2015年4月のツイッターより(抜粋)

2015年4月のツイートのうち、反響の大きかったものの抜粋です。
スタッフによるツイートも始まっておりますので、区別のため、
スタッフによるツイートは(スタッフ)と書かせていただきます。

2015年4月のツイッターより(抜粋)
____________________________________

4月1日(水)

先日刊行された拙著「プレッシャーに負けない方法 『できるだけ完璧主義』のすすめ」が、早速増刷になるとの連絡をいただきました。周囲の人たちにも好評で嬉しいです。お役に立ちますように。 amzn.to/1KbqQyK

人間が被りうる最大の被害は戦争、というのは100%納得できる。精神科的に見れば、ひどい目に遭ったときに支えてくれるのは周りの人たち。しかし、周りの人たちにも余裕がなく、誰が敵か味方かがわからない。また、虐待研究を見ても、一定程度以下の経済レベルでは虐待が頻発。

私はかつてサンデープロジェクトに出演したとき、「仮に攻撃があったとして、それに反撃するのとしないのと、どちらが多くの命を奪うのか、検証すべき」と発言して、大変なバッシングにあった。でもこれはとても基本的な疑問だと思う。国際政治も発展し、調停も可能になった今。

もっと私たち「人間」という種を信じられないのか。家族やコミュニティを大切にする人間を。そして、疎外されている人たちを癒やす方法を考えられないのか(私はAHを通して実行しているつもりだが)。それが人間の未来を左右すると思う。

政治的に考えれば、私はもちろんベトナム戦争に米国が乗り出したことに反対だ。しかし、そこで傷つき生還した米兵がPTSDを病み、自殺したことについては、精神科医として大変な問題だと思う。政府の誰がどれほど意気揚々と述べようと、戦争は人間に合わないシステムだと思う。
____________________________________

4月3日(金)

拙著「対人関係療法でなおす トラウマ・PTSD」 amzn.to/1NFWLDK と「対人関係療法でなおす 社交不安障害」 amzn.to/1G8yNSD がそろって増刷になるとの連絡。後者も対人トラウマと関連することが多い。

____________________________________

4月4日(土)

スカイプでのAHグループは、近くにAHグループがない場合だけでなく、地域で自分の話をするのはどうも…という方にも(もちろんAHグループで話した秘密は守られるのですが)お勧めです。

今日は久しぶりにAHの実践ワークショップでしたが、参加者の方が「やっぱりAHっていいな」という感想を残して帰られるととても嬉しいです。これは、人の役に立ったという感覚ではなく、自分が大好きなものを人も好きになってくれた、という感覚に近いです。
____________________________________

4月5日(日)

私は今までいろいろな人から「誰だって戦争などしたくない」と言われてきた(ネガティブな文脈で)。「でも」がそのあとに続いた。「戦争をしたくない」と決めたら、言い訳はいらないのではないだろうか? みんながそういう意思を持てば、交渉も本格化するのではないだろうか。

これは先日ツイートした、「怖れを手放せるだろうか?」という疑問よりも「怖れを手放したい」という決意をすることが大切、というのと同じ話。「戦争はなくなるだろうか?」ではなく、「戦争をなくしたい」という決意が大切ではないか。

私がAHの実践ワークショップで紹介している「非暴力コミュニケーション」は、マハトマ・ガンジーの思想を継ぐが、「社会から暴力をなくしたければ自分自身の日常会話から暴力をなくす必要がある」というもの。

戦争とは、恐怖、飢餓、喪失、不安、絶望、警戒心、不信、分断、その他、人間が感じられる豊かさとは全く反対のもの。それが自分個人、大切な家族や友人に降りかかることに想像力が働かない人が、「好戦的」と言われるのだろう。

「平和ぼけ」とは何だろう。それは「名誉」で戦争を考えたり、戦争ゲームの快感を現実にダブらせたりする、おそろしい「ぼけ」のことだろう。つまり、これは好戦的な人たちに適用されるべき言葉で、戦争の悲惨さを知り抜いて平和を望む人たちとは何の関係もない言葉だ。

「非暴力コミュニケーション」において必要なのは、「ちょっとした勇気」。皆がちょっとした勇気を出し合えば、どれほどこの世は生き甲斐のある温かい場所になるのだろうか。そんなことを一緒に考えられる仲間がもっとほしいです。まあ、私一人でもやっていくけれども。

もっと修復的司法の考え方を身につけたい。何にせよ、私たちがその一員であるコミュニティで、何かが起こったという認識。自分はそこに全く無関係だったということはない。それを罪悪感ではなく、つながりのために活用していきたい。

昨日のAH実践ワークショップで、とても感激したコメントがあった。「ポカポカとした愛をさしのべていない人は、助けを求めている人」。この見方が上から目線での評価では? という疑問が出された。それに対して参加者の一人が「怖れていないのがよい、怖れているのが悪い、というふうにすると、評価を下すことになる。でも自分だって、たまたま怖れて助けを求めていることがある。誰にでも起こること、と考えれば上から目線にもならないのでは」と。感無量。

AH創始者のジェリー・ジャンポルスキーは、私がブッシュ(ジュニア)について文句を言っていたときでさえ、「ブッシュと私はシャム双生児だと思うようにしている」と言っていた。彼はもう一つの私だと。

その当時は「え?」と思ったものだったし、私の中にはブッシュ的なるものなんてない、と思ったが、ブッシュが私たちの世界で成長した人であることは確か。そして、何かを分離する気持ちが私の中にあるのも事実。いろいろ考えさせられた。もちろんブッシュを肯定はしない。

私が先日「人間が受ける被害の最大のものが戦争だ」と書いたのは、俳人・金子兜太さんのコラム(朝日新聞)より。彼はトラック島の経験から、沖縄のことに鈍かったかもしれない自分を自省していた。どれほど他にひどい現場があろうと、一つの命の価値は変わらない。

私の子育ては自慢できたものではないが、反戦教育だけは徹底している。「戦争というのは、こうやってご飯を食べている時に突然爆弾が落ちてくることなんだよ」ということは、子どもたちが小さい頃から伝えている。だから子どもたちは戦争に限りなくネガティブなイメージを持っている。

____________________________________

4月8日(水)

私も時々リツイートしていますが、水島広子スタッフのアカウント @mizustaff で、この頃私関連のいろいろな情報を拾ったりまとめたりしてくれているので、よろしかったらフォローしてあげてください。相互にリツイートし合っているので重複はお許しいただければ。

政治を憂う声が、このところ、私が尊敬する人たちから寄せられている。こんなときだからこそ、まずは自分の心を平和にし、起こっていることに向き合うこと(見て見ぬふりをすることではなく)。その「見方」を自分で選ぶこと。そして自分ができることをコツコツとしていくこと。
____________________________________

4月10日(金)

子育て中こそAHが必要なのでは? という問題意識から始まった、子連れ可のAHグループです。(子連れでなくてももちろんOK)RT:@ahj_bot 【お知らせ】次回のAH町田グループ <子連れ参加可> dlvr.it/9KWHLT

子連れ参加可のグループにせよ、性被害にあった男性のためのグループにせよ、スカイプを利用したグループにせよ、ボランティアの方たちの発想から様々なAHグループが創造的に工夫されていくのはすばらしい。安全を感じるAH環境だからこそ、創造性が発揮されるのかもしれない。

ある情報だけを切り取って人を口汚く批判する人は、詳しい事情を聞いてしまうと批判できなくなるだろうと思う。他人のあり方についての批判=無知と言えるかもしれない。詳しい事情を聞けば、批判というのがいかに的外れなものかがわかるはずだ。

自分がその状況を「怖れ」の目で(攻撃されたと)見たいのか、平和な心で(相手は怖れているだけと)見たいのかをまず選び、それと調和した言動をとる。人のことを口汚く批判するという選択肢はない。心の平和を損ねるのみならず、自分の疎外感を強めていくことを知っているから。

「疎外感」は今の世界が抱えている、最も重要かつ緊急なテーマ。AHは間違いなくその一つの答えになっている。くれぐれも、「形」のつながり(絆はこうあるべき、を規定するような)に逃げないでほしい。必要なのは「形」のつながりではなく、ありのまま同士のつながりなのだから。

「勇気」と言えば私の場合、選挙に出ることよりもAHの活動を日本で始めることの方が勇気を必要とした。親しい先輩達は「水島は落選のショックで宗教に走ったのではないか」みたいな心配もあったらしい。むしろ郵政解散の落選は私にとってはAHに従事する機会を生んだ。

確かに、尊敬・信頼し、常に相談相手になってもらっていた高名な先輩達に痛い目で見られながら新たな活動をゼロから興すのは勇気を必要とした。でも、AHによって個人の心が平和になれば社会が平和になるという信念は揺らがなかった。

今では、当時心配してくださった先輩方も、AHを応援してくださっている(と思っている)。また、この件によって干されることもなく、未だに精神科領域で偉そうに振る舞っている。新しいことに人が慣れる時間は必要だし、何と言っても揺るがない自分の信念が重要なのだなと。
____________________________________

4月11日(土)

全16セッションのスーパービジョンを本にする壮大な作業を実行中。個人情報を追跡不能なものにし、かつ生の治療面接やスーパービジョンの「味」を消さないためには、結構デリケートな神経が必要。今日もまだまだ夜なべ。でもこれは、後輩治療者の役に立つと信じている。

私の亡父は知能も創造性も運動能力も万事に優れていたけれども、「頑張る」という概念は嫌いだった。もちろん父が努力家だったことは知っている。でも、「人間常に余裕を」という美意識を持っていた彼は、最後のインタビュー記事の校正でも「必死で頑張った」を削除させていた。

これを「才能に恵まれた人間のかっこつけ」と見るべきか。父は若い頃に発症して生涯続いた難病の持ち主だった。才能があるのに身体のコンディションで働けなかった頃は死をも考えたと思う。そんな苦悩の日々があったからこそ、「人生は楽しむもの」という結論に達したのだろうか。
____________________________________

4月12日(日)

以前から思っていたが、明日の生活資金に直結する厚生労働分野と違い、教育や安全保障政策はすぐに結果が見えないため、専門家でない人が専門家ぶってとんでもないことを言うことができる。何を言おうと自由だが、せめて断定調ではなく「私はこう思う」と責任を引き受けてほしい。

例えば英国では子どもの非行についての政策の評価をオクスフォード大学に依頼し、再犯防止効果が得られると予算がとれる仕組みになっている。非専門家が感情的に政策を決め、事態のさらなる悪化を招く日本とは大違い。 bit.ly/1FA2nez

投票したい人がいないという候補者レベルの話と、投票しても意味がないという民主主義の根幹にかかわる問題を、くれぐれも一緒にしないでほしい。投票は、よりマシな候補者に。
____________________________________

4月13日(月)

(1)何かの一部だけを切り取って批判する、というのは、私自身さんざん体験した。私が議員になって最初に作った法案は、「子ども有害情報から子どもを守る法案」。コンビニに漫画を買いに行ったら、いきなりレイプもののアダルト雑誌が目に入る、というのはやはりおかしい。

(2)かと言って、政府が検閲をして発禁処分にするのもだめだ。というわけで、私は、子どもと大人の権利を比較衡量して、子どもに向かないものを、高い棚に置く、テレビだったら遅い時間に放送する、ウェブにはフィルタリングを、といった情報の「棲み分け」を提案した。

(3)私は第二子妊娠中で連日ひどいつわりだったが、しばしば吊し上げの集会に呼ばれた。表現の自由で有名な教授がゼミ生を連れてくると、入り口では「ファシズム水島!」などと敵意をむき出しにしていた人が、帰り道には「水島さんの方が正しい気がする」と言っていたらしい。

(4)今でも時々、「水島って、あの表現の自由を脅かすファシストか」という趣旨のことをネットで見つけることがある。そういう人は、同時に、私がまだ現職議員だと思っていることが多いようだ。やっぱり相手を説得したければよく調べなければ。ただのストレス解消ならよいが。

(5)ちなみに、民放連などプロの方達は、「自主規制しないと法制化しますよ」と言うことによって、かなり実りある話し合いができたと思う。立場としては「敵」同士だったのかもしれないけれども、今でも何となく仲間意識がある。

(6)「情報の棲み分け」と同時に法案に盛り込んだのが、メディアリテラシー教育。メディアリテラシーとは、テレビやウェブで得た情報を鵜呑みにするのではなく情報を主体的に読み解いて、必要な情報を活用する能力のこと。この能力の低さが今の日本の問題の一つだと思っている。

今日は大阪で経営者向けの講演だった(雨雲と共に移動する感じで、大阪はだいたい雨が上がったのに東京に戻るにつれ大雨)。経営における人間関係を真剣に考えている誠実な方たちで、熱心に話を聴いてくださり、とても感じがよかった。私の話が少しでも役に立てば幸い。

今日はAHの考え方も少し紹介したが、せっかく6月に大阪でAHの入門ワークショップを開くので、何人かだけでも来てくださると嬉しい。確か2007年の日経新聞にAHを大きく取り上げていただいた。ビジネスにおいて怖れは大きなテーマだということで。
____________________________________

4月14日(火)

朝日新聞の「被害を与えた周辺国とうまくやっているかどうか」の意識調査の日独比較を見て、ドイツの人の方が過去の自国の過ちを誠実に認めることによって高い自己肯定感を持っているのだろうと推測する。過ちを認めてはだめだと思っている人の方が自己肯定感が低いのではないか。

拙著『10代のうちに知っておきたい 折れない心の作り方』が、今度は、奥州市教育委員会が選定する「奥州市の中高生にオススメするブックリスト」にも掲載されたそうです。 amzn.to/1NBcQ2X

ちなみに、私も東京裁判には問題があると思っています。しかし、そんなものを無条件に受け入れなければならない状況に日本を追い込んだ、というのは事実であり、そのことについて当時の指導者に責
任があったのは当然だと思います。
____________________________________

4月15日(水)

あの人が反省しないからゆるさない、というのは、自分の人生の質を、ゆるせない相手に託しているようなもの。ゆるしに、相手は何の関係もない。相手の行為や主張が間違っていてもかまわない。自分がそのことから自由になって心の平和を得ること。これも大切な勇気。

強さと弱さについても考えてきた。相手を怖れから動かすのは、強さでも何でもない。その人のあり方を見て、皆が「力になりたい!」「自分もあんなふうに生きたい」と思うのが、本当の強さではないのだろうか。人気取りでなく、一貫して、人の温かい心に訴えかけるものが。
____________________________________

4月16日(木)

スカイプでのAHグループです。日曜の夜、「あとは寝るだけ」の状態になって、温かいつながりを感じれば、安眠効果もあるのでは。お勧めです。@ahj_bot 【お知らせ】次回のAHスカイプ☆サンデーナイト dlvr.it/9PxCyt

なんだかんだで、これから書く本が結構たまってきた。私の場合、同じテーマで二度は書かない、ライターさんに書いてもらうことはしない(全部自分で書く)という堅い原則を持っているので、いつも全力投球。ライターさんに書いてもらわないという理由で破談になったこともあった。

もちろん、取材記事などは全面的にライターさんに書いていただいている。さすがプロ、と思うこともある。でも、本は私にとっておそらく最も大切な仕事で、言葉遣いはもちろん、文章のエネルギーにどうしても思い入れがある。怖れの本は書きたくない。
____________________________________

4月17日(金)

愛川欽也さんが亡くなった。「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」には何度もお招きいただいたが、その後お会いしていなかった。政治を憂い、二度と戦争を起こしてはいけないという固い決意を持った方だった。

愛川欽也さんとは「タバコとアルコールと、どちらが人にとって迷惑か」で議論したことがある。受動喫煙と、アルコールによる暴力を比べて、もちろん結果は出なかった。欽也さんが作った映画に招待されて娘を連れて見に行ったら、娘と一緒に写真を撮ってくださった優しい方だった。

「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」は楽しかった。本番中はもちろん、打ち合わせも、カメラが回っていない間も、終了後も、皆が真剣に話していた。田岡俊次ファンである私にとっては、高尚な講義の場でもあった。今時こんな番組があり得るのか、と出演しながら感心していた。

テレビの影響力は大きいが、メジャーなテレビの人と仕事をすると必ず巻き込まれてしまう。全てがテレビを中心に回っているという感覚、複雑な問題でも「視覚化してわかりやすく」「ハウツー的に」と表面だけを拾って本質を逃してしまう。これは視聴者側にも伝染しているのだろうな。
____________________________________

4月18日(土)

参院予算委員会で福島みずほ議員が「戦争法案」と言ったことについて自民党理事が修正を求めた、という話を今朝の新聞で知ったが、「ついにここまできたか」とびっくり。過去にも国会において政府に対し使われたことのある言葉で、当時の小渕首相は物の見方の違いとして流した。

国権の最高機関たる立法府で、議員の発言に「検閲」が入るとはどういうことなのだろうか。人道上の配慮などによる修正は、全党が一致して「必要」と感じるだろう。しかし、今回のように、党派によって見解が違うものを修正要求するというのは、政府による「検閲」としか思えない。
____________________________________

4月20日(月)

かつて某省の副大臣と話していたとき「就労支援などいろいろ考えているのだから、自殺するくらいならどんどん活用してほしい」と言われてぎょっとした。うつで絶望しか感じられない人が、前向きに就労支援策を求めるとでも思っているのだろうか。現場を知らないとは恐ろしいことだ。

一応言っておきますが、私はもちろんその場で「支援策と苦しんでいる当事者の間には大きなギャップがあり、それを自己責任でというのは完全に間違っている。そこをつなぐ施策をきちんとしてほしい」と直接副大臣に話しました。

先日やや議論になった精神療法のエビデンスについて。IPT(対人関係療法)群と対照群をランダムに振り分けて比較し、IPTの効果の方が統計学的に有意であると「効果がある」と言える。そのような大規模研究が2つ以上あれば、国際的な治療ガイドラインに載るレベル。

この点、IPT創始者は極めて科学的かつ謙虚だった。創始者が地元で治療をしてその患者さんがよくなったからと言って、それはIPTが効果を示したとは言えない。全く別の場所で、全く別の治療者をトレーニングしてもなお同様の結果が得られれば「IPTは効果がある」と言える。

どのような研究をしてきたかということと、どのような結果を「エビデンス」と呼ぶかは、大きな関係があり、それが「エビデンス」についての大きな認識のずれを生むと思う。
____________________________________

4月21日(火)

苦しくなる「怖れの恋愛」を手放して、のびのびした「愛の恋愛」に恵まれますように。女性向けに書かれた本ですが、恋愛における女性心理を理解するのにも役立つと思います。友人いわく、「恋愛版家庭の医学」だそうです。 twitter.com/PHPeb/status/5…

拙著「10代のうちに知っておきたい 折れない心の作り方」、先月増刷になったばかりなのですが、また増刷との連絡。10代の方にも、10代には読めなかった方にも、お役に立ちますように。 amzn.to/1zEGUz0

拙著「10代のうちに知っておきたい 折れない心の作り方」は、山梨県の図書館員が選んだ「こどもにすすめたい本2015」にも選ばれたそうです。ありがとうございます! amzn.to/1zEGUz0

今度は治療者向けの拙著「臨床家のための対人関係療法入門ガイド」が増刷になるとのお知らせをいただく。今年は、これに続く「実践ガイド」を執筆する予定にしているのだが、時間があるだろうか。 amzn.to/1J5sCji

「難しい情報」「インテリっぽい情報」に疎外感を覚える人は少なくない。仮想敵を設定した「わかりやすい政治家」が好かれるのはそういう背景もある。本当に伝える価値のある情報を持っている人ほど、わかりやすく伝える努力が必要だと私は信じているし、自らも努めている。

例えば「男女共同参画」というテーマについて。長年ジェンダーを研究してきた人たちは、学が深い。しかし、たまたま当選して国会にいる年配男性には、それはほとんど外国語だ。用語解説をきちんとしてあげたら「そういうことならもちろん協力する」と言ってくれた人も少なくない。

私は国外で英語教育を受けていない者としては、かなり英語の能力が高いと思う(予備校も、英会話学校も行ったことがない)。語彙にはかなりの限界がある。しかし、ワシントンポストの取材も含め、全て英語でこなしてきた。本当に理解していることは、平易な言葉だけで説明できる。

「疎外される人」(socially excluded people)を私たちが一日一人でも減らす努力できれば、地球はどんな場所になるだろうか。私は臨床、ボランティア、子どもの友人のケア、タクシー運転手(?)のねぎらい、国際学会への働きかけで、できるだけ頑張っている。
____________________________________

4月22日(水)

非暴力コミュニケーション(NVC)の考えに従えば、戦争をなくすには政治家(もちろん非政治家も)が自らの政治的発言から暴力的コミュニケーションを除くことが必要。ここで言う「暴力的コミュニケーション」とは、評価を下す、誠実に自分の事情を述べない、相手のせいにするなど。

自分から見て「あり得ない人権侵害!」と思うときも、「人間としてあり得ない!」と暴力的に伝えれば返ってくるのは暴力的反撃だろうが、「人間同士がこのような事態になるのは悲しいと思う」と言ったらトーンが変わるのではないだろうか。暴力の連鎖を招く人間にはなりたくない。

「AHと政治」のワークショップを開いてわかったのだが、政治というのは、政治的主張をぶつけ合う場、と思いこんでいる人が多いようだ。そんなものが機能するわけがない。政治はもっと、根回しの場であり、人間関係の場である。でもそれができる能力と人間性を持った議員は減った。

日本の外交力が低いことは周知の事実。ここからは私の推測だが、それでもなお敬意をもって扱われてきたのは、平和を大切にする国(原爆を落とされる痛みをよく知っている国)、勤勉で人道的経済的援助を厭わない国として評価されてきたからだと思う。その評価を手放すプラスはあるのか。
____________________________________

4月24日(土)

精神科の治療者は、自分も含めた人間の弱さを知っていて、患者さんのプラスの側面に注目する人と、自分の弱さを否認して、患者さんにダメ出しや無理や要求(要は現状否定)する人の二者に大きく別れると思う。後者は癒やされていない治療者ですね。
____________________________________

4月25日(土)

戦争さえ起こっていなければ、政権の質がどうであれ、人々はそれなりに日常生活を送れる。それが、シリアなどを旅してきた私の印象。ただし、政権が仮想敵を作って仮想戦争状態にあると、人々の自由もかなり制限され危険が及ぶ。仮想戦争とは、「怖れ」そのものだと思う。

とても心配。ネパールは私の第二の故郷のような国。ネパール語は英語の次に達者だし、娘の名前もヒマラヤの山からつけたくらい。ネパールの建物を見て、ここで地震が起こったらどうなるのだろう、とよく考えていた。被害が最小限にすみますように。RT: twitter.com/nhk_news/statu…
____________________________________

4月26日(日)

今日は対人関係療法勉強会の実践入門ワークショップでした。一日しゃべり続けて、ちょっと過呼吸気味です(笑)。この中から、対人関係療法をきちんと身につけてくださる方がどれほど生まれるでしょうか。毎回定員一杯になるところに、希望と力強さを感じます。

ものすごーく嬉しい結果です。保坂さん、おめでとうございます! 保坂さんこそ、「疎外される人」を減らす姿勢を持った人。そんな姿勢が区民から信任を受けたのですね。私も10年あまり住んだ区なので嬉しいです。RT:@hosakanobuto twitter.com/nhk_news/statu…

港区議選、応援していた同い年・子持ちの女性議員が4期目の当選を決めた。今回は難しい選挙と言われていたので、とても嬉しい。区議レベルになると、学童保育や給食のこと、コミュニティバスのことなど、とてもわかりやすい実績を上げてくれるし、度々会って人柄もわかるのがよい。
____________________________________

4月27日(月)

栃木県議に(4年間の浪人を経て)復活した山田美也子さんから、連絡をいただきました。山田さんは私が2001年の県議補選のときに「女性でなければだめ!」とごねて、私が選対委員長を務めて当選していただいた方です。米国からの帰国後も、選対委員長を務めたのは山田さんだけです。

私は栃木から議席を与えていただいて有意義な仕事をさせていただきましたが、やはり「本当は東京に住んでいる」「栃木の教育レベルが低いから東京の小学校に子どもをやった」などのデマはきつかったです。でも山田さんは生粋の栃木県民。現在の栃木県に本当にぴったりの存在だと思います。

取材で「人生において諦めたこと」を聞かれました。私は確かにいろいろなことを自分の決意でやめていますので、諦めた、と言われてちょっと悩んだのですが、それは「住んでいない土地から選挙に出ること」。子どもには単一の地元が必要で、私と一緒に東京と選挙区を行き来する生活はだめだと思いました。
____________________________________

4月28日(火)

「疎外される存在」を減らすことが、人類存続のポイントだと思っているが、なんだか日本という国そのものが「疎外される存在」になりそうで心配。海外メディアに圧力をかけたり(それも「金がらみ」と下品)、政府お抱えの「知識人」を推薦したりするなど、私の常識を超えた。
____________________________________

4月29日(水)

エンパワーメントと平和には大きな関連がある。ヘイトスピーチをする人は、疎外され、エンパワーされていない人たちだと思う。他者を貶めることでかろうじて存在を保っているのだろうか。これは単なるまやかしであって、本人の癒やしにはつながらない。重要なのはエンパワーだ。

「上から目線」の人ほど、癒やしを必要としているのをご存じだろうか。「上から目線」でいないと生き延びられない自己についての不安定さ。考えてみたら何と気の毒な症状だろうか。「上から目線」の人が幸せであることは絶対にないと私は断言したい。
____________________________________

4月30日(木)

今日はEテレのインタビュー収録があった。断定調のテレビとはなかなか相性がよくない私だが、Eテレはじっくりと考えながら話せるのでいつも気持ちよく仕事をさせていただける。放映は5月とのことなので、近くなったら詳細をお知らせします。

Eテレは別として、最近、テレビ出演の企画の段階で、私が頭の固いことを言って企画をつぶす(あるいは出演者が他に探される)ことが続いている。どうしてデータもないのにこんなことを決めつけるの?とか、どうして研究されていない領域についてまことしやかに語るの?とか。

別にテレビに出たくない訳ではないが、やはり譲れない線がある。事件当日、背景が何もわからないうちに、まことしやかに何かを語る「精神科医」の人たちは私の理解を超える。精神科医領域だけでなく、日本が全部そんなふうな国になってきているような気がして残念。

そして行き着くのが、社会の短絡なパフォーマンス化だ。すばらしいドキュメンタリー番組などは、いろいろな想像力を刺激してくれるし、人間の多様性を教えてくれる。それと正反対の番組が、あまりに数が多くなっている気がする。(だからテレビは必要がない限り見ない)

私の「譲れない線」の一つは、自分の患者さんをメディアに晒すこと。もちろんそこから生の情報が得られることは間違いないし、偏見も減ると思う。しかし、あと20年もして、その人が全く違う人生を謳歌しているときに、そのビデオの存在が重荷になる可能性が耐えられない。

例えば。欧米のメディアでは、ダイエットの推奨と摂食障害の関係がわかっているので控えている。しかし日本のメディアでは、未だに、細いタレントが「私もダイエットしたーい」などというシーンが普通に放映される。日本版ヴォーグでやせすぎモデルの採用をやめてくれたのも数年前。

私がこの頃テレビの話をつぶしているのは、打ち合わせているとイライラしてくるから。「人間、そんな単純なものじゃないでしょ」ということを、わかっていながら、「でもテレビですから」と。そんなテレビって何ですか?と思う。ポテンシャルを持っているものだけに、残念。

国際摂食障害学会のメディア対策委員会の日本代表をやっていたとき。他の国は、アジア・南米なども含めて、摂食障害の学術的な知見が普通のメディアに載っていた。しかし、日本でGoogle alertでチェックすると(他の国も同じ条件)、芸能人の拒食症スキャンダル程度。