衆議院憲法調査会
(2004年4月15日)




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日本国憲法に関する件(科学技術の進歩と憲法)


☆議事録全文はこちら
 
○水島委員

  民主党の水島広子でございます。
 木村先生、本日はお忙しいところ貴重なお話をいただきまして、本当にありがとうございます。
 インフォームド・コンセントの木村先生と「幸せなら手をたたこう」を作詞された木村先生が同一人物であるということを私は本当に最近まで存じませんで、非常に驚いておりますけれども、そんな木村先生らしい、愛と知識に大変あふれたお話をいただけたと本当にありがたく思っております。
 今、中山会長が全般的に大変重要な御質問をしてくださいましたので、私もそれを踏まえまして、三十分いただきまして質問をさせていただきたいと思っております。
 木村先生がこのバイオエシックスの世界に入られたきっかけとなったのが、枯れ葉剤の被害であったということでございますけれども、それにつきましては、今もまた劣化ウランなどで同じことが繰り返されているわけでございます。
 これは質問ということではなく、ぜひ、きょう御出席の委員の皆様にも十分な関心を持ってこの問題を見詰めていただきたいと思っておりますし、私は、こういった問題が今なお続いている、その枯れ葉剤の被害が、結局、今なお毎年十万人もその被害を引きずった子供が生まれているというような状況でありながら、また同じことを繰り返そうとしているというようなことについて、まだまだ社会的な議論が少な過ぎると思っておりますので、ぜひ、会長を初め皆様も御協力をいただきたいと思っております。

 さて、質問に入らせていただきたいと思いますけれども、まず最初に、バイオエシックスが扱う領域ということについて少し確認をさせていただきたいと思います。
 大体、先生のお話を伺ったところ考えますに、一つは、今現在だれかの尊厳に抵触するような問題もそこに含まれるでしょうし、また、将来に向けての問題をはらんでいるもの、つまり、将来何らかの尊厳を脅かしていく可能性があるもの、そういったことが、時系列として考えると守備範囲になるのかなというふうに聞きました。
 またもう一つは、命、これが、人間の命にとどまらず動物の命も含めてというふうに先ほどお話をいただいたわけですけれども、逆の観点からしますと、これは、命そのものにとどまらず、人間の価値観であるとか、またそれぞれの人がいろいろ大切にしているもの、そういった部分も当然守っていくものとして含まれるというふうに理解させていただいてよろしいでしょうか。
    
〔会長退席、仙谷会長代理着席〕


○木村参考人

 そのように御理解していただいて結構でございます。

○水島委員

 ありがとうございます。
 そしてもう一つ、基本的な点でございますけれども、先ほど先生は自己決定というのがこのバイオエシックスの中でのかなり根本的に重要な考え方であるというふうにおっしゃいまして、私も本当に大変重要なことだと思っております。
 その一方で、先生が先ほど御紹介くださいましたように、広く一般市民も巻き込んで社会的なガイドラインをつくっていくということも、これまた重要な作業であるわけでございますけれども、これらの領域におきましては、自己決定の結果、自分が自分の尊厳を守るためにはこれが必要だと考えたその結論と、社会的なガイドラインが要求しているものが相反するということが往々にしてあると思います。
 このあたりの考え方というのは、どのように整理したらよろしいんでしょうか。

○木村参考人

 これは大変に重要な御質問をいただきまして、感謝にたえません。
 きょう、先生方の机の上に配付されてあります資料をちょっとごらんいたただきますと、そのことが今御説明できるかと思います。
「生命操作の時代」という三ページばかりのプリントがございますが、これは「看護に生かすバイオエシックス―よりよい倫理的判断のために」という本の中からとったプリントです。
 ただいまの水島先生の御質問にお答えする形で申し上げますと、これの二十ページ、つまり三枚目の表I―2「バイオエシックス形成の社会的要因と問題点」。
これは私がつくり上げてきましたバイオエシックスの社会的な背景になるわけですけれども、この3のところをごらんいただきますと、「個人主義を超える発想の必要性―個人と社会・公共政策の問い直し →グローバルな視座と未来への責任」。
水島先生の最初の質問にも未来という言葉が出てまいりました。

 確かに、自己決定ということはバイオエシックスを考える場合の基本的原理の一つではあります。
これは譲ることができない原則なんでございますけれども、にもかかわらず、パブリックポリシー、先ほどもちょっと問題提起のところで申し上げさせていただきましたが、私たちが個人で考えている、いわば非常にインディビジュアリスティックなそういう発想を超えて、個人と社会、パブリックポリシーをどう問い直していくか。
 例えば、臨床治験その他をめぐって、医療側には技術がある、そしてまた薬剤がある、患者も同意している、それでどうしてやっちゃいけないの、自己決定だからいいでしょう、こうなりがちですけれども、そうではなくて、やはり国全体として、どういうポリシーで、どのようなシステムが必要かということがあるから、パブリックポリシーとしてのガイドラインができるわけなんですね。
 ですから、以前でしたら、例えば生体部分肝移植のときもそうでしたけれども、百万人といえども我行かんと、どんなに反対されても私は医師としての責任においてこれをやるというような形で、生体部分肝移植が最初島根医科大学の裕弥ちゃんのケースで行われたわけですが、そういうことではなくて、やはりそれをやるための社会的なシステムづくりということが基本的には大事になってくる。
そういうことを私は言いたいので、先生のおっしゃった意味での自己決定と公共政策との兼ね合いというのは大変に大きい問題になるというふうに思っております。

○水島委員

 つまり、何か社会的に大体の枠組みとされるようなガイドライン外のことをもし個人が求めるようなことがあった場合、それは当然、それを遂行していく上での社会的なサポートシステムもないであろうし、それに関しては余りにもリスクも高いというような観点の御意見であるのか、ちょっとそこのところをもう少し整理させていただきたいんです。
 つまり、これはあくまでもガイドラインであって、当然将来への責任などを考えればこのガイドラインの枠内でやっていくことが望ましいという、恐らく価値観の最大公約数的な部分がガイドラインとなっていくのではないかと思っておりますけれども、その枠外というのをどう扱っていくかということについて、これを例えば法律として定めてしまって、それが違法なものとして罰していくというようなスタンスが正しいのか。
あくまでもガイドラインとして持っておいて、それより枠外のことは個人が本当に全面的に自己責任を負う、リスクが高いということも承知でやっていくというような考え方が望ましいのか。
 このバイオエシックスの領域では、それはどうなるんでしょうか。
物によってその二つを使い分けるというようなことになるんでしょうか。

○木村参考人

 これも大変に重要な御質問をいただきましたが、先生のおっしゃるように、やはりガイドラインはガイドラインで、きちんとした法律があった方がいいという説もアメリカ、ヨーロッパ諸国ではございますね。
 ただ、専門的な学会で、例えば代理母の出生その他については認めないというガイドラインを学会で出しておりましても、やる人が出てくるわけですね。
そういうときには、これは、バイオエシックスの立場からは、学会の制裁ということによる会員資格の剥奪というようなことを含めて極めて厳しい制裁がありますが、しかし、医師免許が剥奪されるわけではないので医療行為は継続できるんですね。

 私の考えとしては、恐らくは、ガイドラインという形でやっていきますと、日本のような状況では非常にフレキシブルになりかねないのできちんとした法律をつくった方がいいというのが私の考え、これは、法律が専門の立場から申し上げますと、そういうふうになるというふうに私は考えております。

○水島委員

 先生がお考えの法律にした方がいいというのは、かなりぎりぎりの問題というか、かなりいろいろ議論が分かれる中でも、恐らく、先生として、この一線を踏み越えてはいけないというところを法律にしたらというような御意見かなと伺いました。
 その場合に、先ほども、一般市民を巻き込んで、公開された状態での議論を経てガイドラインをつくっていくということ、その手法は本当に私も正しい考え方だと思っておりますし、万事においてそうすべきだと思っております。
 その一方で、このようなきちんとした議論、討論を行っていく場合に、どれだけ十分な情報が与えられているかということが結局その議論の性質を決めていくというようなところもございます。
私も時々、国会で議論をしておりまして、お互いに持っている情報がこんなに違うのに感情的な議論をしていても仕方がないのにと思うようなときもあるわけでございまして、やはり十分な情報を与えられた上で議論していくということにこそ意味があるのではないかと思っております。
 そのような中で、特にこのようなバイオエシックスにかかわるような問題につきましては、もう少し知識を持っているだけで、また考えが百八十度変わり得るようなことも確かに中にはございますので、そのような情報提供をどのように行っていくかということは非常に重要だと思っておりますけれども、その情報提供をどのように担保していくかということについて、何か先生のアイデアがございましたら教えていただきたいと思っております。

○木村参考人

 これは大変難しい問題ですが、先生が何回か繰り返して使われました言葉で、市民を巻き込んでやっていくのは大変結構であるという御指摘をしていただきましたが、これは巻き込んでではないんですね。
それは、専門家の学会があり、あるいはれっきとしたいわば官公庁のシステムがあって、そういう中で市民を巻き込んでやりましょうという発想ではなくて、バイオエシックスがつくり上げられてきたのは、むしろ市民の側からの、自分の命の情報を、きちんとそれを持って、いわば自分がそれなりに覚悟していかないといつの間にか命は消えてしまう、殺されてしまう。
 これは、御存じのように、当時の世界的な状況が、少数者の人権を守る、コンシューマーの権利を守る、あるいは患者の権利を守る、そしてまた、学校教育の中での学生のイニシアチブを明確にするというような、世界的な大きなレベルでの、グラスルーツレベルでの異議申し立ての中でバイオエシックスは形成されてきたというふうにして私は理解し、かつ展開してきたものであります。
巻き込むのではなくて、むしろ市民がイニシアチブをとった展開であって、その中でその運動が、これは、一九七〇年代の反戦ベトナム運動の中に、つまり、情報を十分に出して、そして、自分の命にかかわる戦争に関連していく、かかわっていくというようなことから出てきた問題なわけなんですね。
 ですから、そういう意味では、これは、情報公開法というのはそれからできるわけですね、日本でもいろいろな形で今情報公開を求めて制度的に整備が進んでおりますので、そういう形での整備を推進していく。
特に、きょうのこういうところも含めて、政府の政策過程へ国民が直接、間接に参加できるようなシステムをいわばきちっとつくっていくというところに非常に大事なポイントがあるというふうに私は考えております。

○水島委員

 ありがとうございました。
 今ので非常によくわかりました。
つまり、当事者が、むしろ自分の当事者としての意識を何とか形にしたい、解決してもらいたい、そういうことで向かっていくということで、勘違いが今解決されました。
 さて、そうでありますと、ますます、自分が当事者になったときに、ちゃんとそのような形で自分の意見を表明していけるのだとか、それがまた世論を形成していくような力を持ち得るのだというようなことも含めまして、こういった問題を、先ほど、中山会長はむしろ命にかかわる教育ということで教育を取り上げられましたけれども、それも含めまして、やはり、自己決定、また自分の意思の表明、またこういう自分にかかわることについては自分がちゃんと情報を持って自分で選んでいくことができるのだというようなことを、かなりこういう基本的なことを教育の中で教えていく必要があると思っておりますけれども、そのあたりについては逆にどういうアイデアがございますでしょうか。

○木村参考人

 先生のおっしゃるとおり、自分の命を自分で守る、そして、いろいろな形で命を自分で守るんですが、それを支え合うというプログラムを学校教育の現場でつくり上げていくことが大事だとかねがね思っているのですね。
 先ほど申し上げましたけれども、単に教科書を勉強するというだけではなくて、いろいろな課外実習を含めた、例えば臓器移植のセンターへの訪問とかあるいは病院――私、ちょっとした小さい事例で申し上げますと、私の息子が手術をすることになりまして、地元の病院に行きました。
ハーバード大学のあります、地元の病院でしたけれども、チルドレンズホスピタルというところです。
 病院に行きますと、御両親を含めて、この病院というのはどこからの予算でどういうふうに成り立っているか、そして、どういう人がいてどういう働きをしているかというようなことを、子供たちを集めて、まるで社会科の授業のように説明があって、そうして、病室を見て歩いて、最後にレストランに行って、アイスクリームがありますよというような話をいろいろするんです。
 何かそういう学校教育の現場が、学校のいわば建物の中だけじゃなくて、地域のコミュニティーの中で、病院とかあるいは一般の企業だとか会社だとか銀行だとか、そういうところとの連携を保ちながら、例えば、病院に入るときには、電話を、ちゃんと番号を置いていってクラスの友達がかけられるようにしなさいとか、病院にだって電話をどんどんかけるというような、日本の学校で余り行われていなかったような、そういう組み合わせの教育の必要性、そういうものが非常に大事になってくるのではないかと。
 恐らく、これはやられていないわけではないんですね。
学校によっては、日本でもかなり最近いろいろな形でやられていますが、そういう形でのダイナミックな教育の展開が、特に命の教育の場合には必要になってくるというふうに思います。

○水島委員

 先生のお話、本当にすべてもっともだとうなずいて伺っていたんですけれども、一点だけちょっと首をかしげた箇所がございまして、ちょっとそこについて、もう少し御説明をいただきたいと思うんです。
 先ほど、戦争以外のジェノサイドというような部分で一つ、中絶の話を取り上げられました。
これはやはり、戦争、いろいろなジェノサイドがある中で、それらの何かの意図なりなんなりを持っての他人を攻撃するジェノサイドというものと、女性が自分の心と体を傷つけて、やむなく最後の手段として選択しなければならない中絶というものは、やはりちょっと同列には論じられないのではないか。
もちろん、そこで失われる命としては重みは同じだと思います。
ただ、そこにかかわる当事者の立場ということで考えますと、やはりそこの一くくりの中に入れられるのはどうかなというふうにちょっと伺っていたわけでございます。
 まず、この人工妊娠中絶、私もこれは決して、日本の法律で今当然確保されてはおりますけれども、先ほど先生は、法律があることでモラルがついていくとおっしゃったんですが、中にはそういう法律ももちろんあると思います。
例えばセクシャルハラスメントなんというのは、法律ができたからようやくみんなの意識がそっちを向いたなんといういい効果があったわけでございますけれども、この中絶に関しては、やはり、やろうとすると、本人にとって、もう体も大変傷つきますし、心の傷も、その後恐らく一生引きずるようなものがある、個人差はあると思いますけれども。
そういった、本当に最後の手段としてやむなく選ばざるを得ないというのが多くの場合の実態ではないかと思っております。
 そういった点も踏まえまして、この問題、どういうふうに先生がとらえていらっしゃって、また、我々はどういうふうに考えていくべきなのだろうかということをちょっと、もう少し御説明いただきたいと思います。

○木村参考人

 これはもう水島先生から大変に核心を突いた御質問をいただきまして、もし私が人工妊娠中絶をジェノサイドだと議事録の中で発言していたとしたら、それは間違いなんです。
そういうつもりで言ったのではなくて、アメリカのバージニアのカトリックの方々が、ゼネラル・ダグラス・マッカーサーについて、あなたはジェノサイドゼネラルだと言われるようになるよということを言ったんですね。
そういうことからいうと、人工妊娠中絶の件数が極めて多く、日本の人口の増加にもある程度影響を与えたというカトリックの人たちの考え方から見れば、ジェノサイドというふうに考えられる可能性もあるんじゃないかということを言ったわけです。
 私自身はそういう考え方には反対です。
人工妊娠中絶がジェノサイドなんて思ってもいません。
それは個人の非常に厳しい、苦しい、悲しい決断でありまして、アメリカの場合にも、これはプライバシーの権利、日本の場合にはこれは、私は現在の優生保護法には反対ですけれども、母体保護法になってしまいましたけれども、あくまでもメディカルインディケーションなんですね、医療側の判断による。
事実上はそうでないと言っているんですけれども、女性のいわばみずからの決断を尊重するというやり方の立法になっていないんですね。
 この点につきましては恐らく水島先生も同じお考えかと思いますけれども、私は、女性の生命、身体についての最終決定権を女性が持っているという立場からすると、これは、やっていいというわけではなく、それが処罰の対象になるというようなことであってはならないと。
選択権の一つとして、これは基本的に女性の判断にゆだねられて当然であるというふうに私自身は思っておりますので、私はジェノサイドというふうに一切考えておりません。
 誤解を与えたとしましたら、大変申しわけないと思います。

○水島委員

 大変失礼な誤解を、私も聞き違えてしまったようで、本当に申しわけございませんでしたけれども、先生がそういうお考えだということを伺って、ますます尊敬の念を深めるわけでございます。
 きょう、本当に、御出席の委員の皆様もいらっしゃいますので、ぜひこの機会に改めて申し上げておきたいと思いますけれども、今、この堕胎ということ、中絶ということに関して、政治の場でもちょっと議論が混乱しているなというふうに思っております。
 これは、当然、今、立法としては女性の権利としての枠組みの立法にすべきだ、いわゆるリプロダクティブヘルス・ライツの枠組みの中にこれを持ってくるべきだという議論は正当な議論だと思っておりますけれども、だからといって、女性が決して喜んで中絶をしているという現実はないのだということをぜひ御理解いただきたいと思っております。
 これはあくまでも本当に究極の最後の選択であって、そのようなことにならないのが一番いいに決まっているわけであって、また、中絶をしたことによって責められる女性もいるようでございますけれども、だれよりもやはり本人が一番傷ついているわけですし、場合によっては、それがその後ずっと体に大きな障害を生じてしまったり、時には命の危険にもつながるということにもなる。
それほどのリスクを負ったものでございますし、実際には、レイプの被害に遭ったりとかいろいろな事情によって、本当に最後のこの手段を選ばなければいけないという現実がございますので、議論をしていただくときには、ぜひそういった現実を踏まえて御議論をいただきたいとお願いを申し上げておきたいと思います。
 また、特にこの中絶の議論をする場合には、アメリカでもこれはもちろん、国を二分するような大きな議論になっているというふうに聞いておりますけれども、例えば、そこで中絶をしなかった場合に、生まれてきた子供をその親以外の大人がちゃんと責任を持って育てることができるのかとか、本当にその子にその後の人生をきちんと保証してあげられるのだろうかとか、やはり、それを議論していく上には、そのかわりになる、裏側にある議論というのが常に必要になってくると思っております。

 先ほど、先生と中山会長の議論の中でも、例えば安楽死のことを論じるときには、当然その裏側には、高齢者が幸せに暮らしていける社会があるかどうかということが、それを選択していく上での根拠として重要になってくるわけですので、もしこれをしなかった場合にはどうなるかという、そちらの部分の議論というのが、実は私も、このバイオエシックスを考えていく上でもかなり中核的な問題になってくるのではないかというふうにも思っております。

 例えば、今議論がありますのは、着床前遺伝子診断などがございまして、これは、例えばいわゆる出生前診断だったら、その子を中絶するということを選んだときに、女性が実際に中絶をしなければいけない。
でも、例えば着床前遺伝子診断であれば、実際の遺伝子操作の中で、体の外でそれを選ぶことができますので、そして、卵だけまた女性の体に戻せばいいというふうに、そういう意味では科学的に考え方が進化してきているというような、そういう今実際に議論になっているものがございます。
 このように、出生前に診断をして、その命を産むべきか産まないべきかというような議論だけが進んでいくということに、私は非常に危惧を抱いているんです。
 なぜならば、例えば、一昔前までは、ダウン症のお子さんが生まれるということになると、それは真剣にどうしようと考える親が随分いたのではないかと思いますけれども、実際には、今、ダウン症の親の会などがきちんと機能しておりまして、本当にダウン症のお子さんのかわいらしいところ、本当に価値の高いところ、そういうところをみんなで認め合いながら、本当に楽しい育児をされている。
そして、そのお子さんも当然幸せに、これはまた寿命の許す限りでございますけれども、ちゃんと成長していくことができている。

 そういう現状を見ますと、どれだけそれを支えていく仕組みがあるかどうかによってこの出生前診断という議論も大きく左右されるのだなというふうに私は現実を見て思っているわけでございますけれども、実際に、そうやって環境を整備すれば、失われなくて済む命が失われるというのは大変悲しいことだと思っております。
 ですから、このバイオエシックスというのは当然のことであるとは思いますけれども、もしもそれをしなかったときにはどういう人生が待っているのかという、そちらの議論が非常に重要だと思いまして、例えば不妊治療の技術にしましても、どうしても自分の価値観で最後までお子さんを欲しいという方はいらっしゃると思いますが、では、例えば今、子供が生まれない女性がどうなっているか。
 いまだに日本の社会には、子供が生まれない女性は一人前ではないというふうに見る空気があったり、またそれに対する周囲からのプレッシャーもかなり厳しいものがあったりということを、私も不妊の女性のサポートをずっとしてきておりましたので、そういう現実を嫌というほど見てまいりましたけれども、そういうふうに裏側の議論というのは非常に重要なことで、先端技術がいいか悪いかということというのは、むしろ本当に小さな領域の話なのではないかなというふうにも私は思っているところでございますけれども、そのあたりを総合的に見て、先生の御見解をお聞かせいただければと思います。

○木村参考人

 今水島先生から御指摘いただいた問題は、これはもう本当に大きい問題でございます。
 先生の言われた支えていく仕組みを大事にするということは、私のつくり上げてきたバイオエシックスの基本的な理念の一つです。
ですから、選択肢として、産むか産まないかというのではなくて、やはり、例えばアメリカの場合ですと、ワシントンDCで遺伝子診断を受けて、遺伝的障害を持って生まれる可能性があるというふうに仮に判断された場合に、隣のメリーランド州だったら、そういう人たちを迎え入れて教育を行う将来計画、そういうところもあるというようなことを判断して、州の居場所を変えるとか、つまり、出生前診断というのは、中絶を条件にするのではなくて、自分のよりよい、あるいは家族のよりよい生活環境を求める判断の素材にしようというような方向もまた大きくあるわけですね。
 ですから、ジェネティックディジーズのためのアライアンス、連盟というのがあって、いろいろな遺伝病が今あります。
そのいろいろな遺伝病の方々が、一体どの地域で、どういう生活ができるかというようなことを含めて、この情報交換をし合い、そしてまた、議会に働きかけて、その人たちの立法をいわばサポートするようなロビー活動もしております。
 ですから、先生のおっしゃったことに全く賛成です。
女性の自己決定を尊重する立場から、選択肢としてそういうようなことを、いわば方向性としてはあり得る。
しかし、基本的に、バイオエシックスで大事なことは、支えていく仕組みをきちっとしてつくる、そういうようなことにつきまして、先生のお考えと全く同じであるというふうに私は思います。
    
〔仙谷会長代理退席、会長着席〕


○水島委員

 ありがとうございました。
 大変心強く考えさせていただきました。
 最後に、もう時間が終わるところなんですけれども、知る権利といたしまして、私たちは、やはり、医療の現場でいけば、今、日本における大きなテーマはカルテの開示ということになっていると思います。

 これは、私たち民主党でつくりました患者の権利法という法案がございまして、その中では、医療情報というのは患者と医療者との共同作業のものである、そのように両者によって共有されるべき、当然、ですから、患者側もそれを持つべきということになるわけですけれども、そのような考え方からの法案をつくらせていただいております。
 そういう考え、恐らく先生でしたら御賛同くださると思うんですが、その中でも、やはり、私はもともと精神科医なんですけれども、精神障害のある一部分であるとか一時期であるとか、そういったとき、どうしても例外規定を設けざるを得ないような部分があるというふうにその法案の中でも考えているわけなんですけれども、そのあたり、知る権利を保障する、あるいはそれを別の形であっても担保する、そういう本当に、現実的にかなり、限界領域みたいなところにつきまして、何か先生の御意見ございましたら、時間が終わるところで申しわけないんですけれども、一言いただければと思います。

○木村参考人

 先生がただいま御指摘の、特に、心に病を負ったそういう方々のための権利をどのようにして守っていったらいいのか。
実は、バイオエシックスというのは、そのような方々をサポートするために生まれたという側面もあるんですね。
 ワシントンDCにあります世界で最大のセント・エリザベス精神病院という病院がございますけれども、そこは、壁に張ってあるのは精神病患者のための権利の宣言、これが1970年代の後半にできています。
 私は、学生たちを連れてそこによく行って、患者の権利担当官と話すわけですけれども、基本的に、精神病者の方々の権利を、その人たちの考え方に沿った形で認めていく。
しかも、その場合に、家族の方々も含めて慎重な話し合いをするというような事柄を実践していて、そして、大きな被害が起こったということはありません。
 精神に病を持っているということが、何か全部その人の人格が否定されるわけでは決してなくて、これは先生の御専門でございますが、たまたまうちの中でたき火をしたとか、そういうことがいろいろな問題を起こすということになるわけですけれども、私が行きましたときには、ベトナム戦争の従軍によって心に病を負った方々、よだれを流しながら麻薬のために歩いている方々、危害を加えてくるわけではないわけですね。
レーガン大統領を撃った方もその隣の病棟に入院していたわけですが。
そういう方々を中心に、ノーマリゼーションといいますか、コミュニティーの中でケアしていくような方向性を考え出していこうということをアメリカでは現実にやっておりました。
 それを踏まえて、日本でも、1980年代の初めに、これは初めてですけれども、患者の権利の担当の職員というのを長野県の安曇病院というところでつくりまして、ボランティアがいっぱい行って、私もアメリカからのボランティアとしてその精神病院に参加して、そして、患者の権利のためのいわばガイドラインをつくるということをやってきました。
そのそばにあります佐久の総合病院では、若月俊一先生が直ちに、一九八〇年代の初めですけれども、患者の権利宣言というのを出しました。

 私は、そういう意味から考えますと、そういう方々の権利を守る方向に、その人たちを抑え込むのではなくて、大事にするというような方向で、心に病を負った方々の患者の権利宣言というのを日本でもつくり上げていく必要がある。
これはついでながら言いますと、患者の権利宣言というのは日本でも私が唱えてきたことの影響を受けて出てきたものであるというふうに私は自負しておりますので、そういう点で、先生の政党でもこれを取り上げていただいたことに、ここで改めて感謝申し上げたいというふうに思います。
どうもありがとうございました。

○水島委員

 どうもありがとうございました。






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