アティテューディナル・ヒーリングの原則11

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則11です。アティテューディナル・ヒーリングの創始者ジャンポルスキー博士は、自分の死をとても怖れていたといいます。原則の紹介は次回12で終わりますが、その後、センターの初期についてパッツィの回想が続きます。原則11については、その回想とあわせて読んだ方が理解しやすいかもしれません。今では、ジャンポルスキー博士は、「死とは身体をわきに置くこと」と明言しています。東洋の輪廻転生思想に馴染んでいる方にはあまり意外ではないかもしれませんが。

 私自身、原則11だけはまだ「理解しようと努めている」段階ですが、センターで、子どもを失った母親が、「生きていたときよりも愛が強まったような気がしている。いつも娘は私と一緒にいる」と言っているのを聞くと、説得力があります。

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11 愛は永遠のものなので、死を怖れる必要はない。

この原則をうまくとらえるために、原則の1に戻りましょう。「私たちの本質は愛であり、愛は永遠である。」命が永遠であると信じれば、死への怖れはなくなります。私たちの本質である愛は続き、新たな形に入るだけなのだという考え方を強めれば、死への怖れを消すことができます。死への怖れを消すことができた分だけ、私たちは今このときに完全に生きることができるようになります。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

新聞の書き方

 アメリカで新聞を読んでいて、ちょっと気づいたことがあります。それは、一言で言うと、記事に血が通っていて読むのが面白いということです。

 例えば、4月28日のサンフランシスコ・クロニクルの地域版(ベイエリア+カリフォルニア版)には、サンフランシスコの自動車事故が大々的に取り上げられています。

 ビュイックが赤信号に突っ込んで、駐車場に入ろうとしていたBMWにぶつかった、という事故です。この事故の結果、BMWの運転手が死亡し、8台の車が燃えました。大変な事故だったようです。

 この記事を読んでいくと、こんな箇所が出てきます。

 近くのバーにいたマイケル・ガンブルは、慌てて外に飛び出したが、デインという名前しかわからないホームレスがBMWに飛び込んで運転手を引っ張り出そうとしているのを見た。バーや周りの店から半ダースの人が出てきて、助けようとした。
「私たちは火を避けようとして消火器を持って出てきた」とガンブルは言った。「ガソリンが道中に広がっているとは知らなかった・・・デインは(BMWの運転手を)半分引っ張り出したが、そこで私たちはもっと消火器を持ってこなければならなくなった。私たちは運転手を引っ張り出して、わき道に寝かせた。目の前で人が死んでいくんだよ。人が死ぬところを見たい人がいるかい?」
 その頃には、最初の消防車が到着した。非番の消防士が蘇生をしようとしたが、(BMWの)運転手はその場で死亡した。(後略)

 この箇所を読んだだけでも、警察発表だけではなくきちんと取材していることがわかりますが、ホームレスをはじめとした人々の善意が読み取れ、悲惨な事故の記事であるにもかかわらず、絶望だけが残らないようになっています。

 日本でもこういう記事を読んだことがないわけではないのですが、それは善意に焦点を当てた記事であることが多いものです。「ホームレスがBMWの運転手を救助」などというタイトルがつくのでしょう。こちらの記事はあくまでも事故の報道で、タイトルは「衝突で運転手が死亡、カストロ地区が火の海に」というものです。
 
 メディアのあり方については過去にも取り上げたことがありますが、このような記事を読むと、単なる事故記事であっても責任を持って書かれているということを感じます。そして、社会の雰囲気作りに確かに一役買っていると思いながら新聞を読んでいます。
 

アティテューディナル・ヒーリングの原則10

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則10です。ちょっと難しいかもしれません。

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10 私たちは自分たちを分断された存在ではなく一つのいのちとしてとらえることができる。

 心の平和を感じるためには、自分自身と周りの人たちが一体のものであるということに焦点を当ててみる必要があります。これは、私たちにいつも痛みをもたらしている「分断」の感覚を追い払うという意味です。「分断」の感覚は、自分自身が傷つかないように守るために築いた障壁の一つです。私たちが、正誤、善悪という罠に捕らわれているときには、全体の中の一部分だけを見ているに過ぎません。このゲームを始めると、心の平和を保つことはできなくなります。たまたま今どういう結果が出ていようと、常に「勝ちのない」状況になるからです。

 私たちは、自分に対して、周りの人たちに対して、そして私たちが見ている世界に対して、新しい態度を持てるようになります。トンネルのような視野の他に、もっと大きな全体があるのだということを認識することができます。自分の中にある活発な力を通して、より大きなイメージを感じることができるのです。この力によって、私たちは広がっていき、この大きな全体に気づくようになりますので、他の人たちが苦しんでいる葛藤に巻き込まれる必要はないのです。他の人たちが苦しんでいる葛藤は、その人たちの道であって、私たちの道ではないのです。私たちがやるべきことは、それぞれの状況に対して今までとは違う見方をすることができるように、そして、意味のないパターンにはまりこまないように、集中し続けることなのです。それぞれの状況が起こるたびに私たちの心を再訓練することによって、私たちの意識をより高度の気づきに持っていきます。

 私たちは自分自身に「たった今起こっていることに巻き込まれることは選びません。その代わり、人生の全体を見ることを選びます」と言うことができます。こうすることによって、私たちの焦点は広がり、変化し、物事を違う形で見られるようになるのです。

 思考パターンを変えるときに自分の内面で起こる変化を経験すると、信じられないほどワクワクします。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アメリカのNPO

 今回は、アメリカのNPOについて書きたいと思います。アメリカに来て、やはりその格差や未だに根強い人種差別など、社会構造の問題を感じることも確かに多いのですが、その一方で、以前もご紹介したような多様性の尊重など、日本社会にはない活力を感じることも多々あります。その一つが、何といってもNPOです。
 
 アティテューディナル・ヒーリング・センターもNPOですが、とにかくアメリカのNPOの層の厚さには驚かされます。福祉分野はもちろんのこと、矯正プログラムのきめ細かさなど、このNPOの層の厚さなくしては語れません。アメリカ社会の最後のセーフティ・ネットがNPOだと言っても過言ではないと私は思っています。

 NPO先進国であるアメリカでは、総雇用に占めるNPOの割合は10%近くに達し、それ自体が、巨大な雇用市場を形成しています。センターのスタッフに聞いても、採用時の条件として「NPOでの経験」を重視することが多いそうで、営利企業とは異なる独特なキャリアとして確立しているということでしょう。地域に根づいた小さなNPOもたくさんある一方で、いくつかのNPOは大企業並の財力・運営力・人材力を兼ね備え、国内外に大きな影響力を持っています。

 「官から民へ」というときに、絶対に忘れてはならないのがこの「公」たるNPOです。NPOなくしては、「小さな政府」などあり得ません。そもそも市民社会からスタートしているアメリカでは、政府に多くの仕事をさせることを「税金の無駄遣い」「単なる依存」と考える人が多いわけですが、その意識を支えているのは、日本でしばしば報道されるような単なる「自己責任論」ではなく、伝統的な共助の精神です。つまり、「官」と「民」だけではなく、その間に存在する「公」を担うのが自分たちだという意識がしっかりしているのです。
 
 この意識は、個人のボランティア精神にも現れますし、税制にも現れます。社会人たるもの、何らかのボランティアをしているのは当たり前、という感覚は確かにあります。税制では、個人や企業が寄付をしたときの控除は大きな支えです。また、アティテューディナル・ヒーリング・センターでも、財団助成金は収入の大きな割合を占めますが、大きな財産を持つ人が税制上の恩恵も受けながら社会に還元する仕組みがきちんと活用されています。もちろん、これは指をくわえていれば自然と入ってくる収入ではありません。毎年、各財団に申請書をきちんと出すこと、助成金を受けた財団には、利用者の詳細など統計をきちんと報告すること、などが、センターのスタッフの大きな仕事になります。この統計のために、毎日のグループ利用者のデータも、しっかりしたデータベースで管理しています。

 なお、アティテューディナル・ヒーリング・センターは、すべてのグループや家庭・病院訪問を無料で行っているところに大きな特徴があります(トレーニングはかなりしっかりとしたお金をとります)。30年の歴史を持つNPOで、未だに無料でサービスを提供しているところはなかなか例を見ないようです(当然、その分財政は厳しくなります)。

 もちろん、アメリカにも拝金主義のような人はいますが、華々しいキャリアの途中で非営利活動に転身する人もいますし、どこかの時点で「社会へのお返し」を考え始める人も少なくないようです。

 私の娘が通うチャータースクール(保護者が作る公立学校)では、多忙なエンジニアである父親が、学校の理事として、校庭の設計に汗をかいています。「官から民へ」を叫んでいる方たちに、そこまでの覚悟があるのでしょうか。

アティテューディナル・ヒーリングの原則9

 今日のパッツィ・ロビンソンの翻訳は原則9です。教師と生徒の役割を入れ替えるということは、特に「権威」のある人たちには難しいと言われています。なぜ難しいのかということを考えれば、やはり「怖れ」が妨げになっているということが理解できます。

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9 私たちはお互いに生徒であり教師である。

 関わりを持つ全ての人が自分にとって教師であると考えるようになると、人生に対して別の見方をすることができるようになります。いろいろなことにすぐに気づくようになり、人の話をよく聞くようになります。学びには序列はなく、おそらく子どもたちが一番の教師だということがわかってきます。

 子どもたちは率直で正直です。私たち大人が持っているような障壁をまだ築いていません。私たちの障壁は、自分を保護する覆いのようなものですが、子どもたちと一緒にいることではずすことができます。この原則は、私たちは必ずしも他人にとって最善のことを知っているわけではないということを意味します。そして、知っている必要もないのです。私たちのそれぞれが、自分にとって何が最善かを知っているだけです。自分を知ろうとするプロセスを分かち合うことによって学ぶことができます。そして、そこから、学び成長するための人間関係を築くことができるのです。

 階層のある、垂直構造の学びではなく、水平なのです。そこでは、生徒と教師の役割を入れ替えることが、全体にとって最終的によい結果をもたらすことにつながります。この種の人間関係では、自分自身をより深く知ることの自由を感じやすくなります。もっと深く進むことが許されており、「間違い」「愚か」などと判断されないことが保障されています。こうして私たちがお互いに与えたり受け取ったりする努力を絶え間なく続けることによって、愛の経験の仕方をお互いから学べるようになるのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

サンフランシスコ・クロニクル

 先日、うちに知らない子どもが訪ねてきました。最初は何やら怪しげだと思ったのですが、よくよく話を聞いてみると、なかなか興味深い話でした。彼は13歳で近所に住む子のようでしたが、家庭環境を考えると大学に行けない。でも、サンフランシスコ・クロニクル(地元の有力紙)がスポンサーをしているプログラムがあって、彼が新聞の契約をとってくるとポイントが加算されて奨学金がもらえる、というもののようです。

 子どもに新聞の契約をとらせるなんて、と思われるかもしれませんが、75%の割引で、20ドル払うと18週間自宅まで新聞を届けてもらえるのですから格安です。新聞を届けるのは新聞社に雇われている人であって、もちろんこの子どもではありません。「うちはもう18週間もいないから」と言ったところ、途中で解約すれば返金すらしてもらえる、と彼は言っていました。どう考えてもサンフランシスコ・クロニクルに直接の利益をもたらす話ではありませんので、社会奉仕の一つのようです。サンフランシスコ・クロニクルのホームページをざっと見たところ、このプログラムを見つけることはできませんでしたが、彼は友だちから聞いたと言っていました。

 彼は「契約してくれれば、洗車やゴミ出しなどを手伝います」と言うので、「これは私とサンフランシスコ・クロニクルの契約であって、あなたが奉仕活動をする必要はないのでは?」と言ったのですが、彼は「あなたが私を助けてくれるのなら、私もあなたを助けたいので」という返事でした。では、日本に帰る際に机などを売りに出すとき、力仕事が必要になるようだったら助けてほしい、とお願いすると、快く引き受けてくれました。

 なんともアメリカらしい出来事でした。皆さまはどうとらえられたでしょうか? 
 もちろん、新聞も毎日届いてきます。(オートロックの門の外からの投げ込みなので、1階まで拾いに行かなければなりませんが・・・。これも、アメリカらしいことです)

アメリカ報告13 ――センター外の青少年支援プログラム

 アティテューディナル・ヒーリング・センターの中で行われている青少年支援は、水曜日の夜に互い違いに行われている「喪失グループ(近親者を失った子どもたちのグループ)」と「病気グループ(子ども本人か家族が病気のグループ)」だけですが、センター外の支援活動も活発に行っています。

● 学校プロジェクト

 これが最も歴史の長いもので、10年以上続いているそうです。日本で言う中高生(11歳~18歳)に対して、プログラムを提供します。

 一つは、危機介入です。クラスの子どもが銃で撃たれた、などというときに、短期的に介入をします。子どもに対するサポートグループはもちろんのこと、教職員、保護者、学校の管理者、といった人たちに対してもサポートグループを行っていきます。

 もう一つは、学校の教育課程に組み込まれる定期的なグループです。うちの娘が通っている学校でも、高学年の子どもたちに対して昨年このグループを採用したそうです。一学期あるいは半年という期間、毎週グループを行っていきます。これは「総合学習」のような時間を使って行われるそうです。学校で日ごろから問題になっている人間関係のトラブルなどがあれば、この期間に対応することができます。

 センターとは直接関係ありませんが、センターに来るHIVの人から聞いたところ、HIV陽性の人が学校に行って子どもたちに話をする、というボランティアもさかんに行われているようです。このボランティアをするための2日間のトレーニングまであって、そこでは「教育現場にふさわしい話し方」などを学ぶそうなのですが、偏見によって苦しんでいる人たちの声を直接発してもらう、という手法が日本の学校現場に必要だとかねてから思ってきましたので、これは大変参考になります。

● conservation corps

「環境保護青年隊」とでも訳すのでしょうか、なかなかユニークなシステムです。高卒の資格あるいはGEDと呼ばれる「一般教育修了証書」(高卒よりも簡易なもの)をもらい、職業訓練も受けられる場所です。最低賃金をもらいながら自然保護の仕事をすると、証書取得に向けての教育が保障される、という仕組みになっています。学歴、最低賃金、仕事を通じてのスキル習得、と、3つが同時に得られる点は、「やり直しのきく社会」に向けて効果的な仕組みだと思います。

 ここにいる18~25歳の青年に対して、やはり週1回のグループを行うのがアティテューディナル・ヒーリング・センターのスタッフの役割です。それまでドロップアウトしていた多感な年頃の青年たちが「やり直し」を始めるわけですから、グループは大きな心の支えになるようです。

● juvenile hall

 一時保護所のようなところと言えばよいのでしょうか。18歳未満の少年非行・犯罪に対して、施設・グループホーム・里親のどこに行くかを決めるまで子どもたちが置かれる場所です。ですから、基本的には2ヶ月以内の滞在、ということになっているそうですが、常態として6~12ヶ月滞在している子どもが多いそうです。ここでもセンターのスタッフが週1回グループを行っています。

 もちろん、いずれのグループも、アティテューディナル・ヒーリングの原則に基づいて行われます。わざわざセンターに来る人たちを対象としているわけではないところが特徴ですので、センターの価値観を前提としないなど配慮がなされます。

 センター外の支援は11歳以上の子どもたちが中心ですが、センター内のグループは年齢制限がありませんので、5歳の子どもも来ています。

アメリカ報告12 ――アティテューディナル・ヒーリングの原則8――

 今日は、アティテューディナル・ヒーリングの原則8を紹介します。

8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。

 これは、「心の平和」の「意識的選択」であり、アティテューディナル・ヒーリングの中核的な考えを示したものです。
 もちろん、外で起こっていることを否認して自分の殻に逃げ込むということでもありませんし、外で起こっていることを都合よく解釈するということでもありません。

 例えば、大切な人を失ったとき。精神医学的にもよく知られている「悲哀」の反応が起こります。大雑把に言って、一定期間、「否認(喪失そのものを受け入れることができない) → 絶望(もう自分には何の望みもない) → 脱愛着(他の対象にも心を開いていく)」というプロセスを経ていきます。「心の平和を選ぶ」というのは、何も、この「絶望」を経験しないですませるということではありません。「絶望」を否定しようと葛藤するのではなく、「絶望」している自分を認め、「絶望」している自分を「許し」てやさしくする、という「選択」をするのです。

 センターの悲哀グループに来る人の中には、「妻が生きているうちは、人生は選択に満ちていた。でも、彼女が亡くなってからは、何の選択肢もなくなってしまった」と嘆く人もいます。そういう人が、「そんな自分に辛く当たる態度」と、「そんな自分を認めてあげる態度」の選択があるのだということに気づいていくと、他の選択肢にも気づいていきます。
 
 また、センターには介護者のグループもあります。介護の現場は日本と似たり寄ったりで、時には相手を殺してやりたいと思う場面も出てきます。そんなときには、介護者は追い詰められた気持ちになっており、「選択」という概念が抜け落ちてしまいます。

 センターの介護者のグループでは、「介護は自分で選択してやっている」ということを基本に置いています。これは、決して、いわゆる「自己責任論」ではありません。自分で選んでやっているのだから、何が起こっても我慢しろという考えではないのです。

 そうではなく、「介護を引き受けないという選択肢もある。でも、自分は、自分の人生を豊かにするために、介護をするという選択をした」というふうに考え、さらに自分の人生を豊かにするためにはどうしたらよいだろうか、という観点で話をするのです。ですから、介護を怠けたいと思う気持ちも正当なものとして認められます。相手を殺したいと思った、というエピソードも、打ち明けあうことができます。そして、そんな自分に罪悪感を持つのではなく、自分を認めてあげよう、という選択をしていくのです。介護者グループのもう一つの焦点は、「いかに自分の介護をするか(自分をいたわるか)」ということでもあります。

 介護者のグループにいた人は、期間の長短はあれ、やがて「悲哀のグループ」に移っていきます。でも、介護者のグループにいた時代を「本当に支えられた」と懐かしそうに話す姿を見ると、週に2時間程度のグループでも、どれほど介護者の支えになっているかを痛感します。
 
 この原則について、もう一つ誤解を招きそうな点として、「では、完全に無抵抗になるのか」ということがあります。もちろん、そんなことではありません。虐待をされて、心の平和を選んだから、無抵抗でいるということではありません。もちろん、心の平和を選びつつ、現状を変えるための行動を起こしてよいのです。自分自身の経験からも、心の平和に基づいて起こした行動の方が、結局のところ、自分を大切にする変化につながることの方が多いと思います。心が平和なだけ、起こすべき行動に集中できるわけですから。
 
 以下に、この原則について、パッツィ・ロビンソンの冊子の翻訳を記します。2段落目の「私たちはロボットではありません」というところが、私は好きです。  「非暴力コミュニケーション」のときにも述べましたが、ロボットのように、ただ無意識に反応する人の集合体が最も怖ろしいと思うからです。

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8 外で何が起こっていようと心の平和を選ぶことができる。

 心の平和をただ一つの目標として選びたいのであれば、「世間」の言うとおりに行動をとる必要がないということがわかるようになります。私たちは皆、「世間」がどれほど「正当な怒り」を守り、「正当な怒り」へのしがみつきをサポートしているかを知っています。私たちは、「世間」がサポートしてくれることをすることもできるし、自分の気持ちに責任を持ち、心の内面を見つめ、怒り・罪悪感・決めつけを捨てることを選ぶこともできます。

 私たちはロボットではありません。ロボットは外側の世界によって動かされます。ボタンが押されれば、誰かがやらせたいと思ったとおりのことをするようにプログラムされています。私たちはロボットのように行動する必要はありません。自分に最も平和をもたらすことをし、感じ、ふるまう自由があります。本質的に、誰も私たちのことを幸せに「したり」、悲しく「させたり」、寂しく「させたり」、怒ら「せたり」することはできないのです。「私の配偶者がこんな(あんな)ふうに振舞ってくれれば、私はもっと幸せになれるのに」というとき、私たちはそれが事実だというふうに感じることが多いものです。

 実は、このような状況を使って、自分の心のトレーニングをすることができます。今このときに、自分の心をもっと平和にするために、起こっていることの受け止め方をどのように変えられるのか、考えてみることができます。他人のふるまいを変えようとすることは操作でありコントロールであり、長い目で見ると決してうまくいかないのです。他人を変えることは決してできず、自分自身を変えることしかできないのです。自分の気持ちに気づき、認め、それを変えることを積極的に選べるように、自分の気持ちを見つめ続ける意識とやる気が必要です。私たちが変わり始めることができるように、今この瞬間に集中して、しっかりと考え続ける勇気が必要なのです。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

アティテューディナル・ヒーリングの原則7

今日のパッツィ・ロビンソンの冊子の翻訳は、原則7です。

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7 私たちは他人の欠点を見つけるのではなく愛を見つけることができる。

 他人の欠点を見つけるのはとても簡単です。他人が変わってくれさえすれば自分はもっと幸せになるのにと思うことがあります。これもまた一つの幻想です。私たちが幸せになるためには、誰も変わる必要がありません。自分自身の幸せを作り出すのは、自分の仕事なのです。

 私たちが他人の欠点を探すのは、自分自身の中に、同じ欠点や、欠点になる怖れのあるものを必ずしも見たくないからです。他人を批判することは、単に自分自身の内側で起こっている問題の現われだということも多いものです。

 アティテューディナル・ヒーリングを練習するための課題は、「許す」ことを始めること、「裁く」のをやめること、自分と他人を愛することです。これら3つのことを意識的なレベルでやり始めると、私たちは自動的に人々や物事に対して別の見方をするようになります。曇った日は必ずしも「悪い」日ではなくなり、晴れた日とは反対の単なる曇った日になるでしょう。

 私たちは、それぞれの人の中に光を見るようになるでしょう。私たち全ての中に光があるからです。中にはそれを必死で隠そうとしている人もいますが、それが私たちの本質である以上、何らかの形で輝きだしてくるものです。
自分の光を輝き出させるほど、他人の中に光を見ることができるようになります。 

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)

非暴力コミュニケーション(NVC)

★サマータイム★

 アメリカは4月からサマータイムになります。こちらではDaylight Savings Timeと呼ぶようですが、4月2日から1時間時間がずれます(始まる日は年によってまちまちのようです)。12月にこちらに来た頃は、夜6時に子どもを保育園に迎えに行く頃は暗かったのですが、この頃は7時ごろまで明るい毎日です。これで1時間時間がずれると、ますます明るい晩を楽しめるようになります。東京で育った私としては、朝がなかなか明るくならないのは馴染みませんが、仕事が終わった後にも明るいというのは楽しいことです(私は夜もセンターのグループに行くので、すべてが終わる頃にはさすがに暗くなりますが)。
 ただ、平年であればとっくに終わっているはずの雨季がまだ終わらず、相変わらず嵐などが続いているのには閉口しています。気温もあまり上がりませんし、カリフォルニアらしい日差しを楽しめるのにはまだ時間がかかりそうです。先日はあまりにも珍しい雪まで降って大騒ぎになりました。私の周囲のアメリカ人は、「地球が温暖化しているのに、なぜここだけ寒くなるのだろう」と不思議がっています。

★非暴力コミュニケーション(NVC)★

 さて、今日は、「非暴力コミュニケーション」について少々ご紹介したいと思います。バイロン・ケイティの「ワーク」と同じく、アティテューディナル・ヒーリングと直接関係のあるものではありませんが、きわめて親和性の高い内容を持つものです。また、対人関係療法を通してコミュニケーションの問題に取り組んできた私には、とても納得のいくものです。

 アティテューディナル・ヒーリングにしても、バイロン・ケイティにしても、そして今日ご紹介する「非暴力コミュニケーション」にしても、いずれも、個々人の「意識」に焦点を当てたものです。ものの受け止め方、自分の感じ方については、自分自身が責任を持たなければならない、という考え方が基本にあります。

 これは、とても大切な考え方だと思います。歴史を振り返っても、一番危険なのはヒトラーや小泉純一郎のようなエキセントリックな人物ではありません。そういう時代に、ほとんど無意識のままに流されていった人たちが、一番危険だと思うのです。「だって、社会がこんなだから」「だってうちの国の首相は異常だから」というような理屈で、自分の意識を問い直すこともせず、そのまま流されていくことが、歴史の流れを作ってきたのです。

 実は、これは国家レベルの話だけではありません。例えば、DV(ドメスティック・バイオレンス)などについても、加害者が「だって妻が私を怒らせるようなことをしたから」「私のプライドを傷つけたから」というような理屈を述べるのが常です。「妻がやったこと」と「自分の感じ方」を無条件に結びつけているというのが大きな特徴です。

 「非暴力コミュニケーション」は、このような結びつけ方を問い直すものです。そして、相手について何かを決めつけるのではなく、自分自身の感情や要求を表現するようにします。
 例えば、相手が自分に挨拶をしなかったとき。
「挨拶もしないで何という失礼な人間だ」と怒るのは、非暴力コミュニケーションではありません。相手を裁いているだけだからです。

また、「あなたは私を無視した」とか、「私をないがしろにした」というのも、非暴力コミュニケーションではないのです。まだまだ、重点が相手側にあって、自らの内部の感情を表現できていないからです。

 非暴力コミュニケーション的に言うとすれば、「あなたが挨拶をしてくれなかったとき、私は悲しかったし腹が立った。なぜなら、人から尊重されたいという私の要求が満たされなかったから」というような内容を述べるのです。

 あなたが相手側の立場だとして、「挨拶もしないで何という失礼な人間だ」といきなりののしられるのと、「あなたが挨拶をしてくれなかったとき、私は悲しかったし腹が立った。なぜなら、人から尊重されたいという私の要求が満たされなかったから」という趣旨を述べられるのと、どちらを暴力的だと感じるでしょうか。そして、どちらであれば、自己防衛に走らずに、もっと相手に対して親身になれるでしょうか。

  非暴力コミュニケーション(NVC)を始めたのはマーシャル・B・ロゼンバーグ(Marshall B. Rosenberg, Ph.D.)ですが、彼の本の序文で、アラン・ガンジー(マハトマ・ガンジーの孫。ガンジー非暴力研究所の創設者兼代表)は、祖父との思い出を述べています。非暴力主義で知られるガンジーですが、身体的な暴力だけに注目していたわけではありません。むしろ重要なのは心理的な暴力であって、身体的な暴力はその一つの爆発の形であり、身体的な暴力に「燃料を供給する」のが心理的な暴力だということを述べていたそうです。ですから、日ごろのコミュニケーションをいかに非暴力的に行うか、ということにマハトマ・ガンジーも力点を置いていたそうです。ガンジーの哲学は「社会にもたらしたい変化に、まず自分がなるべきだ」というものですが、暴力のない世の中を作りたいのであれば、まず自分が使う言葉から気をつけなければならないということでしょう。

  政治の世界においてこれは特に重要なことであると同時に難しいことなのですが、不可能なことではないと思っています。現在、この点で尊敬できるハワイの上院議員といろいろなやりとりをしていますし、6月末にはハワイを訪問して懇談することになっていますので、またご報告いたします。

 非暴力コミュニケーションにご関心のある方は、
http://www.cnvc.org/index.htm へどうぞ。英語のウェブサイトです。
 私が知る範囲では、まだ日本語訳された本はないようです。

 アメリカに来て良かったことの一つに、しっかりした本をたくさん読めるということです。日本における出版業界の斜陽ぶりは目に余りますが、自分の著作を出すときにも「一文ごとに改行してください。そうしないと日本の読者は読みませんから」と言われたことがあります。200ページ以上のペーパーバックを普通に読みこなしているアメリカ人を見ると、国の将来の違いが見えてくるようです。また、アメリカでは、本を読むのが苦手な人のために、カセットテープやCDも大変はやっています。

 日本語で非暴力コミュニケーションについてもっと知りたい、というご希望が多いようでしたら、このメルマガでもまたご報告させていただきます。