【定員埋まりました】自分は気分変調性障害では?という方向けのワークショップを開きます

このワークショップはおかげさまで定員に達しました。

****

自分は気分変調性障害では?という方向けのワークショップを開きます。

「対人関係療法でなおす 気分変調性障害」(創元社)を読み、
「自分はこれかも」と思った方が対象です。
「病気って書いてあるけど、自分の場合は自分が悪いんじゃないかな」と
思う人も、大歓迎です。
(主催は、水島広子こころの健康クリニックとなります)

午前:気分変調性障害についての知識の整理

午後:アティテューディナル・ヒーリング(AH)の体験を通して
本人とより楽で効果的な関わりができるようになるための練習

というプログラムになります。

ファシリテーターは水島広子(午後は安斉知子と共同)がつとめます。

参加要件としては、以下の3点を全て満たしていただく必要があります。

(1)自分は気分変調性障害だと思う人、あるいは、「もしかしたら」と
思っていること

(2)「対人関係療法でなおす 気分変調性障害」(創元社)を
それなりに真剣にお読みいただいていること
(関連書籍として、該当すると思われる方は「『他人の目』が気になる人へ」
(光文社)、「対人関係療法でなおす トラウマ・PTSD」(創元社)も
併せてお読みください。)

(3)「怖れを手放す」(星和書店)をじっくりとお読みいただき
アティテューディナル・ヒーリング(AH)の概念に触れておられること

もちろん、(2)(3)とも完璧な理解を求めるものではなく、
当日いくらでもご質問いただけます。
両方の書籍をご持参ください。
入手が困難な方は、clinic@hirokom.org  までご連絡ください。

日時:2018年2月18日(日) 9:30~16:30
(昼休み1時間、午前午後に短い休憩あり)

場所:水島広子こころの健康クリニック

地下鉄都営大江戸線「麻布十番」駅より徒歩4分
地下鉄南北線「麻布十番」駅より徒歩7分
地下鉄日比谷線「六本木」駅より徒歩11分
(参加者の方には地図をお送りします)

定員:約13名
参加費:19,440円(消費税込み) (簡単な飲み物とお菓子が出ます)

* 参加ご希望の方は、clinic@hirokom.org  までご連絡ください。

* お問い合わせはclinic@hirokom.org までお願いします。
* 受付担当のスタッフと、当日対応のスタッフは別の者になります。
* あくまでも治療行為ではなく、教育目的のプログラムですので、ご了解ください。
* 長時間のワークショップなので、カジュアルな格好でお越しください。
* 最少催行人数は10名です。10名に達せず、当日イベントそのものが
キャンセルされた場合、それまでお振り込みいただいた金額は
全額返金いたします。

* クリニックそのものは未だに待機患者さんが多く、新規の受付が
できていない状況ですのでご理解いただけますようお願いいたします。

アティテューディナル・ヒーリング・ワークショップのお知らせ

先日お知らせしましたアティテューディナル・ヒーリングのワークショップの日程が決まりました。

定員は申し込み先着順で10名となっていますので、ご希望の方はお早めにご連絡ください。

レベル1 ワークショップ (初めての方向け)

アティテューディナル・ヒーリングについて知りたい、活動してみたい、という方たちに最初に参加していただくワークショップです。どなたにもご参加いただけます。より高度なトレーニング、ワークショップを希望される方も、まずはレベル1 ワークショップにご参加ください。

日時 2006年10月14日(土) 10:00~16:00

場所 東京都港区 「水島広子こころの健康クリニック」
(都営大江戸線麻布十番駅より徒歩4分、地下鉄南北線麻布十番駅より徒歩6分、地下鉄日比谷線六本木駅より徒歩10分)

参加申し込みされた方には地図をお送りします。

定員 10名 (申し込み先着順)

参加費用 1000円(資料代込み)

参加ご希望の方は、メール(info@mizu.cx)にてお申し込みください。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(9)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。いよいよ今回が最終となります。長い間読んでいただきありがとうございました。全文は、私のホームページwww.mizu.cxの「アティテューディナル・ヒーリング」のところに掲載してあります。パッツィの「はじめに」とジェリー・ジャンポルスキー博士による「序文」も併せて掲載してありますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。

☆☆☆ 

私たちは公には子どものセンターとして知られていましたが、最初から大人のグループもありました。これは緑内障をもつ大人のグループでした。すでに触れたように、それは私が自分の問題として取り組んでいるものでした。私は子どもたちから、他人を助ければ自分を助けることになるということをすぐに学んだのです。このグループは約2年間続いていました。私たちの小さなグループが衰え始めたちょうどそのときに、ドナヒュー・ショーが公の光を当てたのです。その結果として、私たちは、致命的な病気を抱えた大人たちのためのグループはないかという問い合わせを受けるようになりました。私は予約リストを作り始め、そして小さなグループを始めるのに十分な数が得られたところで、大人のグループを始めました。それはゆっくりと自ら発展していきました。子どもたちのグループとは別に。

 今日、センターには18の大人のグループがあります。3つが致命的な病の人たちのものです。1つは乳がんの女性、もう一つは慢性疾患、2つがエイズ、1つが摂食行動についてのグループ、4つがパーソン・トゥー・パーソン(病気はないけれども、人間関係の中でアティテューディナル・ヒーリングを実行したい人)、2つが、致命的な病の人を支えている人たちのグループ、そして4つが高齢者のものです(老人ホームで行われています)。

 グループのすべてが、外部からの要求によって直接作られました。私たちは勧誘をしたことはありませんが、大きさ・評判ともに、育ち続けてきました。そして、メディアを通して、センターのことを聞く人が毎日増えています。米国内には71のセンターが芽生え、世界中のほかの国にもセンターができました。これらのセンターは、それぞれ独立した組織ですが、私たちのセンターで確立された原則からインスピレーションを受けセンターを作ることになったのです。私たちのところにトレーニングを受けに来る人たちもたくさんいます。

 私たちは年に4回、40~50人の人を対象に広範なトレーニングをします。また、新しいボランティアを対象に年2回トレーニングをします。前回のトレーニングは、センターで働くことに関心のある約70名の人が参加しました。私たちは広範囲にわたってボランティアの力で運営していますが、約8名の核となるスタッフもいます。このスタッフは、センターの運営と臨床の両方をします。私たちは財団と個人の献金者から資金を得ています。私たちは、ほかの慈善団体と同様、しばしば財政的に苦しくなりますが、奇跡が起こり続けて、12年後の今も、まだ成長しています。

 アティテューディナル・ヒーリングの概念は古くからのものであると同時に、比類のないものです。これらの原則は大昔からあるものですが、現代の考え方はそれをわかりにくくしています。私たちは社会の法律ではなく愛の法律を教えようとしています。原則は、使ってみると、実にうまくいくのです。怖れによる妨害を取り払って、愛の贈り物を開けるためのツールなのです。
☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(8)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

 私たちは今でもドナヒューのテープを学びの道具として使っています。深い感動があり、見た人にはパワフルな影響を与えます。子どもたちはまっすぐで正直です。フィル・ドナヒューはこの経験にとても強く影響を受けたため、約1年後にカリフォルニアにやってきて、センターについてのショーをもう一度やりました。彼は10回のショーができるくらいの題材を得たといい、今でも子どもたちの何人かと連絡をとっています。

 シカゴから帰ってくると、私たちの静かな小さなセンターは大騒ぎになっていました。電話は一日中鳴りっぱなしです。アメリカ中から電話がかかってきて、助けを求めているのです。手紙が殺到しました。私たちは圧倒されながら、最善を尽くして手紙に返事をしたり電話をとったりしました。ドナヒューの番組の最後に、パット・テイラーが「私たちはサービスを有料にしようとは夢にも思いません・・・でも、寄付は決してお断りしません」と言いました。これがきっかけとなって、寄付が殺到しました。高額のものも小額のものも。私たちは反応の大きさの見当がつきませんでした。すごかったのです。

 私たちは全くのボランティア組織でした。今や公的な寄付が入ってくるようになったので、法的にNPOになる必要がありました。自力でそれができるかどうかを見てみようと私たちは決めました。弁護士に法外なお金を払わずにすむようにです。それは本当にとても単純でした。私たちはカリフォルニア州サクラメントに行きました。そして、NPO法人化を申し込みました。私たちは1977年1月20日に国務長官の事務所に行き、その日のうちにNPO法人格を得ることができました。事務所の人は、基本定款を簡潔な形で作るのも手伝ってくれました。それは、カリフォルニア州法のもとで、私たちの目的をはっきりと述べたシンプルな文書です。基本定款は、私たち、当時は3人だった理事会メンバーによって署名されました。

 団体規約も作りました。ほかの団体の形式を調べて自分たちのセンターに必要なものを採用したのです。私たちの団体規約は10ページからなり、1981年11月23日の理事会で採択され、事務局長のウイリアム・テッドフォードによって署名されました。私たちが踏まなければならなかったもう一つの公的なステップは、カリフォルニア州税務局に行って非課税の対象となることでした。これは、すでにNPO法人格をとっていたので、難なくできました。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテュー
ディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(7)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

 グレッグは、死というのは、天国に行って、そこにいる魂と一緒になることだと思うと言いました。彼は、多くの魂がこの世に下りてきて誰かの守護天使になると思うと言いました。彼は守護天使になりたいと決めたのです。残された私たちは、実際に、グレッグはそうなったのだと信じています。

 この地上での最後の数週間、グレッグは病院に入院していました。グレッグの両親と医師はすばらしいことをしました。グループのメンバー全てがグレッグを見舞ってよいと許可したのです。1970年代には、死にかかっている子どもを他の子どもが見舞うというのは先例のないことでした。病気の子どもに、他の子どものばい菌が移るのではないかと怖れられていたのです。病院の医師と職員は、グループメンバーのお見舞いがどれほどグレッグにとって重要かということを理解したので、この方針を無視し、私たちが好きなだけ彼を見舞ってよいと許可してくれたのです。グレッグは亡くなる瞬間まで勇気について私たちに教えてくれました。彼は偉大な教師でした。

 グレッグが亡くなって間もなく、私たちの本は完成しました。グレッグの父親は本の出版者で、私たちの本の出版を助ける機会に感謝してくれました。その本、「雲のむこうに虹がある」(訳注:日本語訳は「ほるぷ出版」)は、5000部を刷るのに5000ドルかかるはずでした。私たちにはそのお金がありませんでしたが、センターのいつものやり方である「馬の前に馬車をつなぐ」(訳注:ものの順番が反対であるという意味のことわざ)で、私たちは出版の手続きを進めました。センターではよく起こることですが、お金の支払日に、ある財団が本のための小切手をくれました。これはすばらしい本で、たくさんの、たくさんの人を助けてきました。私たちは奇跡が起こるのを期待し、そして奇跡を受けたのです。

 ジェリーはその本をメディアに送りました。その少し後に、彼はシカゴから電話を受けました。それは、フィル・ドナヒュー・ショーのプロデューサーでした。彼女は、「虹」の本をとても気に入って、ジェリーにフィル・ドナヒューとのインタビューに出演してほしいと言いました。ジェリーは、そうしたいけれども、子どもを6人連れて行くことができなければ出演できないと言いました。その奇跡的な瞬間、プロデューサーは「いいですよ」と言ったのです。フィル・ドナヒュー・ショーのために、ジェリーと6人の子ども全員と、パット・テイラーと私はシカゴに飛びました。3人の親たちも一緒に来ました。私たちはグランド・ハイアット・ホテルを与えられ、運転手つきのリムジンがホテルとスタジオの送迎をしてくれました。それはとてもワクワクする時間でした。ショーは大変な成功を収めました。アティテューディナル・ヒーリング・センターは、初めて公にデビューをしたのです。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(6)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

ブライアンは、グループの中で、心の焦点を変えるやり方を学びました。状況に対して別の見方をし、一週間の間に膨らませてきた恐怖を手放すにはどうしたらよいかを学びました。その結果は、本当に驚くべきものでした。皆が、深い変化に気づきました。

 私たちは自分の気持ちを知るためにサイコドラマの形式を使い、4人の人が参加しました。一人は医師を演じ、もう一人は患者を演じ、残りの二人はそれぞれのうしろに立って意識の役を演じました。医師や患者が嘘をつくたびに(たとえば、「いや、これは痛くないよ」というふうに)意識はそれを思い出させる役を果たすのです。これは、私たちが自分の本当の気持ちを早く知れるようになるための、おもしろく、効果的な方法でした。

 子どもたちとやったことで他にとても重要だったのは、自分の気持ちを表現する絵を描くよう励ましたことでした。これらの絵は、その素朴さにおいて、私たちが期待した以上のものを与えてくれました――言葉では伝えられない、子どもたちの気持ちや体験へのドアを開けてくれたのです。そして、そのプロセスを通して、私たちは皆、より親しくなりました。

 この作業を進めるにつれてわかり始めたことがあります。それは、これらの絵が他の子どもたちの、そして医師や家族の役に立つだろうということです。ある日、私たちは本を書くことに決めました。何ごとも不可能なことはないという仮説のもとで、とにかくこれをやろうと取りかかったのです。私たちは絵を編集し、最終的なテーマに焦点を当てた新しい絵を描くように励ましました。この結果、私たちはさらに親しくなり、グループには新しい要素が加わりました。

 約1年後、私たちの本がまさに完成しようとしていたときに、グレッグ・ハリソンが亡くなりました。グレッグは差し迫った死に直面したグループ最初の子どもとなりました。グレッグは11歳でした。白血病で、薬がもはや効かず、重度の痛みを抱えていました。グレッグは、自分で、もう逝く準備ができたということを決めたのです。彼はグループでそう言い、彼が死について話す間、皆が彼の周りに集まりました。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(5)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

6週間の終わりに、ジェリーとグロリアとパットと私は、子どもたちが私たちの教師になってくれたことに対して、お礼のカードにサインをし、5ドル札を封筒に入れました。私たちにどれほどのものを与えてくれたかを、子どもたちに伝えたかったのです。子どもたちは、まさに異口同音に「もうおしまいにしなければならないの?」と言いました。これは完璧な質問でした。なぜかというと、私たちも終わりにしたくないということをとてもよくわかっていたからです。私たちが合意したのは、皆にとって役に立っている限りは続けようということと、皆がこれほどたくさんのものを受け取っているときにやめる理由はないということでした。これは12年前のことです。そしてアティテューディナル・ヒーリング・センターが生まれたのです。(訳注:センターができたのは1975年)

私たちのグループは、それから数年間にわたって続きました。小さいグループでした。私たち皆が定期的に同じやり方で参加しました。私たちは愛を分かち合いました。無条件の愛で、お互いに与え、受け取り、サポートしたのです。そして、やり方はほとんどいつも同じであっても、グループはいつも生き生きとしてワクワクするものでした。いつも何かしら新しいものを与えました。いつも何かしら新しいものを受け取りました。

ゆっくりと、子どもたちが私たちのところに紹介されるようになってきました。医師や看護師や家族が、子どもたちの態度に違いを見出すようになってきたからです。自分たちが対処しなければならない問題について、別の対処の仕方をするようになったのです。注射、化学療法、その結果髪を失うことの心理的な影響といった問題に。

その例が、7歳のブライアンでした。ブライアンは、とても苦しい耳の癌でした。毎週病院に行くと、彼は病院全体が混乱するほどひどい騒ぎを起こしました。病院の職員は、ブライアンが来る日をとても怖れるようになりました。なぜかというと、ブライアンの泣き声があまりにも大きく、抵抗があまりにも強いので、一日のスケジュール全体が遅れてしまうからです。そして、ブライアンの騒ぎの結果、治療を待っている親たちや子どもたちの不安がどうなるかは、言うまでもありません。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(4)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

夕食を終えると、私たちは皆で輪になって座りました。1分間くらい手を握りました。これは、全ての集まりの最初と終わりに今でも行われている習慣です。仕事のミーティングであろうと、グループセッションであろうと、本当にそうなのです。

次に起こったことは、私にとって、センターの始まりのカギとなることでした。私たちは順番に、自分が怖れていることについて話しました。正直に、率直に。私は目前の怖れを話しました。それは、自分が失明するのではないかということでした。私は緑内障を患っていました。緑内障というのは、視神経を損傷するほど眼圧を高くする可能性のある病気なのです。

死についても、もちろん、話し合いました。私はそれまでに自分自身の死についても家族の死についても考えようとしたことがなかったので、子どもたちが最も深い心配事について自由に話すのを、畏敬の念をもって見ていました。

お互いに自分自身の怖れを打ち明け始めてみると、私たちには何の違いもないのだということに気づきました。大人も子どもも同じことに直面していました。子どもたちは私たちの教師になりました。子どもたちは、とても怖いテーマについて、私よりもはるかに直接的なやり方で物事に対処していました。

最初のセッションの終わりに、私たちは全員がずっと昔から友だちだったような気持ちになりました。深く気持ちを打ち明けあうことの何かが、他の何よりも人々をつなぐのです。でも、気軽な雰囲気がずっとその場を占めていたということも、大切なこととして言っておきましょう。いたわり打ち明け合う中に、笑いと愛がありました。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3)、LEFT TO TELL

★ 社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3) ★

 社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その2)で、「攻撃は不安に基づく行動」と書いたところ、「自分と違う考えの人は不安に基づいて行動していると独善的に考えるのか」という趣旨のメールをいただきましたが、もちろんそんなことを言いたいわけではありません。ここで問題にしているのは、あくまでも「攻撃」という、コミュニケーションの形であって、内容ではありません。アティテューディナル・ヒーリングでは、すべてのコミュニケーションは人と人を結びつけるためにすべきものであると考えますので、バッシングのように、相手の言い分を理解しようともせず、相手を悪と決めつけて叩くというようなコミュニケーションは、当然、アティテューディナル・ヒーリング的ではないということになります。そして、こういうコミュニケーションパターンを支配しているのが、「怖れ」であり「不安」であるということを言いたいのです。

 そうは言っても、内容も全く無関係とは言えません。例えば、選択的夫婦別姓などを考えた場合、本当に相手を理解して結びつこうとすれば、「別姓は家族の絆を壊す」などという空論を言い続けるわけにはいかないからです。また、非嫡出子の差別にしても、本当に相手の話に心から耳を傾ければ、親の事情がどうであれ、子どもは一人の人間として生まれ、成長し、周りの人たちと関わっているのであり、差別は差別なのだということが理解できるはずです。そして、その差別を解消するために、自分には何ができるだろうかということを考えるようになるはずです。ですから、ある人たち(特に、自分とは関係のない人たち)に、何らかの我慢や価値観を強いるような理念は、やはりアティテューディナル・ヒーリング的ではないと言え、そこには「不安」が強く根づいていると言えます。

 このあたりのことは、拙著「国会議員を精神分析する」を書いたときに、ある程度まとめました。対立軸は今や「保守か革新か」にあるのではなく、「共感か共感の欠如か」にある、ということ、そして、共感の欠如の裏側には不安があるのだということ、これが拙著の主張ですが、当時はまだ知らなかったアティテューディナル・ヒーリングと全く同じ考え方です。

 さて、社会正義になぜアティテューディナル・ヒーリングなのかと言うと、不正義の背景に不安がある以上、こちらも不安に基づく行動をしている限り、事態は悪くなる一方だからです。不安に基づく行動というのは、「逃避」「防御」「反撃」ということになりますが、どれも、事態の改善に結びつかないということは、皆さまも経験的にご存知のことだと思います。強烈な反撃をして、一見うまくいったように見えても、その火種は必ずくすぶっているものです。相手が攻撃してくるときに、怖れを抱かないのはなかなか訓練のいることですが、「攻撃」という相手の「不安」に反応するのではなく、不安によって覆い隠されている本当の相手に働きかけることが重要なのだと思います。

★LEFT TO TELL(伝えるために一人生き残った)★

 社会正義に関連して、最近読んだ本の中でとても感動した一冊に、LEFT TO TELL(伝えるために一人生き残った)という本があります。これは、ルワンダの最悪の虐殺を生き残ったイマキュレという女性が書いた本なのですが、ツチ族の彼女は、海外留学していた兄を除き最愛の家族をすべて残虐な形で殺され、自らは身動きのとれない小さなトイレに7人の女性と共に3ヶ月間隠れて生き延びました。最初の頃は、自分たちを虐殺したフツ族を全て殺して仕返しをしてやりたいと思う彼女ですが、もともと敬虔なカトリックとして育ったこともあり、身動きのとれないトイレで祈りを続けるうちに、最終的には、許しの境地に達します。そして、解放後には刑務所を訪れ、自分の母と兄を虐殺した犯人に「あなたを許します」と言うのです。これだけの残虐を経験し、絆の強かった家族を失い、自らも、何度も殺される恐怖をくぐってきた人ですから、その道のりは簡単なものではありませんでした。でも、許しあうことによってしかルワンダは正常化しないし、許すことによってしか心の傷は癒されないという彼女の信念は揺るがないものになっています。

 隠れていたトイレから脱出してフランス軍のキャンプに保護された彼女は、その指揮官から、「フツ族は邪悪だ。復讐したい奴がいたら殺してやるから、家族を殺した人間の名前を言え」と言われますが、殺し屋と指揮官に同じにおいを嗅ぎ取った彼女は、もちろん同調しませんでした。自分が求めるのは新たな殺人ではなく平和である、と指揮官の提案を退けたのです。

 真の「許し」を学ぶためにも、また、もちろんルワンダの虐殺について知るためにも、さらには、内戦国にとって外国からの援助がどう映ったのかを知るためにも、とても勉強になる一冊です。アメリカでもこの2月に出版されたばかりの本ですが、日本語訳を早く実現するように、こちらの出版社の方とやりとりしています。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(3)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

☆☆☆ 

このプロジェクトが終わった2週間後、ジェリーはもう6週間プロジェクトをやるつもりがあるかと私に尋ねました。「癌の子どもたちと一緒にやるつもりはある?」とジェリーは言い、続けて、自分は死に直面するような子どもたちのために仕事をするようにという強い内なる導きを得たのだと言いました。当時、ジェリーは自分が死ぬことをとても怖れていました。私はと言えば、死の話題を感情的に避けていました。ジェリーはここに何か大切なことがあるのだということを心の中で知っていたのです。

私はそのプロジェクトが怖いと思いました。たった6週間のことだと自分に言い聞かせ、その間、参加している子どもたちに何も起こらないようにと望みました。それまで、重い病気の子どもが身近にいたことがなく、私は、率直に言って、とても怖かったのです。

4人の人たちが参加しました――ジェリー・ジャンポルスキーと、パット・テイラー(この計画のコーディネーター役)、グロリア・マーレイと、私です。私たちはまず子どもを見つけなければなりませんでした。私たちは医師や友人に尋ね、参加の意思がある子どもたちを、望んでいた数だけ見つけました。今度もまた、6名の子どもたちが選ばれました。それから私たちは子どもたちと親に連絡を取り、家を訪問してプロジェクトについて話し合いました。この実験の結果、他のたくさんの子どもたちが恩恵を被るかもしれないということを話し、協力を求めました。この子どもたちは、これからの6週間、私たちがお互いにどうやって助け合えるかを知るために週1回集まる気になってくれるのでしょうか? 言うまでもなく、全ての子どもたちと親たちが、参加に同意してくれました。

1975年の夏に、私たちの最初の集まりが持たれました。私たちはまだ「埠頭レストラン」の下の部屋に集まっており、まだ集まりの名前がありませんでした。ジェリーとパットとグロリアと私は皆そこにいました。私たちは夕食を用意しました。サラダ、スパゲッティ、フランスパン、そしてデザートにはクッキーを。夕食は、緊張を解くのには完璧でした。私たちは皆少し緊張していたのです。日程表を作っていなかったので、何が起こるのかもよくわかりませんでした。集まりの時間は2時間と決めてありました。
 
☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)