アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。
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6週間の終わりに、ジェリーとグロリアとパットと私は、子どもたちが私たちの教師になってくれたことに対して、お礼のカードにサインをし、5ドル札を封筒に入れました。私たちにどれほどのものを与えてくれたかを、子どもたちに伝えたかったのです。子どもたちは、まさに異口同音に「もうおしまいにしなければならないの?」と言いました。これは完璧な質問でした。なぜかというと、私たちも終わりにしたくないということをとてもよくわかっていたからです。私たちが合意したのは、皆にとって役に立っている限りは続けようということと、皆がこれほどたくさんのものを受け取っているときにやめる理由はないということでした。これは12年前のことです。そしてアティテューディナル・ヒーリング・センターが生まれたのです。(訳注:センターができたのは1975年)
私たちのグループは、それから数年間にわたって続きました。小さいグループでした。私たち皆が定期的に同じやり方で参加しました。私たちは愛を分かち合いました。無条件の愛で、お互いに与え、受け取り、サポートしたのです。そして、やり方はほとんどいつも同じであっても、グループはいつも生き生きとしてワクワクするものでした。いつも何かしら新しいものを与えました。いつも何かしら新しいものを受け取りました。
ゆっくりと、子どもたちが私たちのところに紹介されるようになってきました。医師や看護師や家族が、子どもたちの態度に違いを見出すようになってきたからです。自分たちが対処しなければならない問題について、別の対処の仕方をするようになったのです。注射、化学療法、その結果髪を失うことの心理的な影響といった問題に。
その例が、7歳のブライアンでした。ブライアンは、とても苦しい耳の癌でした。毎週病院に行くと、彼は病院全体が混乱するほどひどい騒ぎを起こしました。病院の職員は、ブライアンが来る日をとても怖れるようになりました。なぜかというと、ブライアンの泣き声があまりにも大きく、抵抗があまりにも強いので、一日のスケジュール全体が遅れてしまうからです。そして、ブライアンの騒ぎの結果、治療を待っている親たちや子どもたちの不安がどうなるかは、言うまでもありません。
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)