うちの子どもの友達に、いわゆる「特別な配慮を必要とする子」がいる。仮にA君としよう。
我が家によく遊びに来るが、うちのカレーが大好きで、「おいしい、おいしい」とおかわりしてくれる。うちの子どもたちと遊んでいるときのA君は、本当に優しい良い子だ。マンションの防火扉にいたずらをした嫌疑をかけられて泣いてトイレにこもってしまったうちの子どもをかばって、マンションの管理人さんに事情を説明してくれたこともある。
一件落着して戻ってきた彼が、トイレにこもって泣いているうちの子どもに「もうだいじょうぶだよ、出てきてもだいじょうぶだよ」と優しく声をかけていた彼の姿が忘れられない。
さて、そんな優しいA君なのだが、学校で姿を見ると全く別人だ。暴れて、教室のドアを蹴飛ばしている。先生の指示に全く従わない。
クラスメートからは「またあいつだよ」という目で見られ、非難されている。
まじめにやっても勉強はよくわからない。クラスメートから馬鹿にされ、立ち上がって暴れる。他人に暴力を振るうこともあるのだが、よく見ると彼の目は涙がいっぱいだ。どうしたらよいかわからなくて、やけくそになって暴れているのがありありとわかる。
担任の先生はまじめな先生で、「それ以外の子どもたち」とはうまくやっている。でも、A君からは「死ね」などと毒づかれて、持て余している。
時々、A君の手を押さえつけて、
「A君。先生は○○しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と強い調子で怒っている。
私は目撃したことはないが、子どもたちの話によると、時々体罰ともとれることをするそうだ。
こうなるとますます彼は逆上して暴れてしまう。クラスメートからはますます馬鹿にされる。地団太を踏んで泣き叫ぶ。このような「特別な配慮を必要とする子ども」であるA君を見ていて、ふと北朝鮮のことを考えた。
北朝鮮首脳にA君のような優しさがあるかどうかは疑問だが、怯えてやけくそになって暴れている国に対して、
「○○さん。私たちは××しろと言いましたね。どうしてできないんですか。そんなに難しいことですか」
と正論を強い調子で言うことに、どういう効果があるのだろうか。北朝鮮は「特別な配慮が必要な国」なのである。
他の生徒や保護者が見ている前で、生徒をきちんとコントロールできているところを見せなければという先生の「メンツ」に、馬鹿にされたままではおさまらないA君の「メンツ」。
これを収められなければ学級崩壊するのではないかという先生の「恐怖」と、ここで素直に言うことを聞いてしまうとそのままなめられるのではないかというA君の「恐怖」。
ここでも「怖れ」の綱引きが行われている。どちらかが怖れを手放さない限り、事態は取り返しのつかない方向に進んでいく。また、怖れは周りに伝染し、A君を口汚くののしることすら正当化されるような雰囲気が生まれていく。
先生とA君の関係では、怖れをまず手放さなければならないのは、もちろん教育者である先生の方だろう。これは誰でも納得できる話だと思う。
では、「特別な配慮が必要な国」北朝鮮の場合はどうなのだろう?
政権が崩壊することだけを恐れ、米国からの攻撃を恐れている政権が「怖れ」を原動力に行動していることは誰の目にも明らかだろう。その「怖れ」をさらに煽るアプローチは、危険な方向にしかつながらないはずだ。また、北朝鮮がまず態度を改めるべきだというのは、先生ではなくまずA君が態度を改めるべきだと言うのと同じくらい、現実を見ていない考え方だと思う。
何を甘いことを言っているのだ、これだけ手を尽くしても破壊的な行動しかとれない北朝鮮ではないか、という意見が出てくるかもしれない。でも、一番のカギを握りながらこの間一貫して一対一の協議に応じてこなかった米国ひとつみても、「手を尽くした」とはとても言い難い。すでに米国ではブッシュ政権の怠慢を問う声が上がっている。
怖れにエネルギーを供給するのは他者の怖れだ。まずは、私たちが、「怖れ」の綱引きから離脱しなければならないのではないだろうか。
これは北朝鮮に対して何もするなと言っているわけではない。「怖れ」を動機に行動すべきではないというだけのことだ。
そもそも、A君に対する先生の「怖れ」の背景には、A君のような子をどうやって理解し扱ったらよいかという専門知識の欠如がある。先生にはぜひそれを学んでほしい。そして、各国首脳、特に安倍首相にも、そのような専門知識を学ぶことで怖れを手放してほしいものだ。その専門知識を「外交」と呼ぶのではないだろうか。