ですが。私たちが「過ち」とラベルを貼ったことも、そこから学び、新たな一歩を踏み出すための経験に過ぎません。でも、過去に浸ることは私たちのためにはなりません。「過去にこれをやっておいたなら」とか「こうでなければよかったのに」というのは、私たちの邪魔になるだけです。

 事実は、私たちが現在に生きていて、「今」起こっていることに対処しなければならないということです。これは、つまり、私たちの心がしっかりと目覚めて生き生きしているように訓練しなければならないということです。過去や未来にタイムスリップしてしまうのはとても簡単なことですが、今この瞬間に生きていなければ本当の意味で生きているとはいえないのです。

 今の状況によって、未来は楽しみなものにも怖いものにもなります。いくらでも未来の不安に浸ることはできますが、心の平和がもたらされることはまずないでしょう。

 ここで重要な区別をしておかなければなりません。これは決して、未来に向けての計画を立ててはいけないという意味ではないのです。もちろん計画を立てるのは大切なことです。どのように区別するのかというと、未来に向けての計画を立てている間も、私たちの意識は現在にとどまっているということなのです。私たちは未来を予見することはできませんから、何が起こるか、何が起こらないか、ということに浸るのは生産的ではありません。私たちにできることは、予約をとるというように、未来に向けての自分の意思を決めておくことと、それが実際に現実のものになってきたときに、実現に向けてさらなるステップを踏むことだけなのです。

 この原則について重要なことは、過去の考えで役に立たないものや苦痛をもたらすものは、自分で選んで変えられるということです。そのためには、それに気づき、手放すための意識的な選択をすることが重要です。その考えがまた戻ってくるようだったら、また同じプロセスを繰り返すだけです。しがみついていたくないものが出てくる度に、テープを消すという新鮮な決意をすることができるのです。アティテューディナル・ヒーリングで特に価値のある考えの一つが、「私の心は苦痛をもたらす考え全てを変えることができる」というものです。自分のものの受け止め方を変えて新しい現実を作り出したいのであれば、これは強力な手段になります。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

★ 前回の内容について補足 ★

 前回の翻訳の中に「愛」とか「裁く」とか「エゴ」という言葉が出てきたので、宗教(特にキリスト教)との関係を問うご質問をいくつかいただきました。

 この一部は単なる翻訳のまずさの問題で、お詫びいたします。「裁く」の原語はjudgeです。キリスト教に見られる「神の裁き」ではなく、日常的によく使われている言葉です。英語の中で使っていると、自分の知識や価値観などをもって相手を判断したり評価したりする、という感じなのですが、「評価する」と訳しても「判断する」と訳しても、どちらもちょっと変な感じです。「自分の枠に当てはめる」「決めつける」というのが雰囲気的には近いのですが、judgeを全てそう訳すのもちょっと無理がありそうです。とりあえずよく訳される言葉である「裁く」(神の裁きではなく裁判官の裁きのほうのイメージで)としておきますが、より良い訳語の案がありましたら教えていただければ幸いです。

 肝心の宗教との関係の方を少しご説明します。いずれアティテューディナル・ヒーリングが生まれた背景について詳しくお伝えしたいと思いますが、アティテューディナル・ヒーリングは、「A Course In Miracles(奇跡のコース)」というスピリチュアルな本から生まれたものです。A Course In Miraclesは特定の宗教と関係のあるものではありませんが、アメリカで生まれた本だけあって、キリスト教の言葉を多用して書かれています。

 A Course In Miraclesを勉強していたジャンポルスキー博士がアティテューディナル・ヒーリングをスタートさせる際に心がけたことは、宗教を連想させる言葉をできるだけ排除するということだったそうです。なぜかというと、どのような宗教を持つ人も、また宗教を持たない人も、あるいは教会に対して嫌な思い出しか持っていない人も、アレルギー反応を起こさないようなものにしたかったからだということです。
 ですから、宗教との関係はない、と言ってよいでしょう。ただ、禅を含め東洋思想とは共通する内容も多いと思います。
 また、「エゴ」という言葉が出てくるので、大いなる神と罪深い自分、というキリスト教的構造なのかと思われるかもしれませんが、信じるべきは、「どこかにいる」神ではなく、自分が本来持っている高次の心であり、それを妨げているのが怖れに取りつかれたエゴなのだという構造になっています。
 「愛」については、こちらでは全く普通の言葉で、日本人が「愛」という言葉を使うときの「こそばゆさ」のようなものはないようです。

 今後もいろいろとご質問いただければ幸いです。

アメリカ報告6 ――アティテューディナル・ヒーリングの原則1――

 今日は、アティテューディナル・ヒーリングの12の原則を書きます。

1 私たちの本質は愛。
2 健康とは、心の平和(やすらぎ)。癒しとは、怖れを手放すこと。
3 与えることと受け取ることは同じ。
4 私たちは、過去も未来も手放すことができる。
5 存在する時間は「今」だけ。それぞれの瞬間は与えるためにある。
6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。
7 私たちは他人の欠点を見つけるのではなく愛を見つけることができる。
8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。
9 私たちはお互いに生徒であり教師である。
10 私たちは自分たちを分断された存在ではなく一つのいのちとしてとらえることができる。
11 愛は永遠のものなので、死を怖れる必要はない。
12 どんな人も、愛を差し伸べているか助けを求めているかのどちらかととらえることができる。

 これらの原則について、私の考えや経験をいずれお伝えしようと思いますが、まずは、パトリシア・ロビンソンという女性が書いた「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」という小冊子をご紹介したいと思います。アティテューディナル・ヒーリング・センターがジェラルド・ジャンポルスキー博士と4名の女性によって創設されたのは1975年ですが、その4名の女性の一人がパトリシア(パッツィと呼ばれています)・ロビンソンです。
 パッツィの小冊子は最近印刷されたもので、昨年10月の国際会議で配られました。現在もセンターにおいて1冊5ドルで配布されています。

 ちょうど皆さまにアティテューディナル・ヒーリングの原則をご紹介しようと思っていたところに、ジャンポルスキー博士から電話がかかってきて、「パッツィが病気で末期の状態なので、私は小冊子が彼女の遺言だと思っている。いろいろな国の言葉に翻訳してもらっているところだが、日本語に訳してもらえないか」という依頼がありました。もちろん快諾すると共に、インターネットでも紹介することを許可していただきました。

 そこで、少しずつ翻訳しながらご紹介していきたいと思います。わかりにくいところや疑問に思われるところは、ぜひご質問ください。

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☆ アティテューディナル・ヒーリングの定義 ☆

 アティテューディナル・ヒーリングというのは、単に、私たちの態度を変えるというものではありません。むしろ、物事を怖れる気持ちを手放すことを意識的に選択していくということなのです。アティテューディナル・ヒーリングは、自分、他人、世界を、裁くことなく見られるようになるためのスピリチュアルな道です。目標は行動を変えることではなく、変化のための最も強力な手段、つまり、「心」のあり方を変えることなのです。

 心の平和というただ一つの目標を持ち、「許し」の実行というただ一つの機能を果たしていくことは可能です。その中で、私たちは人間関係を癒し、心の平和を感じ、怖れを手放すことができます。自分の中にあるエネルギーとつながるときに、アティテューディナル・ヒーリングは私たちの人生における創造的な力になるのです。

☆ アティテューディナル・ヒーリングの12の原則 ☆

1 私たちの本質は愛であり、愛は永遠である

 愛というものは、うまく説明できるものではありません。経験することだけができるものです。アティテューディナル・ヒーリングにおいても、愛は定義づけるよりも経験するものです。

 愛はエネルギーです。不変で永遠のものです。科学者たちが「生命力」と呼ぶもので、未だに測定はできないけれども、存在は誰もが知っているものです。私たちの中を流れる純粋なエネルギーです。痛みや、不安、怒り、さまざまな形で現れる怖れによって妨げられることがなければ、私たちは愛の本質を認識することができますし、心の平和を感じられるようになります。

 大切なことは、私たちの心の曇りをとるように常に努め、そこには愛のエネルギーしかないのだということ、そして、「負の感情」と呼んでいるもののために愛を感じることができないのだということを認識することです。私たちの人生が、自らを愛し、他人にもその愛を与えるためのものなのだということを体験できるようになります。

 これは、世間の大部分の人が考えている愛とは違います。一般に、愛というのは、誰か他の人から「得る」ものです。愛が「足りなくなるかもしれない」という怖れとセットになっています。この怖れの中で生きてしまうと、愛を惜しげなく与えることができなくなってしまいます。それはエゴの仕業です。愛は、測定できるようなものではなく、分かち合うためにあるのです。

 愛の本質は、身体の癒しにも重要な役割を果たします。私たちのセンターのグループの一つで、50代半ばの女性が、もう9年も慢性的な背中の痛みに悩まされてきたと不満を述べていました。この痛みから解放されたことは一瞬たりともなかったと言いました。私たちは、一つの実験に参加していただけないかと彼女に頼みました。彼女は了解しました。私たちは約15名のグループの参加者たちに、30秒ほどこの女性に愛を送ってもらえないかと頼みました。すべての参加者が了解しました。それから、今度はその女性に、グループの参加者たちに向けて同じことをしてくれないかと頼みました。つまり、グループが彼女に愛を送るのと同時に彼女がグループに愛を送るのです。彼女は了解し、私たちは始めました。
 それは、私たちが一つだけの目標――他の人に愛を送るという――に集中したすばらしい30秒間でした。30秒が終わったとき、参加者たちはその結果を話し合おうとしました。私たちファシリテーターはそれをしないように注意し、グループミーティングでの話し合いはそれ以前よりも深いレベルで続けられました。ミーティングの終わりに、背中の痛みの女性が興奮した様子で言いました。「どうしても我慢できません。この1時間、背中の痛みがすっかり消えていたということを皆さんにどうしてもお伝えしたいんです」

 これは、ずっと以前に起こったことですが、信頼することについてのレッスンとして私の中に永遠に植えつけられています。このミーティングで起こったことは、見たり測定したりできるようなものではありません。そのとき私に起こっていた唯一のことは、この女性に対して愛を感じようとする意思だけでした。私の目標は彼女の痛みをとることでも、自分の気持ちを良くしようということでも、何でもありませんでした。それは、ただそのときに集中し、愛を送り、結果については心配しない、ということでした。人の気持ちははっきりと送ることができるもので、別の人がそれを深いレベルで感じることができるのだということを私に認識させてくれた強力なレッスンでした。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

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