1月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年1月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年01月01日(土)

あけましておめでとうございます。現在アメリカなので、実はまだ2010年で、年越しはこれからです。アメリカはいろいろな問題を抱えた国ですが、知らない人同士目が合うと微笑み合う文化は個人的に大好きです。お金も苦労もかからずにとても気持ちがよくなるのですから。


2011年01月07日(金)

帰国。「対人関係療法でなおす うつ病」が重版になるとの連絡をいただく。一人でも多くの方に読んでいただきたいと思って書くので、重版のお知らせはいつも大変嬉しい。http://amzn.to/fQIBY4


2011年01月08日(土)

朝日1面「貧困救う学びの場」をじっくり読んだ。高校進学をしたいが塾に行くお金がない子どもたち向けにNPOが提供している無料塾に、中学校の先生からも自分の生徒をみてほしいという依頼が来るそうだ。親の経済格差を子どもの世代にそのまま引き継がせないための貴重な努力。

これは公教育の現場における歪みと余裕のなさという問題として見ることもできるし、それはそれで重要な観点だ。公教育は、社会で最も大切なものの一つとして、皆が本気で考えるべきテーマだと信じている。一方、公的サービスを誰が担うのかという視点からも見ることができる。

本来公教育が担うべき役割をNPOが補完している。これは、他の公的な領域にも広がっている現象だ。この流れが進むと国の形が変わる。税金を払って政府に使い道を任せる社会から、自分が望ましいと思う公的サービスに投資する(そして減税される)社会に日本は転じるのだろうか。

なお、NPOがそれだけの役割を担うには税制の改正が不可欠。そういう意味では日本におけるNPOの位置づけはまだまだ中途半端。参考までに、私がかつて米国のNPOについて書いたもの。http://bit.ly/eH7dMk


2011年01月09日(日)

数日前に取材協力したアエラの見本誌(1月17日号)が届く。「菅は『葬式躁』になっている」という扇情的な見出し。ちなみに「葬式躁」は香山リカ氏の「みたて」で、私が述べた「恥ずかしがり屋の旧世代の男性で、言葉足らず」という見解とは全く異なる。

それにしてもこの記事は、香山リカ氏、和田秀樹氏、そして私、と「3人の精神科医に『診断』してもらうと・・・」というものだった(取材されたときは知らず)。私は菅さんを直接知っているのでその立場で答えたが、病気でもない人について精神科医のコメントがなぜ必要なのだろう。


2011年01月13日(木)

菅首相「国会対応、まじめすぎた」発言。要は「野党ペースに乗せられてしまい、自らのペースを作れなかった」という意味だと思うが、もちろんこれでは「ふまじめでいいのか」という批判が出るだろう。伝えたいことに適切な言葉を与える側近が本当に必要だと思う。


2011年01月14日(金)

朝日3面「凶弾が映す米国の分裂」。米国内の分断について「米国の自由主義を脅かすのはイスラム過激派でもテロ支援国家でもなく、米自身が自壊に向かっているのではないか」これは米国に限った問題ではなく、他者を攻撃するときには自らを攻撃しているということの象徴だと思う。

他者を自分から分断する姿勢は、自分の中にも分断を作り出す。良心との分断もその一例だ。「人の悪口を言うのはよくないけれども、今だけは例外だ」などというように。米国も、「正義」の名の下に多くの人の命を奪ってきたが、「今だけは例外」が続いてきたのだろう。

今回の銃乱射事件で命を絶たれた911テロの日生まれの9歳の少女(うちの息子と同じ日生まれ)についてオバマ大統領が「私たち大人が慣れきった虚無や悪態などの汚れを知らないまま胸を躍らせて政治集会を訪れていた彼女の期待に、私たちはこたえるべきだ」(朝日3面)

虚無や悪態は「汚れ」と言うよりも、自動反射的な習慣の積み重ねだと思う。何よりも大きな可能性を持つのは、自動反射的に何かに反応する前に、一人ひとりが自らの内面に向き合い、心の姿勢に責任を取っていくことだと改めて感じる。社会の平和はやはり一人ひとりの心の平和からだ。


2011年01月17日(月)

やや専門家向け(?)のエッセイを、ホームページから読めるようにしました。岩崎学術出版社から本を刊行する都度「学術通信」に気ままに書いたものです。「トラウマの現実に向き合う」を刊行したので、次のエッセイを執筆中。http://bit.ly/endLf6


2011年01月18日(火)

保護者からのクレームで不眠症になった、と小学校の教員が当該保護者を提訴したというニュース。詳細はわからないが、訴訟を起こす以外に解決の場がなかった(と当事者が思った)ことは事実。誰が悪いかではなく、今の教育現場に欠けているものを真剣に考える機会にしてほしい。

校長から市教委にあてられた提訴を支持する文書の中で「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないように」という表現が使われているが、子どもが主役の学校という現場で、大人の勝ち負けという概念には違和感。くれぐれも子どもたち(当の子どもも含めて)を中心に考えてほしい。

もちろんこういう状況に必要なのは修復的司法の考え方だろう。イギリスに習って、日本の学校も積極的に修復的司法を取り入れたらよいと思う。対立の解決にもなるし、何らかの危機(教員が保護者を提訴というのも危機だと思う)に直面したときの心のケアにもなる。


2011年01月20日(木)

今朝の朝日新聞「耕論」のテーマはここのところ朝日が特集している「孤族の国」。藤森克彦さんと上野千鶴子さんの意見に共通するのが「単身を前提とした社会の仕組みづくり」の必要性。これは全く同感で、社会の現実に対して、社会保障などはまだまだ前時代的な前提に基づいている。

現実と社会制度がずれると歪みが生まれるのは当然のこと。今はどうだか知らないが、私が現職国会議員だった頃、行政はまだ「標準世帯」という概念を用いていた。専業主婦がいて、子どもが二人、という世帯のことだ。高度経済成長時代には多かったが今では少数派と言える世帯。

社会保障が「単身」を前提にするようになると、本当にバラバラの社会になってしまうのではないかと懸念する人もいるが、実際には逆で、ライフスタイル選択に伴うリスクが減れば、それだけ純粋に関係性の構築にエネルギーを注げるようになるのではないかとも思う。


2011年01月21日(金)

児童施設内の虐待。職員の専門性の向上と、人員配置の改善は急務。日本の児童養護施設では子ども6人につき職員1名だが、私が視察したノルウェーの青少年ホームでは子ども1人につき職員2名(2交代)だった。http://bit.ly/hN2RxU 5項目目「ピーターホフ青少年ホーム」

児童施設の職員もそうだが、以前お会いした里親の方は、虐待を受けた子どもが呈するトラウマ症状とその対処法を知らなかったため、本当に孤立無援で振り回されていた。症状を持つ子に対しては、専門知識による支えがあって初めて、子ども本人を愛し受け入れる余裕ができると思う。


2011年01月23日(日)

今朝の朝日の社説は新型インフルエンザについて「適度に怖がるというのは、いかに難しいか」で始まる。これは「適度」という程度問題ではなく、現実のリスク評価と心の姿勢を区別するという話だと思う。想定されるリスクに対処することと、「怖れ」という心の姿勢を採用することは別。

その両者の違いは、今までの拙著の中でも、「アセスメント」と「ジャッジメント」の違いとして http://amzn.to/geEbV0  また、「不安」(という感情の本来の意味)と「怖れ」の違いとして http://amzn.to/fQCajx  書いてきた。

ある立場における「正論」は他の立場の人を傷つけうるものであり、つながりを重視した「人間の安全保障」のためには、それぞれが一人の人間として「自分の」事情と気持ちを誠実に語っていくことが最も効果的だと思う。他者に評価を下す「正論」ではなく。


2011年01月25日(火)

昨日の朝日新聞関西版夕刊「心をあたためよう」という記事で、阪神淡路大震災で救援活動の陣頭指揮をとられた精神科医の巨頭・中井久夫先生が拙著「トラウマの現実に向き合う」を紹介してくださったとのお知らせをいただく。大変光栄なことだ。http://amzn.to/geEbV0

拙著の副題は「ジャッジメントを手放すということ」だが、中井先生は認知症についてのジャッジメントに問題意識を持っておられ、拙著が参考になると言ってくださっている。中井先生は統合失調症が不治と言われていた頃にも疑問を持たれていたが、今度は認知症にも同じ問題意識を持たれている。敬意。

「不治と決めつけている現状から一歩でも出ることです。統合失調症でも不治を前提とすると何でもその証拠に見えましたし、良くなれば、もともと統合失調症でないとされた。この『目のウロコ』を取らなくては」(1月24日朝日夕刊関西版・中井久夫先生)

「知情意(知性・感情・意志)の、情と意の部分を周囲が大切にすると、ずいぶん違ってくると思います。患者は『自分の人生の主人公である』と、どういう時でも思わせることが工夫のしどころでしょう。」(1月24日朝日夕刊関西版・中井久夫先生)


2011年01月27日(木)

社会保障が政局に翻弄されてしまわないためには、メディアがよほどしっかりして政局から社会保障を守るか、国会以外に熟議の場を作り、形になってから国会に戻すか、のどちらかが必要だという気がする。「与野党のお手並み拝見」だけで乗り切ろうとするのはあまりにリスクが高そうだ。


2011年01月28日(金)

今朝の朝日「耕論」は中国について「脅威論の落とし穴」。松田康博氏は「感情的な『中国脅威論』は戦略の名に値しない」「(素朴な脅威論も素朴な敗北主義も)どちらも中国の穏健派を弱め、強硬派を強めてしまいかねない」。「脅威論」は「怖れ」の姿勢を反映したものだと感じる。

西崎文子氏「外交不在の問題を、防衛軍事戦略の問題にすり替えるような発想は、日本を含めたアジア諸国の排他的ナショナリズムを刺激するばかりでなく、軍事の論理が政治に優越するような社会へと私たちを導きかねない」(朝日新聞「耕論」)これも共感する視点。

AHではあらゆる「脅威」を手放すことができると考え、「無防備の中に安全がある」と言う。これを物理的なレベルでとるとすぐに反証があがってくるが、心の姿勢のレベルでとらえれば、現実的にとても効果的だと感じている。冷静なリスク計算もその上に成り立つものだからだ。


「プライムニュース」出演のお知らせ(2月3日)

BSフジ「プライムニュース」にゲストとして出演することになりましたのでお知らせします。

日時:2011年2月3日(木) 20:00~22:00

シリーズ「提言・安心社会 日本への道」の第5回「子ども・子育て支援」です。

ゲストは私の他、民主党衆院議員の泉健太氏の予定です。

ご覧いただけると嬉しいです。

バイロン・ケイティのワークショップのお知らせ

私が訳した「探すのをやめたとき愛は見つかる」(創元社)の著者で、「ワーク」の創始者であるバイロン・ケイティが、今年来日してワークショップを行うことになりました。
私はカリフォルニアの男子刑務所で「ワーク」のボランティアをしておりましたが、受刑者にとてもプラスの影響を与えていました。
初めて刑務所に行ったときの体験は http://blog.goo.ne.jp/mizucx/e/7a8374554563acb97579a4dbb8ea3416 です。

ご関心のある方はぜひご参加ください。

詳細は

http://www.transpersonal.co.jp/byronkatiework2011/

CS放送出演のお知らせ

1月22日(土)11:00~13:00、朝日ニュースター(CS放送)の「愛川欽也パックイン・ジャーナル」にコメンテーターとして出演する予定です。

テーマは以下の予定です。

(1)菅内閣の目玉 消費税をどう見る
(2)胡錦涛国家主席 米を公式訪問で
(3)春闘スタート 年収1%増額で攻防…って淋しい
(4)タイガーマスクが国を動かした?
(5)大阪地検 知的障害者に誘導調書 ますます全面可視化必要

CS放送をご覧になれる環境の方は、ぜひご覧くださいませ。

「対人関係カウンセリング(IPC)の進め方」刊行しました

精神科の治療が必要でない程度の軽いうつの方へのカウンセリングとして効果が示されている対人関係カウンセリング(IPC)の進め方をご紹介した本です。
私が専門としている対人関係療法の簡易版です。
日本語では初めてのご紹介になります。
できるだけ読みやすい形にしたつもりですので、お役に立てば幸いです。

対人関係カウンセリング(IPC)の進め方 ― 軽度のうつやストレスを抱える人への援助
創元社
定価 2100円(税込)

アマゾンで購入される方は 
http://amzn.to/ezzPbs

【本の帯より】
「軽いうつ症状」や「ストレス」に悩む人たちに非常に効果的な、対人関係療法の考え方を用いた短期カウンセリングの方法を紹介。
●カウンセラー
●会社のメンタルサポートに関わる人たち
●プライマリケアの医師
●そのほか、こころの援助に関わるすべての人たち・・・・・・にお薦めします。

NHKハートフォーラム「うつ病と躁うつ病を知る」で講演します(名古屋・3月11日)

NHKハートフォーラム「うつ病と躁うつ病を知る」(名古屋)で講演します。

出演は私の他に
尾崎 紀夫氏(名古屋大学大学院 医学系研究科 教授)
藤臣 柊子氏(漫画家・エッセイスト)

です。
同様の催しが4月に東京でも行われる予定です。(出演者は異なる予定です)

日時 2011年3月11日(金曜日) (13:30~16:00予定)

会場 ウインクあいち大ホール
愛知県名古屋市中村区名駅4丁目4-38

定員 700人

申し込み方法等詳細は

http://www.npwo.or.jp/info/2011/utsu_nagoya.html

名古屋でアティテューディナル・ヒーリング(AH)のワークショップをします

名古屋でアティテューディナル・ヒーリング(AH)の入門ワークショップを開くことになりましたのでお知らせします。
ぜひこの機会にご参加ください。

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■開催日時 2011年2月11日(金・祝日)

  13:15開場 13:30開始 16:45終了予定 (途中休憩15分程度を予定しています。)

■開催場所 「今池ガスビル」 7階 D会議室

名古屋市千種区今池一丁目8番8号(地下鉄今池駅10番出口直結)
TEL:052-732-3211
地図はこちら→ http://yj.pn/t5yKxo

■ファシリテーター 水島広子

■参加費 お一人2,000円

定員に達しました。キャンセル待ちをご希望の方は、世話人の桑原まで、メールまたはお電話にてお名前、ご連絡先をお知らせください。
メール seiji_kuwa@yahoo.co.jp
携帯 080-5017-7142

なお、お申し込みの際に下記の質問にお答えください。

AHの経験 有 ・ 無
有の方について:グループに参加経験有 ・ トレーニングに参加経験有

※ワークショップの内容についてのご質問もお気軽にお問い合わせください。

※なお、定員を20名と予定しておりますので、お早めにお申し込みください。

■参加資格 特にありません
ただし、アティテューディナル・ヒーリング未経験の方は、下記の本をあらかじめお読みください。
『怖れを手放す アティテューディナル・ヒーリング入門ワークショップ』(水島広子:著、星和書店:刊)

12月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2010年12月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年12月01日(水)

これだけ課題が多い日本の政治において、今の仕組みが機能しているとはどうしても思えない。二大政党制(小選挙区制)では、相手を叩けば自分の得点になる。この「勝ち負け」の仕組みが多くの無駄を生んでいるし、政治のネガティブなエネルギーも増やしているのは昨今の国会でも明らか。

二大政党制は政権交代を可能にするための秘薬として語られてきたが、その結果として失われたものは多い。こうして政権交代の現実を見た以上、「民主党か自民党か」というレベルを超えて、より民主主義的な選挙制度そのものについてもっと考えた方がよいと思う。

民主主義的、というのは、単に有権者の意見が政策に反映されるというだけではなく、自分たちが持っている力に気づける仕組みでもあると思う。権力行使という観点のみならず、社会の雰囲気作りにおいても。国民からどういうエネルギーを引き出す政治か、という視点は重要だと思う。


2010年12月02日(木)

日韓図書協定の今国会中の承認が困難になる一方で、感情的な懲罰動議にまた時間が費やされる。最近の国会は何かにハイジャックされたみたいに見える。同じレベルで自動反射しないで(絶望することも含む)、違う次元にエネルギーを集中させたいと思う。絶望は民主主義の放棄。

英国留学中の後輩は、多国籍の研究者たちから日本は真っ逆さまに沈没しつつある印象だと言われるそうだ。沈没かどうかは別として日本が大きな変化を経験しているということは事実。変化へのバランスの取れた適応を促進するのが政治の課題と考えれば、話が整理されると思うのだが。


2010年12月03日(金)
ウィキリークスの件は本当にいろいろと考えさせられるテーマの宝庫。今朝の朝日2面米欧メディア「公益か国益か苦悩」も興味深い。これはメディアだけの話ではなく、私たちが「国」というシステムをどう考えるかの話でもある。

生の情報にジャーナリスティックな分析を加えるのが新聞メディアの役割、という仏ルモンド紙のスタンスを見て、そもそも「生の情報」そのものに手が加えられがちな日本のメディアの現状を考える。どれほど多くの人が加工された「生の情報」を本当の情報だと思わされていることか。


2010年12月04日(土)

今朝の朝日の「天声人語」。給食費無料化という趣旨には賛成だが、給食費を払えるのに払わない親について「ふざけた親を税金で養う余裕はない」と断言しているのにびっくり。本来であれば、虐待的な環境として細やかなケアをしていくべき世帯ではないだろうか。税金を使ってでも。

一つの参考になるのが、イギリスでの取り組み。過去に私が書いた報告。http://bit.ly/e7DahC ここでは子どもの行動面について書いたが、妊娠出産の過程から、ケアが必要な家庭を早期に見つけ出して地域での支援につなげる試みもされている。


2010年12月05日(日)

給食費問題にしても、朝鮮学校授業料無償化の話にしても、大人の事情がどうであれ一人ひとりの子どもが社会から愛され受け入れられているという信頼感を持って育てるようになってほしい。その後のいろいろな問題が、この基本的信頼感の欠如から起こってくる。

大人の事情にはそれぞれの背景があり、解決に時間がかかるものだ。そうしている間にも子どもは育っていく。「まずは大人を改善してから」と考えることそのものが、子どもたちの現在から目をそらすことになってしまい、「社会とはそういうもの」という不信につながってしまう。


2010年12月06日(月)

土井隆義著「人間失格? 「罪」を犯した少年と社会をつなぐ」はお勧め。http://amzn.to/fZwvkF 若干意見が異なる部分もあるが、一読の価値はおおいにある本だと思う。修復的司法的だなと思って読んでいたら、やはりエピローグに出てきた。

虐待や犯罪など社会的事象について論じる際に、前提となる現実認識が共有されているとは思えない。センセーショナルな事件報道、日頃から地道に取り組んでいるわけでもない「有識者」によるコメントばかりが目立ち、地に足のついた現状分析は驚くほど少ない。土井氏の本はその貴重な1冊。

基礎データが足りないと私たちは容易に評価を下すようになる。評価は、「異物」を自分なりに消化しようとする試みだからだ。人間としての相手についてよく知ることで「異物」感は間違いなく減り、一方的な評価を下すのではなく本当に必要なことは何かを考えられるようになるのだと思う。


2010年12月07日(火)

人と違うことを言いにくい雰囲気。空気が読めないと言われることへの怖れ。ちょっと違うことを言うと人格攻撃。最近の日本で政治を語るときに感じるこれらの傾向は、実はいじめ現場の空気と同じ。だから、それを変えていくのも、社会を構成する私たち一人ひとりの態度だと思う。

私は「正論」であることにはあまり意味はないと思っている。どんな人にもその人なりの「正論」があるからだ。自分の「正論」を守ろうとすることよりも、自分の「事情」を正直に話していった方が、得るものも大きいし空気が平和になる。

メディアの人たちにも、「みんな」の「正論」を語ろうとする姿勢ではなく、それぞれの事情を聞き出して伝える役割を果たしてほしいと切に願う。メディアは、「決めつける人」「裁く人」ではなく、「調べる人」「いろいろな角度から見てみる人」「知られていないものを見せる人」であるはず。


2010年12月08日(水)

拙著「自分でできる対人関係療法」http://amzn.to/hjoUksと「対人関係療法でなおす 社交不安障害」http://amzn.to/fkKWBBが共に重版になるという連絡をいただく。「自分でできる対人関係療法」は2004年刊行だが多くの方に読み続けていただいている。


2010年12月09日(木)

また政局話が増えてきた。いつもの疑問だが、どうして政局になるとメディアは元気になるのだろう。「政治とは所詮権力闘争」というイメージは、こんなところからも強化されるのではないだろうか。

政局をしたり顔で語る人に非生産性を感じるのは、その話の根拠が過去の政治だから。未来のことを語っているようでいて、過去を語っているに過ぎない。今は新しい政治文化を創ることが必要なとき。だから、メディアがそろって政局をしたり顔で語り始めると、本当に不毛だと思う。


2010年12月11日(土)

小選挙区制は「勝ち負け」の制度として問題を感じるが、政界再編を困難にするという要素もある。小選挙区制で当選するには、現在推薦してもらっている団体の推薦を失うリスクをおかせないなど、いろいろな点で保守的にならざるを得ない。これが政党を形骸化させる一因だとも思う。

民主党は片山総務相が言う通り「シマウマ」政党であり、それが様々な場面で民主党への失望感につながってきた。これは、現在の民主党(新民主党)が小選挙区制時代の政党であることと無関係ではないはず。「自民党から出たいがすでに候補者がいるので」という層も誕生し、選挙互助会的になった。

いろいろな政治家を直に見てきて、人間としての善意が「選挙のリスク」によって縛られていると感じる人も少なくない。だからと言って選挙というシステムを放棄するわけにもいかない。「政治家は選挙のことだけ」と非難していても何も始まらない。やはり選挙の形を機能的にする必要がある。


2010年12月15日(水)

今朝の朝日新聞の社説「過疎とお年寄り 地域にあった支え合いを」はとてもよい。地域でうまくいっている実例を効率よく共有するための機能が必要だということを以前から発言してきたが、同じテーマ。地域活性化につながると共に、国と地方との関係性も変えていくことになるだろう。

政治がワイドショー化して軽く見えるようになった一方で、政治そのものは決して軽くなっていない。諫早の開門にこれだけの時間とエネルギーがかかっている。検察や警察が無実の一人の人間の生物的・社会的生命すら奪えることは今も同じ。年金や税金はもちろん生活を直撃する。

政治のワイドショー化は「政治を身近に感じてもらうために」だそうだが、本来、政治を身近に感じるには、自分の生活や地域の仕組みを考えるなど身近なテーマからであって、ワイドショーでよく顔を見るからと言って、政治との関係性が生産的に変わるわけでもないと思う。


2010年12月16日(木)

法制審議会がようやく親権停止の民法改正へ。2004年に児童虐待防止法を改正したとき、大きな積み残しとして附則に記したもの。子どもと親の現実に合った形で、懲罰的ではなく福祉的な運用をすること、そしてすでに手一杯な現場が適切な形で機能できるような人手と仕組みが必要。

2004年当時、法務省はまだ準備ができていないと、民法改正に最後まで首を縦に振らず、附則に盛り込むところが当時の政治的限界だった。今回はようやく準備ができたということなのだろう。政治においては、きちんと撒いておいた種は育つという印象を持つことが多い。「きちんと」が重要だが。


2010年12月17日(金)

大林検事総長引責辞任の報を見て、組織トップの引責辞任について、責任とは何かをいろいろと考えている。今やめても効果が薄いなどというコメントを見ると、相手(今回の場合は世論?)との関係性の中での「けじめ」(責任を認める)いう色彩が強いようだ。

私が知りたいのは、検察は反省しているかということではなく、どうすればこのような事態の再発を防げるのかという構造的な改善。人間はミスを犯すし、検事の人権感覚が完璧ではないという前提に立った上での有効な構造だ。検察が反省していますと言われて納得する次元の話ではない。

最高検は証拠チェック専門機能を作るそうだが、今回の「改革」が証拠隠滅という焦点だけで終わってしまったら困ると私は思う。証拠が起訴事実と合わないと知りながら起訴したという事実の方がより重いことだと思う。そこにきちんと構造的な手当てがされるのだろうか。


2010年12月18日(土)

この頃考えるのが「評論家」(評論家的有識者も含めて)のこと。特にテレビ番組などで、同じ評論家の意見ばかり聞かされると違和感が強い。一人の意見ばかり聞くとそれが真実であるかのような錯覚に陥るが、その前提となっているデータがどれほど正確なのかすらわからない。

例えば私から見ると、何らかの事件が起こった当日から加害者の心理状態について語り始める有識者にびっくりする。私もそういうコメントを求められたことがあるが「会ったこともない人について、情報が十分にない中、コメントするような姿勢が大変問題だと思う」と断っている。

コメントを断ると相手はハッとして「確かにそうですね」と認めるが、そこはテレビの悲しいところで、コメントをくれる別の人さがしに移っていく。同じ評論家ばかりが目につくのは、それらの人たちが「メディアが言ってほしいことを言ってくれる人」という側面もあるのだろう。


2010年12月19日(日)

鳩山さんの引退正式撤回。「民主党の友愛」が壊れていないかという指摘。それにしても私の目につくのは、その挨拶の中ですら小沢氏を「小沢先生」と呼んでいること。民主党は「先生」を排し、「長」「主」ではなく「代表」という言葉を用い、と民主主義を形でも示してきたはずだ。

相手を「先生」と呼ぶかどうかはTPOもあるだろう。しかし公的なメッセージの中でも先輩政治家を「先生」と呼んでしまうと、おそろしく民主主義が後退したような印象を私は受ける。その「友愛」が、所詮は内向きのものであるようにすら感じてしまう。


2010年12月20日(月)

通り魔事件に関連して「今の若者は健全な怒り方を教わっていない」というコメントをたまたま見た。しかし私自身(おそらくさらに上の世代も)、健全な怒り方など教わっていない。そんなことよりも、人とのつながりを感じられない孤独感・不全感の方がずっと大きな問題だと思うのだが。


2010年12月22日(水)

安全保障も「つながり」をキーワードにしてよい時代だと思う。「国家の安全保障」か「人間の安全保障」かという議論も乗り越えられるし、限られた資源と財源をより効率的に用いることができる。ただ、そのために手放さなければならない「怖れ」は、米国内だけでなく日本にも。

安全保障と言えば、国会時代にいつも気になっていたのは、安全保障を議論する場にはどうしても好戦的な人が集まりやすいということだった。そうでない人は軍事に関心を持たないことが多いからだ。軍事に造詣が深いが「つながり」志向の、希少価値の政治家を大切にしたいと思う。


2010年12月23日(木)

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」を刊行しました。治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。 比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。http://bit.ly/i7CGuk

医学的な意味だけでなく、社会におけるトラウマ(広義)についてもこの頃よく考えている。「怖れ」とはトラウマを反映したものではないかとも考える。それを意識せずにただ「正論」をぶつけてしまうと、さらに傷が深まり、怒りや抵抗を招いてしまう。そのうちまとめて書いてみたい。


2010年12月24日(金)

今朝の朝日3面イラク戦争検証の記事を読んで、改めて過去を検証できない日本の体質について考える。政権交代は過去の検証の好機とは言っても、乗り越えるべき様々な「怖れ」がある。特に怒りの振り子のようになってしまっている現在の政治状況では、生産的な検証は難しいだろう。

朝日3面谷内元外務次官「小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった」当時の他の閣僚のコメントからも、小泉氏がイラク戦争支持を一人で決めたことは確かなようだ。それが今流行の「リーダーシップ」だとしたら大問題。


2010年12月28日(火)

自分の過去に心から向き合うという作業は、自己正当化という「怖れ」を手放す作業だ。自己正当化をやめてしまったらとてももたない、という「怖れ」が、否認、隠蔽、責任のすり替え、などにつながっていく。

自己正当化をやめた方が安全を感じられる、という環境を作っていければ、社会のあちこちに見られる「否認、隠蔽、すり替え」複合体が解消される方向に進むはず。現実的な責任をとっていくということと、その精神をサポートすることを区別できれば効果的なのだが。

これだけ問題が多い今は、「どういう姿勢で臨むのが最も効果的か」ということを真剣に考えるべき時。「悪い人」を糾弾していくやり方は「否認、隠蔽、すり替え」複合体にエネルギーを供給するし、相手の自己正当化を強めると反撃のエネルギーになり、社会の安全を直接脅かす。


「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」刊行しました

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」
という本を刊行しました。
治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。

トラウマにご関心のある方はもちろん、評価(ジャッジメント)を手放すということにご関心のある方、ゆるしにご関心のある方にもお勧めできます。

比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。

トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ

岩崎学術出版社

定価 2100円(税込)

アマゾンで購入する方は
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4753310140?ie=UTF8&tag=mizucx-22&linkCode=xm2&camp=247&creativeASIN=4753310140

★★★ 目次

はじめに
 
第1章 「不信」という現実に向き合う──治療の土台づくり

第2章 「コントロール感覚の喪失」という現実に向き合う──治療のメインテーマ

第3章 「病気」という現実に向き合う──治療の位置づけ

第4章 「文脈」という現実に向き合う──トラウマの位置づけ

第5章 「身近な人たち」の現実に向き合う──トラウマと対人関係

第6章 「ジャッジメント」の現実に向き合う──燃え尽きを防ぐ

第7章 治療者自身の現実に向き合う──自らの価値観やトラウマ

第8章 「トラウマ体験」という現実に向き合う──ゆるすということ

 
★★★「はじめに」より抜粋

 トラウマ治療において、「安全」というテーマを終始一貫して守ることは生命線だと思う。これは特定の戦略や技法以上にずっと大切なことである。もちろん特定の戦略や技法は効果的な治療のための必要条件だとは思うが、十分条件ではない。そもそもが、「持続エクスポージャー療法など、トラウマ関連の病気に対する治療法を知っていること」と、「実際に臨床の場でトラウマ体験者の役に立つこと」とは必ずしも一致しない。

 治療関係も一つの人間関係である以上、「信頼」というテーマを抱えたトラウマ体験者にとって、治療に入るということは多大なる勇気を必要とする場合も少なくない。患者に初めて会ってから、「トラウマ関連の病気に対する治療法」に入るまでの間が、ある意味では最も治療的なプロセスを要するとも言える。

 治療導入の難しさだけでなく、一歩間違えると、すでに傷つきやすくなっている人をさらに傷つけ、すでに対人不信を持っている人をさらに対人不信に陥らせてしまう。また、治療者側の姿勢によっては、容易に燃え尽きてしまう領域でもある。「どのような姿勢でトラウマ体験者に向き合うか」ということは、個別の治療戦略や技法よりもさらに本質的に、治療の成否に関わることだと思う。個別の治療戦略や技法について言えば、そもそも、どんな治療法も万能ではなく(そしてそれを用いるどんな治療者も万能ではなく)、ある患者にとってある治療者によるある治療法の効果がうまく出ない、ということは当然起こりうることである。

 本書を通してトラウマ治療に向き合う治療者の姿勢について考えていきたいが、今までに多くのトラウマ体験者に関わってきた経験からは、その鍵は、「治療者は病気の専門家ではあるが、人間の専門家ではない」というところにあると私は思っている。治療者が立ち入れるのは、病気に関する部分だけである。その点を忘れてしまい、人間としての相手に評価を下してしまうところにさまざまな問題が起こってくるのだと思う。そこに支配関係が生まれたり、新たなトラウマが発生したり、治療への絶望感が起こったり、治療者の燃え尽きが生じたりするのだ。「治療者は病気の専門家」という部分は、成功する治療を支える重要な要素であり、決して軽視すべきことではない。しかし、それが本当に発揮されるのは、「治療者は人間の専門家ではない」という部分が十分に認識されたときなのだと私は信じている。これは実はどんな病気についても言えることだが、ことトラウマ関連の病気については特に意識すべきことだと思う。

 本書ではこの点を掘り下げながら、トラウマに向き合う治療姿勢について考えていきたいと思う。トラウマを持つ人の役に真に立ちたいと思っている方、自らの燃え尽きや苛立ちを感じつつある方のお役に立てば幸いである。

11月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

11月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年11月02日(火)

政権をきちんとチェックすることと、国民の破壊的感情をあおることは別の話だ。奇しくも、裁判員制度で、死刑判決を我がこととして考えるとこれほど違う次元が見えてくるということが示されているところ。「違う次元」を見せることもメディアの重要な役割だと思うのだが。


2010年11月03日(水)

グローバル化にしろ、検察による証拠改ざんや警察情報流出など社会の信頼の根底に関わる不祥事にしろ、当たり前の生活が壊れていくように見えるときほど、自分の生活を丁寧に生きていきたいものだ。一人ひとりが人間として安定することが、必ず世界の安定につながると信じている。


2010年11月04日(木)
今の日本も米国もそうだが、誰がやっても難しい時期の政治においては、「今すぐの結果」ではなく「少し先の結果」をうまく示す必要がある。それを精神論で代用しようとすると怪しげに見えてしまい、支持されないということになるのだと思う。


2010年11月06日(土)

海上保安庁のビデオ流出という衝撃的な事件に対するいろいろな意見の中でも、「そもそも隠した政府が悪い」という論調には特に違和感がある。また、これを正当な内部告発とする説にも違和感。民主主義の国の形がこんなところから崩れていくとしたら怖いことだ。

情報管理について、特に高度な機密を扱う機関は、現在の技術レベルに合わせた改良が絶対に絶対に必要。その上でも、何事にも完璧がないとすれば、あとは情報流出があったときに、流出行為を肯定するようないかなる態度もとらないことで、私たちが責任を果たしていくしかないと思う。


2010年11月07日(日)

昨日はAHのボランティア・トレーニングだった。「相手のために」と考えてやることは暴力的にすらなりうるけれども、「自分の心の平和のために」やることは相手のためにすらなる、ということを、毎回違う参加者と共に実感する一日。やはり社会の平和は一人ひとりの心の平和から。

政治が機能していないと思われる局面では、市民の意識が本当に大切だと思う。「政治がこんなに悪いのだから何でもあり」という姿勢が、自分たちの生活の基本的な安全を脅かしていくということを忘れずにいたい。政権の是非と、それを変えようとする手段の是非は、全く別の次元の話。


2010年11月12日(金)

今朝の朝日新聞17面「耕論」はとてもよいと思う。映像流出問題で、ようやく読みたい意見が読めたという感じ。私自身の考えは佐藤優氏のものに近いが、西山太吉氏(沖縄密約の「西山事件」当事者)、長谷部恭男氏、鈴木謙介氏いずれの意見も重要な論点を含んでいると思う。

ちなみに佐藤優氏の論点は主に「データが編集されたものであること」と「歴史」についてである。特に後者の、五・一五事件を軽い処分ですませたことが二・二六事件を誘発したという視点は、私が懸念していた点そのもの。何かの意見を言うことに「怖さ」を感じる社会は危険だと思う。

「データの編集」について言えば、テレビなどの「街の声」にもずっと違和感がある。非暴力コミュニケーションの第一歩は、「自分が下した評価ではなく事実を語ること」。何らかの評価を下して終わらせるのではなく事実の多面性を考えることは、人を思いやることでもあると思う。


2010年11月14日(日)

今朝の朝日新聞「ウオッチ沖縄 基地 まるで机上の話」を読んでの個人的感想。沖縄発の記事がもっと増えてほしいと思うが、その際、沖縄県外の人の罪悪感ではなく共感を呼ぶようなものが効果的だろうと思う。罪悪感を抱くとどうしてもつながりを感じにくくなるからだ。

また、話題になったときだけ「点」で仕事をする政治家が多い中、一つのテーマに粘り強く取り組み「線」で仕事をする政治家をもっと応援することも大切だと思う。ここのところの極端な選挙の振り子でかなり失われてしまった層だ。


2010年11月15日(月)

政権交代後の政治状況を見ていると、私が昨年予測した通りになっているような気がする。昨年11月北大での講演内容 http://bit.ly/dxbJSL 総選挙当日のブログ http://bit.ly/93RT1W 

ここまでの民主党が、(前政権批判による)政権交代、事業仕分けなど、怒りをエネルギーにして前進してきたことと、今その怒りに叩かれて大変な状況にあることは無関係ではないと思う。怒りの次元から抜け出し、民主党の原点を取り戻すことにしか、希望はないように思う。


2010年11月16日(火)

事業仕分けは「野党的」であり役割を終えたという意見については、必ずしも賛成しない。政策面から考える人と経済効率面から考える人の両方がよく議論する「二元政治」はむしろ必要だと思う。事業仕分けの問題は、それが独善的な暴力になってしまうリスクにあると思う。

仕分けされたはずの事業が看板をかけかえて復活した件。それが単なる不誠実なトリックなのか、政策側からの新たな提言なのかを明らかにできる公平な場を作ればよいと思う。事業仕分けという一方の舞台でそれをしてしまうと、まず不誠実ありきという印象になりがちだ。

情報アクセスに限界がある野党に事業仕分けはできない以上、与党の仕事だ。あとは与党にとっての事業仕分けの位置づけの話。前政権を叩くだけの場なのか、新たな政治文化を創る場なのか。話し合いのプロセスを共有できる新たな政治文化に向けての一歩にすることは可能だと思う。


2010年11月17日(水)

「多くの人が・・・と言っている」という論調が多い今の日本において、報道されている裁判員の様子はまさに「私はどう考えるか」を示しているが、人は「私は」を問われると、自分の内面に立ち返り、物事の多面性をとらえようとするものだ、と改めて実感している。

私自身にとっても、衆議院議員を二期経験したことは、政治を見る目を明らかに変えた。議員をやめてからも「自分だったらどうするか」という目を常に持つようになったし、良心的にこつこつ頑張っている議員たちをつぶさずに育てるためには何が必要かということを考えるようになった。


2010年11月18日(木)

一票の格差は放置できない問題。この手の問題で停滞するのを見る度に、選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さを何とかする必要を感じる。議員でい続けることが「命がけ」である現状では、区割り変更に抵抗するのも当然だと思う。

選挙の過酷さと、議員という身分の流動性の低さは、世襲議員の量産や、質の低い議員の温存にもつながる。せめて選挙がもう少し効率的なものになれば、と思うが、政治に関心のない層にも働きかけるという必要がある以上、どぶ板的な部分もそれなりに意味がある。

あるアメリカ人から聞いたが(つまり出典や真偽は不明)、2期だけつとめる「市民議員」という考え方があったそうだ。自分の専門知識を政策立案に役立てるが、職業政治家にはならない、というのが市民議員。それが本来の民主主義のあり方ではないか、とその人は言っていた。

有権者から見ての「当然」と、そこで働く生の人間にとっての「当然」のずれをきちんと考えないと、政治の質は上がらないと思う。「政治家たるもの、自らしっかりしろ」などと言っているだけでは、一票の格差も改善されないし、政治の質の劣化が結局我が身に返ってくるだけだと思う。

「現代用語の基礎知識2011年度版」の見本が届いた。今回からメンタルヘルスの項目を執筆したため。小さい頃から馴染んできた本であるだけに、(よい意味で)複雑な気持ち。それだけ年をとったということか。


2010年11月19日(金)

法務大臣の失言問題。なぜこの手の問題が後を絶たないのかということについては拙著「国会議員を精神分析する」でも述べた記憶があるが、やはり抜け落ちているのは「その他の人たち」への配慮である。それは政治家の命と言えるくらい大切なものだと私は思っている。

法務大臣の答弁の陰でどれほど多くの人が悔しい思いをしてきたかということへの配慮が抜け落ちている。私も法務委員会に所属していたことがあったのでわかるが、昨日まで普通の国会議員だった人がなぜ急に検察官僚みたいな雰囲気になるのだろう、と不思議に思っていた。

確かに検察組織を代表して柔軟な答弁をするのは難しいと思う。しかし、その点にこそ政治家としての腕が問われるはずだ。その重要なポイントについて、「この答弁でいいから、法務大臣はいい」というのは、さすがに強い違和感。単なる失言と本質的な失言の区別は必要だと思う。


2010年11月21日(日)

政治を語るとき、それが自分にどう関わってくる可能性があるか、という点から考えると本質に近づくような気がする。「この大臣をどう評価するか」ではなく、「この大臣の言動が、自分の暮らしにどう影響する可能性があるか」ということだ。

もちろんその「自分」とは、現在の自分のことだけでなく、「もしも相手国に自分の肉親がいたら」「もしも虐待家庭に生まれてきていたら」「もしも明日突然事故に遭ったら」など、様々な想像上の「自分」を含む。日本の政治姿勢や制度がどうであれば、人間らしく生きていけるのか。

政治がワイドショー化してから、政治評論家みたいな語り口があちこちに増えている気がするが、「政治をどう思うか」ではなく、「こんなことだと自分がどう困るか」という視点から語るだけでも雰囲気がだいぶ主体的になるし、政治の責任の範囲も明確になるような気がする。


2010年11月22日(月)

この頃国際ニュースを見ていてつくづく思うのは、地球規模の修復的司法が必要だということ。なぜその国がそんな体制になってしまったのか、ということにはそれぞれの歴史があり、そこには何らかの形で他国も関わっている。突然変異的に生まれたわけではない。

修復的司法では、行為を正当化することはもちろんしないが、お互いの事情をよく知り、行為と人間性を切り離す努力をすることによって、共同体の癒しを実現していく。その根底には人間への信頼があるが、単なる理想論ではなく唯一効果的な再発防止策としても期待されている。

地球という共同体においても、お互いに罪悪感や被害者意識を刺激し合うのではないレベルでの癒しを模索していくべき時代だと思う。自然環境と同じことを社会的な現象についても進めていく必要があると思う。未来を損なうネガティブなエネルギーをどれだけ減らせるかだ。


2010年11月23日(火)

今朝の朝日新聞1面。私が最も不思議に思うタイプの記事。民主党執行部4名と首相・官房長官だけの話し合いの内容がそのまま載っている。それも「(出席者の)誰もがそう感じた」と書いたり、首相の内心を「どうしても信じられなかったのだ」などと断定的に忖度したりしている。

さすがに全国紙の1面であるから、出所は確かなのだろう。閉鎖された会談の内容が漏れるときには政治的意図を疑うのが常識ではあるから、誰かが何らかの意図で漏らしたのだろうが、さすがに1面トップにこういう記事があると、その「意図」にうかうか乗ってしまいそうだ。

ここのところの政権バッシングで思うこと。やはり怒りではない方法で政治を動かすことが必要だと思う。この一連の騒動が終わって残るのは「政治的焼け野原」だけではないか。問題のある政治家は討ち取れたかもしれないが、同時に希望も失われているような気がする。


2010年11月26日(金)

裁判員初の少年死刑判決。「更生の可能性」という、高度な専門性を要する極めて難しい判断を、精神医学の素養、特にトラウマ関連の知識も臨床経験もない人たちが限られた時間で下すよう要求されているという極めて不適切な現実に改めて強い強い違和感。

「更生の可能性」を本当に知るための裁判であれば、修復的司法のスタイルで、はるかに長い時間をかけて行う必要がある。そのこと自体が、多くのケースで、実際に「更生の可能性」を増すことになるだろう。そんなふうに人間的に処遇されるのが初めての経験になる人も少なくないはずだ。

本来判断できない立場にあるのに判断を強いられた裁判員の方たちの負担は想像を超える。「更生の可能性」という、本来は(裁判官も含めて)人間が判断してはいけないものをもとに死刑か否かを決める、という考え方に私は大きな無理を感じる。放置したくないことだ。


2010年11月27日(土)

問責決議案の可決がニュースになっているが、参議院の現状を考えれば、提出されれば可決されて当然。「問責が可決された後どうするか」は政局的な話で、それよりも「そもそも問責決議案を提出したことは妥当だったのか」という観点からの、より本質的な議論を聞きたいところ。

朝鮮半島は問責決議よりもはるかに重要な国政課題だと思うが、自らの「怖れ」の中で自爆しつつある北朝鮮にいかにして巻き込まれないようにするか、という戦略が、日本を含む周辺諸国の安全と北朝鮮内の多くの「人質」の安全を考えるととても重要だと思う。対処と巻き込まれは別。

今日のパックインジャーナルで田岡俊次さんが言っていたこと。「菅政権は尖閣問題で国益を損ねたと言われているが、実効支配の継続と、経済関係の維持という二大目標は達成したのだから何ら損ねていない。強いて言えば、船長釈放を『米国に言われて』したところ」。同感。

尖閣問題と今回のヨンピョン島事件の相似性も話題になった。同様の構造の対立の中、武力が行使された方では短時間でもあれだけ島民生活に壊滅的な影響がある、という事実は軽視できないことだと思う。「暴力装置」という言葉をただ批判するよりもすべきことがあるのでは。

拙著「拒食症・過食症を対人関係療法で治す」がまた重版になったとの連絡をいただく。とても多くの方に読んでいただき役に立っている様子で、幸せな本だ。改訂前の前著が絶版になり版元探しに奔走した時代が嘘のよう。http://amzn.to/fgiA52

さらに田岡俊次さんから聞いた話。事件勃発前に韓国が行っていた訓練の内容が注目されていない。相手国のすぐ近くで実弾射撃訓練をするというのは通常あり得ない話で、かなり刺激的だとのこと。北朝鮮は当日の朝に「実弾射撃訓練をするのなら迎え撃つ」と声明を出していたそうだ。

もう一つ田岡俊次さん情報。自民党の世耕議員が国会で問題にして以来騒ぎになっている「自衛隊施設内での政治的発言などを制約する防衛事務次官通達」だが、これは単に自衛隊法に則ったもの。同じテーマで小泉進次郎議員について田岡さんが書いた記事。http://bit.ly/dRfk1g


2010年11月28日(日)

またも菅首相の「支持率1%でもやめない」が切り取られてあちこちに。国会での正式な発言ならいざ知らず、会食の場での一言。どういう文脈で出てきた発言なのだろう、とか、鳩山さんはどういう意図でそれを公表したのだろう、とか、考えることはたくさんあるはずだが。

「空気の支配」は、発言者の罪悪感や不全感を刺激するところから始まると思う。この頃国会で目につく「それは○○に対する侮辱です!」「国益を損ねます!」、メディアの「みんな・・・と言っている」が気になるのは、そういう点。違う意見を持つことが不適切だという空気が作られる。


2010年11月29日(月)

「支持率1%」報道もそうだが、新聞がどれほど裏を取って書かれているのか心配になる。例えば27日の朝日新聞1面の見出しは「中国、米韓演習に反対」だが、「中国の排他的経済水域では反対」というのは、外交用語では「それ以外の場所では容認」という意味(実際、毎日は「容認」の見出し)。

国会で政権バッシングが行われ、それをメディアが繰り返し報道し、という状況を見ていると、その「ショー」を見るために私たちはずいぶん多大なツケを払っていると思う。目下国会関係に費やされている税金もそうだし、結果としての政治的荒廃も。全く対価に見合わないショーだと思う。

これを「政権が悪い」と言ってしまうのは簡単だが、どんな状況でも私たちは見たいものだけを見ることによって環境に影響を与えていくことができる。質の低い情報を見て「あーあ」と言うよりも、自分が向かいたい方向を示すものに、もっと意識を向けていきたいと思う。