不登校、モラル教育に関して○水島小委員 水島広子でございます。 本日はお忙しい中、鳥居先生、岡村先生、本当にありがとうございます。 限られた十分という時間ですので、現状の教育の中での問題と教育を受ける権利との関係について、何点かお伺いをしたいと思っております。 まず第一点は、これは国連の子どもの権利委員会からも指摘されていることですけれども、今の日本における不登校の問題がございます。 これは、国連の子どもの権利委員会も、学校忌避の事例が相当数に上ることを懸念するものである、そのように表明しているわけでございますけれども、まず、今の日本にこれだけ不登校の子供たちが多いという現実と、その子供たちにとっての教育を受ける権利との関係、両先生がどのようにとらえられているかということをお伺いしたいんですが、鳥居先生からよろしくお願いいたします。 ○鳥居参考人 はい、ありがとうございます。 今資料を出しますので、ちょっとお待ちください。 先ほど御紹介いたしました、一九七九年にサッチャーさんが総理に就任されて、八〇年から取り組まれた教育改革でサッチャー首相が訴えられた中に、実は不登校の問題が取り上げられています。 サッチャーさんはなぜ不登校が起こるかの直接的な原因をいきなり述べたわけではありませんが、したがって、不登校という現象とこれから申し上げるサッチャーさんが指摘した問題との間の関係が直接つながっているかどうかははっきりしないのですけれども、サッチャーが取り上げた問題は、一九八〇年のイギリスというのは、一九四四年法に基づいてずっと教育というものをやってきた、つまり一九八〇年に至ってもなお根拠法は一九四四年法だった、法律が古過ぎる、その法律が古過ぎることがどこにあらわれてきたかを彼女は列挙したわけです。 その中で、例えば教育委員会が、地方教育委員会が中心の制度になっておりまして、地方教育委員会が何でもかんでも決めるために、中央政府がこういう方向で教育の方向を決めたいと考えたときに、それが国の隅々まで浸透しないという問題がまず第一にあります。 二番目には、労働組合が非常に波の激しい時代をずっと経過してきておりますので、教員組合がもっと学校の教育に集中してほしいということを言っています。 それから三番目は、子供の自由ということをイギリスは言い過ぎたのではないか。 子供たちが好きなように学ぶ時間というのを、実はイギリスでは当時やっていたんですね。 それが子供たちの教室における不統一性を生んだのではないかということを言っています。 まだほかにも幾つかあるんですけれども、そういった一連のことを挙げた上で、サッチャーさんは、たくさんの諮問委員会をつくりまして、検討を命じています。 例えば、ガールズ・アンド・ガールズ・オンリー・スクールズという委員会ができました。 何でもかんでも男女共学ではなくて、女子高等学校、女子中学校というものの存在意義をもう一度見直してはどうかというふうなこともその委員会で諮問を受けて審議が行われているんです。 そういったようなたくさんの改革を実行する中で、彼女はその問題に取り組みました。 私は、これは日本の今の問題を考える上で非常に参考になるものをたくさん含んでいると思っています。 ○岡村参考人 不登校がなぜ起こるかということについては、多分、人それぞれの理由があって、一般化してというか、まとめて言うことはできないと思うんですね。 ただ、およそのことは大体理由があり、見当がつくんだろうというふうに思うんです。 きょうの資料、せっかくつくってきた、資料にもならないんですが、一番最後の英文です。 五枚目です。 教育を受ける権利を行使するというのはどういうことだろう。 その一、ある人の文章をそこに紹介しておきましたけれども、学校というのは、次のような、無前提の格率みたいなものですね、公理によってつくられた制度なんだ。 どういう公理かというと、教えられたその結果が学習なんだ。 つまり、教師がしゃべったことを受け入れることがラーニングだ、そういう考え方です。 これが一つ。 それからもう一つは、そういう学校教育を長い間受けていくと、いろいろな知恵がつきます。 つまり、学校で、ある意味でいえば、つくったところの知恵のことをインスティチューショナル・ウイズダムというふうに言うんだろうと思うんですけれども、ある意味では学校を受け入れた子供たちというのは、学校そのもののあり方そのものを受け入れてしまうという。 だけれども、実際には、学校に行かなければ世の中で困るかどうかということについて言えば、例外はいっぱいあるわけですよね。 大変卑近な例かもしれないけれども、学力は低いけれども計算力は高いとか、計算高いかな、何かそういうのは随分あるから。 もう一つだけです。 三番目、見てください。 学校というところは私たちに、教授、先生がしゃべるそのこと、インストラクション、そのことが子供たちの学ぶという学習を生み出すんだ。 それから、学校があるということが、学校教育の必要性、あるいは要求というものを生み出しているんだ。 そして僕たちは、あるいは我々が一たん学校というものの必要性を学んでしまえば、我々は社会に出ても、ある意味でいえば、ここはおもしろい言い方だと思うんですけれども、シェープ・オブ・クライアント・リレーションシップ、つまり、医者と患者の関係でいえば、いつでも患者のような形でその力を持っている人たちに対して態度を示すというか、つまり、そういう意味でいえば、学校というのは大変子供たちにとって窮屈だったということだろうと思うんですね。 もちろんずるで休む子供もいるかもしれないけれども、僕はかなり個人的にもそういう子供たちとつき合っていて、それから定時制の大変ワルと言われる子供たちともつき合ってみて、やはり僕も余り行きたくなかった、そういう思いがあったから、だから逆に言えば、学校へどんどん喜んで行くという状況に今我々の社会はないということの一つのあらわれだ。 だから、逆に言えば、基本を変えてじゃなくて、本当に子供たちが行きたくなるような、そういう教育実践というものをある意味では実現していくことが僕たちに課されている。 自由にならないことかもしれませんけれども。 実は、これは来年度ですか、東京都の八王子は、登校拒否なり不登校を起こしている子供たちだけを集めた学校をつくるというような、そういう政策、難しい学校だなと思いますけれども、やっています。 したがって、みんな金太郎あめのような、そういう一律の性格を持った学校でない学校があちこちにできれば、こういう子供たちは違ったところで自分の力を発揮する可能性を見つけるんじゃないでしょうか。 ○水島小委員 はい、ありがとうございます。 また、次にお伺いしたいんですけれども、今よく日本人のモラルの低下ということが言われておりまして、そのモラル教育とかそういうことが話題になっているわけでございます。 ただ、このモラルが低下するというのは、私は、やはり他者の権利の軽視であって、他者の権利について学ぶ機会が与えられていない、他者の権利についての教育を受ける権利が与えられていない、そのようにも解釈できると思うんですが、そんな中で、人間が多様であることをちゃんと尊重できるような教育、あるいは、先ほど岡村先生がおっしゃったように、拉致被害者の当事者を連れてきて、その現場を知らせるような、そういう教育、あるいは、日本の法律の中で、例えば、非嫡出子の差別によって生まれながらにして差別されてきた子供がどういうふうに感じてきたかということをその子の声を通して聞く教育、そのように現場感覚のある人権教育というのも非常に重要だと思って、この人権教育についても国連からも懸念が表明されていたと思いますけれども、このモラルの低下と、他者の権利を学ぶ機会が非常に今の教育の中で少ないということについて両先生がどうお考えになるか。 また、モラルの低下を防いでいく、モラルの高い子供たちを育てていくために他者の権利というものをどうやって教えていくか、それぞれの先生のお考えをお知らせいただければと思います。 ○鳥居参考人 モラルの低下のかなりの部分が、今水島先生のおっしゃる他者の権利ということを考えることができなくなっているということだということについては、私も全く同感であります。 ただ、その前に、モラルの低下という現象全体を眺めてみますと、他者の権利の問題だけではなくて、その他さまざまの問題があるように思うんです。 少し言い過ぎかもしれませんけれども、モラルの教育の原点は、子供が母の胎内にいるときから始まると言われています。 そして、これも有名な、「人生で一番大切なことは、幼稚園の砂場で教わった」という題の本がありますけれども、あの本の冒頭に書かれていることをずっと読んでみますと、ほとんど我々がモラルという言葉であらわしている事柄が全部出てきます。 そして、それらは幼稚園で教わったということが強調されています。 私たちは、改めて今、水島先生のおっしゃる、モラルというのが一体どの範囲であるかということについての社会のコンセンサスをもう一回再構築すべきではないかと思っています。 その再構築すべきモラルの範囲というのは相当広いものであって、その中に今おっしゃる他者の権利も含まれているというふうに思います。 今、他者の権利についてのみ限定してお答えを申し上げますと、私たちは、他者の権利ということは、自分自身が他者とのかかわりにおいて感ずる喜びということもまた含まなければならないというふうに思いまして、そのことを教える場は、まず何といっても家庭と、普通の成長過程における、子供それぞれの世代における社会的生活であるというふうに思うんです。 そのようなことを実現する場は、したがって家庭、それから幼稚園、電車の中、バスの中、あらゆる場所だと思います。 そういうところでは、学校では絶対にできないモラル教育を私たちはできるんです。 それをやる場所をやはり私たちは社会全体として構築する、その雰囲気をつくる。 その雰囲気をつくる場としては学校の先生も重要な役割を果たすと思いますけれども、何といっても、繰り返しになりますが、家庭であり社会であるというふうに思っています。 最後に、同時に、それをさらに学校が補強するという役割を果たすんだと思っています。 ○大出小委員長 岡村参考人。 時間が限られておりますので、簡潔にお願いします。 ○岡村参考人 はい、一言で。 最近というか、この五年ぐらいですが、僕はあちこちで一人称で語るということを盛んに言ってきました。 一人称で語るというのは、私はこう思うということだろうと思うんですけれども、でも、どんな人でも一人称で語る能力は持っているんですよ。 だけれども、その能力がイコール権利にならない。 つまり、おまえ黙ってろと学校で徹底的に言われちゃう。 そうすると、一人称で語る能力を権利として行使するということがどんなところでも行われる必要があるだろう。 その場合に、僕はこう思うよ、僕はそうは思わないよという物の言い方の片一方には必ずあなたがいるんですね、もう一人の一人称がいるんですね。 だけれども、家でも、お父さんとかお母さんが、あなたまだ子供でしょう、黙っていなさいというようなことで、一人称で語る権利そのものを育てようとしないということだろうと思います。 これは、学校教育全体にもかかわるような、そういう問題だと思いますけれども、一人一人が自分で物を言えるということです。 そういう力をつくるという、それに尽きるような気がします。 失礼しました。 ○水島小委員 大変共感できる御意見ありがとうございました。 |