1月のツイッターより(反響の大きかったものの抜粋)

2011年1月のツイッターより、反響が大きかったものの抜粋です。


2011年01月01日(土)

あけましておめでとうございます。現在アメリカなので、実はまだ2010年で、年越しはこれからです。アメリカはいろいろな問題を抱えた国ですが、知らない人同士目が合うと微笑み合う文化は個人的に大好きです。お金も苦労もかからずにとても気持ちがよくなるのですから。


2011年01月07日(金)

帰国。「対人関係療法でなおす うつ病」が重版になるとの連絡をいただく。一人でも多くの方に読んでいただきたいと思って書くので、重版のお知らせはいつも大変嬉しい。http://amzn.to/fQIBY4


2011年01月08日(土)

朝日1面「貧困救う学びの場」をじっくり読んだ。高校進学をしたいが塾に行くお金がない子どもたち向けにNPOが提供している無料塾に、中学校の先生からも自分の生徒をみてほしいという依頼が来るそうだ。親の経済格差を子どもの世代にそのまま引き継がせないための貴重な努力。

これは公教育の現場における歪みと余裕のなさという問題として見ることもできるし、それはそれで重要な観点だ。公教育は、社会で最も大切なものの一つとして、皆が本気で考えるべきテーマだと信じている。一方、公的サービスを誰が担うのかという視点からも見ることができる。

本来公教育が担うべき役割をNPOが補完している。これは、他の公的な領域にも広がっている現象だ。この流れが進むと国の形が変わる。税金を払って政府に使い道を任せる社会から、自分が望ましいと思う公的サービスに投資する(そして減税される)社会に日本は転じるのだろうか。

なお、NPOがそれだけの役割を担うには税制の改正が不可欠。そういう意味では日本におけるNPOの位置づけはまだまだ中途半端。参考までに、私がかつて米国のNPOについて書いたもの。http://bit.ly/eH7dMk


2011年01月09日(日)

数日前に取材協力したアエラの見本誌(1月17日号)が届く。「菅は『葬式躁』になっている」という扇情的な見出し。ちなみに「葬式躁」は香山リカ氏の「みたて」で、私が述べた「恥ずかしがり屋の旧世代の男性で、言葉足らず」という見解とは全く異なる。

それにしてもこの記事は、香山リカ氏、和田秀樹氏、そして私、と「3人の精神科医に『診断』してもらうと・・・」というものだった(取材されたときは知らず)。私は菅さんを直接知っているのでその立場で答えたが、病気でもない人について精神科医のコメントがなぜ必要なのだろう。


2011年01月13日(木)

菅首相「国会対応、まじめすぎた」発言。要は「野党ペースに乗せられてしまい、自らのペースを作れなかった」という意味だと思うが、もちろんこれでは「ふまじめでいいのか」という批判が出るだろう。伝えたいことに適切な言葉を与える側近が本当に必要だと思う。


2011年01月14日(金)

朝日3面「凶弾が映す米国の分裂」。米国内の分断について「米国の自由主義を脅かすのはイスラム過激派でもテロ支援国家でもなく、米自身が自壊に向かっているのではないか」これは米国に限った問題ではなく、他者を攻撃するときには自らを攻撃しているということの象徴だと思う。

他者を自分から分断する姿勢は、自分の中にも分断を作り出す。良心との分断もその一例だ。「人の悪口を言うのはよくないけれども、今だけは例外だ」などというように。米国も、「正義」の名の下に多くの人の命を奪ってきたが、「今だけは例外」が続いてきたのだろう。

今回の銃乱射事件で命を絶たれた911テロの日生まれの9歳の少女(うちの息子と同じ日生まれ)についてオバマ大統領が「私たち大人が慣れきった虚無や悪態などの汚れを知らないまま胸を躍らせて政治集会を訪れていた彼女の期待に、私たちはこたえるべきだ」(朝日3面)

虚無や悪態は「汚れ」と言うよりも、自動反射的な習慣の積み重ねだと思う。何よりも大きな可能性を持つのは、自動反射的に何かに反応する前に、一人ひとりが自らの内面に向き合い、心の姿勢に責任を取っていくことだと改めて感じる。社会の平和はやはり一人ひとりの心の平和からだ。


2011年01月17日(月)

やや専門家向け(?)のエッセイを、ホームページから読めるようにしました。岩崎学術出版社から本を刊行する都度「学術通信」に気ままに書いたものです。「トラウマの現実に向き合う」を刊行したので、次のエッセイを執筆中。http://bit.ly/endLf6


2011年01月18日(火)

保護者からのクレームで不眠症になった、と小学校の教員が当該保護者を提訴したというニュース。詳細はわからないが、訴訟を起こす以外に解決の場がなかった(と当事者が思った)ことは事実。誰が悪いかではなく、今の教育現場に欠けているものを真剣に考える機会にしてほしい。

校長から市教委にあてられた提訴を支持する文書の中で「モンスターペアレンツに学校や教師が負けないように」という表現が使われているが、子どもが主役の学校という現場で、大人の勝ち負けという概念には違和感。くれぐれも子どもたち(当の子どもも含めて)を中心に考えてほしい。

もちろんこういう状況に必要なのは修復的司法の考え方だろう。イギリスに習って、日本の学校も積極的に修復的司法を取り入れたらよいと思う。対立の解決にもなるし、何らかの危機(教員が保護者を提訴というのも危機だと思う)に直面したときの心のケアにもなる。


2011年01月20日(木)

今朝の朝日新聞「耕論」のテーマはここのところ朝日が特集している「孤族の国」。藤森克彦さんと上野千鶴子さんの意見に共通するのが「単身を前提とした社会の仕組みづくり」の必要性。これは全く同感で、社会の現実に対して、社会保障などはまだまだ前時代的な前提に基づいている。

現実と社会制度がずれると歪みが生まれるのは当然のこと。今はどうだか知らないが、私が現職国会議員だった頃、行政はまだ「標準世帯」という概念を用いていた。専業主婦がいて、子どもが二人、という世帯のことだ。高度経済成長時代には多かったが今では少数派と言える世帯。

社会保障が「単身」を前提にするようになると、本当にバラバラの社会になってしまうのではないかと懸念する人もいるが、実際には逆で、ライフスタイル選択に伴うリスクが減れば、それだけ純粋に関係性の構築にエネルギーを注げるようになるのではないかとも思う。


2011年01月21日(金)

児童施設内の虐待。職員の専門性の向上と、人員配置の改善は急務。日本の児童養護施設では子ども6人につき職員1名だが、私が視察したノルウェーの青少年ホームでは子ども1人につき職員2名(2交代)だった。http://bit.ly/hN2RxU 5項目目「ピーターホフ青少年ホーム」

児童施設の職員もそうだが、以前お会いした里親の方は、虐待を受けた子どもが呈するトラウマ症状とその対処法を知らなかったため、本当に孤立無援で振り回されていた。症状を持つ子に対しては、専門知識による支えがあって初めて、子ども本人を愛し受け入れる余裕ができると思う。


2011年01月23日(日)

今朝の朝日の社説は新型インフルエンザについて「適度に怖がるというのは、いかに難しいか」で始まる。これは「適度」という程度問題ではなく、現実のリスク評価と心の姿勢を区別するという話だと思う。想定されるリスクに対処することと、「怖れ」という心の姿勢を採用することは別。

その両者の違いは、今までの拙著の中でも、「アセスメント」と「ジャッジメント」の違いとして http://amzn.to/geEbV0  また、「不安」(という感情の本来の意味)と「怖れ」の違いとして http://amzn.to/fQCajx  書いてきた。

ある立場における「正論」は他の立場の人を傷つけうるものであり、つながりを重視した「人間の安全保障」のためには、それぞれが一人の人間として「自分の」事情と気持ちを誠実に語っていくことが最も効果的だと思う。他者に評価を下す「正論」ではなく。


2011年01月25日(火)

昨日の朝日新聞関西版夕刊「心をあたためよう」という記事で、阪神淡路大震災で救援活動の陣頭指揮をとられた精神科医の巨頭・中井久夫先生が拙著「トラウマの現実に向き合う」を紹介してくださったとのお知らせをいただく。大変光栄なことだ。http://amzn.to/geEbV0

拙著の副題は「ジャッジメントを手放すということ」だが、中井先生は認知症についてのジャッジメントに問題意識を持っておられ、拙著が参考になると言ってくださっている。中井先生は統合失調症が不治と言われていた頃にも疑問を持たれていたが、今度は認知症にも同じ問題意識を持たれている。敬意。

「不治と決めつけている現状から一歩でも出ることです。統合失調症でも不治を前提とすると何でもその証拠に見えましたし、良くなれば、もともと統合失調症でないとされた。この『目のウロコ』を取らなくては」(1月24日朝日夕刊関西版・中井久夫先生)

「知情意(知性・感情・意志)の、情と意の部分を周囲が大切にすると、ずいぶん違ってくると思います。患者は『自分の人生の主人公である』と、どういう時でも思わせることが工夫のしどころでしょう。」(1月24日朝日夕刊関西版・中井久夫先生)


2011年01月27日(木)

社会保障が政局に翻弄されてしまわないためには、メディアがよほどしっかりして政局から社会保障を守るか、国会以外に熟議の場を作り、形になってから国会に戻すか、のどちらかが必要だという気がする。「与野党のお手並み拝見」だけで乗り切ろうとするのはあまりにリスクが高そうだ。


2011年01月28日(金)

今朝の朝日「耕論」は中国について「脅威論の落とし穴」。松田康博氏は「感情的な『中国脅威論』は戦略の名に値しない」「(素朴な脅威論も素朴な敗北主義も)どちらも中国の穏健派を弱め、強硬派を強めてしまいかねない」。「脅威論」は「怖れ」の姿勢を反映したものだと感じる。

西崎文子氏「外交不在の問題を、防衛軍事戦略の問題にすり替えるような発想は、日本を含めたアジア諸国の排他的ナショナリズムを刺激するばかりでなく、軍事の論理が政治に優越するような社会へと私たちを導きかねない」(朝日新聞「耕論」)これも共感する視点。

AHではあらゆる「脅威」を手放すことができると考え、「無防備の中に安全がある」と言う。これを物理的なレベルでとるとすぐに反証があがってくるが、心の姿勢のレベルでとらえれば、現実的にとても効果的だと感じている。冷静なリスク計算もその上に成り立つものだからだ。