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※以下の文章は水島広子著『トラウマの現実に向き合う――ジャッジメントを手放すということ』から抜粋したものです。

 「トラウマ体験」という現実に向き合う
  ――自分をゆるすということ


トラウマと「ゆるし」

 「ゆるし」という言葉は、トラウマ体験者の周辺に、何とも言えない存在感を持って伝統的に常駐しているものだと言える。対人トラウマを持つ人の多くが、「ゆるし」というテーマを何らかの形で考えたことがあるだろう。「何らかの形」とは、もちろん、「絶対にゆるせない」というものから始まり、「ゆるせれば楽になるのに」「未だにゆるせない私は人間が小さいのではないか」「ゆるしたりしたら自分は生きていく指針を見失ってしまうだろう」「○○のために、決してゆるしてはならない」など、いろいろな形で自覚されるのが、「ゆるし」という言葉である。

 様々な「ゆるし」の使用例の中でも、私が聞いたことのある中で最悪だと思ったのは、性的トラウマ体験を伝えた女性患者に対して「相手をゆるしなさい。ゆるさないとあなたは楽にならない」と言い放ったという男性精神科医だ。この女性患者のトラウマ症状はもちろん悪化し、それ以来その精神科医のもとを訪れていないそうだ。その男性精神科医がどこかで脚光を浴びたなどという話を聞くと、ゆるせない思いでいっぱいになり、何かのスキャンダルで失脚すればよいのに、とすら思うそうだ。彼女が別の形で再び治療を求めるまでには、長い時間が必要だった。そしてその間、彼女は自傷行為を繰り返していた。

 この精神科医の例はもちろん論評に値しないほど最悪なのだが、「ゆるし」がおかれている微妙な立ち位置を示すものでもあるので、少し考えてみたい。

 まず、「ゆるし」という言葉の意味である。その女性患者は、「相手をゆるしなさい」と言われたとき、「相手の行為を大目に見てやりなさい」という意味に聞いた。つまり、そんなことにいつまでもこだわっている自分が否定されたと感じたのだ。そして、「ゆるさないとあなたは楽にならない」という言葉からは、自分が苦しんでいるのは、どうでもよいことにいつまでも自分がこだわっているからだ、と思った。要は自業自得ということだ。

 この感じ方は、もちろん、トラウマからの回復のプロセスに完全に逆行するものである。実際に彼女にとって、その精神科医の言葉は新たなトラウマ体験となって、PTSD症状は悪化した。


対象喪失としてのトラウマ体験

 ここで改めてトラウマ後のプロセスを振り返ってみたい。トラウマ体験を一つの喪失体験(「トラウマを体験していなかった、それまでの自分」の喪失)と考えれば、対象喪失後の「悲哀のプロセス(喪の仕事、悲嘆とも呼ばれる)」を当てはめることができる。

 対象喪失後、最初は「否認」の時期があり、その次に「絶望」の時期(絶望だけでなく、罪悪感や怒り、後悔など、様々な感情が強く出る時期)があり、その時期を十分に体験すると、「脱愛着」の時期が来て、新たな対象に心を開けるようになる。トラウマ体験の場合も、「否認」→「絶望」→「脱愛着」という進み方は基本的に同じである。もちろん、それらの時期は明確に区別されるわけではなく、例えば「脱愛着」の時期は、「絶望」の時期がある程度進んだところから、ちらほらと見えてくる感じで始まるものである。もちろん、そこにも「行きつ戻りつ」のプロセスはある。

 トラウマ体験後の「絶望」の時期には「自分は絶対に立ち直れない」「相手を絶対にゆるせない」と感じるものだ。この時期には自分の「被害者性」を強く意識することになる。その時期をある程度続け、被害者性を十分に味わうと、「脱愛着」の時期に入り、トラウマ体験との距離が生まれてくる。被害者としての自分の立ち位置が微妙に変わってきて、「被害者でい続けること」への違和感が生じ始め、「ゆるし」が視野に入ってくることが多い。

 ここからわかることは、トラウマ体験からの回復のプロセスでは、常に相手は「自分」だということだ。失った「自分」を嘆き、「自分」の将来に絶望し、そして、新たな「自分」を迎え入れる、という道をたどるということである。相手は「加害者」ではないのだ。これは本書で述べてきたことと一致しており、トラウマからの回復のテーマがコントロール感覚の回復である以上、「加害者をどうするか」というのは、メインテーマになり得ない。

 もちろん加害者のことを考えてもかまわないし、加害者の行為を許してもかまわないのだが、それはあくまでも自分のコントロール感覚の回復の中に位置づけられるべきものである。「自分はもう大丈夫だ」と信頼できたときに、加害者の文脈に目を向けて、その行為を理解する気になる、ということもあるかもしれない。もちろん相手の行為が理解できた方がコントロール感覚の回復にはプラスだろう。「なぜそんなことが起こるのか」というルールがわかった方が、自己・他者・世界への信頼は取り戻しやすいからだ。しかしそれは本当に「全体の中の一部」であり、「結果として生じうること」であり、決して回復のための必要条件などではない。

 これらのことを考えると、くだんの精神科医の言葉は三重の意味で不適切である。

 一つは、「ゆるし」に言及した時期である。「ゆるし」は、「脱愛着」の時期に適した言葉であり、それ以外の時期にはかえって本人を混乱させることになる。トラウマの強度が強ければ、それだけ「絶望」の時期は長く深くなるだろうから、「ゆるし」が視野に入るのもかなり先になるだろう。性的トラウマが様々なトラウマの中でも特に深刻なものであることは臨床家であれば誰もが知っているべきことで、そんな人がまだ治療に入ったばかりの頃に「ゆるし」に言及するのは極めて暴力的である。

 二つ目の問題は、「ゆるし」に「相手」という言葉をつけたことである。前述したように、トラウマ体験は、「それまでの自分」という対象喪失の体験である。そして、「ゆるし」は、被害者性から脱しつつ新たな自分を迎え入れることと関連しており、「相手」は関係のない、内的なプロセスだ。「相手をゆるす」と言った瞬間に、それは「相手の行為を大目に見る」という意味になってしまい、鋭い暴力になってしまう。彼女がまさに感じたように、「ゆるせていない自分」への厳しいジャッジメントそのものとして感じられるからだ。


「ゆるし」という究極の選択

 三つ目の問題は、治療者が「ゆるし」に言及したことである。その瞬間に、「ゆるし」が持つ意味がすべて失われてしまうのだと思う。 

私は、「ゆるし」とは究極の選択肢の認識なのではないかと思っている。トラウマからの回復のメインテーマはコントロール感覚の回復であるが、コントロール感覚には、「自分で選べる」という主体性も含まれる。選ぶものは様々であり、最初はとても小さなものから選び始めることが多い。しかし、最後に、そして究極的に選ぶのが、「自らのトラウマ体験をどう位置づけるか」ということなのだと思う。トラウマ体験をした後の典型的な感じ方は「(自分あるいは相手を)絶対にゆるせない」「自分は永遠に傷ついてしまった」といったものであるが、それにすら、「別の選択肢がある」ということに気づくのは、何事にも代え難いエンパワーメントの体験となるだろう。

 「ゆるし」という言葉がわかりにくければ、「被害者役」と考えてもよい。 「トラウマ体験をした = 一生被害者役をしなければならない」というキャスティングを、自分自身が人生の「映画監督」になって、キャスティングをし直してよいのである。つまり、被害者役がいやだったらやめてよい、ということだ。

 ここで何よりも重要なのは、「自分が」キャスティングをし直す、ということである。くだんの精神科医のように他者が「ゆるしなさい」と言うのでは、何の意味もない。

 「ゆるし」が究極の選択肢である以上、それは他の選択肢(「薬を飲むかどうか、少し考えてみてください」「エクスポージャーが嫌だったら対人関係療法もありますよ」など)のように、提案して考えてもらう、という形をとるべきではないと思う。トラウマ体験者が自らのプロセスの中でその選択肢に気づいていくべき性質のものであり、「ゆるしたらどうですか」などと提案すると、その意味合いがまるで変わってしまうのだと思う。


自分自身を「ゆるす」ということ

 「ゆるし」というのは、トラウマ体験という「異物」の、本当の消化なのではないかと私は考えている。「異物」を消化するための最初の試みはジャッジメントである。トラウマ体験者は、あらゆる方向から、相手に、自分に、体験そのものに、ジャッジメントを下す。「トラウマ体験をした自分」ももちろん「異物」として、ジャッジメントの対象となる。対人トラウマの場合、自分自身へのジャッジメントが最も本質的なものであることが多い。

 しかしジャッジメントでは常に消化不良の状態を起こし、それが様々な苦しみにつながる。本人は、さらなるジャッジメントによってそれを消化しようとするが、ジャッジメントという手段ではいつまでたっても消化不良のままだし、苦しみは続く。

 「ゆるせば楽になるのではないか」と思うのは、そんな頃である。今のやり方には限界があって、別の消化の仕方があるのではないかと思うようになるのだ。それはどういうものかというと、「消化しようとして頑張らなくても、大丈夫なのではないか」というものの見方である。

 これはトラウマ体験の否認とは違う。トラウマを「傷」として見るのではなく、「役割の変化」として見る、というフォーミュレーションである。トラウマ体験は確かにあった。しかし、自分がそこで決定的に傷ついたわけではなく、ただ乗り越えるのが大変な変化だった、という見方である。

 これが、トラウマからの回復の本質である、「自分をゆるす」ということなのだと思う。トラウマ体験者は、「ゆるせない」と思うとき、自分の傷を再びえぐっている。トラウマに関連したネガティブな記ネガティブな感情と共によみがえる。つまり、ゆるさないでいることとは、自分を傷つけることを繰り返し、「被害者」という立場に自分を縛り続け、自由を奪い続けることである。そして、「自分をゆるす」ということは、自分を傷つけることをやめ、被害者役から自分を解放することなのだと思う。

 トラウマ体験をすると、そこから時間が止まってしまったように思うことが多い。もちろん実際の時計は進んでいるのだが、自分自身は遭難したまま立ちすくんでいるように思うのだ。しかし、実は自分は立ちすくんでいたわけではなく、一歩一歩プロセスを前進してきたのだ、と知ることは、自分の力を感じることになる。

 トラウマからの回復のプロセスを進んだ人は、ある時点で、自分の人生の「まとまり」「つながり」を感じることも少なくない。その場しのぎにやってきたようなことが、あるいは意味もなく起こっていたように見えた断片的な出来事が、実はまとまっていたことに気づくのだ。バラバラに見えた現象にテーマがあることに気づいたり、そこに「大きな目的」すらあったことに気づいたりする。これは、コントロール感覚の回復であり、自己統合感の回復にもつながる話である。もちろん、この「まとまり感」にも揺らぎがあって、トラウマを刺激するようなことが起こるとまたバラバラ状態に戻ってしまったりするのだが、生活の中に時々でも「まとまり感」が出てくるという体験は、最悪の遭難状態だったときとは全く違う。

 そのような中で起こる「ゆるし」とは、「トラウマ体験者としての自分へのジャッジメントをやめる」ということだと思う。とても適応が大変な変化ではあったけれども、自分自身に傷がついたわけではなく、自分は大変な変化を乗り越えながらもプロセスを前進している存在なのであり、そこにジャッジメントを下すことには何の意味もない、と心から知ることが、「ゆるし」ということなのだと思う。

 そして、その「ゆるし」のプロセスを共に歩む支援者は、同じ前提――トラウマ体験者は、とても適応が大変な変化を経験したけれども、本人自身に傷がついたわけではなく、本人は大変な変化を乗り越えながらもプロセスを前進している存在であり、そこにジャッジメントを下すことには何の意味もない――を共有していることが、安定した大地を提供することになるだろう。本書で述べたことの全てが、そこに集約されるのだと思う。

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