「選択的別姓」他人との違いを認めるために


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 週刊文春に書かれた「水島代議士、三度の離婚・・」の真相は、私たち夫婦が実践している「夫婦別姓」を守るために、夫とペーパー上の離婚・再婚を三度(だったか?五度だったか?)を行ったためだという説明を先週号でしました。そして、この「ペーパー離再婚」という方法を、インターネットを通じて全国の別姓夫婦に広めてきたことを書きました。

 では、なぜ、このように戸籍に「傷」を付けてまで離再婚を繰り返す必要があるのかというと、ご存じの通り、わが国の法律では、夫婦別姓が認められていないからです。夫婦別姓を認められるように民法を改正する法案は、これまで何度も国会に提出されてきましたが、これまで1度も陽の目を見たことがありません。今国会にも、野党共同で提出されていますが、なかなか審議すらされないというのが実状です。

 同姓がいい人はこれまで通り同姓で、別姓にしたい人には別姓を認める、というのが民法改正案です。別に、誰もが別姓にしなければならない、ということではないのですから、反対する人などいるはずがないと思うかもしれませんが、実は、強硬に反対する国会議員がたくさんいるのです。彼らの論理は、「別姓を認めると離婚が増えて社会秩序が乱れる」とか「日本の良き伝統が崩れる」ということのようです。でも、夫婦はみな同じ姓にするというのは、明治維新に西洋のまねをして導入された制度であり、日本独自の伝統とは何ら関係がありません。また、先進諸国のうち現在でも選択的夫婦別姓を認めていないのは日本だけです。別姓を認めた諸外国でも、別に社会秩序が乱れたりはしていません。そもそも、同姓強制の日本でも離婚は増えています。それどころか、改姓がいやで結婚できなかったり、離婚したというカップルもたくさんいるのです。

 私は、今の民法には日本のあらゆる問題が凝縮しているように思っています。例えば現在の日本を象徴する現象に「いじめ」があります。いじめというのは、自分と違う他人の存在を受け入れることができない結果起こるものと言えます。人間の多様性を認められない排他的な行動とも言えます。いじめの問題を根本的に解決するには、「人はみな違う」という当たり前のことを認識して、自分も他人も大切に出来る子供を育てることが大切です。そのためにも、まずは大人社会を、いろいろな生き方が可能な多様性が認められる社会にしていかなければならないと思います。

 今の日本社会は、「単一の価値観」の押しつけに満ちあふれています。その代表的な例が、夫婦は同じ姓を名乗らなければならないとする今の民法ではないでしょうか。ここには、「夫婦は同じ姓を名乗った方が(あなたの)家族は幸せなのだ」「夫婦が別の姓だと(あなたの)子供がかわいそう」とする、ある種傲慢な押しつけが見えます。
 夫婦のこと、子供たちのことは、基本的にはそれぞれの家庭で責任を持って決めていくべきことです。各家庭にはそれぞれの事情があるわけですから、自分たち夫婦にとって一番良い方法が、必ずしも別の夫婦にとっても一番良い方法だとは限らないのです。家族が同じ姓を名乗ることによって円満が保たれる家庭もあれば、別姓にする事によって、一人一人が生き生きと暮らせる家庭もあるのです。同じ姓の夫婦であっても、完全に崩壊している家庭もある一方で、姓が違っても家族全員仲良く暮らしている家庭もたくさんあります。姓が同じか否かということと家庭の円満とは何の関係もないことは夫婦別姓を認めている諸外国のデータからも明らかです。こうした家族の多様なあり方を否定し、各家庭の実状も考えずに家族のあり方を一つの枠にはめ込もうとする現在の民法は、一刻も早く改正して、誰もが自分らしく生き生きと暮らせる国にしていく必要があると思います。
 私は、民法の改正に対する論議を簡単に分けると次のような構図になっていると思っています。

賛成派=自分と他人との違いを認め、お互いを尊重して生きていこう。
反対派=みんな同じじゃなきゃイヤだ。みんなと違う人は排除しよう。

 反対派の論議を聞いていると、説得力のあるものはほとんどなく、突き詰めていくと、このようになってしまうというのが実感です。
 民法の改正は、別姓夫婦の利益のためだけではなく、あらゆる人々が他人の価値観を尊重しながら生きていくという、人間としての基本的な考え方の確立につながるものだと信じます。多様な価値観を尊重できる社会づくりのために、まずは率先して法改正をして、国を構成する一番のかなめである家族に関する法律を、人々が生き生きと暮らしていける方向に整備することこそが、国民のための政治の第一歩ではないかと思うのです。

 ところで今の民法には、もう一つ重大な欠陥があります。それは、非嫡出子、つまり法律上結婚していない母親から生まれた子供に対する差別を明文化したものだということです。どういう事情で生まれてきた子供であっても、子供には何の罪もありません。当事者である大人たちが取らなければならない責任と、子どもに対する処遇とは別の問題です。
 非嫡出子は、法律上、相続の時に差別を受けるだけでなく、普通に社会生活を送る上でも、就職や結婚の際に差別を受けています。先日、衆議院の予算委員会で、自らが首相になった経緯を「密室的」と批判された森首相は、「私が密室で私生児のように生まれたと言われるのは不愉快」と答弁しました。一国の首相がこのような差別的発言をすることに代表されるように、子供に対する生まれながらの差別を正当化するような大人社会のあり方も、いじめを許す大きな原因になっているのではないでしょうか?
「多様な生き方を否定し、自分に責任のない問題で子供を生まれながらに差別する」。今の民法を一言で言うなら、このようになると思います。日本のあらゆる「悪」の根元となっているのが今の民法と言っても過言ではありません。

「自分と他人との違いを認め、お互いを尊重して生きていこう」
「みんな同じじゃなきゃイヤだ。みんなと違う人は排除しよう」
あなたは、どちらの社会がいいですか?

(2000.12月、タウン誌宇都宮に寄稿した記事より)


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