アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(9)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。いよいよ今回が最終となります。長い間読んでいただきありがとうございました。全文は、私のホームページwww.mizu.cxの「アティテューディナル・ヒーリング」のところに掲載してあります。パッツィの「はじめに」とジェリー・ジャンポルスキー博士による「序文」も併せて掲載してありますので、ご関心のある方はどうぞご覧ください。

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私たちは公には子どものセンターとして知られていましたが、最初から大人のグループもありました。これは緑内障をもつ大人のグループでした。すでに触れたように、それは私が自分の問題として取り組んでいるものでした。私は子どもたちから、他人を助ければ自分を助けることになるということをすぐに学んだのです。このグループは約2年間続いていました。私たちの小さなグループが衰え始めたちょうどそのときに、ドナヒュー・ショーが公の光を当てたのです。その結果として、私たちは、致命的な病気を抱えた大人たちのためのグループはないかという問い合わせを受けるようになりました。私は予約リストを作り始め、そして小さなグループを始めるのに十分な数が得られたところで、大人のグループを始めました。それはゆっくりと自ら発展していきました。子どもたちのグループとは別に。

 今日、センターには18の大人のグループがあります。3つが致命的な病の人たちのものです。1つは乳がんの女性、もう一つは慢性疾患、2つがエイズ、1つが摂食行動についてのグループ、4つがパーソン・トゥー・パーソン(病気はないけれども、人間関係の中でアティテューディナル・ヒーリングを実行したい人)、2つが、致命的な病の人を支えている人たちのグループ、そして4つが高齢者のものです(老人ホームで行われています)。

 グループのすべてが、外部からの要求によって直接作られました。私たちは勧誘をしたことはありませんが、大きさ・評判ともに、育ち続けてきました。そして、メディアを通して、センターのことを聞く人が毎日増えています。米国内には71のセンターが芽生え、世界中のほかの国にもセンターができました。これらのセンターは、それぞれ独立した組織ですが、私たちのセンターで確立された原則からインスピレーションを受けセンターを作ることになったのです。私たちのところにトレーニングを受けに来る人たちもたくさんいます。

 私たちは年に4回、40~50人の人を対象に広範なトレーニングをします。また、新しいボランティアを対象に年2回トレーニングをします。前回のトレーニングは、センターで働くことに関心のある約70名の人が参加しました。私たちは広範囲にわたってボランティアの力で運営していますが、約8名の核となるスタッフもいます。このスタッフは、センターの運営と臨床の両方をします。私たちは財団と個人の献金者から資金を得ています。私たちは、ほかの慈善団体と同様、しばしば財政的に苦しくなりますが、奇跡が起こり続けて、12年後の今も、まだ成長しています。

 アティテューディナル・ヒーリングの概念は古くからのものであると同時に、比類のないものです。これらの原則は大昔からあるものですが、現代の考え方はそれをわかりにくくしています。私たちは社会の法律ではなく愛の法律を教えようとしています。原則は、使ってみると、実にうまくいくのです。怖れによる妨害を取り払って、愛の贈り物を開けるためのツールなのです。
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アメリカ報告25 ――ハワイ報告・イハラ議員(その3)

 私はイハラ議員に出会って、初めて「尊敬する政治家」と言える人を見つけたと思いました。今まで、選挙前のアンケートなどで尋ねられても該当する人がおらず、困っていたのです。
 
イハラ議員の特徴は、なんと言ってもその精神性にあります。
 イハラ議員の選挙区ではないハワイの人に「イハラ議員を知っているか」と聞いたところ、その人は政治に詳しい人ではなかったにもかかわらず、「知っている。とても尊敬されている政治家だ。『高潔』を体現した政治家だと考えられている」と答えました。

 まさに、イハラ議員は「高潔」のために生きているような人です。私生活と政治生活の一貫性などは当たり前です。全ての行動が、自分の「高潔」を高めるためのものになるように生きていると言います。そして、その態度を貫きながら政治活動を続けていく、というのは、一つの実験だと思ってやっているそうです。

 政治家としての投票行動は正直です。一人だけ賛成することも、一人だけ反対することもあるそうです。また、党派を超えて協力できる人とは協力します。これらもすべては「高潔」を高めることにつながります。
 
 ブッシュ大統領については、「彼のことも本当に愛そうと努力している」とのこと。その理由は、「アメリカ人は今まで政治的に眠っていた。ブッシュのおかげで、不安を基盤にしたやり方が全くうまくいかないということに皆が気づいて目が覚めた。いろいろな草の根の活動が始まっている」とのことです。

 イハラ議員は、政治家になるときに、自分の心と身体とスピリットをしっかりと守っていこうと自分に誓ったそうです。そのため、自分を忙殺することはしません。議会では精力的に働きますが、自分の誓いを破るようなことは決してしないそうです。これは、健康維持のための時間をきちんととるということでもありますし、有害な精神状態を引きずらないように、出合うことを日々許しながら生きていくということでもあるそうです。
 
 私の議員時代に、選挙区での会合出席をどうしても断れず、ほとんど私生活がなかった(それでも小さな子どもを抱えた私は議員の中では私生活があった方だと思いますが)、ということを話したところ、「それは共依存で、病的なことだ」と驚いていました。確かにその通りで、政治家に見捨てられたくない(顔をつぶされたくない)有権者と有権者に見捨てられたくない(落選したくない)政治家の共依存状態なのだと思います。

 選挙そのものはきちんとした分析に基づいて活動をするそうですが、ネガティブキャンペーンをどうしているかと尋ねると、「それは自分についてより詳しく説明するチャンスを与えられたと捉える」そうです。怒りもせず、無視もせず、きちんと説明するそうです。また、選挙の質を高める(=有権者により質の高い選択肢を与える)ことに責任を果たそうと決意しており、相手が卑劣なことをしたときには直接携帯に連絡をして説明を求めることもあるそうです。

 イハラ議員は、上級裁判所で行われた修復的司法の催しにも私を連れて行ってくれました(現職裁判官が法廷を使ってそのような催しを積極的に開いているのですごいと思いました。ちなみに、その日は音楽を使った活動をしている人たちがゲストだったので、法廷で初めてギターを聴きました)が、いくら話しても話が尽きませんでした。年も性別も国籍も違いますが、「私たちは政治的な双子のようだ」ということを確認して別れました。今まで日本に来たことがないそうですが、今度は必ず来てくれるそうです。9月の選挙を前に、「すっかり出遅れている」そうですが、必ず当選することを祈ります。 

イハラ議員のホームページ
http://www.capitol.hawaii.gov/site1/senate/members/sen9.asp

★ 日本に帰国します ★

 25回にわたるアメリカ報告をお読みいただきありがとうございました。米国では、アティテューディナル・ヒーリングを深く学べたのみならず、すばらしい人たちとめぐり会い、大変充実した半年間を過ごせたことに心から感謝しております。おかげさまで子どもたちも驚くほど成長しました。7月23日に米国を発って日本に帰ります。久しぶりの日本なので適応できるか心配ですが、また自分にできることをやっていきたいと思っています。メルマガはまたしばらく不定期になると思いますが、今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
 

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(8)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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 私たちは今でもドナヒューのテープを学びの道具として使っています。深い感動があり、見た人にはパワフルな影響を与えます。子どもたちはまっすぐで正直です。フィル・ドナヒューはこの経験にとても強く影響を受けたため、約1年後にカリフォルニアにやってきて、センターについてのショーをもう一度やりました。彼は10回のショーができるくらいの題材を得たといい、今でも子どもたちの何人かと連絡をとっています。

 シカゴから帰ってくると、私たちの静かな小さなセンターは大騒ぎになっていました。電話は一日中鳴りっぱなしです。アメリカ中から電話がかかってきて、助けを求めているのです。手紙が殺到しました。私たちは圧倒されながら、最善を尽くして手紙に返事をしたり電話をとったりしました。ドナヒューの番組の最後に、パット・テイラーが「私たちはサービスを有料にしようとは夢にも思いません・・・でも、寄付は決してお断りしません」と言いました。これがきっかけとなって、寄付が殺到しました。高額のものも小額のものも。私たちは反応の大きさの見当がつきませんでした。すごかったのです。

 私たちは全くのボランティア組織でした。今や公的な寄付が入ってくるようになったので、法的にNPOになる必要がありました。自力でそれができるかどうかを見てみようと私たちは決めました。弁護士に法外なお金を払わずにすむようにです。それは本当にとても単純でした。私たちはカリフォルニア州サクラメントに行きました。そして、NPO法人化を申し込みました。私たちは1977年1月20日に国務長官の事務所に行き、その日のうちにNPO法人格を得ることができました。事務所の人は、基本定款を簡潔な形で作るのも手伝ってくれました。それは、カリフォルニア州法のもとで、私たちの目的をはっきりと述べたシンプルな文書です。基本定款は、私たち、当時は3人だった理事会メンバーによって署名されました。

 団体規約も作りました。ほかの団体の形式を調べて自分たちのセンターに必要なものを採用したのです。私たちの団体規約は10ページからなり、1981年11月23日の理事会で採択され、事務局長のウイリアム・テッドフォードによって署名されました。私たちが踏まなければならなかったもう一つの公的なステップは、カリフォルニア州税務局に行って非課税の対象となることでした。これは、すでにNPO法人格をとっていたので、難なくできました。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテュー
ディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アメリカ報告24 ――ハワイ報告・イハラ議員(その2)


 ようやくコスタリカから帰ってきましたが、今回は、前回に続いてハワイのイハラ議員についてのご報告です。

 1951年生まれのイハラ議員は日系3世ですが、すでに日本語は全くしゃべらず、日本というよりは、むしろ幼少期を過ごしたドイツの影響を受けているようです。
 1986年から1994年までは州議会下院議員、1994年から現在は州議会上院議員をつとめています。

 イハラ議員は民主党所属です。ハワイは民主党が強く、州議会は民主党が多数派ですが、イハラ議員の改革志向は民主党議員であっても眉をひそめられることも多いそうで、「そういう意味ではあなた(日本で野党であった私)と同じ立場」と言っていました。

 イハラ議員は幅広くいろいろな成果を上げていますが、中でも大きなものは、上院に「共同議長制」を取り入れたことでしょう。

 ハワイの上院の委員会は、それまで一人議長制をとっていました(もちろん日本もこれです)。そのために、議長は法案についての全権限を持つ王様のようなものでした。イハラ議員によると「一人の人間がすべてのカードを持っており、情報を知らせないことによって委員会を支配していた」のです。

 1997年の議会で、イハラ議員は、マイク・マッカートニー上院議員(この人もジェリー・ジャンポルスキーの親しい友人です。ジェリーによると、イハラ議員かマッカートニー議員のどちらかが、やがてハワイ州知事になるだろうとのことです。マッカートニー氏は現在は上院を離れて、公共放送の仕事をしています)と力をあわせて、共同議長制を実現しました。それとともに、テーマごとに20あった委員会を10に減らしました。共同議長は、それまでの一人議長の2倍の権限を持つことになったのです。

 イハラ議員とマッカートニー議員は、問題が起こると、二人で出向き、共同議長の両方と話をするようにしました。そのことによってグループの力動を育てようとしたのだとイハラ議員は言います。一人が一人を操作したり説得したりするのではなく、話し合い力を合わせて解決するという文化を作ったということです。

 この動きは最終的には強く支持され、イハラ議員とマッカートニー議員は1997年に賞すら受賞していますが、必ずしも最初から理解されたわけではありません。権限を手放したくなかった古い体質の議員の反発はもちろんのこと、ロビイストからも、「二人の議長に話さなければならず、手間が増えた」と苦情が出たり、マスコミにも当初は批判的に報道されたりしたそうです。

 でも、共同議長制は、多くの成果を生みました。議長は、自分の同僚の共同議長の要求を拒否することがほとんどないために、吊るされたままの法案(審議されないままの法案。日本の国会はこれがあまりにも多い)が圧倒的に減りました。同僚の共同議長が「この法案の審議をしたい」と言えば無視することができないからです。

 また、情報の共有は、議会の運営をわかりやすく民主的にしました。これは政治文化を大きく向上させるものです。

 イハラ議員にとって、情報の共有、政治プロセスの透明性というのは、キーワードのようです。「結果がよければ手段は正当化される」という政治文化が民主主義を阻害しているという信念のもと、手段をいかに有権者が見られるようになるかということに心を砕いているのです。政府の情報にメディアがもっとアクセスできるようにメディアを積極的にサポートしてもいます。

 ここまでは政治家としてのイハラ議員の輪郭で、これだけでも十分に感銘を受けるわけですが、イハラ議員の本当の特徴はその人間としての姿勢にあります。次回に続けます。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(7)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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 グレッグは、死というのは、天国に行って、そこにいる魂と一緒になることだと思うと言いました。彼は、多くの魂がこの世に下りてきて誰かの守護天使になると思うと言いました。彼は守護天使になりたいと決めたのです。残された私たちは、実際に、グレッグはそうなったのだと信じています。

 この地上での最後の数週間、グレッグは病院に入院していました。グレッグの両親と医師はすばらしいことをしました。グループのメンバー全てがグレッグを見舞ってよいと許可したのです。1970年代には、死にかかっている子どもを他の子どもが見舞うというのは先例のないことでした。病気の子どもに、他の子どものばい菌が移るのではないかと怖れられていたのです。病院の医師と職員は、グループメンバーのお見舞いがどれほどグレッグにとって重要かということを理解したので、この方針を無視し、私たちが好きなだけ彼を見舞ってよいと許可してくれたのです。グレッグは亡くなる瞬間まで勇気について私たちに教えてくれました。彼は偉大な教師でした。

 グレッグが亡くなって間もなく、私たちの本は完成しました。グレッグの父親は本の出版者で、私たちの本の出版を助ける機会に感謝してくれました。その本、「雲のむこうに虹がある」(訳注:日本語訳は「ほるぷ出版」)は、5000部を刷るのに5000ドルかかるはずでした。私たちにはそのお金がありませんでしたが、センターのいつものやり方である「馬の前に馬車をつなぐ」(訳注:ものの順番が反対であるという意味のことわざ)で、私たちは出版の手続きを進めました。センターではよく起こることですが、お金の支払日に、ある財団が本のための小切手をくれました。これはすばらしい本で、たくさんの、たくさんの人を助けてきました。私たちは奇跡が起こるのを期待し、そして奇跡を受けたのです。

 ジェリーはその本をメディアに送りました。その少し後に、彼はシカゴから電話を受けました。それは、フィル・ドナヒュー・ショーのプロデューサーでした。彼女は、「虹」の本をとても気に入って、ジェリーにフィル・ドナヒューとのインタビューに出演してほしいと言いました。ジェリーは、そうしたいけれども、子どもを6人連れて行くことができなければ出演できないと言いました。その奇跡的な瞬間、プロデューサーは「いいですよ」と言ったのです。フィル・ドナヒュー・ショーのために、ジェリーと6人の子ども全員と、パット・テイラーと私はシカゴに飛びました。3人の親たちも一緒に来ました。私たちはグランド・ハイアット・ホテルを与えられ、運転手つきのリムジンがホテルとスタジオの送迎をしてくれました。それはとてもワクワクする時間でした。ショーは大変な成功を収めました。アティテューディナル・ヒーリング・センターは、初めて公にデビューをしたのです。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

アメリカ報告23 ――ハワイ報告・イハラ議員(その1)

 昨日ハワイから帰ってきたところですが、今夜はコスタリカに向けて旅立ちます。7月11日にアメリカに戻ってくる予定です。

 ハワイのイハラ州議会上院議員との出会いは収穫がとても大きかったので、取り急ぎご報告させていただきます。
 イハラ議員ご本人の報告に入る前に、アメリカにおける州議会の位置づけを少々ご説明します。日本に比べて地方分権が格段に進んでいるアメリカでは、州の権限が大変大きくなっています。連邦法(国の法律)ももちろんありますが、生活に身近なことは多くが州法で決まっています。例えば、日本は、どこで運転しても国内であれば道路交通法は一緒ですが、アメリカでは、カリフォルニアでは信号が赤でも右折できる(これは大変便利な仕組みです)けれども、できない州もある、など、交通法規も州次第です。法律としては連邦法が上位ですから、連邦法に違反する州法は作れませんが、連邦法が規定してないものであれば、州法で自由に規定することができます。例えば、同性愛者の結婚については連邦法に規定がありませんので、マサチューセッツ州ではそれを認めています。

 国政レベルの重大事項である外交のひどさがあまりにも目につくので、どんなにひどい国かと思っていらっしゃる方も多いでしょうが、実際に暮らしてみると案外理屈の通る良い国だというのも、地方分権の良さなのかもしれません。また、個性的な大都市がいくつもあるので、都市生活しか選択肢のない人でも自分の職業や好みによって住むところを選べるというのも地方分権ゆえの魅力でしょう。
 
 さて、そのように大きな権限を持っている州ですから、州議会は日本の都道府県議会よりもはるかに大きな権限を持っています。州議会を訪ねたところ、上院議員のオフィスは日本の国会議員のオフィスよりも広いものでした。「日本では、県議はオフィスを共有している」と言ったところ、イハラ議員は「それでどうやって仕事ができるんだ」と驚いていました。

 大きな権限を持つ州議会ですが、ハワイ州の場合、上院議員は26名、下院議員は約50名ということです。議場に入ってみると、26名の議場は大変コンパクトでしたが、傍聴席はたくさんありました。各席にはマイクが備えつけられていて、議会中は自席から自由に発言できるそうです(日本の国会では憲法調査会など特殊なものだけがこの形態)。

 ちなみに、上院議員の名前を見ていて気づいたのですが、26名のうち、10名が明らかに日系人です。イハラ議員も日系3世です。ハワイは、カリフォルニア以上に多様性に富んだ土地柄ですが、多数派がいないということが大きな特徴です。選挙で選ばれるようになってからの歴代の知事を見ても、日系人、元祖ハワイ人、フィリピン系、そして現在はユダヤ人、と、多様です。

 このほかに市議会もあります。9名の市議会は、かつては政党制でしたが現在は政党制ではありません。やはり市議会のテーマはいわゆる政治色の薄いものが多いからだそうです。これは私も納得です。

 上院議員は、会期中(1月~5月)は6名、会期外は2名のスタッフを公金で雇うことができます。現在は会期が終わっていますから、イハラ議員のスタッフは2名です。でも、ハワイ州議会では9月に選挙があるため、イハラ議員も遅まきながら選挙準備に入るところで、2名のスタッフのうち1名を、3ヶ月の休暇をとらせて選挙事務所専従にさせるのだと言っていました。「日本では秘書は現職のまま当然のように選挙をやっている」と話すと、大変驚き、「秘書の給料は税金なのに」「それでは新人にとってハンディが大きすぎる」と言っていました。残された1名のスタッフは州議会の事務所に詰めており、地元からの陳情などに対応するのだそうです。そして、私的な時間を利用して選挙の応援をするのだそうです。大変わかりやすい政治倫理です。

 次回はいよいよイハラ議員についてご報告します。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(6)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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ブライアンは、グループの中で、心の焦点を変えるやり方を学びました。状況に対して別の見方をし、一週間の間に膨らませてきた恐怖を手放すにはどうしたらよいかを学びました。その結果は、本当に驚くべきものでした。皆が、深い変化に気づきました。

 私たちは自分の気持ちを知るためにサイコドラマの形式を使い、4人の人が参加しました。一人は医師を演じ、もう一人は患者を演じ、残りの二人はそれぞれのうしろに立って意識の役を演じました。医師や患者が嘘をつくたびに(たとえば、「いや、これは痛くないよ」というふうに)意識はそれを思い出させる役を果たすのです。これは、私たちが自分の本当の気持ちを早く知れるようになるための、おもしろく、効果的な方法でした。

 子どもたちとやったことで他にとても重要だったのは、自分の気持ちを表現する絵を描くよう励ましたことでした。これらの絵は、その素朴さにおいて、私たちが期待した以上のものを与えてくれました――言葉では伝えられない、子どもたちの気持ちや体験へのドアを開けてくれたのです。そして、そのプロセスを通して、私たちは皆、より親しくなりました。

 この作業を進めるにつれてわかり始めたことがあります。それは、これらの絵が他の子どもたちの、そして医師や家族の役に立つだろうということです。ある日、私たちは本を書くことに決めました。何ごとも不可能なことはないという仮説のもとで、とにかくこれをやろうと取りかかったのです。私たちは絵を編集し、最終的なテーマに焦点を当てた新しい絵を描くように励ましました。この結果、私たちはさらに親しくなり、グループには新しい要素が加わりました。

 約1年後、私たちの本がまさに完成しようとしていたときに、グレッグ・ハリソンが亡くなりました。グレッグは差し迫った死に直面したグループ最初の子どもとなりました。グレッグは11歳でした。白血病で、薬がもはや効かず、重度の痛みを抱えていました。グレッグは、自分で、もう逝く準備ができたということを決めたのです。彼はグループでそう言い、彼が死について話す間、皆が彼の周りに集まりました。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

新しいメディア「ode」(その2) ――日本語版を作ろう!

 前回、「ode」をご紹介したところ、ポジティブな反応をいただき、ありがとうございます。

「ode」は、現在購読者10万人で、100カ国の人に読まれているそうですが、もともとは、11年前に、シンクタンクをやっていたある夫婦のアイディアから始まりました(その妻が私の友人のイレーンです)。世界にポジティブな変化を起こすためのネットワークを作りたい。でも、寄付に依存するものではなく、自分たちで収益を上げられるビジネスにしたい。その結果が、ポジティブな変化につながるニュースを配信する雑誌の刊行でした。

 8年間はオランダ語で雑誌を出し続けましたが、世界全体にネットワークを広げるために、3年前にアメリカに拠点を移し、英語の雑誌になりました(オランダ語版も続いています)。イレーン一家もアメリカに移住してきたわけです。

 ポジティブなニュースだけのメディアを作るというのは、イレーン夫妻が初めて考えたことではないはずです。実際に、アメリカで身近な人に聞くと、過去にいくつもそういうメディアが生まれては消えたと言います。「やはり読者はそうでないものに関心を持つんだよね」というのが、私が聞いた人たちの意見でした。こういう意見は、日本でもよく聞いたことがあります。

 ではなぜ「ode」は生き延び、ビジネスを拡張しているのか。その秘訣をイレーンに聞くと、「さあ、わからない」と言ってしばらく考えていました(この質問そのものが意外だったようで、ちょっと驚いていました)。そして、唯一言えるのは、「いろいろな難局があったけれども、雑誌をやめるというのは一度も選択肢にのぼったことはない」ということだそうです。いつつぶれるかわからない雑誌をやっていると、いろいろと胃が痛くなる瞬間があるそうです。特に、お金のやりくりがつかないときには、その問題を抱えたままで眠るということは限りなく辛いことだといいます。イレーン夫妻も、そのような苦労を重ねてきましたが、「やめる」ということは一度も考えたことがないそうです。特にイレーンの夫は「取りつかれたように」仕事に専心しており(もちろん父親としての責任はちゃんと果たしているそうですが)、この仕事を取り上げてしまったら間違いなく不幸になると思う、とイレーンは言っていました。

「ode」は現在、英語版、オランダ語版、ポルトガル語版があります。共同創始者・編集者のイレーンは、日本語版もぜひ出したいと言っています。とても価値のある雑誌です。雑誌関係の方で可能性がある方は、ぜひご連絡ください。

 また、英語版で良いから今すぐに購読したいという方は、「ode」のホームページ(www.odemagazine.com)のsubscriptionをクリックすると、申し込みができます。アメリカだと年間30ドル弱で読めますが、日本で購読すると1年間59ドルのようです。

 なお、イレーンは、4人の子どもを持つお母さんでもあります。オランダでは、4人の子どもというのは多くないのか、と聞くと、「別に多くない。子どもが2人、と聞くと、ちょっと少ないなという感じがする。私の友人は弁護士だけれど、6人子どもがいる」とのこと。オランダでは、教育費もすべて無料(大学も含めて)だし、親が失業しても政府から手当てが出るので心配ないし、保育園の保育料は事業主が負担してくれるし、「これだけ良いことがあるのに、子どもを持たない理由はないんじゃないの、という感じね」と言っていました。妊娠したときも、そういう意味での責任は何も感じず、ただ子どもを持つことを楽しみにできたといいます。そして、実際に、イレーンはとても良いお母さんです。やはり、ヨーロッパの政策は見習うべきです。

★ お知らせ

 6月20日~29日は、ハワイに行ってきます。ハワイの州議会上院議員で、「君は彼と双子みたいなものだ」とジェラルド・ジャンポルスキー博士に紹介していただいた方に会います(双子といっても、年配の男性ですが)。また、ハワイのアティテューディナル・ヒーリング・センターの活動にも参加して、刑務所などを訪問する予定です。一時カリフォルニアに戻った後はコスタリカのセンターを訪問しますので、メルマガの発行がやや不定期になりますが、少しずつご報告させていただきます。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(5)

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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6週間の終わりに、ジェリーとグロリアとパットと私は、子どもたちが私たちの教師になってくれたことに対して、お礼のカードにサインをし、5ドル札を封筒に入れました。私たちにどれほどのものを与えてくれたかを、子どもたちに伝えたかったのです。子どもたちは、まさに異口同音に「もうおしまいにしなければならないの?」と言いました。これは完璧な質問でした。なぜかというと、私たちも終わりにしたくないということをとてもよくわかっていたからです。私たちが合意したのは、皆にとって役に立っている限りは続けようということと、皆がこれほどたくさんのものを受け取っているときにやめる理由はないということでした。これは12年前のことです。そしてアティテューディナル・ヒーリング・センターが生まれたのです。(訳注:センターができたのは1975年)

私たちのグループは、それから数年間にわたって続きました。小さいグループでした。私たち皆が定期的に同じやり方で参加しました。私たちは愛を分かち合いました。無条件の愛で、お互いに与え、受け取り、サポートしたのです。そして、やり方はほとんどいつも同じであっても、グループはいつも生き生きとしてワクワクするものでした。いつも何かしら新しいものを与えました。いつも何かしら新しいものを受け取りました。

ゆっくりと、子どもたちが私たちのところに紹介されるようになってきました。医師や看護師や家族が、子どもたちの態度に違いを見出すようになってきたからです。自分たちが対処しなければならない問題について、別の対処の仕方をするようになったのです。注射、化学療法、その結果髪を失うことの心理的な影響といった問題に。

その例が、7歳のブライアンでした。ブライアンは、とても苦しい耳の癌でした。毎週病院に行くと、彼は病院全体が混乱するほどひどい騒ぎを起こしました。病院の職員は、ブライアンが来る日をとても怖れるようになりました。なぜかというと、ブライアンの泣き声があまりにも大きく、抵抗があまりにも強いので、一日のスケジュール全体が遅れてしまうからです。そして、ブライアンの騒ぎの結果、治療を待っている親たちや子どもたちの不安がどうなるかは、言うまでもありません。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

新しいメディア「ode」(その1)

 現在暮らしているベイエリア(サンフランシスコ近辺)は、世界の中でもスピリチュアルなものが集まる拠点の一つだと言われていますが、本当にいろいろなおもしろい出会いがあります。

 その一つが、「ode」(オード)という雑誌です(odeという言葉の意味は、「特殊の主題でしばしば特定の人や物に寄せる叙情詩」)。この雑誌の共同創始者であり編集者のイレーン・デュ・プイというオランダ出身の女性と知り合いになり、親しくする中で、大変感銘を受けましたので、この雑誌について紹介させていただきます。

 メディアのあり方については、今までも何度か取り上げてきましたが、「ode」は、まさにそんな問題意識の中から生まれてきた雑誌です。

「ode」のキャッチコピーには、「世界を救っている実在の人たちの話。現実の問題への解決策。全て良いニュースだけ! この頃あなたは、良いニュースをどのくらい受け取っていますか? 私たちに良いニュースを送らせてください!」とあります。

また、「ode」の推薦文として、パッチ・アダムズ(笑いを医療に取り入れていることで世界的に有名な医師)はこう書いています。「悪いニュースを詰め込まれた市民は、悲観的に、冷笑的になる・・・そうすれば、良い消費者になるだろう。「ode」は、すばらしいことが起こっていることを知らせてくれる。そこで表現されているのは、全人類と環境への愛だ」今のメディアがいかに商業主義や悲観主義によって歪められているかということでしょう。

さまざまな問題を前向きに解決するために、そして、より良い未来を作るために、共有すべき情報やアイディアを共有しようというのが「ode」の基本理念だと思います。

 例えば、「ode」では、以下のようなニュースを伝えています。

■あるキノコ農園では、殺虫剤の使用をやめることで一日あたり25%キノコの収穫量が増えた。どうやったのか。土壌に自然の細菌・真菌・酵母を加えることによって、その農家は、生産量を伸ばし、自分自身と地球の健康を向上させたのである。
そして、これは、カリフォルニアのしゃれた高級農園で起こったことではない。これはタイの田舎の話だ。そこの村人は、化学薬品ではなく微生物を使って、きゅうりや、トマトや、とうもろこしや、米や、マンゴや、魚を育てている。

■ビニールの買い物袋は、下水道を詰まらせ、木にはまり込んでしまう。3つの国(台湾、バングラデシュ、南アフリカ)は、ビニールの買い物袋を禁止した。アイルランドでビニール袋を有料にすることを義務づけたところ、使用量は90%減った。米国では、毎年1000億枚のビニール袋が捨てられている。そして、本当に「捨てる」場所などないということを、私たちは知っている。

■国連では、世界で10~20億人が、何らかのスラムに住んでおり、水道も下水道もなく、法的な権利もなく暮らしていると推計している。でも、スラムの住民は、自分自身の力で向上している! アフリカのあるスラムでは、自分たちの学校を作った。カラチでは、スラムの住民が自分たちの下水道を作った。そしてブラジルでは、政府が、何十万もの小区画の地所を、スラムの住民に譲り、家を建てられるようにした。

次回に続けます。