ここのところ、教育について考えさせられる出来事が、いつにも増して続いている。
来週にも衆議院を通過すると言われている教育基本法改正案、今度は中学にも波及しそうな「必修漏れ」騒動、そして、ここにきて一段と顕在化しているいじめ自殺。
「必修漏れ」騒動に対する、世にもお粗末で不可解な決着に首をひねり、いじめ自殺については、最近の日本ではお定まりの「犯人さがし」にため息をつき、そんな中、全く関係のない教育基本法の改正を最重要課題だと思い込んでいる首相と、それを中心に回っている国会に違和感を覚えているのは私だけではないと思う。
「必修漏れ」については、少なくとも一定期間、自分たちの教育方針が正しいと信じて生徒を従わせていた学校側は、なぜきちんと発言しないのだろう。受験を多分に意識していたとはいえ、必要な教育だと思って提供していたのなら、そう言えば良いはずだ。そうすれば、これほどの不信感が現場に生まれることはなかっただろう。子どもたちにとって、何の科目を学んだかということ以上に、自分を教育していた人たちの人間としての姿勢は大きな意味を持つ。そこに人間としての真剣さを感じるか、ご都合主義を感じるかで、その後の人生に与える影響は大きく異なるだろう。
また、子どもたちは何もサボっていたわけではないのに、望まない時期に突然の補習をしなければならず、まるで罰を受けているかのようだ。本来は、サボっていたどころか、教育を受ける権利を侵害された被害者として位置づけられるはずだ。
文部科学省も、教育を所管しているという自負があるのであれば、そのような全人的な教育にどうして配慮できないのだろうか。それこそが、「こころの教育」「生きる力」なのではないだろうか。
学習指導要領というメンツを守るために、まるで罰のような補習が組まれ、政治家の圧力によって時間数がディスカウントされる、などという解決策は本当にいびつだ。これを機に、高等教育の意味やあり方を見直し、意見が対立する人たちの調整をどのように行うかを子どもたちに示すことができれば、日本の教育が飛躍的に成長する絶好の機会になったはずだと思う。そうやって前向きに捉えずに「大変だ」と後ろ向きに捉えたため、結局、いつもと同じように、大人たちの都合が見えないところで調整され、子どもたちがそのツケを払わされることになった。
いじめについては、いじめを議論している今の社会の姿勢そのものが、実はいじめの構造に陥っていると思う。
人間は、現実を冷静に直視することが怖いとすぐに「犯人探し」を始めるものだが、私は、ここで直視を避けられているのは、大人たち自身に潜む「いじめ心」なのではないかと思う。ここ数年、特に顕著になってきている「バッシング」は、いじめそのものである。少しでも弱みを見せた人、少しでもミスを犯した人に対して、「あの人は間違っている」と徹底的にバッシングするのである。
子どもたちがいじめる理屈も、それと大差ない。結局、大人社会が、弱みを見せた人に襲い掛かるような構造を変えられない限り、いじめはなくならないと思う。
もちろん、実際に起きたいじめにどう対応するかという制度を考えることは重要だ。そういう意味で、教育委員会の存在の是非も含めて、組織や制度を議論することは必要だ。だが、どれほど制度をいじろうと、それはいじめの撲滅にはつながらない。
いじめる子ども、それを黙認する子どもは、いずれも「怖れ」によって動かされている。いじめる子どもの多くが、家庭で広い意味での虐待をされているという事実もある。その「怖れ」を認識して癒していくことなくしては、問題は根本的に解決しない。私も、被害者にとっても加害者にとってもいじめの特効薬であるアティテューディナル・ヒーリングの考え方を引き続き広めていきたいと思っている。
だが、そうした子どもたちへのアプローチとともに、まずは私たち大人自身が、ひとたび「悪者」と決まると相手の事情をいろいろな角度から考えてみることもせずに一方的に非難するなど、何らかの形でいじめの土壌作りに加担しているのではないか、と振り返ってみることが重要であると感じている。
「必修漏れ」にしても、いじめにしても、大人社会がこの問題とどう向き合うか、ということが、現在の教育に対する最大の解決策になると思う。
ふと、子どもが米国で通っていたチャータースクールを懐かしく思う。担任の先生との個人面談のときに、日本の親である私は「英語が不十分なのでクラスにご迷惑をおかけして・・・」というようなことを言おうとしたのだが、先生は、他の子どもたちが読書をしている時間に英語が読めないうちの娘に何をさせているか、などを一生懸命説明して、英語が不十分だからと言ってうちの子どもが教育の権利を奪われていないということを一生懸命説明してくれた。明らかに、子ども個人が教育の主役として位置づけられていた。文化の違いがあるとは言え、折にふれて子どもを抱きしめて愛情を示してくれたことも、子どもにとっては温かい思い出なのだそうだ。人間としてのコミュニケーションが大切だということは教育の場であっても(場だからこそ)重要なのであって、それを阻害しているものが何なのか、見極める必要があると思う。