12月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2010年12月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2010年12月01日(水)

これだけ課題が多い日本の政治において、今の仕組みが機能しているとはどうしても思えない。二大政党制(小選挙区制)では、相手を叩けば自分の得点になる。この「勝ち負け」の仕組みが多くの無駄を生んでいるし、政治のネガティブなエネルギーも増やしているのは昨今の国会でも明らか。

二大政党制は政権交代を可能にするための秘薬として語られてきたが、その結果として失われたものは多い。こうして政権交代の現実を見た以上、「民主党か自民党か」というレベルを超えて、より民主主義的な選挙制度そのものについてもっと考えた方がよいと思う。

民主主義的、というのは、単に有権者の意見が政策に反映されるというだけではなく、自分たちが持っている力に気づける仕組みでもあると思う。権力行使という観点のみならず、社会の雰囲気作りにおいても。国民からどういうエネルギーを引き出す政治か、という視点は重要だと思う。


2010年12月02日(木)

日韓図書協定の今国会中の承認が困難になる一方で、感情的な懲罰動議にまた時間が費やされる。最近の国会は何かにハイジャックされたみたいに見える。同じレベルで自動反射しないで(絶望することも含む)、違う次元にエネルギーを集中させたいと思う。絶望は民主主義の放棄。

英国留学中の後輩は、多国籍の研究者たちから日本は真っ逆さまに沈没しつつある印象だと言われるそうだ。沈没かどうかは別として日本が大きな変化を経験しているということは事実。変化へのバランスの取れた適応を促進するのが政治の課題と考えれば、話が整理されると思うのだが。


2010年12月03日(金)
ウィキリークスの件は本当にいろいろと考えさせられるテーマの宝庫。今朝の朝日2面米欧メディア「公益か国益か苦悩」も興味深い。これはメディアだけの話ではなく、私たちが「国」というシステムをどう考えるかの話でもある。

生の情報にジャーナリスティックな分析を加えるのが新聞メディアの役割、という仏ルモンド紙のスタンスを見て、そもそも「生の情報」そのものに手が加えられがちな日本のメディアの現状を考える。どれほど多くの人が加工された「生の情報」を本当の情報だと思わされていることか。


2010年12月04日(土)

今朝の朝日の「天声人語」。給食費無料化という趣旨には賛成だが、給食費を払えるのに払わない親について「ふざけた親を税金で養う余裕はない」と断言しているのにびっくり。本来であれば、虐待的な環境として細やかなケアをしていくべき世帯ではないだろうか。税金を使ってでも。

一つの参考になるのが、イギリスでの取り組み。過去に私が書いた報告。http://bit.ly/e7DahC ここでは子どもの行動面について書いたが、妊娠出産の過程から、ケアが必要な家庭を早期に見つけ出して地域での支援につなげる試みもされている。


2010年12月05日(日)

給食費問題にしても、朝鮮学校授業料無償化の話にしても、大人の事情がどうであれ一人ひとりの子どもが社会から愛され受け入れられているという信頼感を持って育てるようになってほしい。その後のいろいろな問題が、この基本的信頼感の欠如から起こってくる。

大人の事情にはそれぞれの背景があり、解決に時間がかかるものだ。そうしている間にも子どもは育っていく。「まずは大人を改善してから」と考えることそのものが、子どもたちの現在から目をそらすことになってしまい、「社会とはそういうもの」という不信につながってしまう。


2010年12月06日(月)

土井隆義著「人間失格? 「罪」を犯した少年と社会をつなぐ」はお勧め。http://amzn.to/fZwvkF 若干意見が異なる部分もあるが、一読の価値はおおいにある本だと思う。修復的司法的だなと思って読んでいたら、やはりエピローグに出てきた。

虐待や犯罪など社会的事象について論じる際に、前提となる現実認識が共有されているとは思えない。センセーショナルな事件報道、日頃から地道に取り組んでいるわけでもない「有識者」によるコメントばかりが目立ち、地に足のついた現状分析は驚くほど少ない。土井氏の本はその貴重な1冊。

基礎データが足りないと私たちは容易に評価を下すようになる。評価は、「異物」を自分なりに消化しようとする試みだからだ。人間としての相手についてよく知ることで「異物」感は間違いなく減り、一方的な評価を下すのではなく本当に必要なことは何かを考えられるようになるのだと思う。


2010年12月07日(火)

人と違うことを言いにくい雰囲気。空気が読めないと言われることへの怖れ。ちょっと違うことを言うと人格攻撃。最近の日本で政治を語るときに感じるこれらの傾向は、実はいじめ現場の空気と同じ。だから、それを変えていくのも、社会を構成する私たち一人ひとりの態度だと思う。

私は「正論」であることにはあまり意味はないと思っている。どんな人にもその人なりの「正論」があるからだ。自分の「正論」を守ろうとすることよりも、自分の「事情」を正直に話していった方が、得るものも大きいし空気が平和になる。

メディアの人たちにも、「みんな」の「正論」を語ろうとする姿勢ではなく、それぞれの事情を聞き出して伝える役割を果たしてほしいと切に願う。メディアは、「決めつける人」「裁く人」ではなく、「調べる人」「いろいろな角度から見てみる人」「知られていないものを見せる人」であるはず。


2010年12月08日(水)

拙著「自分でできる対人関係療法」http://amzn.to/hjoUksと「対人関係療法でなおす 社交不安障害」http://amzn.to/fkKWBBが共に重版になるという連絡をいただく。「自分でできる対人関係療法」は2004年刊行だが多くの方に読み続けていただいている。


2010年12月09日(木)

また政局話が増えてきた。いつもの疑問だが、どうして政局になるとメディアは元気になるのだろう。「政治とは所詮権力闘争」というイメージは、こんなところからも強化されるのではないだろうか。

政局をしたり顔で語る人に非生産性を感じるのは、その話の根拠が過去の政治だから。未来のことを語っているようでいて、過去を語っているに過ぎない。今は新しい政治文化を創ることが必要なとき。だから、メディアがそろって政局をしたり顔で語り始めると、本当に不毛だと思う。


2010年12月11日(土)

小選挙区制は「勝ち負け」の制度として問題を感じるが、政界再編を困難にするという要素もある。小選挙区制で当選するには、現在推薦してもらっている団体の推薦を失うリスクをおかせないなど、いろいろな点で保守的にならざるを得ない。これが政党を形骸化させる一因だとも思う。

民主党は片山総務相が言う通り「シマウマ」政党であり、それが様々な場面で民主党への失望感につながってきた。これは、現在の民主党(新民主党)が小選挙区制時代の政党であることと無関係ではないはず。「自民党から出たいがすでに候補者がいるので」という層も誕生し、選挙互助会的になった。

いろいろな政治家を直に見てきて、人間としての善意が「選挙のリスク」によって縛られていると感じる人も少なくない。だからと言って選挙というシステムを放棄するわけにもいかない。「政治家は選挙のことだけ」と非難していても何も始まらない。やはり選挙の形を機能的にする必要がある。


2010年12月15日(水)

今朝の朝日新聞の社説「過疎とお年寄り 地域にあった支え合いを」はとてもよい。地域でうまくいっている実例を効率よく共有するための機能が必要だということを以前から発言してきたが、同じテーマ。地域活性化につながると共に、国と地方との関係性も変えていくことになるだろう。

政治がワイドショー化して軽く見えるようになった一方で、政治そのものは決して軽くなっていない。諫早の開門にこれだけの時間とエネルギーがかかっている。検察や警察が無実の一人の人間の生物的・社会的生命すら奪えることは今も同じ。年金や税金はもちろん生活を直撃する。

政治のワイドショー化は「政治を身近に感じてもらうために」だそうだが、本来、政治を身近に感じるには、自分の生活や地域の仕組みを考えるなど身近なテーマからであって、ワイドショーでよく顔を見るからと言って、政治との関係性が生産的に変わるわけでもないと思う。


2010年12月16日(木)

法制審議会がようやく親権停止の民法改正へ。2004年に児童虐待防止法を改正したとき、大きな積み残しとして附則に記したもの。子どもと親の現実に合った形で、懲罰的ではなく福祉的な運用をすること、そしてすでに手一杯な現場が適切な形で機能できるような人手と仕組みが必要。

2004年当時、法務省はまだ準備ができていないと、民法改正に最後まで首を縦に振らず、附則に盛り込むところが当時の政治的限界だった。今回はようやく準備ができたということなのだろう。政治においては、きちんと撒いておいた種は育つという印象を持つことが多い。「きちんと」が重要だが。


2010年12月17日(金)

大林検事総長引責辞任の報を見て、組織トップの引責辞任について、責任とは何かをいろいろと考えている。今やめても効果が薄いなどというコメントを見ると、相手(今回の場合は世論?)との関係性の中での「けじめ」(責任を認める)いう色彩が強いようだ。

私が知りたいのは、検察は反省しているかということではなく、どうすればこのような事態の再発を防げるのかという構造的な改善。人間はミスを犯すし、検事の人権感覚が完璧ではないという前提に立った上での有効な構造だ。検察が反省していますと言われて納得する次元の話ではない。

最高検は証拠チェック専門機能を作るそうだが、今回の「改革」が証拠隠滅という焦点だけで終わってしまったら困ると私は思う。証拠が起訴事実と合わないと知りながら起訴したという事実の方がより重いことだと思う。そこにきちんと構造的な手当てがされるのだろうか。


2010年12月18日(土)

この頃考えるのが「評論家」(評論家的有識者も含めて)のこと。特にテレビ番組などで、同じ評論家の意見ばかり聞かされると違和感が強い。一人の意見ばかり聞くとそれが真実であるかのような錯覚に陥るが、その前提となっているデータがどれほど正確なのかすらわからない。

例えば私から見ると、何らかの事件が起こった当日から加害者の心理状態について語り始める有識者にびっくりする。私もそういうコメントを求められたことがあるが「会ったこともない人について、情報が十分にない中、コメントするような姿勢が大変問題だと思う」と断っている。

コメントを断ると相手はハッとして「確かにそうですね」と認めるが、そこはテレビの悲しいところで、コメントをくれる別の人さがしに移っていく。同じ評論家ばかりが目につくのは、それらの人たちが「メディアが言ってほしいことを言ってくれる人」という側面もあるのだろう。


2010年12月19日(日)

鳩山さんの引退正式撤回。「民主党の友愛」が壊れていないかという指摘。それにしても私の目につくのは、その挨拶の中ですら小沢氏を「小沢先生」と呼んでいること。民主党は「先生」を排し、「長」「主」ではなく「代表」という言葉を用い、と民主主義を形でも示してきたはずだ。

相手を「先生」と呼ぶかどうかはTPOもあるだろう。しかし公的なメッセージの中でも先輩政治家を「先生」と呼んでしまうと、おそろしく民主主義が後退したような印象を私は受ける。その「友愛」が、所詮は内向きのものであるようにすら感じてしまう。


2010年12月20日(月)

通り魔事件に関連して「今の若者は健全な怒り方を教わっていない」というコメントをたまたま見た。しかし私自身(おそらくさらに上の世代も)、健全な怒り方など教わっていない。そんなことよりも、人とのつながりを感じられない孤独感・不全感の方がずっと大きな問題だと思うのだが。


2010年12月22日(水)

安全保障も「つながり」をキーワードにしてよい時代だと思う。「国家の安全保障」か「人間の安全保障」かという議論も乗り越えられるし、限られた資源と財源をより効率的に用いることができる。ただ、そのために手放さなければならない「怖れ」は、米国内だけでなく日本にも。

安全保障と言えば、国会時代にいつも気になっていたのは、安全保障を議論する場にはどうしても好戦的な人が集まりやすいということだった。そうでない人は軍事に関心を持たないことが多いからだ。軍事に造詣が深いが「つながり」志向の、希少価値の政治家を大切にしたいと思う。


2010年12月23日(木)

「トラウマの現実に向き合う ― ジャッジメントを手放すということ」を刊行しました。治療者向けの本ですが、一般の方にもお読みいただける内容です。 比較的著者の思い入れの強い本ですので、ご一読いただけると嬉しいです。http://bit.ly/i7CGuk

医学的な意味だけでなく、社会におけるトラウマ(広義)についてもこの頃よく考えている。「怖れ」とはトラウマを反映したものではないかとも考える。それを意識せずにただ「正論」をぶつけてしまうと、さらに傷が深まり、怒りや抵抗を招いてしまう。そのうちまとめて書いてみたい。


2010年12月24日(金)

今朝の朝日3面イラク戦争検証の記事を読んで、改めて過去を検証できない日本の体質について考える。政権交代は過去の検証の好機とは言っても、乗り越えるべき様々な「怖れ」がある。特に怒りの振り子のようになってしまっている現在の政治状況では、生産的な検証は難しいだろう。

朝日3面谷内元外務次官「小泉元首相はリーダーシップがあった。だから広く閣僚らの意見を募って議論する、という発想はなかった」当時の他の閣僚のコメントからも、小泉氏がイラク戦争支持を一人で決めたことは確かなようだ。それが今流行の「リーダーシップ」だとしたら大問題。


2010年12月28日(火)

自分の過去に心から向き合うという作業は、自己正当化という「怖れ」を手放す作業だ。自己正当化をやめてしまったらとてももたない、という「怖れ」が、否認、隠蔽、責任のすり替え、などにつながっていく。

自己正当化をやめた方が安全を感じられる、という環境を作っていければ、社会のあちこちに見られる「否認、隠蔽、すり替え」複合体が解消される方向に進むはず。現実的な責任をとっていくということと、その精神をサポートすることを区別できれば効果的なのだが。

これだけ問題が多い今は、「どういう姿勢で臨むのが最も効果的か」ということを真剣に考えるべき時。「悪い人」を糾弾していくやり方は「否認、隠蔽、すり替え」複合体にエネルギーを供給するし、相手の自己正当化を強めると反撃のエネルギーになり、社会の安全を直接脅かす。