2月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年2月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年02月01日(火)

小沢氏の件でよく出てくる「けじめ」という言葉に違和感をもって見ている。いったいどういう「けじめ」なのか、発言者一人ひとりが特定しながら話した方がよいと思う(特定できるのであれば)。こうして考えると特定されていない「けじめ」という言葉も「空気」の言葉なのだと実感。

この件についてメディアを見ていて一番混乱するのは、「国会議員の身分」の話と、「政党内の処分」の話が混同しているところだ。「離党勧告」と「議員辞職」の話が同レベルで出てくることにびっくりする(その発言をしている人が国会議員だったりもする)。

執行部の指示に従わなかった人を処分する権利が、(そういう規約を持った)政党にはあるだろう。また、裁判を有利に進めるために十分に国会答弁ができないということがあるのなら、それも政党は考慮の対象にしてよいと思う。しかし、国会議員の身分に関わることは全く別の次元の話だ。


2011年02月04日(金)

昨日、プライムニュースに出演して思ったのは、政権交代の位置づけについて。政権交代を「有権者による平和的な革命」と考えれば、まさに「政権が変わる」わけで、その政治理念の変化や「国のかたち」の変化が見えるべきだ。

政権交代以降現在までの民主党は「自公政権時代と比べてマイナスがないように」というところに集中しているように見え(少なくとも子ども手当関係の話からはそう思った)、選挙を抱える人たちの集団としては理解できるが、それが理念を見えにくくし、借金にもつながるのだと思う。

例えば私たちが子ども手当を創設した時、子ども手当を課税対象とする代わりに所得制限を設けなかったのは、家庭間に分断を作らず子どもを大切に育てるというメッセージだった。本来は子どもの食費・被服費をカバーするものなので年長の子どもの方が減額という発想もなかった。

もちろん激変緩和措置は重要だし、何らかの変化を起こす際には、その政策効果を見るための期間、変化が無効だった場合の回復の算段などを含めて提案していく必要があると思う。このように様子を見ながら軌道修正するのは、行政ではなく政治に問われた役割だと思う。

「子ども家庭省」で子どもの施策を作っていく際には、近年たくさん得られている子どもの発達についての学術研究結果も反映させてほしい。大人たちのファンタジーで子どもを語るのではなく。

(2005年マニフェストまではあった)理念が受け入れられたわけではなく「子ども手当」と「無駄をなくす」が売り物になって誕生した民主党政権は、今、「子ども手当をばらまいているのに」「無駄もなくなっていないのに」消費税増税なんて、という怒りを買っている。


2011年02月10日(木)

参議院の区割り問題。参議院の独自性を、というのは、「衆議院とは違う意見を述べる」ことそのものにあるのではなく、「良識の府」と言われることからも、例えばより学識に基づいて考えるようなことが期待されているのだと思う。それは選挙制度にも反映されるべきものだ。

本当に「良識の府」としての参議院を含む二院制を残したいのであれば、政党政治とは全く違う次元での立案・チェック機能を持つ人たちを参議院議員として選べる仕組みを作る必要がある。政治的利害と学識の「ねじれ」国会であれば、本当に見る価値があると私は思っている。


2011年02月12日(土)

今朝の朝日新聞1面から始まる地方議会の記事。首長が提出した議案をこの4年間で一本も修正・否決していない、議員提案の政策条例が一つもない、議員個人の議案への賛否を明らかにしない、という3つをいずれも満たす「3ない議会」が全体の3分の1を占めるという結果。

私が6年間近くで見ていた宇都宮市議会も「3ない議会」の一つ。さらに、4年前に明文化された「申し合わせ」によって本会議での一般質問を年2回までに制限しているそうだ。

それにしても、議員の最低限の責任だと思っていた議案への賛否の公開が、84%の議会で行われていないのは驚いた。理由としてあげられた「慣例だから」「起立採決で確認できない」「会議録をつぶさに読めばわかるはずだ」は、いずれも地方議会の現状を象徴しているような気がする。

以前の自分の経験から言えば、本来は市政レベルで実現できる話なのに「国が面倒を見てくれないから」と国政レベルの話にすり替えて放置する、というケースもあった。議会が活性化していれば「これは自分たちでできるはず」と指摘して事態を前に進めることも可能だったのではないかと思う。


2011年02月13日(日)

今日は対人関係療法の専門家向けワークショップ。治療者を増やすことは急務。AHとは異なり、病気の治療法であるこちらはきちんとした形で普及させる必要がある。「対人関係療法っぽいこと」と「対人関係療法」は似て非なるものである。

最近、「エセ対人関係療法家」がいるという話をちらほら聞く。そのような「有名税」を払わなければならないほど普及してきたのかという感慨もあるが、患者さんを混乱させるのは間違いないし、本来対人関係療法でないものが提供されて「効かない」という結論になるのも困る。

日本の臨床現場の実情に合わせて、精神療法をできるだけ質を落とさずに普及させるというのは本当に難しい課題であり、私自身にできることなどごく限られているが、せめてその「ごく限られている」ことを丁寧にやっていきたいと思う。


2011年02月16日(水)

昨日、取材の方が来たので改めて昨今の政治について考える時間を持った。誰がやっても難しいこの時代の政治において「安心」を提供するとはどういうことだろうか、と考えてみると、小手先のどんな政策も本当の意味では安心をもたらさないと思う。

今までの選挙におなじみの「安心を提供します」というのは、むしろ、右肩上がり経済を前提とした物的な側面(ひどい場合はバラマキ)に偏ってきたように思う。しかし、今ではバラマキそのものが人の不安をあおっている。かといって、緊縮財政を前面に出されると、これはこれで不安だ。

どういうときに私たちが安心を感じるかと言うと、もちろん先の安全な見通しが立つときだが、今の政治状況でそれを物理的に示すことは限りなく難しい(できる限り努力すべきだが)。それ以上に重要なのは、「分断」のない考え方をすることによって信頼を獲得することだと思う。

社会の一定の側面を否認するのも「分断」だし(この期に及んで右肩上がりを前提とするのも、一定の側面の否認)、自分の良心から目を背けるのも「分断」。努力せずに放り出すのも「分断」。将来を絶望視するのも「分断」。批判されて自己正当化にしがみつくのも「分断」だ。

「分断」のない政治は、キーワードだと思う。もちろん民主主義にとって重要なことは、政治と有権者の間に「分断」がないこと。それはワイドショーで親しみを感じてもらうという意味でなく、自分自身が「分断」のない姿勢で仕事をするところを見せるということだと思う。


2011年02月19日(土)

国会議員が「現首相のままではだめだ」ということを単に言っているのを見ると私はとても悲しくなる。首相交代に言及するのであれば、せめて、「自分が首相になったら消費税はこうする。TPPはこう。子ども手当の財源問題は。米軍基地は」と実現可能なことを述べてほしい。

ここのところの政治が、怒りをエネルギーにした不安定な「振り子」になってしまっている一因にも、国会議員たちの当事者感のなさがあるように思う。小選挙区制に基づく二大政党制になると、どうしても「選挙に勝つこと」が優先されるので、当然の結果と言えば結果だが。


2011年02月21日(月)

「仮に今投票するとしたら」の投票先で自民党が民主党を上回っているのを見ると、政権交代前に有権者が自民党政治について問題だと感じていたことのどれだけが改善したのだろうかと素朴な疑問を抱く。今の仕組みは、単に相手の失点が自分の得点になるという性質のものだ。

もともと二大政党制に望まれたものは「健全な競争」だったのだろうが、お互いを高め合う「健全な競争」は、怒りをエネルギーにしたところには生まれない。そろそろこのことを真剣に考えないと、幻想を夢見ているうちに政治の質が限りなく劣化するような気がする。

もう一つ気になるのは、有権者にとって意思表示の選択肢があまりに少ないことだ。民主党という政党は応援したい。しかし、自分の選挙区の民主党候補者は自らの代弁者として送り出したくない。こういう意思表示は、政党そのものの体質改善のためにも重要なのではないだろうか。

そんなケースにも対応できる仕組みの有力候補である小選挙区比例代表併用制(比例でまず政党議席数を決め、小選挙区での当選者、そして惜敗率が高い方から議席を埋めていく)という仕組みについてもそろそろ真剣に検討すべきではないかと思う。

拙著「臨床家のための対人関係療法入門ガイド」が重版になるとのお知らせをいただく。専門家向けの本が着実に読まれていることは、一般書の場合とはまた別の意味で嬉しいことだ。 http://amzn.to/hKR270 


2011年02月24日(木)

今朝の朝日新聞を読んで「政治は弱者のために」という言葉がやはり引っかかる。今の社会システムでは暮らしにくい人がいるからシステムを改善することが必要なだけであって、そこに「弱者救済」という評価を上乗せすると結局は分断を深めるだけだと思う。


2011年02月25日(金)

今では民主党議員がテレビなどで子ども手当を擁護すると批判が多く来るそうだ。発案時に比べ大きく形を変えてしまった内容については私もいろいろと言いたいことがあるが、ようやく光が当たってきた子ども政策が愚策の代名詞みたいに認識されている現状は、とにかく悲しい。


2011年02月26日(土)

昨日、朝日新聞の方が取材に見え、民主党の社会保障政策の変遷を話し合っていたとき、「2005年の断絶」を改めて感じた。現職の方たちで2005年以前の経緯を語れる人は少なく、2005年以前の経緯の核心を知る人はすでに亡くなっていたり国会を去っていたりだという。

2000年に私が初当選したとき、民主党の厚生部会(今の厚生労働部門会議)が、ほとんど学会レベルの議論をしていることに感動したのを覚えている。また、「反対のための野党」的な色彩はあまりなく、生活に直結する厚生部門の政策を責任感をもって作ろうという気概があった。

2005年の郵政選挙では、社会保障に地道に取り組むような議員が多く失われたと同時に、そこから、たががはずれたように、「政策よりも政局」の政治傾向が顕著になったように思う。「ぶっ壊す」の言葉で始まった時代は、本当に創造文化を破壊文化に変えたような気がする。

持続可能な社会保障制度を作るには、単なる財源論ではなく、労働法制まで含めた大きな視野が必要で、腰を据えて取り組む必要がある。短期的なスパンの「政局」には全く馴染まない。今の政治文化が変わらないのであれば、やはり社会保障は政治から離れたところで熟議しないと無理だと思う。

パックインジャーナルに出演し、今日もジャーナリストの田岡俊次さんからいろいろと教えていただいた。ソ連がアフガンから撤退した後に東欧社会主義・ソ連の崩壊が起こったのと同様に、米国のイラク撤退に続いて今回の中東異変が起こっている、という見方は、なるほどと思った。


2011年02月27日(日)

現在の日本の政治状況から、議会制民主主義の否定に進むことが心配。「強いリーダーシップ」を求めることは、独裁への流れだと思う。ことは議会制民主主義の問題ではなく、「小選挙区制による二大政党制」というシステムの問題。その現実が見えてきたに過ぎないのだと思う。