「平和ぼけ」とは何だろう。それは「名誉」で戦争を考えたり、戦争ゲームの快感を現実にダブらせたりする、おそろしい「ぼけ」のことだろう。つまり、これは好戦的な人たちに適用されるべき言葉で、戦争の悲惨さを知り抜いて平和を望む人たちとは何の関係もない言葉だ。
人間が被りうる最大の被害は戦争、というのは100%納得できる。精神科的に見れば、ひどい目に遭ったときに支えてくれるのは周りの人たち。しかし、周りの人たちにも余裕がなく、誰が敵か味方かがわからない。また、虐待研究を見ても、一定程度以下の経済レベルでは虐待が頻発。
私はかつてサンデープロジェクトに出演したとき、「仮に攻撃があったとして、それに反撃するのとしないのと、どちらが多くの命を奪うのか、検証すべき」と発言して、大変なバッシングにあった。でもこれはとても基本的な疑問だと思う。国際政治も発展し、調停も可能になった今。
もっと私たち「人間」という種を信じられないのか。家族やコミュニティを大切にする人間を。そして、疎外されている人たちを癒やす方法を考えられないのか(私はAHを通して実行しているつもりだが)。それが人間の未来を左右すると思う。
政治的に考えれば、私はもちろんベトナム戦争に米国が乗り出したことに反対だ。しかし、そこで傷つき生還した米兵がPTSDを病み、自殺したことについては、精神科医として大変な問題だと思う。政府の誰がどれほど意気揚々と述べようと、戦争は人間に合わないシステムだと思う。
私は今までいろいろな人から「誰だって戦争などしたくない」と言われてきた(ネガティブな文脈で)。「でも」がそのあとに続いた。「戦争をしたくない」と決めたら、言い訳はいらないのではないだろうか? みんながそういう意思を持てば、交渉も本格化するのではないだろうか。
これは先日ツイートした、「怖れを手放せるだろうか?」という疑問よりも「怖れを手放したい」という決意をすることが大切、というのと同じ話。「戦争はなくなるだろうか?」ではなく、「戦争をなくしたい」という決意が大切ではないか。
私がAHの実践ワークショップで紹介している「非暴力コミュニケーション」は、マハトマ・ガンジーの思想を継ぐが、「社会から暴力をなくしたければ自分自身の日常会話から暴力をなくす必要がある」というもの。
戦争とは、恐怖、飢餓、喪失、不安、絶望、警戒心、不信、分断、その他、人間が感じられる豊かさとは全く反対のもの。それが自分個人、大切な家族や友人に降りかかることに想像力が働かない人が、「好戦的」と言われるのだろう。
「平和ぼけ」とは何だろう。それは「名誉」で戦争を考えたり、戦争ゲームの快感を現実にダブらせたりする、おそろしい「ぼけ」のことだろう。つまり、これは好戦的な人たちに適用されるべき言葉で、戦争の悲惨さを知り抜いて平和を望む人たちとは何の関係もない言葉だ。
「非暴力コミュニケーション」において必要なのは、「ちょっとした勇気」。皆がちょっとした勇気を出し合えば、どれほどこの世は生き甲斐のある温かい場所になるのだろうか。そんなことを一緒に考えられる仲間がもっとほしいです。まあ、私一人でもやっていくけれども。
もっと修復的司法の考え方を身につけたい。何にせよ、私たちがその一員であるコミュニティで、何かが起こったという認識。自分はそこに全く無関係だったということはない。それを罪悪感ではなく、つながりのために活用していきたい
(1)昨日のAH実践ワークショップで、とても感激したコメントがあった。「ポカポカとした愛をさしのべていない人は、助けを求めている人」。この見方が上から目線での評価では? という疑問が出された。
(2)それに対して参加者の一人が「怖れていないのがよい、怖れているのが悪い、というふうにすると、評価を下すことになる。でも自分だって、たまたま怖れて助けを求めていることがある。誰にでも起こること、と考えれば上から目線にもならないのでは」と。感無量。
(1)AH創始者のジェリー・ジャンポルスキーは、私がブッシュ(ジュニア)について文句を言っていたときでさえ、「ブッシュと私はシャム双生児だと思うようにしている」と言っていた。彼はもう一つの私だと。
(2)その当時は「え?」と思ったものだったし、私の中にはブッシュ的なるものなんてない、と思ったが、ブッシュが私たちの世界で成長した人であることは確か。そして、何かを分離する気持ちが私の中にあるのも事実。いろいろ考えさせられた。もちろんブッシュを肯定はしない。
私が先日「人間が受ける被害の最大のものが戦争だ」と書いたのは、俳人・金子兜太さんのコラム(朝日新聞)より。彼はトラック島の経験から、沖縄のことに鈍かったかもしれない自分を自省していた。どれほど他にひどい現場があろうと、一つの命の価値は変わらない。
私の子育ては自慢できたものではないが、反戦教育だけは徹底している。「戦争というのは、こうやってご飯を食べている時に突然爆弾が落ちてくることなんだよ」ということは、子どもたちが小さい頃から伝えている。だから子どもたちは戦争に限りなくネガティブなイメージを持っている。
非暴力コミュニケーション(NVC)の考えに従えば、戦争をなくすには政治家(もちろん非政治家も)が自らの政治的発言から暴力的コミュニケーションを除くことが必要。ここで言う「暴力的コミュニケーション」とは、評価を下す、誠実に自分の事情を述べない、相手のせいにするなど。
自分から見て「あり得ない人権侵害!」と思うときも、「人間としてあり得ない!」と暴力的に伝えれば返ってくるのは暴力的反撃だろうが、「人間同志がこのような事態になるのは悲しいと思う」と言ったらトーンが変わるのではないだろうか。暴力の連鎖を招く人間にはなりたくない。
日本の外交力が低いことは周知の事実。ここからは私の推測だが、それでもなお敬意をもって扱われてきたのは、平和を大切にする国(原爆を落とされる痛みをよく知っている国)、勤勉で人道的経済的援助を厭わない国として評価されてきたからだと思う。その評価を手放すプラスはあるのか。
戦争さえ起こっていなければ、政権の質がどうであれ、人々はそれなりに日常生活を送れる。それが、シリアなどを旅してきた私の印象。ただし、政権が仮想敵を作って仮想戦争状態にあると、人々の自由もかなり制限され危険が及ぶ。仮想戦争とは、「怖れ」そのものだと思う。
今朝の朝日新聞で読んだが、九条改憲論者だった方が、シリアで「日本人だから」と命を救われ、九条の重みを知った、というエピソードは、安全保障を考える上で象徴的だと思う。頭の中での「理想」と現実はかなり違うということだ。
私は「無防備の中に安全がある」というAHの言葉が好きだが、「我が国は戦争しない」と公言することが、自国の安全を守り、他の国の人たちからも「進むべき方向」として見られていた、という貴重な時代をどうしてわざわざ壊してしまったのだろうか。現実を知らないとしか言えない。
同時に、世界平和のためには自分の心の平和、という原則は私の生きる柱。情勢が心配だからと、自分の心の平和を犠牲にするのは本末転倒。絶望している時間があったら、コツコツと、執筆、講演、AHの活動、身近な人たちに与えることを積み重ね、暴力的でない表現を心がけたい。
それが誰に押しつけられたものにしろ、戦争放棄というのは明らかに時代を先取りしたものだ。言語も持ち、家族を大切にする人間は、戦争以外の解決手段を必ず持っている。疎外感のあるところに戦争が起こってくるのだとしたら、日本の経済貢献は平和的な方向に働き得るはずだ。
唯一の被爆国という立場も、他国から軽視されない根拠になる。これは、いろいろな国の人との交流で身にしみた。どん底を知ったからこそ、前を目指せる。「勤勉で、誠実で、平和主義の日本」。そんなブランドがあったからこそ、私は40カ国以上の国を平和に旅することができたのだ。
そんなことを考えながら、私が今加筆修正中なのが、リスペクトの本なのです。まさに今の時代にヒットすると思います。自己肯定感が低い人が多い中、その解決策が他者へのリスペクトにある、という話はものすごい朗報ではないでしょうか。6月刊行予定です。
私は戦争が嫌いです。暴力も嫌いですし、子どもとの日常生活を壊すものが全て嫌いです。自分の生育過程は決して順風満帆なものではありませんでしたが、戦争の不安がなかったことだけは感謝しています。同じだけのありがたみを、我が子にも与えたいと思っています。どうでしょう。
「これから戦争になるのなら、留学もできなくなるし何かを努力しても意味がなくなる。だからもう何もしない。どうせ死ぬから勉強しても無駄」と言う若者に出会った。ちょっと前まで言っていた「世界のいろいろな人とつながりを深めて豊かな人生を歩もう」という話はどこに。
今朝の朝日新聞で知ったこと。故・菅原文太さんは、政治の役割は二つ、一つは国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を与えること、そしてもう一つは絶対に戦争をしないこと、と演説していたそうだ。まさにぴったりくる
愛と怖れでは、結局愛が強い。怖れとは、愛を求めている人の悲鳴だから。だから私は、「戦争反対!」というパフォーマンスよりも、怖れている人たちの癒やしに力を入れている。日本人が政治にそれほど関心がないとすれば、癒やしの方にもっと関心があるかもしれない。
銃の所持が許されている社会では、例えば日本であれば「名刺か財布を出すのかな?」と思われる、背広の内ポケットに手を入れる動作が、「銃を出すかも知れない」と相手を警戒させる。自己防御のための銃も当然必要となる。不信感の満ちるそういう社会に、私は住みたくない。
「戦争をしない日本」という国際的ブランドは、まさに、「誰も銃を持っていない社会」と同じだったと思う。日本がどう振る舞おうと戦争にはつながらない、日本は戦争には荷担しない、という認識は、少なくとも軍事的には他国の信頼を得ることにつながったと思う。
今度の法案が通るということは、日本も国際的に「銃の使用が許されている国」になる、ということと似ていると思う。相手の警戒心を呼べば、自分のリスクがそれだけ高くなることは当然だと思うのだが、そんなに危険好きな人が多いのだろうか。
「戦争したいなんて人はいない」という言葉を素直に信じれば(実際、戦争は国民の経済活動と健康を大きく損ねるので経済発展上明らかに不利。私は、仮に自分が生き残ったとしても、焼け野原からの再出発はちょっとうんざり)、そのための努力をしてほしいと思う。本当に戦争したくなければ。
ルワンダのジェノサイドなど、疎外された人たちがどれほど非人間的な言動をとるかには驚かされるが、AH的に考えれば疎外とつながりは相反することなので、考えてみれば不思議はない。もっと日常的なレベルでも、攻撃的な人は疎外されている人、と見る努力を続けたい。
防犯と国際的な戦争は全く違います。防犯は警察力です。私は警察力を全く否定していないし、国連軍(私は賛成)は限りなく警察に近いものだと思う。そこまでは賛成です。もちろん国連軍はまだありませんが、安保理決議に基づくものはそれに近いでしょう。
安倍首相の会見を見た。今度の法案が成立することによって「日本がアメリカの戦争に巻き込まれることは絶対にあり得ない」と言っていた。この領域でこんな断定的な言い方を受け入れる人が多いとしたら、日本は教育失敗国だと思う。
「すでに一国で自国の安全を守れる時代ではなくなった」と首相会見。冷戦時代が仮にイデオロギー(私から見ればメンツ)による対立だったとすれば、現在は、「疎外されている人たち」が、普通に暮らす人たちの安全を脅かす時代になっている。疎外される人を減らすことが重要では。