政権与党とメディアと野党

本日、「愛川欽也のパックインジャーナル」に出演しました。

安倍内閣支持率低下を中心とした国内政治の話題、イラク増派をめぐるブッシュ対アメリカ世論、ゼネコンの談合問題、米朝会議、「納豆」データ捏造問題、と、それぞれが番組全部を費やしても良いようなテーマばかりでした。

今日はかねてから注目していたニューヨーク市立大学の霍見芳浩教授ともご一緒できて良かったです。ハーバード大学でブッシュ大統領を教えた経験のある霍見先生は、政権誕生当初からブッシュ政権を一貫して批判されています。学生時代のブッシュ氏が「人が貧しくなるのは、怠け者だからだ」と言っているのを聞いて、人間としての浅さに愕然としたそうです。

今日のテーマは多様でしたが、ほとんどのテーマを貫く一つの大きな論点が「メディアのあり方」だったと思います。

ここのところは事務所費等をめぐる「政治とカネ」問題が連日報道されて、またまた政治のイメージを下げているのですが、私は「おなじみの違和感」を覚えています。何についてかと言うと、閣僚など政府の中枢にいる人たちの疑惑と、野党である民主党の疑惑が、全く対等か、あるいは、民主党の方が問題であるかのように報道されているのです。民主党の方が問題であるという根拠は、「自分たちが襟を正さずに、政府与党を攻撃できるか」ということのようですが。

実はこの同じパターンで、過去には年金騒動で菅さんが代表辞任に追い込まれたこともありました。

政府与党には、二つの役割があります。
一つは、公権力を持つ政府としての役割です。この場合、対立する相手は、権力の行使を受ける国民ということになります。
もう一つは、与党という政党としての役割です。この場合、対立する相手は、取って代わり得る、野党という政党になります。

国民、そしてその木鐸たるメディアは、二つの目を持つ必要があります。
一つは、公権力を監視する目です。これは、自分たちに権力を行使する相手を見る際に、絶対に必要な目です。
もう一つは、政権を選択する目です。自民党が良いのか民主党が良いのか、二つの政党を比較する目です。

後者においては、自民党と民主党は対等ですから、「自民党もどうしようもないけれども、民主党もだらしがない」という議論は成立します。両者の政策や政党としての体質は、どんどん比較すべきです。

でも、前者については、あくまでも公権力対国民なのです。権力を監視する際には、野党もその一つの道具として監視に参加すべきなのです。

私はこちらの要素がすっかり忘れ去られているような気がしてなりません。

今朝の朝日新聞の朝刊の社説は、1つめが「いくら徳目を説いても」と、疑惑に対処できていない安倍首相を批判し、2つめが「今度は小沢氏に聞きたい」と、さらに疑惑が残っている民主党を批判しています。両者が対等に論じられているところに、違和感を覚えるのです。

「民主党が政権交代可能な政党として認識されている証拠」などとおだてられることは簡単ですが、政党対政党という軸しか認識していないということになります。

民主主義社会では、市民は公権力をきちんと監視する義務がある、ということが忘れ去られてしまうのは危険なことです。

こういう風潮づくりに貢献しているのは、メディアも大きいですが、当の民主党もそうだと言えます。よく、「対立路線か、対案路線か」が党の路線の争点になっていますが、この二つを対立する二つの概念のように捉えているところがそもそも間違っていると思います。前述したように、公権力の監視と、政党間の競争というのは、二つの異なる軸なのですから、それぞれにおいて役割を果たせばよいのです。もちろん、前者においては、国民と共に公権力を監視する「対立路線」をとればよいわけですし、後者においては政党として自民党と競争する「対案路線」をとればよいだけの話です。

「対案路線」だけが政権交代を可能にする、という思い込みは民主党がここのところかかっている一種の病気のようにも思います。

今日のパックインジャーナルでは、「メディアは与党に厳しく、野党にちょっと甘いくらいでちょうどバランスが良いのだ」と皆さんがおっしゃっていたので、安心しました。

メディアと言えば、年末年始滞在していたマレーシアの英字新聞では、フセインが処刑された日の記事で、「我々は、アメリカがイラクに侵略してからもたらされた悲惨な被害を忘れてはならない」と書いていました。毎日のように「アメリカがイラクに侵略」という表現を読んでいる人たちと、何となく小泉・安倍路線を支持している日本人とでは、この問題に関する認識が異なるのも当然だろうと思いました。