前回に続き、パッツィ・ロビンソンの「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の翻訳をご紹介したいと思います。今回は原則2から4をご紹介します。わかりにくいところはぜひご質問ください。
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2 健康とは心の平和であり、癒しとは怖れを手放すこと。
心の平和を感じるためには、まずそれをただ一つの目標にすることが必要です。そうして初めて、障害物を取り除いていくことができるのです。
私たちにはいろいろな感情があります。それらはすべて怖れに関連したものですが、私たちから見るといろいろな形をとっています。怒り、嫉妬、罪悪感、落ち込みなどは、常に私たちの中で起こっています。これらの感情とどのようにつき合っていくかを決めるのは自分自身なのだということを知っておくのは大切なことです。無力な被害者になることもできますし、このような気持ちを変えることもできるのです。心は私たちが持っている最も強力な手段であって、自分を傷つける気持ちを変えるために使うことができるのです。
そのためには、変化に向けての意識と意欲を持つことが必要です。自分たちの心の声に耳を傾けるのです。心の声というのは、エゴが支配している自分ではなく、もっと高次の自分とつながっているものを意味します。真実を、裁くことなく教えてくれる声です。次のステップは、感情を体験することです。
たとえば、怒りが起こるのを感じたとき、それと「接触してみる」ことが大切です。「接触してみる」というのは、それを感じ、認め、優しくすることを意味します。怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。
驚くべき女性が約10年前にセンターにやってきました。彼女は、9歳の娘が重症の白血病と診断され、打ちのめされていました。ジェリー・ジャンポルスキー博士と会った彼女は、「実は、この瞬間にも、あなたが感じているような痛みではなく心の平和を選ぶことができる」と言われたのです。彼女は、何とか、彼が何を言おうとしているのかを理解し、即座にものの受け止め方を変化させることができたのです。
この女性はやがてセンターの熱心なボランティアとして何年も活躍し、彼女と同じ体験をした大勢の親たちを助けることができました。これは何も、親たちが完全に打ちのめされているときに「あなたは心の平和を選ぶことができるのよ」と言ったという意味ではありません。そうではなく、どういう状況のときにも、親たちのために彼女がいた、ということなのです。そして自分自身の経験があったために、彼女は、どんな形であっても親たちの助けとなれるように、自分の内なる力を頼ることができたのです。このようにこの女性が即座に変化することができたのは、私にとって本当に目をひきつけられる経験でした。「なにごとも、不可能なことはない」ということを私に教えてくれたレッスンでした。
3 与えることと受け取ることは同じ
世の中には、「与える人」と分類できる人がたくさんいます。与える人は、ふつう、受け取り方を学ぶのに苦労するものです。「受け取る人」もいて、受け取るのはうまくても、与え方をよく知りません。与える人は、ふつう、相手を操作しながら助けています。相手が期待にこたえないと、失望するのです。受け取る人は、反対に、次から次へと新たな要求を出して、決して満足することがないようです。どちらも、自分の要求を満たすものを外側の世界に探しており、自分の内側には空虚感を抱えていることが多いものです。
アティテューディナル・ヒーリングにおける与えることと受け取ることの定義は、別のところから来ます。エゴがありません。条件もつけず、期待もしませんし、どの人と愛を分かち合うかという境界線も引きません。他人を変えようという目標や意欲を持たず、他人から何かを得る必要がなければ、別のことが起こるのです。エゴも手放し、ただその人のためにあろうとすると、心の平和を感じられるようになるのです。
他人と一体化していく感覚を持ち始めると、自分のことは忘れるようです。相手に心を向けていくと、自分の気持ちはあまり気にしなくなります。与えることと受け取ることが同じだという幸せを感じられるようになるのは、まさにこのときです。与えるものは尽きることがなく、どんどん満たされてくるのです。
このような種類のやりとりは、センターのグループでは毎週起こっています。センターは、自分の心を他人に向けていくための安全な環境を作っています。グループでは自意識を忘れることができます。そして、そのプロセスを通して、愛によるエンパワーメントを受け、お返しを期待せずに相手に手を差し伸べることができるようになるのです。この時点で、助けられているほうの人はほとんど自動的に怖れや不安を手放すことができ、グループのほかの人たちと一体化することができます。人々が本当にこのモードに入ると、怖れが手放され、癒しが起こり始めるのです。
4 私たちは過去も未来も手放すことができる
過去は学習のためにあります。すべての経験には価値があり、私たちの成長の糧になります。私たちがそのような見方を選択しさえすれば、ですが。私たちが「過ち」とラベルを貼ったことも、そこから学び、新たな一歩を踏み出すための経験に過ぎません。でも、過去に浸ることは私たちのためにはなりません。「過去にこれをやっておいたなら」とか「こうでなければよかったのに」というのは、私たちの邪魔になるだけです。
事実は、私たちが現在に生きていて、「今」起こっていることに対処しなければならないということです。これは、つまり、私たちの心がしっかりと目覚めて生き生きしているように訓練しなければならないということです。過去や未来にタイムスリップしてしまうのはとても簡単なことですが、今この瞬間に生きていなければ本当の意味で生きているとはいえないのです。
今の状況によって、未来は楽しみなものにも怖いものにもなります。いくらでも未来の不安に浸ることはできますが、心の平和がもたらされることはまずないでしょう。
ここで重要な区別をしておかなければなりません。これは決して、未来に向けての計画を立ててはいけないという意味ではないのです。もちろん計画を立てるのは大切なことです。どのように区別するのかというと、未来に向けての計画を立てている間も、私たちの意識は現在にとどまっているということなのです。私たちは未来を予見することはできませんから、何が起こるか、何が起こらないか、ということに浸るのは生産的ではありません。私たちにできることは、予約をとるというように、未来に向けての自分の意思を決めておくことと、それが実際に現実のものになってきたときに、実現に向けてさらなるステップを踏むことだけなのです。
この原則について重要なことは、過去の考えで役に立たないものや苦痛をもたらすものは、自分で選んで変えられるということです。そのためには、それに気づき、手放すための意識的な選択をすることが重要です。その考えがまた戻ってくるようだったら、また同じプロセスを繰り返すだけです。しがみついていたくないものが出てくる度に、テープを消すという新鮮な決意をすることができるのです。アティテューディナル・ヒーリングで特に価値のある考えの一つが、「私の心は苦痛をもたらす考え全てを変えることができる」というものです。自分のものの受け止め方を変えて新しい現実を作り出したいのであれば、これは強力な手段になります。
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)
★ 前回の内容について補足 ★
前回の翻訳の中に「愛」とか「裁く」とか「エゴ」という言葉が出てきたので、宗教(特にキリスト教)との関係を問うご質問をいくつかいただきました。
この一部は単なる翻訳のまずさの問題で、お詫びいたします。「裁く」の原語はjudgeです。キリスト教に見られる「神の裁き」ではなく、日常的によく使われている言葉です。英語の中で使っていると、自分の知識や価値観などをもって相手を判断したり評価したりする、という感じなのですが、「評価する」と訳しても「判断する」と訳しても、どちらもちょっと変な感じです。「自分の枠に当てはめる」「決めつける」というのが雰囲気的には近いのですが、judgeを全てそう訳すのもちょっと無理がありそうです。とりあえずよく訳される言葉である「裁く」(神の裁きではなく裁判官の裁きのほうのイメージで)としておきますが、より良い訳語の案がありましたら教えていただければ幸いです。
肝心の宗教との関係の方を少しご説明します。いずれアティテューディナル・ヒーリングが生まれた背景について詳しくお伝えしたいと思いますが、アティテューディナル・ヒーリングは、「A Course In Miracles(奇跡のコース)」というスピリチュアルな本から生まれたものです。A Course In Miraclesは特定の宗教と関係のあるものではありませんが、アメリカで生まれた本だけあって、キリスト教の言葉を多用して書かれています。
A Course In Miraclesを勉強していたジャンポルスキー博士がアティテューディナル・ヒーリングをスタートさせる際に心がけたことは、宗教を連想させる言葉をできるだけ排除するということだったそうです。なぜかというと、どのような宗教を持つ人も、また宗教を持たない人も、あるいは教会に対して嫌な思い出しか持っていない人も、アレルギー反応を起こさないようなものにしたかったからだということです。
ですから、宗教との関係はない、と言ってよいでしょう。ただ、禅を含め東洋思想とは共通する内容も多いと思います。
また、「エゴ」という言葉が出てくるので、大いなる神と罪深い自分、というキリスト教的構造なのかと思われるかもしれませんが、信じるべきは、「どこかにいる」神ではなく、自分が本来持っている高次の心であり、それを妨げているのが怖れに取りつかれたエゴなのだという構造になっています。
「愛」については、こちらでは全く普通の言葉で、日本人が「愛」という言葉を使うときの「こそばゆさ」のようなものはないようです。
今後もいろいろとご質問いただければ幸いです。