アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(7)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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 グレッグは、死というのは、天国に行って、そこにいる魂と一緒になることだと思うと言いました。彼は、多くの魂がこの世に下りてきて誰かの守護天使になると思うと言いました。彼は守護天使になりたいと決めたのです。残された私たちは、実際に、グレッグはそうなったのだと信じています。

 この地上での最後の数週間、グレッグは病院に入院していました。グレッグの両親と医師はすばらしいことをしました。グループのメンバー全てがグレッグを見舞ってよいと許可したのです。1970年代には、死にかかっている子どもを他の子どもが見舞うというのは先例のないことでした。病気の子どもに、他の子どものばい菌が移るのではないかと怖れられていたのです。病院の医師と職員は、グループメンバーのお見舞いがどれほどグレッグにとって重要かということを理解したので、この方針を無視し、私たちが好きなだけ彼を見舞ってよいと許可してくれたのです。グレッグは亡くなる瞬間まで勇気について私たちに教えてくれました。彼は偉大な教師でした。

 グレッグが亡くなって間もなく、私たちの本は完成しました。グレッグの父親は本の出版者で、私たちの本の出版を助ける機会に感謝してくれました。その本、「雲のむこうに虹がある」(訳注:日本語訳は「ほるぷ出版」)は、5000部を刷るのに5000ドルかかるはずでした。私たちにはそのお金がありませんでしたが、センターのいつものやり方である「馬の前に馬車をつなぐ」(訳注:ものの順番が反対であるという意味のことわざ)で、私たちは出版の手続きを進めました。センターではよく起こることですが、お金の支払日に、ある財団が本のための小切手をくれました。これはすばらしい本で、たくさんの、たくさんの人を助けてきました。私たちは奇跡が起こるのを期待し、そして奇跡を受けたのです。

 ジェリーはその本をメディアに送りました。その少し後に、彼はシカゴから電話を受けました。それは、フィル・ドナヒュー・ショーのプロデューサーでした。彼女は、「虹」の本をとても気に入って、ジェリーにフィル・ドナヒューとのインタビューに出演してほしいと言いました。ジェリーは、そうしたいけれども、子どもを6人連れて行くことができなければ出演できないと言いました。その奇跡的な瞬間、プロデューサーは「いいですよ」と言ったのです。フィル・ドナヒュー・ショーのために、ジェリーと6人の子ども全員と、パット・テイラーと私はシカゴに飛びました。3人の親たちも一緒に来ました。私たちはグランド・ハイアット・ホテルを与えられ、運転手つきのリムジンがホテルとスタジオの送迎をしてくれました。それはとてもワクワクする時間でした。ショーは大変な成功を収めました。アティテューディナル・ヒーリング・センターは、初めて公にデビューをしたのです。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)