11月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

11月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年11月02日(火)

政権をきちんとチェックすることと、国民の破壊的感情をあおることは別の話だ。奇しくも、裁判員制度で、死刑判決を我がこととして考えるとこれほど違う次元が見えてくるということが示されているところ。「違う次元」を見せることもメディアの重要な役割だと思うのだが。


2010年11月03日(水)

グローバル化にしろ、検察による証拠改ざんや警察情報流出など社会の信頼の根底に関わる不祥事にしろ、当たり前の生活が壊れていくように見えるときほど、自分の生活を丁寧に生きていきたいものだ。一人ひとりが人間として安定することが、必ず世界の安定につながると信じている。


2010年11月04日(木)
今の日本も米国もそうだが、誰がやっても難しい時期の政治においては、「今すぐの結果」ではなく「少し先の結果」をうまく示す必要がある。それを精神論で代用しようとすると怪しげに見えてしまい、支持されないということになるのだと思う。


2010年11月06日(土)

海上保安庁のビデオ流出という衝撃的な事件に対するいろいろな意見の中でも、「そもそも隠した政府が悪い」という論調には特に違和感がある。また、これを正当な内部告発とする説にも違和感。民主主義の国の形がこんなところから崩れていくとしたら怖いことだ。

情報管理について、特に高度な機密を扱う機関は、現在の技術レベルに合わせた改良が絶対に絶対に必要。その上でも、何事にも完璧がないとすれば、あとは情報流出があったときに、流出行為を肯定するようないかなる態度もとらないことで、私たちが責任を果たしていくしかないと思う。


2010年11月07日(日)

昨日はAHのボランティア・トレーニングだった。「相手のために」と考えてやることは暴力的にすらなりうるけれども、「自分の心の平和のために」やることは相手のためにすらなる、ということを、毎回違う参加者と共に実感する一日。やはり社会の平和は一人ひとりの心の平和から。

政治が機能していないと思われる局面では、市民の意識が本当に大切だと思う。「政治がこんなに悪いのだから何でもあり」という姿勢が、自分たちの生活の基本的な安全を脅かしていくということを忘れずにいたい。政権の是非と、それを変えようとする手段の是非は、全く別の次元の話。


2010年11月12日(金)

今朝の朝日新聞17面「耕論」はとてもよいと思う。映像流出問題で、ようやく読みたい意見が読めたという感じ。私自身の考えは佐藤優氏のものに近いが、西山太吉氏(沖縄密約の「西山事件」当事者)、長谷部恭男氏、鈴木謙介氏いずれの意見も重要な論点を含んでいると思う。

ちなみに佐藤優氏の論点は主に「データが編集されたものであること」と「歴史」についてである。特に後者の、五・一五事件を軽い処分ですませたことが二・二六事件を誘発したという視点は、私が懸念していた点そのもの。何かの意見を言うことに「怖さ」を感じる社会は危険だと思う。

「データの編集」について言えば、テレビなどの「街の声」にもずっと違和感がある。非暴力コミュニケーションの第一歩は、「自分が下した評価ではなく事実を語ること」。何らかの評価を下して終わらせるのではなく事実の多面性を考えることは、人を思いやることでもあると思う。


2010年11月14日(日)

今朝の朝日新聞「ウオッチ沖縄 基地 まるで机上の話」を読んでの個人的感想。沖縄発の記事がもっと増えてほしいと思うが、その際、沖縄県外の人の罪悪感ではなく共感を呼ぶようなものが効果的だろうと思う。罪悪感を抱くとどうしてもつながりを感じにくくなるからだ。

また、話題になったときだけ「点」で仕事をする政治家が多い中、一つのテーマに粘り強く取り組み「線」で仕事をする政治家をもっと応援することも大切だと思う。ここのところの極端な選挙の振り子でかなり失われてしまった層だ。


2010年11月15日(月)

政権交代後の政治状況を見ていると、私が昨年予測した通りになっているような気がする。昨年11月北大での講演内容 http://bit.ly/dxbJSL 総選挙当日のブログ http://bit.ly/93RT1W 

ここまでの民主党が、(前政権批判による)政権交代、事業仕分けなど、怒りをエネルギーにして前進してきたことと、今その怒りに叩かれて大変な状況にあることは無関係ではないと思う。怒りの次元から抜け出し、民主党の原点を取り戻すことにしか、希望はないように思う。


2010年11月16日(火)

事業仕分けは「野党的」であり役割を終えたという意見については、必ずしも賛成しない。政策面から考える人と経済効率面から考える人の両方がよく議論する「二元政治」はむしろ必要だと思う。事業仕分けの問題は、それが独善的な暴力になってしまうリスクにあると思う。

仕分けされたはずの事業が看板をかけかえて復活した件。それが単なる不誠実なトリックなのか、政策側からの新たな提言なのかを明らかにできる公平な場を作ればよいと思う。事業仕分けという一方の舞台でそれをしてしまうと、まず不誠実ありきという印象になりがちだ。

情報アクセスに限界がある野党に事業仕分けはできない以上、与党の仕事だ。あとは与党にとっての事業仕分けの位置づけの話。前政権を叩くだけの場なのか、新たな政治文化を創る場なのか。話し合いのプロセスを共有できる新たな政治文化に向けての一歩にすることは可能だと思う。


2010年11月17日(水)

「多くの人が・・・と言っている」という論調が多い今の日本において、報道されている裁判員の様子はまさに「私はどう考えるか」を示しているが、人は「私は」を問われると、自分の内面に立ち返り、物事の多面性をとらえようとするものだ、と改めて実感している。

私自身にとっても、衆議院議員を二期経験したことは、政治を見る目を明らかに変えた。議員をやめてからも「自分だったらどうするか」という目を常に持つようになったし、良心的にこつこつ頑張っている議員たちをつぶさずに育てるためには何が必要かということを考えるようになった。


2010年11月18日(木)

一票の格差は放置できない問題。この手の問題で停滞するのを見る度に、選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さを何とかする必要を感じる。議員でい続けることが「命がけ」である現状では、区割り変更に抵抗するのも当然だと思う。

選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さは、世襲議員の量産や、質の低い議員の温存にもつながる。せめて選挙がもう少し効率的なものになれば、と思うが、政治に関心のない層にも働きかけるという必要がある以上、どぶ板的な部分もそれなりに意味がある。

あるアメリカ人から聞いたが(つまり出典や真偽は不明)、2期だけつとめる「市民議員」という考え方があったそうだ。自分の専門知識を政策立案に役立てるが、職業政治家にはならない、というのが市民議員。それが本来の民主主義のあり方ではないか、とその人は言っていた。

有権者から見ての「当然」と、そこで働く生の人間にとっての「当然」のずれをきちんと考えないと、政治の質は上がらないと思う。「政治家たるもの、自らしっかりしろ」などと言っているだけでは、一票の格差も改善されないし、政治の質の劣化が結局我が身に返ってくるだけだと思う。

「現代用語の基礎知識2011年度版」の見本が届いた。今回からメンタルヘルスの項目を執筆したため。小さい頃から馴染んできた本であるだけに、(よい意味で)複雑な気持ち。それだけ年をとったということか。


2010年11月19日(金)

法務大臣の失言問題。なぜこの手の問題が後を絶たないのかということについては拙著「国会議員を精神分析する」でも述べた記憶があるが、やはり抜け落ちているのは「その他の人たち」への配慮である。それは政治家の命と言えるくらい大切なものだと私は思っている。

法務大臣の答弁の陰でどれほど多くの人が悔しい思いをしてきたかということへの配慮が抜け落ちている。私も法務委員会に所属していたことがあったのでわかるが、昨日まで普通の国会議員だった人がなぜ急に検察官僚みたいな雰囲気になるのだろう、と不思議に思っていた。

確かに検察組織を代表して柔軟な答弁をするのは難しいと思う。しかし、その点にこそ政治家としての腕が問われるはずだ。その重要なポイントについて、「この答弁でいいから、法務大臣はいい」というのは、さすがに強い違和感。単なる失言と本質的な失言の区別は必要だと思う。


2010年11月21日(日)

政治を語るとき、それが自分にどう関わってくる可能性があるか、という点から考えると本質に近づくような気がする。「この大臣をどう評価するか」ではなく、「この大臣の言動が、自分の暮らしにどう影響する可能性があるか」ということだ。

もちろんその「自分」とは、現在の自分のことだけでなく、「もしも相手国に自分の肉親がいたら」「もしも虐待家庭に生まれてきていたら」「もしも明日突然事故に遭ったら」など、様々な想像上の「自分」を含む。日本の政治姿勢や制度がどうであれば、人間らしく生きていけるのか。

政治がワイドショー化してから、政治評論家みたいな語り口があちこちに増えている気がするが、「政治をどう思うか」ではなく、「こんなことだと自分がどう困るか」という視点から語るだけでも雰囲気がだいぶ主体的になるし、政治の責任の範囲も明確になるような気がする。


2010年11月22日(月)

この頃国際ニュースを見ていてつくづく思うのは、地球規模の修復的司法が必要だということ。なぜその国がそんな体制になってしまったのか、ということにはそれぞれの歴史があり、そこには何らかの形で他国も関わっている。突然変異的に生まれたわけではない。

修復的司法では、行為を正当化することはもちろんしないが、お互いの事情をよく知り、行為と人間性を切り離す努力をすることによって、共同体の癒しを実現していく。その根底には人間への信頼があるが、単なる理想論ではなく唯一効果的な再発防止策としても期待されている。

地球という共同体においても、お互いに罪悪感や被害者意識を刺激し合うのではないレベルでの癒しを模索していくべき時代だと思う。自然環境と同じことを社会的な現象についても進めていく必要があると思う。未来を損なうネガティブなエネルギーをどれだけ減らせるかだ。


2010年11月23日(火)

今朝の朝日新聞1面。私が最も不思議に思うタイプの記事。民主党執行部4名と首相・官房長官だけの話し合いの内容がそのまま載っている。それも「(出席者の)誰もがそう感じた」と書いたり、首相の内心を「どうしても信じられなかったのだ」などと断定的に忖度したりしている。

さすがに全国紙の1面であるから、出所は確かなのだろう。閉鎖された会談の内容が漏れるときには政治的意図を疑うのが常識ではあるから、誰かが何らかの意図で漏らしたのだろうが、さすがに1面トップにこういう記事があると、その「意図」にうかうか乗ってしまいそうだ。

ここのところの政権バッシングで思うこと。やはり怒りではない方法で政治を動かすことが必要だと思う。この一連の騒動が終わって残るのは「政治的焼け野原」だけではないか。問題のある政治家は討ち取れたかもしれないが、同時に希望も失われているような気がする。


2010年11月26日(金)

裁判員初の少年死刑判決。「更生の可能性」という、高度な専門性を要する極めて難しい判断を、精神医学の素養、特にトラウマ関連の知識も臨床経験もない人たちが限られた時間で下すよう要求されているという極めて不適切な現実に改めて強い強い違和感。

「更生の可能性」を本当に知るための裁判であれば、修復的司法のスタイルで、はるかに長い時間をかけて行う必要がある。そのこと自体が、多くのケースで、実際に「更生の可能性」を増すことになるだろう。そんなふうに人間的に処遇されるのが初めての経験になる人も少なくないはずだ。

本来判断できない立場にあるのに判断を強いられた裁判員の方たちの負担は想像を超える。「更生の可能性」という、本来は(裁判官も含めて)人間が判断してはいけないものをもとに死刑か否かを決める、という考え方に私は大きな無理を感じる。放置したくないことだ。


2010年11月27日(土)

問責決議案の可決がニュースになっているが、参議院の現状を考えれば、提出されれば可決されて当然。「問責が可決された後どうするか」は政局的な話で、それよりも「そもそも問責決議案を提出したことは妥当だったのか」という観点からの、より本質的な議論を聞きたいところ。

朝鮮半島は問責決議よりもはるかに重要な国政課題だと思うが、自らの「怖れ」の中で自爆しつつある北朝鮮にいかにして巻き込まれないようにするか、という戦略が、日本を含む周辺諸国の安全と北朝鮮内の多くの「人質」の安全を考えるととても重要だと思う。対処と巻き込まれは別。

今日のパックインジャーナルで田岡俊次さんが言っていたこと。「菅政権は尖閣問題で国益を損ねたと言われているが、実効支配の継続と、経済関係の維持という二大目標は達成したのだから何ら損ねていない。強いて言えば、船長釈放を『米国に言われて』したところ」。同感。

尖閣問題と今回のヨンピョン島事件の相似性も話題になった。同様の構造の対立の中、武力が行使された方では短時間でもあれだけ島民生活に壊滅的な影響がある、という事実は軽視できないことだと思う。「暴力装置」という言葉をただ批判するよりもすべきことがあるのでは。

拙著「拒食症・過食症を対人関係療法で治す」がまた重版になったとの連絡をいただく。とても多くの方に読んでいただき役に立っている様子で、幸せな本だ。改訂前の前著が絶版になり版元探しに奔走した時代が嘘のよう。http://amzn.to/fgiA52

さらに田岡俊次さんから聞いた話。事件勃発前に韓国が行っていた訓練の内容が注目されていない。相手国のすぐ近くで実弾射撃訓練をするというのは通常あり得ない話で、かなり刺激的だとのこと。北朝鮮は当日の朝に「実弾射撃訓練をするのなら迎え撃つ」と声明を出していたそうだ。

もう一つ田岡俊次さん情報。自民党の世耕議員が国会で問題にして以来騒ぎになっている「自衛隊施設内での政治的発言などを制約する防衛事務次官通達」だが、これは単に自衛隊法に則ったもの。同じテーマで小泉進次郎議員について田岡さんが書いた記事。http://bit.ly/dRfk1g


2010年11月28日(日)

またも菅首相の「支持率1%でもやめない」が切り取られてあちこちに。国会での正式な発言ならいざ知らず、会食の場での一言。どういう文脈で出てきた発言なのだろう、とか、鳩山さんはどういう意図でそれを公表したのだろう、とか、考えることはたくさんあるはずだが。

「空気の支配」は、発言者の罪悪感や不全感を刺激するところから始まると思う。この頃国会で目につく「それは○○に対する侮辱です!」「国益を損ねます!」、メディアの「みんな・・・と言っている」が気になるのは、そういう点。違う意見を持つことが不適切だという空気が作られる。


2010年11月29日(月)

「支持率1%」報道もそうだが、新聞がどれほど裏を取って書かれているのか心配になる。例えば27日の朝日新聞1面の見出しは「中国、米韓演習に反対」だが、「中国の排他的経済水域では反対」というのは、外交用語では「それ以外の場所では容認」という意味(実際、毎日は「容認」の見出し)。

国会で政権バッシングが行われ、それをメディアが繰り返し報道し、という状況を見ていると、その「ショー」を見るために私たちはずいぶん多大なツケを払っていると思う。目下国会関係に費やされている税金もそうだし、結果としての政治的荒廃も。全く対価に見合わないショーだと思う。

これを「政権が悪い」と言ってしまうのは簡単だが、どんな状況でも私たちは見たいものだけを見ることによって環境に影響を与えていくことができる。質の低い情報を見て「あーあ」と言うよりも、自分が向かいたい方向を示すものに、もっと意識を向けていきたいと思う。


10月のツイッターより(特に反響が大きかったものの抜粋)

ほとんど毎日書いているツイッターですが、特に反響が大きかったものをまとめてみました。


2010年10月02日(土)

今朝の朝日新聞政治面、福田宏樹氏の「菅首相の出直し所信表明に思う」は好感をもって読んだ。主語は「私」。所信表明演説から消えた「最小不幸社会」を思い、今こそ遠望するまなざしが必要、という趣旨。「今回の政府の対応に国民の多くが不満と答えています!」などとあおるメディアとは対照的。

政治家が使う「国民の皆さま」「増税のお願い」などという言葉に私は常に違和感を覚えている。「有権者の代弁者として意思決定の場に出ている」という意味合いが見失われるように思うからだ。


2010年10月03日(日)

昨日パックインジャーナルに出演して田岡俊次さんから教えてもらったニュース。9月29日に福岡市役所前で中国人ツアー客1300人の観光バスを街宣車が包囲してバスを蹴ったり叩いたりし、約20分間足止めされた事件。地方版に小さく報道されただけで全国ニュースになっていない。

日本人の観光客が外国で同じ目に遭ったらどう報道されるかと考えると、この事件が日本で広く報道されないことが不思議だ。「国民みんなが中国に対して怒っています!」とメディアがあおる中、こういう事件はきちんと報道される必要があると思う。本来「ニュース」とはそういうものであるはず。

こちらは石川好さんに教えてもらった話。中国では深夜に招かれることが親愛の証なのに日本では深夜に大使が招かれたことを「無礼」と怒っている。それも深夜にずれこんだのは日本側の対応の遅れによるものだったらしい。相手の立場を理解しようとする姿勢が欠けているようだ。

どこの国にも過激なナショナリストはいて、それを認識しながら政治のバランスをとる必要がある。「国民はみんな怒っています!」「毅然とした対応を!」と主張している政治家を見ると、そういう政治本来の役割がわかっているのだろうか、と心配になる。


2010年10月05日(火)

ちょうど今書いている本のテーマでもあるのだが、「人を変えようとすること」と「変化を起こすこと」は違う。変化を起こすためには、「変わりやすい環境」を作ることが有効で、その中には「人を変えようとしないこと」「まずは自分が変わること」も含まれる。人は変わるときにしか変わらない。

今朝の朝日の社説。「推定無罪の原則」と「政治的責任」は別問題、というのはもちろん賛成。しかし「強制起訴」をきっかけに議員辞職を、と言うのは両者を混同していないか。本件については妥当に聞こえるかもしれないが、一般化するのは危険。民主主義の根幹に関わる問題は原則が重要だと思う。


2010年10月06日(水)

情報が多く、どれを信じたらよいのかわからない、という戸惑いの声を最近よく聞く。この多くは真偽というレベルではなく、「誰の解釈が正しいか」というレベルの問題のよう。結局は、「誰が」正しいかではなく、「自分は」世の中をどう見ていきたいのか、というところにたどりつく。


2010年10月08日(金)

今朝の朝日新聞の社説。国会運営の邪魔になりクリーンな民主党のイメージを妨げるから離党させよ、というのはやっぱり違和感。まるで「空気を読め」「邪魔者は消えろ」と要求しているかのような話だ。こういうのを連続して流されると、「世論」が形成されてしまうのだろう。

どうしても違和感があるのは「強制起訴を機会に」という視点だ。「国会での説明を求めたのに断った」というのなら「機会」になるが、強制起訴は性質の違う話だ。説明させようとしない民主党をいくら批判してもかまわないと思うが、強制起訴と政治的な身分を関連づけることは本当に危険。

他者に関わることを主張するのであれば、その必要性を示す原則的根拠(法律)かデータ(証拠)を示すべきだ。それらは主張の正当性を裏付けると共に、「他の選択肢の存在」を考えさせてくれるからだ。民主主義と法治国家を守ろうとするのであれば、そのような「節度」が必要だと思うのだが。


2010年10月12日(火)

「希望の持てる新しい動き」について考えていくと、「自分が存在すること」もその一つだと思える人が増えれば、社会が「コントロールのきかない、悪化の一途をたどるもの」ではなくなるだろう。自分が社会で何をするかということではなく、社会との関係性の問題だ。

「偉い人たち」が変わらなければ社会が変わらない、と思っている限り、毎日をただ憤って絶望的に過ごしていくことになる。そんなふうに自分の力を明け渡す必要はない。「偉い人たち」の方が物理的にできることは多いかもしれないが、社会をどう見るかは万人に平等に与えられた選択肢。


2010年10月13日(水)

政治の守備範囲はかなり限られていて、「政治がすべてを解決すべき」という発想でいる限り、社会における重要なものが育たないように思う。そして政治の守備範囲の限界がきちんと認識されていないことが、政治そのものの質も下げているように思う。


2010年10月16日(土)

「自己責任」という言葉は要注意ですね。他人に対して自己責任を要求するということは、一方的な押しつけという暴力であり分離の姿勢だと思います。本当の自己責任とは、自分の心の姿勢についてのものだと私は思っています。人に自己責任を要求したくなる姿勢も含めて。


2010年10月19日(火)

政権交代後の「政治主導」では事業仕分けに代表されるような既得権廃止・無駄遣い削減機能ばかりが目立つが、本来は縦割り行政の壁を突破して省庁横断的な大きな政治課題を実現するのが政治主導の真骨頂のはず。壊す政治から創る政治への転換を期待。


2010年10月23日(土)

大臣の立場で他国を「ヒステリック」呼ばわりする政治家がいることに改めて驚いた。ちょうど、「評価に潜む暴力性」についての本を書き終えたところだが、「ヒステリック」という評価の持つ暴力性は特に強い。破壊的な戦争を始めるつもりでもなければあり得ない発言。

政治の世界には不必要に曖昧な言葉が多いのも事実だが、同時に、相手がある話については、「~を期待する」という程度の表現にとどめて出口を確保しておくという知恵もある。平和とは老獪な知恵によってしか得られない、というのはこういうことだろう。自ら出口を塞いではいけないと思う。


2010年10月27日(水)

裁判員制度初の死刑求刑例について。多数決ではなく全会一致で、という提案は現状で可能な選択肢としてうなずけるが、死刑判決の重みから裁判員を守るだけでなく、死刑そのものについても考える機会になってほしい。「死刑判決の重み」は、実は国民全員にかかっているものだからだ。

死刑をテーマにした本で私がお勧めするものは、森達也さんの「死刑」http://amzn.to/9te68Bと、その中でも紹介されている原田正治さんの「弟を殺した彼と、僕」。http://amzn.to/dg9Jt3 賛成・反対を超えた自由な頭で読んでいただきたいです。


2010年10月28日(木)

企業・団体献金問題にしても「政治とカネ」問題にしても、その基本には「政治にはお金がかかる」という暗黙の前提がある。いったい何にそんなにお金がかかっているのか、という検討をせずにこれらの問題を論じても本質的ではないように思う。

例えばよくある支出に、地元紙に載った弔報に対してすべて弔電を打つ、というものがある。莫大なお金がかかるので私にはできなかったが、「やはり国会議員から弔電が来るのは嬉しいものだから何とかならないか」とよく言われた。この「嬉しさ」と「政治とカネ」も無関係ではない。


2010年10月29日(金)

管制官ニアミス有罪確定を知り、よく飛行機を利用する一人として複雑な気持ちだ。医療もそうだが、直接人の命に関わる領域は特に、「人はミスをする」という前提に立ったシステムの構築が何よりも重要。個人の責任を追及することによって最も重要なことが見失われないよう望む。

個人的に引っかかるのは、処罰を支持する根拠の中心が「誰かが処罰されないと浮かばれない」被害者感情であること。そのように感じる時期が被害者にあることは確かだが、それが全てではない。また、本質は処罰そのものよりも社会による支持・共感にあるのではないだろうか。


2010年10月30日(土)

「勝ち負け」「善悪」「正邪」にとらわれている人は、一見「毅然として」見えるのかもしれないが、結局は政治家に不向きだと思う。いろいろな事情を抱えた人が折り合っていくための仕組み作りが政治であり、外交も基本は同じだ。結局は同じ地球上で関わり合って生きているのだから。

先日ジャーナリストの田岡俊次さんから教えてもらったが、武士が大敵を予め察知して逃げる「聞き逃げ」は逃げではなく戦術で、相手の姿を見て逃げる「見逃げ」は逃げだそうだ。外交とは、メンツに関わる「見逃げ」に至る前に、いかに「聞き逃げ」の戦術を使いこなすかだとも言える。