2012年7月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。
2012年07月03日(火)
何かしらの苦しい体験をしたとき、自分の事情を心から受け入れた人は、他人にも事情があることに気づいていく。頑張っていない人などいない、という理解だ。そういう人を見ると、本当の強さを感じる。
2012年07月08日(日)
自分を無力化するような人の「指導」を受けに行きたがる人がいる。この現象は、衝撃という概念を用いると理解しやすい。「指導」という名の衝撃を受けると、人は自分を疑い自信をなくす。そして「こうすべき」という「指導」にしがみつきたくなる。
衝撃に基づく反応は、その基本的なエネルギーが「恐怖」なので、合理的な説得はまず難しい。自分の安全を脅かすものとして、激しい怒りを誘発することにもなる。「衝撃への反応パターン」について知識が共有されれば、自己認識や相互理解が進み、社会平和がずいぶん実現するはず。
現在社会で展開されている様々な(特に感情的な)議論が、「衝撃の土俵」に乗ってしまっているような気がして、まあしばらく待つしかないという気持ちと、その間に着々と衝撃についての知識を普及させようという気持ちと、両方。
2012年07月09日(月)
拙著「10代の子をもつ親が知っておきたいこと」が増刷になるとの連絡をいただく。あまり目立たないけれども広く読んでいただいているのだな、としみじみ感動。 http://t.co/1ECJ7lO7
2012年07月10日(火)
拙著「思春期の意味に向き合う」は、治療者のみならず教育・司法・警察関係の人たちにも読んでもらいたいと思って書いたもの。いじめについてもページを割いたが、正しい理解がないと、司法や治療の場でいじめが再現されることになってしまうから。 http://t.co/jYXOmFth
いじめを抱えるコミュニティの癒しには修復的司法が有効だと信じあちこちで発言しているのに、きちんと文章にしたものが見つからない。拙著「10代の子をもつ親が知っておきたいこと」のp198「いじめにどう向き合うか」は見つけたが。 http://t.co/1ECJ7lO7
2012年07月18日(水)
今朝(というか昨朝)、久しぶりにAH創始者のジェリー・ジャンポルスキーとスカイプで長話をしたが、現在87歳のジェリーは、この春スポーツジムで転倒して足首骨折をし、さらに手術で声帯損傷をして声を一時的に失ったにもかかわらず、今日見た顔は以前よりも元気で若々しかった。
声を失っていた頃、日本のトレーニング参加者から「どうすれば今に集中できますか」という質問を受けて、ジェリーは、「私はオーディオブックを聴きながら運動していた。一回に一つのことだけに集中できるくらい自分を愛していたら、こんな怪我はしなかっただろう」と答えていた。
瞬間瞬間に何かに心から専心することが、自分を愛すること。AHの原則が言う「存在する時間は『今』だけ。それぞれの瞬間は与えるためにある」というのは、まさにそういうことなのだろう。結果に執着せずに何かに専心することは、まさに「与えること」そのもの。
AHのガイドライン「ランプのかさではなく光だけを見るようにする」というのも、AH体験なしにはわかりにくいものだが、ボランティアの方が先日、拙著「見た目が気になる症候群!」は「ランプのかさ」についてよく書けている本だと言ってくれた。
2012年07月19日(木)
世の中から「攻撃のエネルギー」をなくしていこうと思ったら、「例外」を作らないように意識する必要がある。「この攻撃だけは正当な例外」という集積が、多くの不幸の裏にある。自分の心の中でどれだけ「正当な攻撃」を手放せるかが、社会の平和の鍵だと思う。
「攻撃のエネルギー」を手放すことと、変化を諦めることとは全く違う。逆に、何らかの実質的な変化を起こしたければ「攻撃のエネルギー」を手放すことが必要だと思う。
「分離」をどういうときに感じるかと言うと、自分と同じ立場の人についてはアンフェアな姿勢でも容認するとき。「つながり」をどういうときに感じるかと言うと、自分と異なる立場の人にでも、そのフェアな姿勢に敬意を払えるとき。「つながり」は変化の鍵。
以前「子ども有害情報」の棲み分け法案を作っていたとき、「表現の自由を侵す奴」としてあちこちで吊し上げにあった(今も時々そういう汚名をネット上で見かける)。吊し上げの場でも、対立せずにこちらの事情を切々と訴えると、終了時には聴衆の多くが仲間になっていた。
2012年07月23日(月)
衝撃を受けたときの原則は、現在自分に起こっていることが衝撃への反応だと認めた上で、もともとやっていたことをただコツコツと続けること。衝撃への反応として生まれた怒りのエネルギーに翻弄され、本来やるべきことを見失ってはだめだということは社会的にも適用できる。
2012年07月25日(水)
自分の中のネガティブな気持ちを「欲望」と呼んで克服対象とするのは、「怖れ」に評価を下し「べき思考」で縛り、とさらに「怖れ」を加えていくこと。克服できるどころか膨張するのは当然。必要なのは評価や克服ではなく、癒し。欲があるのではなく単に怖れているだけ。
2012年07月27日(金)
何年か前、地方新聞から招聘されていじめと修復的司法についての話をした。参加者の方は深く感銘を受け「どうしてこういう有効な手だてが日本で知られていないのか」と。そこで某全国紙にその要点を投稿した。すると、「時期にあったテーマでない」という理由で却下された。
いじめは常に起こっていること。ニュース性ということで言えば当時は「時期に合ったテーマではない」ということだったのだろうが、これだけ多くの人たちの育ち、そしてその後の人生に大きな影響を与える日常的な出来事を、ニュース性という軸で切るのが不思議だ。
事件になって取り上げるから、学校側も防衛的になる。日頃からの取り組みであれば、学校側も教育的な視点を持ってもっとオープンに話し合いに参加できるように思う。つまり、日常的な意識と取り組みが必要であり、そこを貫く姿勢は「断罪」ではなく「修復的司法」であるべき。
2012年07月29日(日)
社会のネガティブな側面について語るときには、それが子どもたちにとってどういうメッセージになるかを考えたい。物理的に右肩上がりの幻想を抱かせようという意味ではなく、社会がどうなろうと心の平和を自分で選んでいきたい、というメッセージを体現できる人間になりたい。
2012年07月30日(月)
いじめなどによるトラウマ症状(自己不全感を中心としたもの)を長い年月にわたり抱えながら、それがトラウマ症状として典型的な感じ方だということも知らない人にしばしば出会う。自分が「不全」なのではなく単なる症状としての感じ方だということを知るのは福音になる。
「いじめられている君たちへ」というタイプのポジティブな語りかけに私が違和感を抱くのは、本当にトラウマを受けている人にとってはかなりレベルの違う話だから。ある程度の自己肯定感がなければ、ポジティブな提案に前向きになれない自分を責めるだけだろう。
先日公表されたうつ病治療ガイドライン http://t.co/keeCFwF2 でも、いじめや虐待の後遺症について触れてもらったが、いわゆる「難治性うつ病」にはトラウマ関連者も多い。そう考えると、うつ病叩きの世相にも涙が出る思い。